……子供が、歩いている。
 小さな小さな子供が、優しい笑顔の鍛冶屋に手を引かれて歩いている。
 少しだけ不満そうに。
 でも、ほんの少しだけ――照れ臭そうに。
 二人は歩く。鍛冶屋はニコニコ笑っている。ニコニコ笑って子供に笑顔を促し、子供の方は不機嫌と不満と意固地で照れ臭さを覆い隠して、フンとそっぽを向く。

 その手が、離れた。

 遠退く温もり。子供はハッと顔を前に戻す。笑ってくれ――その言葉と笑顔を最後に、鍛冶屋は消える。永遠に。
 遺されたのは、子供。
 鍛冶屋に笑う事が出来なかった、子供。
 子供はその場にうずくまる。
 膝の間に顔をうずめて、ただ、泣く。
 泣き続ける。





 それから子供は泣いている。
 ずっと泣いている。
 座り込んだまま、伏せた顔を一度も上げずにただただ泣いている。
 傍らに小さな虎が寄り添っても泣きやまない。小さな虎は思案げに、あるいは物言いたげに子供を見上げるばかり。

 そうしている内に、子供を温かく囲む人影の群れが生まれた。

 大柄で豪快に笑う僧侶がいる。
 真っ赤な髪をリーゼントにした青年がいる。
 表情も肢体も艶かしい美女がいる。
 彼女を守るように隣に控える巨漢がいる。
 算盤を抱えて気弱げに肩をすぼめる青年がいる。
 シャボン玉と戯れる道士がいる。
 そして。
 子供の前にしゃがんで頭をポンポンと撫でる、包み込むような笑顔の男がいる。
 僅かに嗚咽の声を落とした子供へ、彼は言った。

『大丈夫ですよ』


 私たちは、ここにいます。




1.家族



 呼ばれて食堂に入ったら、

 ――パンッ!

 突然、頭上でシャボン玉が弾けた。
 パンッ! パンパン! パパパパパッ! 漂っていた無数のシャボン玉が次々と弾け、代わりにヒラヒラ、ヒラヒラと舞い落ちる――色とりどりの紙吹雪。
 目を丸くした戴宗は、紙吹雪の向こうで笑っている――いや、一人は不機嫌な仏頂面、一人は何を考えているのか判らない無表情だ――七人の人影を見た。
 そいつらは、何故かせーの、と声を合わせ、


「「「「「「「戴宗、誕生日おめでとう!」」」」」」」


「……………………………………」
 返す言葉も見つからない。驚くよりも呆れて、戴宗はぽかんと口を開ける。
 が、どうも連中は戴宗の無反応などどうでもいいらしい。無表情で立ち尽くす戴宗の様子など気にもせず、次々に言葉を投げてくる。
「ほれ、早く来んか戴宗!」
 と、花和尚。
「ったく、人に呼びに行かせてからどれだけ待たせんだ戴宗! さっさと座ってガツガツ食いやがれ!」
 と、劉唐。
「そうよぉん、坊や。冷めちゃうわよぉ」
 と、孫二娘。
「今日はお前の好物ばかりだぞ。腹いっぱい食え」
 と、張青。
「そうだよ戴宗君、今日は大盤振る舞いだよ! 明日からまた質素なご飯になるから、ちゃんと元を取らないと!」
 と、蒋敬。
 華やかな飾りつけ、のつもりか、公孫勝は未だにフーフーとシャボン玉を作り続けている。
 そして、
 ――ガタリ。

「戴宗」

 席を立って傍までやってきた頭領(ボス)――宋江が、微笑んで戴宗の背をそっと押した。
「ほら」
 押され、促され、ようやく席に着く戴宗。
 卓の上に所狭しと並べられた煮込みや丸焼きや巨大な饅頭。普段滅多に目にする事のないご馳走の数々に目を奪われ、子供はしばし呆然とした。
 ホカホカと立ち上る湯気。
 嗅ぐだけで食欲をそそる香り。
 口の中いっぱいに唾液が溢れ、戴宗は自分の頭ほどもある饅頭に手を伸ばした。皮膚の薄い子供の掌でも、それほど熱くない温度。グゥゥ、と腹の虫に急き立てられ、真っ白な饅頭にかぶりついた。
「――あちっ」
 中からトロリと流れ出たのは、熱々だが絶妙に味つけされた、牛肉の餡。
 熱い。だが美味い。口の中が火傷するのも構わず、戴宗は夢中で食べる。巻き起こるさざなみのような笑い声。一つめを平らげ、二つめに取りかかる子供へ、皆の優しい声がかけられる。
「おーおー、さすが育ち盛り! 食いっぷりが違うのぅ!」
「ほら坊や、こっちも食べなさい」
「おい戴宗、テメ、箸の持ち方がおかしいぞ! こうだよ、こう!」
「もっと落ち着いて食え、飯は逃げん。――ほら、水でも飲め」
「戴宗君、こっちのお肉も食べなよ! 超高級黒豚だよ! 中々市場に出ないものでね、手に入れるのに苦労したんだから!」
「……公孫勝、さすがにシャボン玉はもういいのでは?」
「分かった、頭領(ボス)」
 この時――


 戴宗は、不意に我に返ってしまった。


 自分を取り囲む、温かく優しい人々。
 灯明が皓々と照らし出し、虹色にきらめくシャボン玉がいくつもいくつも舞う、明るくも幻想的な食堂の景色。
 腹がはち切れんばかりに食べてもまだ余りある美味い食事の数々。少し前まで、食べたいと願っても食べる事の叶わなかった肉。

 何と言えば、いいのだろう。
 夢から覚めた気がしたのだ。

 戴宗は、パタリ、と箸を置く。
「戴宗?」
 宋江の声。不審げにこちらを見る皆。その視線から逃れるように戴宗はそっぽを向いて、
「……ごっそーさん」
 ボソリ、とぶっきらぼうに言ったのはせめてもの礼儀。
 椅子を立つ戴宗は食堂から駆け出た。戴宗!? いきり立った声は劉唐か。それに続いて誰かが何か言う声が聞こえる――その声から逃げるように、与えられた自室に飛び込む。そのまま、寝台に潜り込む。布団をかぶり、体を丸め、耳を塞いでギュッと目を瞑る。

 温かさが。
 優しさが。
 どうしてだろう、怖いのだ。

 父の不味い草粥が、無性に恋しかった。

 

 

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