3.充足


 巧妙に、巧妙に。
 燕青は物腰柔らかで謙虚で控えめな仮面を作り、かぶり、本来持ち合わせていた無邪気さや素直さをその下に隠して押し殺すようになった。
 その理由はいくつかある。一つは、盧俊儀が燕青に課した多種多様の厳しい稽古事、あるいは従者という立場。
 一つは、やはり燕青が跡取りになるのではないかと危惧する盧家に仕える男衆の嫉妬と侮蔑にまみれた態度や言葉。
 しかしそれよりももっと直接的で分かりやすい原因があった。
 正店の大番頭に抜擢した、李固という男である。

「――その大番頭の李固という男が、盧俊義さん、貴方が僕たち替天に通じたと大名府に訴え出て、お店を乗っ取りました」

 燕青を引き取ってから、十余年。
 占者の扮装をした替天行道の軍師・智多星に梁山泊に招かれ。
 燕青に止められながらも彼を伴い、済州までやってきて。
 そうして梁山泊で一ヶ月ほど楽しく過ごしていたら、断金亭に一人呼び出され。
 晁蓋、宋江という二人の頭領と、軍師の呉用。替天行道の柱とも言える三人が料理も酒も用意せずに盧俊義を迎えて、何を言うかと思えば、

「うん」

 何を仰々しく、今更な事を。

 淡々と、抑揚なく頷いただけの盧俊儀に、重々しい口調で告げた呉用はきょとんとしている。それは晁蓋、宋江も同じだった。軽く見開いた目を二、三度瞬かせて、当てが外れたとばかりの中途半端な驚愕の表情を揃って作ってさらす。
 そして互いに間の抜けた顔を見合わせた三人は、その際、視線で会話したようだった。再びこちらを見ると、代表して呉用が問いを寄越す。
「驚かないんですか?」
「うん」
「何故?」
「李固君ならやりかねないしねぇ」
 しみじみと、しかし淡々と答える。
 李固は、燕青より一年ほど早く盧家に来た。出身は開封。北に商いに行く途中で元手を盗られてしまい、行き倒れた――と盧家に来た時言っていたが、それがどこまで真実なのかは分からない。何せ李固は、店に来た当初から「この店をいつか自分の物にしてやる」という野望で目をギラつかせていたから。
 だから彼は燕青を事あるごとに目の敵にしていた。燕青が跡継ぎ候補である事に関しては盧俊義ははっきりと否定したが、それにしては可愛がり方、入れ込み方が尋常ではない。やはり燕青が跡継ぎになるのではないか、という危惧を持っても不思議はなかろう。嫌がらせを仕掛けた事も一度や二度では済まない。
 その嫌がらせの最たるものが、

『お前は、質流れした品なのだ』

 盧俊義が決して言わず、半ば忘れかけていた事実を李固は平然とほじくり返し、燕青を追い詰めた。燕青から笑顔を奪った。
 それを知っていながら、盧俊義は何もしなかった。ただ傍観した。その事もまた、彼の仮面を強固にした。
「……店を取られてもいい、って顔してんな」
 驚きから真っ先に立ち直った晁蓋の視線は、いつしか鋭く変じていた。真っ向から堂々と探り、読み取ろうとする目つきである。
 そういえば、酒も飲んでいなければ煙草も吸っていない晁蓋を見るのは、これが初めてだった。真面目な場ではちゃんと分別がつくところを目の当たりにし、盧俊義は晁蓋の評価を改めた。
 そして、呑気な声で淡々と答える。
「別に、特にいらないしねぇ」
 何か、妙な事を聞いた。
 三人の、訝しさと驚き戸惑いが中途半端に入り混じった中途半端な表情にあえて台詞をつけるなら、こんなところだろうか。その中途半端な表情で、呉用が、中途半端におずおずと戸惑った声を出した。
「い……いらない、んですか? だって、何代も続いているお店でしょう? 家産だって、そこらのお金持ちが足元にも及ばないほどあって――」
「私のじゃないし」
 サラリと切って捨てる。
 やはり三人は変な顔をした。もしやと思って、今度はこちらから問う。
「もしかして、うちのお金、欲しかった?」
「い、いえ、これでも一応替天は、資金源に関してはしっかりしているので――」
「なら、別に君たちが気にする事じゃないよね?」
 首を傾げる盧俊義。

「だって君たち、最初っから私に店を捨てさせるつもりだったでしょ?」

 呉用は息を飲み―― 
 晁蓋は更に目を鋭くし――
 宋江は、それまで浮かべていた微かな笑みを消した。

 彼らは、まさか、盧俊義が何も気付かず無邪気に梁山泊での日々を楽しんでいる、と思っていたのだろうか?
 確かに楽しんではいたが、盧俊義は見た目はおっとりとした食欲人間でも、宋国で指折りの商人である。父に家督を譲られて今日まで、商いを大きくしてはこなかったが縮小もさせず、同業者に市場を奪われてもいない。
 現状維持。繁栄を極め、数多の商人たちがしのぎを削る大宋帝国の経済界でそれを成し遂げてきた盧俊義と、彼がこれはと思った使用人たちの手腕は、決して伊達ではないのだ。

 自分の智略を全て見透かされ、その上で乗ってこられた――その衝撃に打ちひしがれる呉用は、まだまだ青い。その程度では、権謀術数をめぐらせまくった結果、根幹も枝葉も腐りまくっているけれど、それでもまだしっかり立っているこの大宋帝国を相手取る事など出来はしない。
 その点、頭領二人はさすがだ。宋江は笑みを消しただけで動揺を顔にも態度にも出さず、晁蓋はむしろニヤリと不敵に笑ってさえいる。
「なら話は早ぇ。
 あんた、大名に帰らねぇでこのままここにいねぇか? 帰れば捕まるぜ?」
 さもあらん。大名府の留主・梁中書は去年、蔡京への賄賂を他ならぬ梁山泊の賊に奪われているのだ。盧俊義が従者と共に梁山泊に逗留した――李固の訴えがなくても、この事実だけで盧俊義は捕縛され、処刑される。
 そんな事は百も承知だ。
 分かっていてここまで来た。分かっていて燕青の制止を振り切り、しかし燕青を伴ってここに来た。
 それはもちろん、梁山泊の食べ物に釣られたから、ではない。


 全ては燕青のためだった。


 武芸も。
 歌舞音曲も。
 商売の基礎も、符丁も。
 各地の方言も。
 背中に入れた牡丹の刺青も。
 従者にした事も。
 李固という獅子身中の虫をいつまでも飼っているのも。


 梁山泊に来た事さえ。


 全てが全て、盧俊義が用意した、燕青が一人立ちできるよう成長するための「小道具」だ。
 庇護し、与えるばかりでは人は成長しない。そうしては何事にも執着の持てない、情動の薄い人間が一人出来上がるだけだ――自分のような。
 立ち向かうものがあって初めて、人は成長できる。
 それまで住んでいた世界とまるで違う世界に触れる事で、視野が広がり、多様な価値基準を知り、度量が大きくなる。
 梁山泊という賊徒の巣に来た時、燕青は何をどう思い、判断し、行動するか。
 盧俊義が梁山泊にホイホイ来たのは、要するに、それだけが目的だったのだ。

 だから、
「――いてもいいけど」
「じゃあ」
「でも燕青君が、『帰ろう』って言うんだよね」
 意気込んだ晁蓋は肩をコケさせ、呉用は怪訝そうな顔をする。その表情のままの声音で、
「従者でしょう? なら盧俊義さんが命令すれば」
「命令してもあの子は帰ろう、逃げようって言い続けるよ。そういう子だから」
 やはり淡々と答えて、三人を順に見る盧俊義。
 その視線は冷めていたが、そんなごくごく僅かな変化に気付けるのは燕青だけ。三人にはおっとりとしたいつもの盧俊義の目としか見えない。

「だから私たちをここに留めておきたかったら、あの子を納得させる事だね」

 三人の顔色が僅かに変化する。
 春の暖かな日差しの中で不意に冷たい北風に吹かれたような顔だった。
 気にせず盧俊義は続ける。

「難しいけどねぇ。君たちはからめ手を使っちゃったから。燕青君、替天行道にすごく警戒心を持っちゃってるし」

 智多星・呉用の顔色がみるみる内に変わる。
 好手だったはずの一手が一瞬で悪手の変わった。そういう変化だった。

「――最初から正攻法で来てくれてたら、話は違ったかもしれないけどね」

 そう、悪手だったのだ。
 呉用は頭が回りすぎるばかりに、回りくどいからめ手を使ってしまった。
 占い師に化け、偽の占いで脅して梁山泊まで誘い出す――それは確かに賊の仲間などになりたくない、その本拠地になど近付きたくもない、という者を誘い出すには、まあ有効な手段だろう。
 しかしそうして騙されて元の居場所を奪われ、仲間に入らざるを得なかった者の心中はどうだろうか。自分を騙して居場所を奪った者たちが打ち解けようとしてくる事に、何のわだかまりも持たずにいられるか。
 そのわだかまりは、最悪、組織を瓦解させるかもしれないのだ。
 占い師に化けて近付くのは、まあいい。
 しかし呉用はその後に自分の正体を明かして、盧俊義と燕青に理と情とで訴えなければいけなかった。
 この国のどうしようもないほどの腐敗、政を顧みない若き帝、それをいい事に私欲のままに権勢を揮う重臣たち、腐敗し乱れるこの国を虎視眈々と狙う北の遼に西の西夏。重税と戦乱で苦しむのは常に民で、その弱者を国も軍も決して助けない。
 それを説かれ、燕青の心に今の国のあり方に対する疑念が生まれ、盧家の富の恩恵を享受する現状に苦悩し、その果てに世直しを志向したのであれば、盧俊義は喜んで燕青を送り出しただろう。むしろ自分もついていっただろう。商売を畳み、盧家の財を手土産にこちらから膝を折って、替天行道の仲間にしてくれと頼んだだろう。

 だが、呉用はそちらに賭けなかった。

 騙して仲間にする方を選んだ。


 この時点で、勝負は詰んでいたのだ。


 しかし智多星の表情は再び変わる。盧家の家産を決して諦めない李固がよく浮かべるような、したたかな真顔だ。
 だが李固は余りに意地汚くて、呉用はどこまでも高潔である。
「――分かりました」
 紡ぐ声は凜としている。勝負はまだ終わっていない、そう主張する強い声音だ。
「燕青君を納得させればいいんですね?」
「うん」
「では」
 眼鏡の奥の呉用の双眸が、鋭く盧俊義を射る。
「あと一日、貰えますか?」
「あと一日?」
「僕たちに、燕青君と話をさせてください」
 それで燕青を変心させられる、とでも言うのか。
 笑顔の下に疑念と敵意を押し隠し、密かに官のため、いや盧俊義の身の潔白のために諜報活動に勤しむあの子を。
 面白い。
「いいよ」

 お手並み拝見と行こう。

 頷いた盧俊儀に、呉用は不敵な笑みを見せる。
 余り似合わなかった。

 

 結論から言えば、彼ら三人は燕青を心変わりさせる事に失敗した。
 盧俊義と同じく一人断金亭に呼び出され、頭領二人に軍師一人と何か話してきた燕青は、顔に憤慨の冷笑を浮かべて帰ってきた。
「もう話になりません。旦那様、長居は無用です。さっさと北京に帰りましょう」。
 そう吐き捨てられた言葉に、盧俊義は、呉用がこの一日を無駄にしたと察する。もう少し頭が切れるかと思っていたが……どうやら、見当違いだったようだ。
 落胆しながらもそれを顔には決して出さず、いつもの調子で食に執着を見せて帰宅をゴネ、燕青に叱りつけられる。
 もちろんそれはポーズである。実のところ命を維持する必要最低限の食事にさえろくな執着を持っていない盧俊義は、そうして周囲を欺きながら、冷静に算段した。
 今や燕青は立派に成長した。盧俊義が望んだ通りの、どこに出しても恥ずかしくない貴公子に育った。

 ならば、そろそろ巣立ちの時だ。

 このまま大名府に帰れば二人とも捕えられ、処刑台の露と消える運命だろう。
 そうなる前に盧俊義は自ら進んで縛につき、その間に燕青を逃がす。
 自分を失ったあとの拠りどころ候補の一つだった、梁山泊。軍師の失策のせいで候補から外れる事になってしまったが、多すぎても迷うだけだし、候補など端からない方が燕青は好きに飛んでいけるかもしれない。
 死地に向かうという人生最大の危機が待ち構えているというのに、盧俊義の心は弾んでいた。
 燕青の巣立ちを見送って死ぬのかと思うと、心を弾ませずにはいられなかった。

 

 ――なのに。
 なのに燕青は、来てしまった。
 処刑台まで盧俊義を助けに来てしまった。替天行道の援護を受けて、一人囲みを突破し、処刑人を倒して、盧俊義の縄目をといてしまった。
 どうして助けに来たの、という問いに対する、

「僕は、旦那様の従者です」

 という答えに、盧俊儀は、自分が燕青に科した「従者」「質草」という鎖の重さ、強さを改めて思い知らされる。
 燕青が巣立つには、いわゆる「親離れ」が必要。盧俊義はそれを悟る。そしてそれは彼がどうこう出来るものではなかったし、どうこうしていいものでもなく、どうこうする必要もなかった。
 伏線は、既に張られていたのだから。

 

「――どうですか盧俊儀さん、僕の策は」

 大名府の牢で拷問を受けた時の傷が癒えた頃。
 子供みたいにじゃれあう燕青と阮小五、そしてしかめっ面ながらもまんざらではない表情で巻き込まれている戴宗。この三人の姿を眺める盧俊義の隣に並んで、呉用がどことなく嬉しそうに尋ねてきた。
 見下ろせば――してやったり、一矢報いた、そう言いたげなしたり顔を浮かべている。
 盧俊義は少しだけ笑って、

「さすがだね、呉用君」

 呉用のしたり顔が、純粋な喜びの微笑に変わる。
 話は、盧俊義が与えた猶予の一日にまで遡る。
 その猶予の一日を、燕青との会談に費やした呉用。それは燕青を心変わりさせ、梁山泊に引き止めるのが目的なのではなく――燕青の気持ちが那辺にあるか、正確に探るためだったのだ。
 もし燕青が梁山泊に少しでもなびきそうな余地を持っていたのなら、そのまま気合いで引き止め、集中的に籠絡作戦を仕掛ける。
 その余地がないのなら、一旦完全に解き放つ。
 解き放てば北京大名府で捕縛される。魔星とかいうものを宿している、そんな(彼らにとってはのっぴきならないらしい)理由で何が何でも盧俊義と燕青を欲する替天行道は、もちろんそれを黙ってみてはいない。二人を救出し、梁山泊に保護。
 一度恩を売っておけば、少しはこちらになびく下地が出来るはず。そうしたら改めて燕青の籠絡にかかる。
 ただし、それをするのは替天行道全体ではなく――阮小五と戴宗の二人。
 三人の間には、いつの間にかそこはかとない友情が育まれていたのだ。呉用は豪胆な事にそこに賭けた。
 そして、作戦は大ハマりする。阮小五と戴宗、この二人によって燕青は変わった。今まで盧俊義にしか注いでこなかった目を周囲に向けた。盧俊義にしか伸ばされなかった手を周囲に伸ばした。その手を二人が取った。
 その結果が――今、盧俊義の視線の先にある、久しぶりに見た燕青の笑顔だ。
 彼は、自らの意思で、梁山泊に留まる事を選んだ。
 いずれ、梁山泊の任務で盧俊義の傍にいられない事に慣れていくだろう。そうやって「親離れ」していくだろう。
 盧俊義はそれを喜び、かつ、少しだけ寂しく思った。
 その寂しささえ喜びだった。

 

 

 ――そして今、東京開封府は宮城の一郭で、盧俊義は喪失の幸福を噛み締める。

 やっと、あの子が巣立つところを見る事が出来た。

 あの子を縛るものは、今度こそ何もない。
 見限られた己は燕青を縛る鎖にはなり得ない。自分の命より食欲を優先した意地汚い主の事など忘れ、彼は颯爽と江湖を渡り歩く事だろう。

 これでいい。

 これで、いい。

 あとはこの幸福の余韻が冷めやらぬ内にこの生を終えるだけだ。

 幸せのままに死ぬ。
 これ以上の贅沢は中々あるまい。

 そうして盧俊義は永劫にも等しい刹那の回顧から立ち返る。迷わせていた指を、程よく美味そうで、毒の味も分からないほど味の濃そうな点心で止める。
 そっと取り上げる。

 これで、終われる。

 この無為な人生を、幸福に、終われる――


「夕食前のつまみ食いは駄目って言ってるでしょ旦那様――――っ!」


 突如響き渡った叱責の声に。
 盧俊義は反射的に、口に運ぼうとしていた点心を皿にパッと戻した。
 声のした方を見やる。窓から、夜闇の向こうから、ほっそりとした人影が音もなくこの部屋に侵入した。

 それは、盧俊義の掌中の宝。

 盧俊義の自慢。

 

 燕青。

 

「……食べてないよ?」
 答える声こそいつものおっとりと間延びした口調だが、内心で激しく動揺する盧俊義。何故、という疑問が頭を心を占拠する。
 何故、燕青がここにいる。
 何故、燕青がここに来た。
 何故、いつものように呆れた怒り顔でやってくる。
 何故。
 何故。
 何故。
「いいえ、今食べようとしてたでしょ!?」
「食べようとしていただけだよ」
「駄・目! その点心を平らげて夕飯まで全部食べたら、また体重が増えるでしょ! 安道全医師から警告されたの忘れた!?」
「……一つだけでも、駄目!?」
「いつもならいいって言うけど今日は絶対に駄目! 何が入ってるか分かりゃしないんだから!」
 余りにも、いつも通りのやり取りだった。
 親友を失って傷つき、だからこそ余計に主を守ろうとした燕青。官職を捨てよう、奸臣たちに目をつけられる前に隠遁しよう、開封府に行ってはいけない――その気遣いの言葉を食欲を理由に全て退けてきた不実な盧俊義に対し、燕青は、余りにもいつも通りだった。お暇をいただきます、というあの剣幕が嘘のようだった。
 どうして。
 どうして。
「――……というか、燕青君」
 はい旦那様、と応えて、やってきた燕青は改めて盧俊義を見上げてくる。
 いっそ傲岸不遜と言いたくなるほどの平静とした顔。巣立ったはずの子が当たり前に従者の顔をしてこの場にいる事に、何か眩暈に似たものさえ覚える。
 その眩暈を誤魔化すように、問うた。
「何で、ここにいるの?」
 すると燕青は、さも当然とばかりに平然と言ってのけるのだ。

「助けに来たからに決まってるでしょう」

 ……眩暈を、再び覚える。
 しかし情動薄く育った盧俊義が、そんな内心の動揺を表に出す事は一切ない。傍から見れば、彼はあくまで淡々と問いを継ぐ。
「暇を、あげたよね?」
「やっぱり返上する事にしました」
「――燕青君」
「はい」
 ジッと、彼の顔を見つめる。
 ああ、いつかもこんな事があったなとぼんやり思う。大名府で処刑されかけた時だ。手放したはずの子に助けられて、助けに来た事が信じられなくて、唖然としながらこう問うたのだ。


「どうして、私を助けに来たの?」


「……は?」
「別に良かったんだよ? 助けに来なくても、――……逃げてしまっても」

 見捨てられる事に文句など端からない。
 見捨ててくれて良かった。捨ててくれて良かった。そのまま忘れ去ってくれても良かったのだ。
 鳥がかつて育った巣を顧みる事など、あるはずがない。
 盧俊義はそんな巣で良かったのだ。
 そんな人生で良かったのだ。
 燕青の巣立ちを見送り、顧みられる事もなく、捨てられ、忘れ去られる。
 掌中の宝を得、失う幸福は、自分一人が胸に抱えていればいい。
 それで、良かったのに。

「……何を、言ってるんですか」
 なのに燕青はそう吐き捨てるのだ。
 もう子供でもないのに、子供みたいな不機嫌丸出しの表情と口調で、盧俊義の願いをあっさりと砕く。

「僕は、旦那様の従者です」

 それもまた、いつかと同じ答え。
 大名府での答えは、盧俊義に縛られていたからこそ戻ってきたが故の答えで――

「助けに来るのは、当たり前でしょう」

 この答えは、この声は。


 縛られていないからこその、答え。


 そうか、と盧俊義は思う。
 これが、燕青の出した結論なのだ。

 そして自分の思惑が、願いが、燕青自身によって砕かれていながら、盧俊義は幸せを感じる。
 幸せを噛み締める。
 これほどの幸せがあるだろうか?

 

 もう二度と還ってこないはずの子が、還ってきてくれたのだ!

 

 得て、失って、そして再び得る。
 こんなに幸せな事は他にない。


 この幸福に、盧俊儀は微笑む。
 これまで生きてきた中で最高の笑みを浮かべる。
「ありがとう、燕青君」

 生まれてきてくれてありがとう。
 還ってきてくれて、ありがとう。

 万感の思いがこもった「ありがとう」はおそらく燕青にそこまで伝わらなかっただろうけれど、それでも盧俊義は良かった。
 空っぽの手が、やっと満ちたのだ。

 

 

 

 

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