2.渇望


 男の姓は燕といった。
 燕夫妻の行方は杳として知れない。念のため従者に調べさせたが、大名府の城内で燕とおぼしき男が死体で発見されたり葬式に出されたりした形跡はなく、また夫婦者の行き倒れが大名府の内外で見つかったという話も聞かない。
「旦那様、これは体よく厄介払いに使われたのでは……?」
 つまり、金に困った夫婦が病を装って金持ちの同情を買い、足手まといになった子供を高く売りつけた、という事である。しかし盧俊義はそんな疑いを欠片も持たなかった。
 どうでも良かった、と言っても良い。
 二十両くらい惜しいとも思わないし、騙されたにせよそうでないにせよ、盧俊義はこの子を引き取ると決め、そして託されたのだ。

 ならば、この子を立派に育てる義務がある。

 湯で泥と垢を落とし、身なりを整え、食事を与えられて子供らしい丸みを取り戻していく幼子は、農民の子とは思えないほど恐ろしく整った顔立ちをしていた。これが女児であったならば、迷わず後宮へ入れる道を模索するくらいに。
 そして驚くほど賢く、要領が良かった。食事のや礼儀の作法はあっという間に覚え、舌足らずではあるが言葉遣いも良く、一つ二つと字を覚えつつある。
 ニコリと微笑めば愛らしく、子供とは思えないほど聞きわけが良く素直。幼子はあっという間に盧家の女衆の人気者となった。
 その人気を、男衆、特に店の者たちが危惧し始めた。
「――旦那様」
 幼子を引き取って二年ほどした頃、男衆を代表して従者が問うてきた。
 書斎でいくつかの手紙を読んでいた時の事である。何事かと思って書面から顔を上げると、卓の傍に控える従者が思案げな顔で続きを口にした。
「まさかとは思いますが……あの子を、跡継ぎにされるおつもりですか?」
 盧俊儀には子はいなかった。
 それどころか、妻帯さえしていなかった。
 機会がなかったわけではない。むしろ有り余るほどあった。盧家の次期当主という肩書きにはそれだけの値打ちがある。
 それなのに妻を娶らなかったのは、例えるなら、そう、遊びたい気分でもない時に玩具を勧められて「いらない」と言うのと同じような理由だった。
 そして息子に甘い両親は、それならば、と強いて縁談を勧めてこなかった。お前に気に入った娘が出来たら言いなさい、別にいつだっていいから――そう言い続け、孫の顔どころか嫁の顔も見ないまま、揃って呆気なく病で逝った。
 そうして盧俊義は盧家を継いだわけだけれど、こんななので、跡継ぎの問題が出始めている。今から結婚するか、それとも親戚筋から養子を迎えるか。使用人たちの間で密かに賭けが行なわれているほどだ。
 そんな中、幼子を引き取り、手元を置いて育てる。
 店の者があれこれと想像をたくましくするのも無理はない。
 だが、
「しないよ」
 盧俊義はあっさりとかぶりを振る。従者は目に見えて安堵の表情を作った。そしてその表情のまま、
「では、どうなさるおつもりで?」
 と問うてくる。束の間考え込んで、彼は――表情を決して崩さないまま絶句した。


 気付いてしまったからだ。


 自分に幼子を引き取らせた、真の理由に。


 人生で初めて手に入れた欲に。


 問いへの答えは、「どうもしない」。
 幼子を立派に育てる。盧家の有り余る家産を使って、どこに出しても恥ずかしくない子に育て上げる。素直で、賢くて、要領が良くて、そして美形の幼子は、きっと盧俊義の期待通りにどこに出しても恥ずかしくない貴公子になるだろう。
 しかしそうして育て上げた子に盧家を継がせる気は起きない。燕夫妻の代わりに育てなければいけないのだ。盧家の主という、こんなただ贅沢が出来るだけで何の面白みのないものを押しつけては面目が立たない。
 ではどうするか?
 決まっている。どこに行っても生きていける子に育てるのだ。そのためにたくさんの事を覚えさせてやらなければいけない。
 どこに行っても生きていける――それに必要なのは、何よりもまず武術。腕っ節さえ立てば、武侠として江湖を渡り歩くのは容易い。
 だがそれだけでは駄目だ。武術だけを覚えさせたら、武の道にしか進めない子になってしまう。
 だからもっとたくさんの事を教えよう。
 商人になりたいと思った時のために、商売の基本からのこの国の経済、商人同士の符丁や慣習を覚えさせて。
 芸で身を立てたいと思った時のために、歌舞音曲の良い師を手配する。
 科挙を受けたいと言うかもしれないから四書五経も学ばせて、宋国のどこに行っても困らないように各地の方言も叩き込む。
 長じて美しく成長した彼は、身のこなし、言葉遣い、礼儀作法、それらを完璧に身につけ、どんな状況に陥っても涼しげな表情のまま難なく対応できよう。それこそどこへ行っても上手くやっていける。開封は宮城のただ中でも、世知辛い江湖の片隅でも。
 盧俊義は確信する。成長した彼は、間違いなく盧俊義の自慢となる。誇りとなる。銀二十両では見せる対価にもならない掌中の宝となる。幼子はそうなる事で盧俊儀に、素晴らしいものを手に入れ、より素晴らしく磨き上げた、という充足感をくれる。

 そして、盧俊義は、

 いつか、

 手に入れ磨き上げ、自慢とも誇りともなった、決して失いたくない掌中の宝を、

 

 いつか、ああ、そういつか、手放すのだ!

 

 彼に、好きな人生を選ばせ、歩ませる事によって。


 盧俊義は密やかに笑う。決して顔には出さず、内心で己を嗤う。
 初めて知った。
 気付いた。
 解った。
 自分の本当の望み。
 本当に欲しいもの。
 それは、

 

 得られる充足感と、

 

 手放す喪失感。

 

 ――……盧家の跡取り息子として生まれた。
 何もかも、欲する前に与えられた。だから「欲しい」という気持ちが解らなかった。得る喜びも失う悲しみも知らなかった。
 そうして今の盧俊義が出来た。何事にも執着を抱けず、何事にも心を動かす事の出来ない、ただ息をし物を食べ排泄し眠るだけの人形のような自分が。
 そんな自分が、望みを手に入れたのだ。
 得られるはずのなかった望みを、あの幼子が与えてくれたのだ。
 これが嗤わずにいられるか。

 あの子をだしにして、自分は、望みを叶えようとしているのだから。

 だとすれば、尚更、幼子を立派に育てなければならない。
 彼によって得る幸福と失う幸福を手に入れるからこそ、手放すのが惜しいほどの貴公子にしなければならない。
 決意を新たにする盧俊儀の耳に、あの、という控えめな声が忍んで入ってくる。従者だ。我に返って見やれば、彼は長い主の沈黙に戸惑い、耐えかねた顔をしていた。
 その顔を見つめる盧俊義は、ふと閃くものを感じた。どうなさるおつもりで、という従者の問いに対する応え。
 彼は、殊更にのんびりとその答えを告げた。
「……私の従者にしようかな」
「え――」
「君にはいずれ泉州の脚店(支店)を任せたいしねぇ」
 従者の、仕事を奪われる危機感に曇った顔が、一気に輝いた。
 泉州は長江の更に南にある海辺の古都だ。唐末期からの戦乱から逃れ続けたかの街は、大越のような南方の国々や海を越えた彼方にある異国との交易の拠点として繁栄している。
 大名府から遠く離れたそこの脚店を任される――これはある意味で正店(本店)の大番頭になるよりも凄い出世だ。事実上の独立であり、正店から遠く離れているからこそ、脚店の支配人の権限は正店の大番頭のそれよりずっとずっと大きい。
 そしてこの従者は、そんな重要な脚店を任せるに足る男だった。長く盧俊義に従い、主に代わって商売の采配を振るう事もままある。その商才は盧俊義以上だ。
「その日のために、あの子に色々教えてあげてくれるかな?」
「かしこまりました。お任せくださいませ」
 と恭しく頭を下げる従者の口調は、いつも通り静かで控えめでありながら、そこはかとない熱が込められている。盧俊義は口の端に満足げな笑みを微かに浮かべ、窓の外の晴れ渡った青空を見やり――
 ふと、思いついた。
「……ねぇ」
「はい、旦那様」
「小乙君を、呼んできてくれる?」
 一礼し、書斎を出ていく従者。
 盧俊義はその隙に、思いついた事の一つめを実行に移した。書斎の奥に隠している文箱を引っ張り出し、卓まで持ってくる。蓋を開ければ、顔を覗かせるのは何事か書かれた紙の山だ。
 この家と店で働く下男下女たちの、身売り証文である。
 盧俊義はその中から目当ての物を探り当てると、中身を確認して、

 蝋燭の火に、かざした。

 火はあっという間に紙に移り、チロチロと下方から上方へと燃え上がっていく。盧俊義は自分の指を焼いてしまわないよう気をつけながら、半ばまで炎に舐められた紙片を窓から庭へ放り捨てた。
(これで)
 放られた紙片が、宙で燃え尽き灰となって消えていく。
(あの子は、自由)


 燃やした身売り証文。
 そこに書かれていた名は、燕小乙。


 幼子を縛る鎖は焼き捨てた。
 これで成長した後、あの子は誰に気兼ねする事なくこの家から出ていける。盧家から解き放たれ、巣立つ事が出来る。
 その日まで盧俊義は、彼という雛を守る「巣」であろう。
 巣となって、守り、育み、幼子の巣立ちを万感の思いで見送ろう。
 それは想像するだけでとても幸せな気持ちになれて、盧俊義は思わず口元に満足の笑みを乗せた。
 その時だった。

「旦那様、小乙です」

 戸外から幼子の高い声が転がり込んできた。盧俊義は笑ったまま、
「おいで」
 招く。失礼します、という声と共に、幼子が部屋に入ってきた。ペコリとこちらに一礼し、
「何の御用でしょう、旦那様」
 と、やや舌足らず気味に尋ねてくる。
 引き取ったあの日と比べて幼子は見違えるほど小綺麗になった。子供らしい丸みに、女の子のように綺麗な顔立ち、盧俊義を見上げるつぶらな瞳は、庇護を求める弱い雛鳥のそれだ。
 盧俊義は無言で彼を手招きする。コトリと首を傾げてやってくる幼子。盧俊義は椅子から立つと、やってきた幼子の前に屈んで、その顔を、目を、覗き込んだ。
「小乙君」
「はい、旦那様」
「君に、新しい名前をあげるよ」
 ずっと考えてきた事だった。
 いつか立派に育って巣立つ子に、燕小乙というおざなりにもほどがある幼名は相応しくない。彼が父から受け継いだ姓・燕がもっと映える、もっと素晴らしい名前をつけてやりたい。
 今日、やっとそれが決まった。

「君の新しい名は、青だ」

 せい、と幼子は心持ちぼうっとした様子で繰り返した。
 一つ大きく頷く盧俊儀。


「君は今日から、燕青だ」


 告げられた新たな名に――
 幼子は、ただ目を丸く瞠って呆然としていたが。
 不意に表情を改めて、

「はい、旦那様!」

 と、ニコリと屈託なく笑った。

 

 しかし、燕小乙改め燕青がこの次に無邪気に笑うのは、十余年の時を経た後となる。

 

 

 

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