「では、晩餐までこちらをお召し上がりください」
「うん、ありがとう」

 盧俊義の前の卓に置かれた、点心を山のように積んだ足つきの皿。それを運んできた宮廷の侍従は、一礼と共に部屋を辞した。
 それを見送り、一人残された盧俊義は、点心の山を前にして心が躍るのを感じる。普段は余り動かない顔におっとりとした微かな笑みを形作り、食い入るように様々な点心を見つめ、どれを食べようかと手指を彷徨わせる。
 どれがいいだろう。

 人生の最期に食べる点心は。

 思い出されるのは燕青の声だった。呼び出しに応じて宮城にノコノコ行けば殺される、そう切に訴えた従者は、宮廷の料理に執着を見せた主人を見限って暇を取った。今頃どこの旅の空か、と思いを馳せる盧俊儀の胸中には、別段見捨てられた憤りや悔しさ、自慢の従者を失った悲しさや虚しさはない。
 むしろ、満ち足りてさえいた。

 盧俊義は知っていた。宮城からの呼び出しは、自分を殺すためのものだと。

 盧俊義は気付いていた。目の前にある点心、これには十中八九、遅効性の毒が仕込まれている事を。

 盧俊義は分かっていた。燕青がずっと自分を守ろうとしてくれていた事を。そのための言葉であった事を。それを拒否した自分を彼が見限る事を。

 盧俊義は何もかも知り、気付き、分かっていた。
 分かっていて、ここまで来た。


 ここまで、死にに来た。


 宮廷の点心で死ぬ――食い意地を張っていると周囲に見せかけ、燕青にまでそう信じ込ませていた自分には、打ってつけの死に様ではないか。盧俊儀は僅かに笑みを深める。仮面のような顔に浮かぶそれは、盧俊義の表情を読むのに長けた燕青でさえ「山盛りの点心を前にしてはしゃいでいる」と解釈しかねない、混じり気のない喜びだった。
 毒入りの点心を一つ選び、手に取り、食べる。その幸福の刹那に耳に蘇ったのは、小乙、という女の声だった。


 ごめんね。

 ごめんね、小乙。

 お母さんを、許して。


 その瞬間、刹那の時は永劫にも勝り、盧俊義の意識を過去へと飛翔させる。
 まだ幼子の燕青と出会った、あの日へ。

 

 

空の手

 

 

1.邂逅


 ……盧俊義は、盧家の跡取り息子として生まれた。
 盧家は北京大名府に本拠を置く大商人である。元の生業は質屋。それ以外にも官塩や穀物取引、漕運などに手を伸ばし、そうして代々の当主たちが築き上げた富のネットワークは広く宋国を覆って余りある。
 生まれながらにして、盧俊義はその頂点に立つ事を約束されていた。
 故に彼は何不自由なく育った。着る物、食べる物、玩具、書、寝具、豪華な調度の整った自室から傍仕えの下男下女まで、超一級の物が両親から与えられた。その両親からして超一級だった。仲の睦まじさには定評のある両親は、我が子をそれはそれは可愛がった。
 暑いと言う前にそれとなくあおがれ、寒いと言う前にそっと絹の綿入れを差し出され、腹が空いたと言う前にいつの間にか食事が用意され、眠いと言う前に寝室へと誘導される。盧俊義の生活は、そんな至れり尽くせりの生活だった。
 盧俊義は全てを持っていた。盧家の莫大な家産、次期当主という安泰を約束された地位、まめまめしく仕えてくれる人、庶民がぽかんとするほどに豪華な衣食住。
 全てを、与えられていた。

 だからそれらのものに対する執着がどうしても湧かなかった。

 幼少期から丸々とした体形を誇り、またおっとりとした気質だったので愚鈍な性情だと見くびられがちな盧俊義だったが、しかし彼は聡かった。見た目に反し、聡かった。
 だから気付いていた。

「全てを持ている」と「何も持っていない」は、同じである事を。

 ただ与えられただけの物は、決して己の物になり得ない事を。

 盧俊儀は全てを持っているようで、自分自身の物と言えるものを何一つとして持っていなかった。そのせいか彼にとっては何もかもがどこか他人事で、あらゆる物事に対して好き嫌いの念が浮かばなかった。
 満ち足りていながら、同時に何かとんでもない欠落を抱え、彼は成長する。
 そんな人生を淡々と、他人事のように歩んでいた彼の心に一石が投じられたのは――空がどんよりと鉛色に曇った、底冷えする冬の日の事だった。

「――……ごめんね……」

 当時の従者を連れて大名府の街中を歩いていた盧俊義は、そんな女の声にふと足を止めた。

「ごめんね、小乙……」

 旦那様? 怪訝そうな従者の声を無視し、行く道の左手、狭く暗い路地へと視線を向ける。

「お母さんを、許して――――」 

 ぼろをまとった女が、
 三歳になるかならないかの幼子に馬乗りになって、


 その細い首を、絞めていた。


 女の向こうには、やはりぼろをまとった男が倒れていた。おそらくは女の夫だろう。横たわってピクリとも動かず、生きているのか死んでいるのか定かでない。
 行きましょう旦那様、という従者のひそめた声。関わり合いにならない方がいい、彼がそう思っているのは確かだった。いつもの盧俊義ならばこれといった感慨も持たず、見なかった事にして歩み去っただろう。そうしてそんな哀れな女と幼子の事など屋敷に帰るまでにすっかり忘れた事だろう。
 ただ、この次の瞬間。
 幼子が、盧俊義を見たのだ。
 その眼差しに盧俊儀は絶句した。
 鏡を見ているのかと思った。
 それくらい、幼子の眼差しは盧俊儀のそれと酷似していた。

 ――……一切を、他人事のように見る目。

 訪れつつある自分の死、自分を殺そうとする実の母、今まさに死にゆく実の父、傍観するだけの盧俊義たち。その全てをただ映し、眺めるだけの、執着というものが欠片もない目。
 それを見た瞬間、盧俊義は初めて、……幼子を不憫だと思った。
 だから、
「――ねぇ」
 急かす従者を無視し、女に声をかけた。
 彼女は弾かれたように我が子の首から手を離した。目を瞠ってこちらを振り仰ぐ。
「何を、しているの?」
 ひっ、という小さな叫びと共に、幼子から離れてひれ伏す女。女の目に盧俊義は役人にでも映ったのか。だとしたら滑稽で、その百倍、哀れだ。
 お許しください、お許しくださいと震えて哀願する母親の傍で、幼子は地面に仰向けのまま、咳き込む事も泣き出す事もなく、淡々と盧俊義を眺めている。ガリガリに痩せこけてはいるが、その目は水のように澄んで美しく、悲しいほどに冷ややかだ。


 ――この年、大宋帝国の各地は凶作に見舞われた。
 農民たちは天候不順に苦しめられ、やっと実をつけた麦はイナゴに食い荒らされた。多くの餓死者が出、多くの農民が住んでいた土地を離れて城市に流れ込んだ。何か仕事を求めるでも物乞いをするでも、農村より城市の方が実入りはいい。
 女の一家も、その口だった。
 しかし北京大名府にたどり着く前に一家は困窮した。僅かな食料や銭はあっという間に底を尽き、夫は妻と子を食べさせるために盗みまで働いた。しかし元は善良な農民、慣れない事をしても上手くいくものではない。一家はほとんど食うや食わずの状態で大名府に到着した。
 そして夫が倒れた。
 せめて何か食べるものがあれば。そう思えど何もない。購ってくる金もない。


「なので……この子を、殺して――」
 食おうとしたのだ、と、嗚咽混じりに女は言った。自分たちが先に死に、一人残ったこの子が一人ぼっちで野垂れ死ぬくらいならば、と。
 従者の絶句が背中越しに気配で伝わった。
 物価は多少上がっても物が溢れている大名府で、これほどの困窮を肌で感じる機会は少ない。まして盧家は、主一家から下働きの下男下女に至るまで、飢えた事のない家なのだ。
 お許しください、お許しくださいと憑かれたように呟き続ける女の、その哀願の相手は既に盧俊義ではなかった。子殺しの罪を責める天か、夫の両親か、あるいは己自身の良心か。それらに苛まれながら、尚も生きるために我が子を食おうとした女の生への執着は、盧俊義にとって何やら遠い異国の出来事のようだった。
 他人事だった。
 ああ世の中にはこういう人もいるのかと、冷めた感想すら抱いていた。
 ただ一つ。


 自分と同じような目をした幼子だけは他人事ではなかった。


 幼子を不憫と思う、その感情から盧俊義は、生まれて初めて、自分が人生というものに倦んでいたのを知った。
 何も持たず。
 何も得られず。
「欲しい」という概念すら理解できないまま、押しつけられた贅沢な一生を淡々と送る。
 至れり尽くせりの生活は盧俊義の心に情動を与えなかった。そのせいで彼は、全てにおいて心を動かす事の出来ず、いつしか「自分の人生はこんなものだ」と早々に見切りをつけ、殉教者のようにそんな生を受け入れて全うするつもりでいた。
 だが。


 こんな小さな子が、自分のように人生を見切るのにはまだ早い。


 そう思った。
 そうして盧俊義は、初めて衝動のままに行動した。ひれ伏したままの女に歩み寄り、助け起こすと、
「これだけあれば、その子を食べなくて済む?」
 銀が二十両ほど入っている自分の財布を、ポンと彼女に渡していた。
「旦那様、何を――!?」
 と従者が叫ぶのと、
「は……? え――え……?」
 と女が手の中に落とされた財布に目を白黒させ、混乱の声を漏らしたのとは、ほぼ同時。
 盧俊義は構わず淡々と続けた。
「人のお肉って、美味しくないらしいしねぇ。それでもっと美味しい物を食べる方がいいと思うよ?」
「え……そ、そんな――」
「旦那様、何をしてらっしゃるんですか!? そんな、二十両もの金を――」
「駄目?」
「駄目とかではなくて……!」
 ああもうと従者がイライラと髪を掻きむしる一方、女には徐々に理解が訪れていた。曇らせていた表情を感激と歓喜に輝かせて、
「あ……ありがとうございますっ!」
 と、再びガバリと平伏した。
「どこのどなたか存じませんが、貴方様は私たち親子三人の命の恩人です……! このご恩は決して忘れません。来世にロバとなって貴方様にお仕えしてでも、必ずお返しいたします……!」
「別にいいよ、そんなの」
 二十両の銀子を与える事など何ほどの事があろうか。
 自分が適当に浪費するよりも、倦んだ目をした幼子が生きるために使われる。その方が余程有意義な金の使い道だ。そこはかとない満足を覚えてじゃあと踵を返し、

「――お、待ち……くだ、さい……」

 かけたその時、しわがれた声がかけられた。
 振り返る。見やる。女の、あなた、という焦燥の声。それまで生きているのか死んでいるのかも定かではなかった男が、力を振り絞って起き上がるところだった。
「ならば……せめて、この子を……お連れ、くだ、さい……」
 そう、仰向けの我が子を示す男に、盧俊義はきょとんとした。今の申し出が何なのか理解するよりも先に女が叫ぶ。
「あなた、そんな、何を言って!?」
「俺は、もう、長くない」
 女が息を飲む、一方で盧俊義は納得する。
 男の顔色は悪い。土気色と言ってもいい。呼吸が浅く、激しく、息を吐く度に変な音がする。不意に口元を押さえて激しく咳き込む男。指と指の隙間からどす黒い血が滲んでいた。
 泣き出しそうな女を押しのけ、こちらの足元まで進み出た男の目は、鬼気迫っていた。
「恩人様……この子を、どうぞ……お連れください、ませ……。もうすぐ、死ぬ、俺に代わって、この子に、二十両の、ご恩返しを……させて、やって、くださいませ……!」
 そう、地面に額づく。
 どう応えるべきか、困った盧俊義の脇から、

「それは……二十両で、盧家にこの子を質入れする、という事でよろしいですかな?」

 従者が口を出した。
 それも、商売人の口調で。
 何を、と盧俊義が声を上げるより早く、男は額づいたままへいと頷き、女はしばしそんな夫を見つめていたが、やがて顔をクシャクシャに歪め――同じように、額づいた。
「そういう事でしたら、しばしお待ちを」
 従者の動きは迅速だった。懐から紙、携帯用の筆と墨壺を取り出し、その場でサラサラと何事か書きつける。そして男の前にしゃがみ、それらを差し出した。
「では、ここに名前を」
 地面に置かれたその紙は、

 ――即席の、しかし規定の書式に則った、身売りの証文だった。

 男は顔を上げ、筆を受け取り、震える手で従者に示されたところに自分と我が子の名を書く。上手い字ではない上に手が震えているから、何と記したか、路地の薄暗さでは判然としない。
 記し終え、従者に筆と証文を返す男。従者は満足げに受け取って、
「結構でございます。ご子息の身請けをなさる時は、二十両の返済を」
 と、淡々とした動作で懐にしまい込む。それから幼子の方を見て、連れていこうと手を伸ばして。
 ――男が、口惜しげに唇を噛む。
 ――女が小乙、と小さく、本当に小さく囁く。


 それらに背を押されるようにして、盧俊義は従者より早く幼子を抱き上げていた。


 軽い体だ。
 人形よりも軽いのではないだろうか。
 そして幼子は、抱き上げられたにも関わらず、泣きも笑いもしなかった。痩せて目ばかりになって薄汚れた、しかし人形のように整った顔立ちに倦み疲れた無表情を貼りつかせ、無気力に盧俊義を見上げている。
 盧俊義は笑いかけた。
 傍から見れば、それは口角が僅かに持ち上がった程度の微々たる変化。
 だがしかし、盧俊義は、確かに笑った。

「――……まずは、湯浴みだねぇ」

 のんびりと穏やかに語りかけた。
 従者と幼子の両親が、揃って目を軽く見開く。
「それから着替えて、美味しい物を食べさせてあげるよ」
 買った子供、もっと言えば質入れされた品に対するには余りに丁重な扱い。
 従者の驚愕は咎めるそれであり、両親のそれは望外の喜びであった。
 幼子の両親に視線を送る。
 大丈夫だと頷くと、二人は涙を浮かべて再び額づいた。
 ありがとうございます、恩人様。その言葉に送られて、盧俊義は幼子を抱き、従者を従えて、路地をあとにした。

 

 

 

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