3.蝶と嵐


 払暁間近、俺はその建物に歩み寄った。
 扉には錆びた錠と鉄鎖、封印の札。
 入り口の上に掲げられた扁額には、「封忌堂」の文字。
 俺は携えてきた槌で錠を叩く。
 重く耳障りで騒々しい金属音と、硬くて痺れるような手応え。俺は気にせず槌を振り下ろす。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も――――――――
 そして、ついに、

 ――ガチャンッ!

 錠が、砕ける。
 俺は槌をその場に捨てた。ためらっている場合ではない。今の音を聞きつけ、いずれ門弟たちが駆けつけてくるだろう。
 急がなくては。
 両開きの扉の取っ手に、手をかけた。
 開ける。
 札の破ける音は、ギギィ……という蝶番の軋む音に掻き消され。
 開け放った扉の向こうの堂内は、


 ――――――――――――――――――――闇。


 灯り一つないその向こうから声がする。ォォ……ォオ……という、すすり泣きとも呻きとも苦悶とも取れない、ただただ胸が悪くなりそうな声。
 だが、

 ……今の俺には、これまでとは全く違う声音で聞こえた。

 それが胸に迫ってくる。胸を締めつけられるような、表現しがたい感情に襲われる。それを吐く息に込める。分かった。解った。
 理解した。
 ならば俺の出来る事は一つだった。堂内に足を踏み入れる。
 重くのしかかってくるような、あるいは広大無辺な空間に放り出されたような頼りなく空虚な闇を、沓裏の床の感触だけを頼りに歩く。一歩。また一歩。
 開け放った入り口から差し込む淡い夜明け前の光の遥か向こう、声を頼りにそちらへ行けば――
 前方を探る手が、何かに当たる。
 台……のような物、と、それに乗せられた……これは、巻物?
 禁術の書だ。
 震える手でそれを取る。刹那、闇に満ちていた何とも表現しがたい哭き声が、ピタリとやんだ。
 代わりに、

 ……ク……

 ……クク……ク……

 押し殺した笑い声。
 手の中の書が立てる、喜悦の声。
 ……ああ、そうか。
 やっぱりか。
「――そうなんだな?」
 俺は、問う。
「お前たちは――そう、なんだな?」

 笑い声は消え、

 手の中の書が、一つ、コクンと頷いた――

 ような気がした。
 俺は深々と吐息する。歓喜に浸るわけでも悲嘆に喘ぐわけでもない。
 ただ、覚悟した。
「では、俺と共に来い」
 すると掌中の書は、そんな俺の言葉に応じるように、

 クツリ、

 と笑う。
 以前までの俺ならば恐れ、身震いしただろう。そんな不気味な笑い声、笑い方。しかし俺の胸に浮かぶのは恐れではない。もっと別の感慨だ。憐憫に似ているが、それもまた違う。
 俺は書を確かに握り締める。
 踵を返す。
 もう二度と後戻りできない、後戻りを許されない道へ、一歩――

 

「――樊瑞」

 

 踏み出そうとしたのに、足が、止まる。
 俺は今、この封忌堂の入り口の方を向いている。開け放ったままの入り口から僅かに見える、夜明け前の紫紺の空の薄明かりに目を細めている。
 その薄明を黒々と切り取る小柄な人影に、細めていた目が見開かれた。

「――師父……!」

 師は、怒るでも責めるでもない静かな表情でそこにいた。

 

「樊瑞、我が弟子よ」
 一歩。
 師父が、俺の方に歩み寄る。
「何を、しておるのじゃ?」
「師父、俺は」
「答えよ、樊瑞」
 静かで、淡々として、慈悲深くすらあるのに、有無を言わせない師父の声。
 答えあぐねる俺の手元に、師父の視線が注がれた。
「……それは、この堂に封印してあった禁術の書じゃな?」
「……はい」
「それを、どうするつもりじゃ」
 再び俺の顔に据えられる師父の双眸。
 その眼差しは水のようだ。命を癒し育む優しさがあり、身を冷えきらせる冷たさがあり、時に人の命を奪う苛烈さがある。
 そんな目と見つめあった瞬間。

 ……俺は今更のように、この方に背くのだと自覚した。
 俺の才を見出し、ここまで育ててくださった、大恩ある師父に。

 身を引き裂かれるような感情に駆られた。心を潰されるような激情に襲われた。今すぐ書を戻し、跪いて師父に許しを乞いたい欲求に従いたくなった。
 それらを全て、自制心で振り切った。
 俺はもう決断し、覚悟したのだ。師父の目をまっすぐに見つめ返し、
「――解き放ちます」
 はっきりと答えた。
 師父と袂を分かつ、決別の言葉。だがそれを受け止めた師父は、いつかのように穏やかな手つきで長い白髯を撫でる。そうしてややあって、
「……何故じゃ?」
 と、やはり責めるでもない口調で問うてくるのだ。
 それが、ただ心苦しい。
「必要だからです」
「ほぅ」
 師父のひげを撫でる手は止まらない。淡々とした口調も変わらない。
「知っておろう。その書に封印された数多の禁術を。この世を乱し、壊し、狂わせてきた禁術じゃ。一度解き放てば太平の世は乱れようし、人の血も流れよう。我らが先達はそんな術の数々を、命懸けで封印された。
 樊瑞、お前はかの方々の苦労を無に帰そうとしておる。自ら世を乱そうとしておる。それを解っておるのか?」
「――はい」
「では答えよ。――何故、解き放つ必要があるか」
 俺は、息を吸う。
 吐く。
 言葉は、もう選ばずとも出てきた。

「封印された力が、行き先を求めて哭いております」

 師父の白い眉が、ピクリと跳ねた。

「己のあるべきままの姿に還りたいと、哭いております」


 ――この世界は、森羅万象の全てが矛盾する事なく存在を許され、相互に作用しあうように出来ている。
 では、禁術は?
 封印され、この世に在ってはならぬものと堂の奥深くに隠され、世界から隔絶されたこれは、何故今も存在を許されている?
 この禁術が真に存在してはならないものなら、そもそも初めから生まれ得なかったのではないか。
 禁術が存在する。それはすなわち、世界を作る大いなる「何か」が禁術の存在を許した、という事の何よりの証拠なのではないか。
 禁術とは、そも、何なのか。
 ここに来て、手に取って、やっと解った。


「禁術など、所詮はただの『力』です」
 俺は書を持った手を軽く掲げる。師父に見せるように。
「その『力』に『禁術』などという名と形を与え、そのように用い、禁忌扱いしてきたのは、他ならぬ俺たちです」


 その「力」が哭いていたのだ。
 行き先を、還る場所を求めて哭いていたのだ。
 ならばそれは解き放たれるべきではないのか。
 あるべき本来の姿へ。
 そして、あるべき本来の性へ。


「だから俺は、この力を解き放ちます」
「……解き放つ事で何が起こるか、承知の上か」
「はい」


 あるものは混乱を招くだろう。
 あるものは流血を呼ぶだろう。
 あるものは天変地異を引き起こすだろう。
 そしてあるものは、術者をも巻き込んで滅びの道を行くだろう。――多くの命を、道連れにして。

 しかしそれもまた、あるべき姿なのだ。

 世界が、天が、大いなる「何か」が定めるでもなく定めた、為すでもなく自ずから然るべく帰結する姿なのだ。

 栄えも、

 滅びも。

 森羅万象は全て、「何か」の定めるままに混沌と流転し、循環する。


 生も、


 ――死さえ。


「けれどそれは、俺たちが等しく払わねばならない対価です」


 手を出さなくてもいい、手を出してはいけないそれをつまらない欲で捻じ曲げてしまったから、禁術などというものが生まれた。
 ならば俺たちはそのツケを支払わなければいけない。
 それはきっと……もっと早くに、そうすべきだったのだ。


「――そうか、樊瑞」
 師父は――
 そう、深々と吐息した。

「お前は、お前の真理を見出したのじゃな?」

 真理。
 これは果たして、本当に、真理なのか。

「……分かりません」
 俺はかぶりを振る。
「俺の知ったものが真理なのかどうか、確かめる術はありません。何か解ったようで、その実何も解っていない、そんな気持ちが強い。ですが」
 書を掲げていた手を下ろす。
 師父の水のような眼差しにももうたじろがない。
 心の中は驚くほどに空虚で、静かで、だからこそ揺るがずにいられる。

「俺は、俺の心の命ずるまま、俺の真理に従おうと思います」

 それこそが俺の無為自然。


 ――俺の行くべき「道」。


「――かつて」
 師父が、不意にそう呟いた。
「かつて、その書が作られた頃」
「……?」
「多くの仙道たちが、世にある禁術を解体し、浄化しようとした。だが誰も出来なかった。捕らえ、封印する事しか叶わなかった」
「…………」
「だが己の目と心だけで己の真理にたどり着いたお前ならば、あるいは……」
 続く言葉を飲み込んで、師父は俺の方へとゆっくりとやってくる。
 ひげに埋もれた口元が、水のような目が微笑んでいる。穏やかで優しくて、それは俺をずっと見守ってきてくれた笑顔だった。
 記憶の彼方にある父母によく似た笑顔だった。
「行くが良い、樊瑞」
 俺は胸を衝かれた。
「地を然るべく行く――それこそがお前の性。
 思うまま、心のままに行け。お前は」

 

「儂の、自慢の弟子じゃ」

 

 この方に導かれてここまで来た。
 この方に守られてここまで生きてきた。
 だが俺は、今日、これから、この方の元から離れるのだ。
 そしてもう二度と戻れない。
 こらえきれなくなって、俺は師父の足元に崩れ落ちるようにして跪いた。
「師父……!」
 涙が滲む。
 目を固く瞑った拍子に一粒二粒、床に落ちる。
「今までお育てくださり、本当に……本当に、ありがとうございました……!」


 この不肖の弟子を、どうかお許しください。


 そうして俺は、今生で最後となる礼を師父に捧げたのだった。

 

 

 堂から出ると、慌しくもピンと張り詰めた空気に出迎えられた。
 堂内には伝わってこなかった緊張。それを遮断していたのは師父か、この書か。俺は泣き濡れた顔を拭い、表情を引き締める。前後左右に意識を配り、視線を配りながら、速やかに封忌堂を離れて裏庭へ。
 まずそこに、いた。

「樊瑞!」

 道観内へと続く回廊の上がり口に立ちはだかる、いくつもの道服姿の人影。
 高弟たちだ。何玄通もいる。
「貴様、何をしている!?」
「何故封忌堂の扉が開かれている!? ――まさか、お前が開けたのか!」
「その手の書……――もしや禁術の書か!」
「魅入られたか、樊瑞!」
「禁術の書を盗み出すとは……そこまで落ちぶれたか!」
「……盗む?」
 投げつけられた言葉をおうむ返しに繰り返して、はたと気付く。そんなつもりはまるでなかったのだが、そうだ、これは立派な盗みだ。師父の承認を得ているだけで――
 ……そんな事情など話せるわけもない。これ以上の迷惑を師父にかけるわけにはいかないし、その顔に泥を塗るなど以ての外。
 なら……――
「――勘違いしないでいただきたい、師兄方」
 と、俺は笑う。
 出来るだけ、悪人らしく。
「俺は盗んだんじゃない。――この書の求めに、応じてやっただけだ」
「――左道に堕ちたか、樊瑞!」
「師父の御心に背く愚か者め! 覚悟!」
 高弟たちが飛びかかってくる。
 中には道術を放つ者もいる。
 俺はただそれを見る。
 観る。

 ――もし俺のあの観続ける修行に、明確な成果があるとしたなら。
 それはおそらく、力の、あるがままに行く流れが見えるようになった事。

 見える。
 兄弟子たちの拳打が、掌底が、蹴脚が、そして道術が、どのような流れをたどってどこへ行こうとしているのか、手に取るように分かる。
 俺はただ、その流れの外れる所に身を置けばいい。
 それを可能にする身体能力は――伊達にこの五年の間、険しい二仙山を駆け回っていたわけではないのだ――もう身についている。

「「「「「…………っ!?」」」」」

 声なき驚愕の声を上げる兄弟子たち。
 それもそうだろう。彼らにはおそらく、俺の姿が不意に消えて見え、かと思ったら突然彼らの背後に湧き出たかのように感じられたはず。
 何の事はない。彼らの放つ「力」を避けながら、視線の死角に潜り込んで背後を取っただけだ。
「――樊瑞っ――」
 彼らが次の行動に出るより速く。
 俺は兄弟子たちの首裏の付け根に手刀を叩き込む。当て身を喰らわせる。
 八人。羅真人門下の名ただる高弟八人が、あっという間に倒れ、意識を手放す。
 命は取らない。取るつもりはない。俺は確かに禁術の書を解き放って左道に堕ちた愚か者だが、取らなくていい命まで取りたいとは思わない。
 紫虚観の中に入る。俺を止めようと飛びかかってくる兄弟子・弟弟子たちを打ち払い、薙ぎ払い、堂々と正面から外に出る。
 そして浄門へと続く道の途中に、そいつはいた。


 公孫勝。


 奴の目は怒りに燃えていた。その怒りの火の向こうに、何かすがるような色を見た気がした。

「どこへ行く、樊瑞」
 投げつけられる声は硬い。俺は思わず口元に苦笑を漏らし、
「相変わらず兄弟子に対する口の聞き方を覚えない奴だな、お前は」
 結局俺は、こいつの口から「樊師兄」という言葉を引き出す事が出来なかった。
 しかしそれもまた仕方のない事なのかもしれない。兄弟子たちに敬意を払わず、風のように捉えどころがないのがこいつなら、俺は不肖の兄弟子としてそれを尊重してやるべきだ。
 公孫勝の存在をそれ以上はあえて気にかけず、再び足を前に進める。顔色を変える公孫勝。僅かに後退りし、そして――
「――樊瑞ぃっ!」
 地を蹴り、俺に打ちかかってくる。

 だが、遅い。

 どうしようもなく遅い。

 俺は突き出された掌底を軽くかわすと、ガラ空きになっていた奴の胴へ、拳を繰り出した。
 メキッ、という嫌な手応え。
 公孫勝の、決して軽くはない体が吹っ飛ぶ。乾いた地面に叩きつけられ、砂埃を舞い上げて転がる。
 手応えを思い返す。肋骨にひびくらいは入れてしまったか。だが、意識を奪う事までは出来なかった――公孫勝は、打たれたところを押さえながらも、歯を食い縛って起き上がろうとしている。
 俺はもうそれを一顧だにしなかった。浄門へ向かう。

「――やめろ……樊瑞」

 やはりあばらを痛め、上手く呼吸が出来ないのだろう。息が浅く荒く、言葉まで苦しげだ。

「それは……禁術の書、だぞ!」

 俺は足を止めた。
 肩越しに振り返る。


 この弟弟子が怒り、憤る表情を、俺は初めて見た。
 泣き出しそうな顔も。


(――そうか)
 俺は唐突に気付いた。
(こいつの「目標」でいるのは……それほど、嫌でもなかったんだな)
 今更気付いても、遅いのだけれど。

 ――いや、まだしてやれる事はある。

 兄弟子として、悪役として、俺が出来る事は、


「――持て余した力が、行き先を求めて哭いているのだ」

 書を掲げて示す。
 公孫勝の顔に浮かぶ、訝しげな色。

「この力で以って俺は、この世を混乱へと導く『魔王』となろう」

 笑う。
 未だ起き上がれない公孫勝を、嘲笑うように。

「俺を止めてみろ、公孫勝」

 ――俺を止めるべくよく修行しろ、公孫勝。俺なんかを慕ってしまった、俺の哀れな弟弟子。
 俺が俺の真理にたどり着いたように、お前はお前の真理にたどり着け。
 そんなお前に、我らが師父は俺を止めるための術を授けてくれる事だろう。その術を練り、磨き、自らのものとして、いつか俺の前に立て。
 それが大いなる「何か」の定めるままなら、お前が俺を止めるのも、俺が道半ばで倒れるのも、やはり「何か」の定めるまま。その逆もまた然り。
 お前の怒りも憤りも惑いも嘆きも、俺の誰にも言えない決意も使命も空虚も密かな楽しみも、全てが全て、大いなる「何か」の定めるままに遍く巡り、互いに関わりあって、混沌とした秩序と秩序めいた混沌を作り上げるのだ。

「俺の享楽に、華を添えてくれ」

 俺を追いつき、そして追い越していけ、公孫勝。
 俺は、それが楽しみだ。

「樊瑞――――――――!」
 血を吐くような弟弟子の叫びに、俺はもう振り返る事はしなかった。

 

 

 浄門の外、幽玄たる二仙山には今日も朝靄が立ち込めている。
 温かく湿った朝靄は濃く、一寸先も見通せない。しかし俺は気にせず、淡々とした足取りでその乳白色の中を行く。
「――……『この世に混乱を導く「魔王」』か」
 ついさっき公孫勝に言い放った口から出まかせを思い出す。

 世を混乱に導く魔王。――混世魔王。

 ……そう名乗るのも、いいかもしれない。
 叶う事ならばこのまま紫虚観で真理を更に突き詰め、師父とこの世の玄妙を語り、仙丹を練って、そして時に公孫勝の態度にケチをつけながら、あいつに兄弟子としてもう少しマシな姿を見せてやりたかった。
 出来れば禁術になど関わりあいになんかなりたくなかった。
 けれど俺は真理に気付き、禁術の上げる哭声の本当の意味に気付いたしまった。だったら俺は、もう悪役の道を突き進むしかない。
 禁術を解き放った俺には、どうせろくでもない死に方しか待っていないのだ。
 ならばそれまで、悪役は悪役らしく、せいぜい悪っぽく、派手に振る舞うとしよう。
 それもまた、「地を然るべく行く」俺の性。
 そう決めた時、朝靄の向こうから何かがヒラヒラとやってくる。


 朝靄をごくごく僅かに、しかし確かに揺らしてやってくる、それは目の覚めるような美しい蝶。

 

 その羽ばたきに、俺は嵐の匂いを感じた。

 

 

カオスの蝶

 

 

 

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