2.崩壊造形の相似
別にそれは、修行のためではなかった。
有り体に言えば師父のためであり、ムカつく弟弟子・公孫勝のためである。
面と向かって認めてやりたくはないが、奴には才能がある。力がある。師父に半ば見放されて落伍者となりつつある俺のあとを追わせては、それこそ師父に申し訳が立たない。
朝から昼間で体術の修行をし、呼吸法と気の循環法の訓練をし、それ以降は暗い部屋でろうそくの火をただ見つめる。そんな俺の姿を、公孫勝はどんな思いで見ていたのだろうか。俺に対する何かしらの期待は、三月ほど続いた。
背中に刺さる視線を感じなくなった頃、俺はろうそくの火を見るのをやめた。
火の揺らめき。それは、俺に何か途方もない真理を感じさせた最初の手がかりだ。
しかし足りない。足りるわけがない。火の揺らめき――不安定なようで安定し、安定しているようで不安定に揺らめくそれは、誰も知らない大きなうねりを感じさせるけれど、それだけだ。
それだけでは、何も分からない。
――森羅万象を遍く観よ。
師父の教えが誤った試しはない。俺は外に出た。暗い部屋の外、道観の外、浄門の外。
その先に広がるのは、二仙山の雄大にして峨々たる景色。深山幽谷、道ならぬ道から一歩そこに踏み入れば、そこは最早人の領域に非ず、神仙の遊ぶ幽境である。
俺は歩いた。
道から外れて山林に入り、灌木を掻き分けて進めば、様々な鳥や猿、鹿などの獣の鳴き声に混じって水のせせらぎが聞こえる。湧水豊富な二仙山には至る所に泉があり、沢があり、滝がある。
坂を登り、下り、長く歩き続けて、山林を抜けた先はそんな沢の一つだった。水飛沫を上げる小さな滝があり、澄んだ水の流れるその小川の傍には、大人が五人でようやく抱きかかえられるような巨大な岩がある。
高さは俺の背丈の二倍ほど。
傍まで行って、跳躍。
一瞬後、俺の体は岩の上に着地していた。暖かな日の光が降り注ぐ岩の上は俺の睨んだ通り霊穴――地の霊気が噴き出す地点――で、瞑想にうってつけである。
しかし、瞑想のために来たのではない。
――とくと、観よ。
胡坐をかいた俺は、眼前の景色を見つめる。
木々の緑、銀に光る水飛沫の珠、淡い灰色の岩、白や黒の岸の石、水中できらめく魚の鱗、木々の向こうにそびえる山の青さ、それよりも遥かに高く抜けるような空の青。
木々の葉がこすれる音。せせらぎ。遠くに聞こえる鳥獣の声。
緑の匂い。水の匂い。
太陽の光の暖かさ。時折吹く風の爽やかな涼しさ。
――とくと、観よ。
俺は毎日のように石舞台へと通う。日課の鍛錬を終えたらすぐに。
経を学び、書を読む同門の者たちがそんな俺を哀れみ、嘲笑う。俺は気にしない。ただ、時折突き刺さる公孫勝の問いかけるような視線が煩わしく、少しだけ痛い。
――とくと、観よ。
空を観た。
雲を観た。
山を観た。
木を観た。
葉を観た。
滝を観た。
沢を観た。
岸を観た。
石を観た。
魚を観た。
獣を観た。
――とくと、観よ。
その奇妙な気付きを得たのは、観続ける生活が一年ほど続いた頃だった。
沢のせせらぎに既視感を覚えた。
いや、既視感というのとはまた違う。
せせらぎの中に、俺のよく知る「何か」が潜んでいる――そんな、予感にも似た気付き。
俺はせせらぎを観る。
観続ける。
そうして、気付きの正体を知る。
うねりだ。
せせらぎの音の中に、俺のよく知るうねりが――不規則で規則的なうねりがある。
あの、ろうそくの火の揺らめきと同じ。
(何だ、これは)
俺は愕然と目を見開く。
あれは火。
これは水。
あれは暗い部屋の中で――
これは、太陽の光が燦々と降り注ぐ二仙山の山中だ。
共通項などない。
なのに、ゾッとするほどによく似たうねり。
(何だ、これは)
共通点など何もないはずの二つが、何故同じうねりを持つ?
偶然か?
それとも――俺の与り知らない共通点が、秘密があるのか?
――とくと、観よ。
俺は観る。
観続ける。
ある時不意に気付いた。あのうねりが俺の体の中にもある事を。
心音。
ある時は速く、ある時は遅く、刻々と変わる強さ、速さはまさにあのうねりで。
――とくと、観よ。
全く関係ないと思っていたものに、奇妙な相似がある。
この世は不可思議に満ちている。
俺ごとき未熟者には想像も及ばない「何が」がある。
そう悟ってから俺の目に映る世界は、玄妙で美しい不思議に溢れていた。
木の枝分かれに目を惹かれた。幹から発し、いくつにも分岐しながら、それは常に外側へと向かって決して幹の方に戻らず、そして末端近くの枝分かれは幹近くの枝分かれと形がほとんど全く同じなのだ。
雲の形に目を惹かれた。晴れ渡った雲にぽっかりと浮かぶ綿のような雲は、全体から細部に至るまで、とてもよく似た曲線で形作られている。そこには一切の直線がない。当たり前のようで、不可思議な事実。
人の手など一切介在していないはずなのに、まるで人の手によったかのような極大と極小の相似に、俺はやはり「何か」を感じる。
――とくと、観よ。
人智の及ばぬ「何か」。
卑小な人間ごときには、最早名付ける事もその全体像を把握するのも不可能な「何か」。
俺はそれを風に観る。
風に吹き散らされる木の葉に観る。
木の葉の一つ一つが描く、一つとして同じもののない不規則な軌跡に観る。
その軌跡は木の葉を別々の場所に運び、ある葉は沢に落ちて流れあるいは沈み、ある葉は地に落ちて風化しあるいは土に還り、ある葉は彼方の日に落ちて煙となりあるいは火を更に燃え上がらせる。
木の葉を吹き散らした風は別のものも運ぶ。
それは水。二仙山の木々から立ち上った水蒸気を掻き乱して流す。
流れて散った霧は、ある所では靄となって景色を覆い、ある所では雲となって太陽を隠し、更にある所では救いの雨をもたらすのかもしれない。
――とくと、観よ。
全ては、流転する。
しかし同じ流転を辿るものはない。
石舞台に座して雨に打たれ、俺はそれを知る。
例えば今、俺を濡らしているこの雨、この雨粒。同じ雨雲から発して同じ風に吹かれて地に落ちてくるそれらは、しかし行き着く先は決して一つではない。
ある雨粒は木々の葉に落ち草むらを濡らす。ある雨粒はそのまま地面に降り注ぎしみ込む。ある雨粒は岸辺の岩を叩く。ある雨粒は直接沢へと還る。そしてある雨粒は俺の体を濡らし、更にその一部は俺の喉を潤す。
地にしみ渡った雨は植物を育み、湧水となって動物を生かすだろう。沢へ流れ込んだ雨はいずれ黄河に至り、時に農作物の生長を助け、時に人を飲み込み殺し、そしていつしか海へと辿り着くだろう。海の一部となった雨は海流に乗って世界を巡り、またどこかで雲となり、雨となるのかもしれない。
流転。
しかしそれらは、そうしようと思って流転しているわけではないのだ。風は木の葉や霧を吹き散らそうという意志を持って吹くのではないし、雨は命あるものを生かし殺すつもりで降るのでもない。
あるがまま、ただ己の性にしたがって、あるように在る。然るべく為す。
混沌とした、大いなる流転。
――森羅万象を遍く観よ。
火の揺らめきと水のせせらぎに垣間見えた同じうねり。
木の枝分かれと雲の造形に観た極大と極小の相似形。
雨と風が教えてくれた、予測不能の流転。
何もかも、全てが全て、そうするべく動き、働いているわけではない。揺れる炎も流れる水も、天へと伸びる木も湧き立つ雲も、降り注ぐ雨も天地を駆ける風も、それぞれがそれぞれ、己のあるがまま、あるべきままにそうしているだけだ。
その、無秩序さ。
その中に透けて見える秩序。
流転の内にそれらは渾然一体となり、「何か」の一部となって彼方のどこかで思いも寄らない結果をもたらす。
そしてこの瞬間、俺に嵐のような理解が訪れた。
「――そうか……」
激しい雨の中、俺は震える声で囁いた。
「これが、世界か」
世界はそうして出来ている。
森羅万象が、「そうしよう」という意志を持たぬまま動き、働き、相互に作用しあって、この世界を形作る。
俺もまたその一つ。
俺に降り注ぐこの雨もまたその一つ。
俺が座すこの岩も、俺が着るこの道服も、俺が吸う空気も、俺が吐く息も、その一つ。
一つ一つは無関係そうで取るに足らない物事が、遥かな高みから俯瞰する視野の中では瞠目するほどの無秩序な精巧さで何か大きなものの一部として組み込まれ、重要な意味を持って流転し、循環する。
為す無くして、自ずから然り。
そしてこの世界を形作る大いなる「何か」は、無秩序のような秩序と秩序めいた無秩序を何の矛盾もなく内包し、全ての存在を受け入れ、過不足なく相互に、無為自然に作用させて、世界を世界たらしめているのだ。
――森羅万象を遍く観よ。
雨が、やむ。
雨音の代わりに風の音が鼓膜を震わせる。風が雲を切り裂いて、その隙間から陽の光が差し込む。光は俺の冷えきった体をゆっくりと温めていく。
俺はただ呆然としていた。
自分が何を理解したのか、理解したそれが真理なのかはたまた俺の狂った妄想なのか、にわかに判断がつかない。
しかし名状しがたい衝撃に打ちひしがれるのも束の間、俺の胸に徐々に浮かぶ別の感情があった。
それは、歓喜と愉悦。
快哉を叫びたくもあり、ただしみじみと浸っていたくもある、そんな喜び。俺が今し方理解したそれは、もう俺の中に揺るぎようのない真理として確かな地位を確立している。
そうして俺は、やっと師父の言葉の意味を知る。
――とくと、観よ。
――森羅万象を遍く観よ。
紫虚観の香臭い部屋にいては決して見出せなかった真理。
経の中には決して現われない真理。
道観の外で、森羅万象を観る事でしか到達できなかった真理。
師父はそれをご存知だったのだ。
だから俺に、通常の修行ではなくこんな事を課したのだ。
あのお言葉をいただいてから、もう五年。五年でやっとこの真理にたどり着いた俺は、師父の期待に応えられたのだろうか? 冷えきり、座り続けて強張った体を動かして立ち上がり――――――――――
ヒヤリ、と。
心臓を冷たい手で握り締められたような何とも言えない悪寒と共に、俺は息を飲む。
森羅万象、その全てが矛盾なく存在を許され、相互に作用しあう事を定めるともなく定められたこの世界。
(では)
耳に蘇るのは、紫虚観の裏庭で聞いたあの哭き声。
多くの門弟たちを恐れさせ、師父さえ寄りつかなくさせたあの怨嗟の声。
(あれは、何なんだ?)
禁術は何故、この世に在る?
確かめなくては、と反射的に抱いたその思いは、好奇心の類よりも使命感に近かった。
俺が紫虚観に戻ったのは、夜明けまであと数時間もないという刻限だった。
随分と久しぶりに浄門をくぐった気がする。いや、紫虚観に足を踏み入れる事自体が随分と久しぶりだ。俺はこの一、二年ほど、ほとんど紫虚観に戻っていない事を思い出した。
足音を忍ばせて入った俺の部屋は、ありがたい事に荷物がそのままだ。俺は中途半端に乾いた道服を脱ぎ捨てると、荷物の中から別の服を引っ張り出す。
それは道服ではない。白の短衣とそれよりも丈の短い黒っぽい上着、同色の細い袴、そしてやはり同じ色の帽子。五年前に戯れで仕立てた普通の服である。
俺はそれを着た。
道服を着る気は、もうなかった。
何故なら俺は、これから禁忌を犯す。
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