火の揺らめきに真理を見た。

 

 

1.反転せらるフリクエンシー

 

 

「――如何した、樊瑞よ」
 ハッ、と俺は我に返る。
 紫虚観の裏手、奥まった所にある炉の前で、師・羅真人は好々爺然とした顔に不思議そうな色を浮かべていた。
「そこの丹砂を、こちらに」
「はい」
 夢現を漂っていたのを恥じるのも束の間、慌てて丹砂の入った乳鉢を手渡す。師父はそれをご自身の前に置いた大きな鉢の中に無造作に入れた。
 師父の仙丹作りの補佐は、高弟たちにしか許されていない。俺が指名されたのは今日が初めてで、だから自分でもみっともないと思うほどに浮かれていたのだが、
「身が入っておらんようじゃのぅ」
「……申し訳ございません」
 反射的に深々と頭を下げた。俺を指名してくれた――高弟と認めてくださった師父のお心に背いたようで、身を縮こまらせるほどに面目がない。
 そうしていつまでも頭を上げない俺に、師父は穏やかに問いかけてくれた。
「如何したのだ、樊瑞よ?」
「…………」
「見るに、寝不足のようじゃな」
 ギクリと身が震えた。そうだった。俺は今日、ほとんど――いや、全く寝ていない。
 しかしそこは修行中の身の見習い道士、一日二日寝ていなくても顔に出す事などしない。だから今朝、鏡で寝不足の跡が微塵もない事を確認して安堵し、こうして師父の作業の補佐をやらせていただいているわけだが……――その程度で誤魔化せると思った己の浅はかさに呆れ果てて、嘆くのを通り越して嗤いたくなる。
「昨晩は、寝れなんだか」
「……はい」
「儂の手伝いに指名され、緊張でもしたか?」
「それも、あるのですが……」
「ほぅ、それ『も』とな」
 ほっほっほ、と楽しそうに笑う師父。腰近くまで伸ばした真っ白なひげを指で梳くように撫でる。
「せっかくじゃ、話してみよ」
 そう、命じられたので、
「――お恥ずかしい話ですが」
 そんな前置きをしてから、俺は話し始めた。

 

 ――昨晩の俺は、師父の仙丹作りの補佐に指名された事で興奮し、どうしても寝つけなかった。
 寝返りを打つ事三十七回、俺はひとまず寝るのを諦めた。起きているならばその時間を有意義に使うべきだ。そう思って同室の者たちを起こさないように部屋を出ると、ろうそくを片手に、道観の中で弟子たちにも開放されている書庫に向かった。
 予習復習のつもりで錬丹術に関する書や経を読もうと、いくつか手に取った。広げ、ろうそくの頼りない灯りで文字を一つ一つ追っていき――
 ある時、ふと気付いた。

 灯りが、揺れている。

 火が、揺れている。

 最初は安定しない明るさをもどかしく思ってろうそくに目を向けた。しかしすぐに他愛もない疑問が浮かぶ。

 ――何で、揺れているんだ?

 窓はあるが開けていなかったし、安普請であるはずがない紫虚観のどの部屋にも隙間風はない。
 はたと気付いて、俺は息を止める。
 だが、それでも揺れている。
 僅かに、ごくごく僅かにだが、火は確かに揺らめいている。
 当たり前と言えば当たり前の、しかし突き詰めれは突き詰めるほど謎が深まる現象。俺は最早書など読むのを忘れていた。息を詰め、揺れる火をジッと見つめる。
 何故、火は揺らめくのか。
 そしてどうして、

 ――こんなにも、揺らめき方が不安定なのか。

 俺は更に観察し続けた。時を忘れて火を見つめ続けた。
 そうして、どれほど時が経っただろう――
 俺は、ある事に気付いた。

 

「ある事とは?」
「何と言えばいいのか……」
 師父の問いに応じるままに、俺は右手を軽く掲げた。掌を床の方に向けて水平にし、
「何か、こう、波のようなものがある気がしたのです」
「波?」
 はい、と頷きながら、掌で波形を作る俺。いや、あれはこんな形ではなかった。もっと違う、うねるような――
「火の揺らめき方に、波と言うか、規則性のようなものがあった気がしたのです」
「ほぅ」
「俺の気のせいかもしれません。長く火を見すぎて、夢か幻でも見ていたのかもしれません。ですが師父」
 手を動かすのをやめる。
 まっすぐに師父を見つめる。
「不安定と思っていたものに……無秩序と思っていたものに、秩序めいたものがある、と俺は思いました」
「……ふむ」
「それが真実なのか、俺の気のせいや勘違いなのか、判りません。ですが俺は、それに気付いて、愕然として――」


「――――この世には、何か俺の与り知らない大きなものがある、と思ったのです」


 そう言ってから気付いた。
 ついさっきまで笑っていたはずの師父が、その笑みをすっかり消していた事に。
 俺を見つめるその目は好々爺のそれではなく、冷厳とした、何かを見定めようとするものだった。
 師父、と声をかけようとしたが、喉が、舌が動かない。蛇に睨まれた蛙のように、俺はただ師父の視線を受け止める。戦慄と、共に。
 俺の背中に、冷や汗がいくつも流れた頃――

「――……もうお前には、儂の教えは必要ないかもしれんな」

 俺は瞠目した。
 師父の言葉の意味が解らなかった。

「…………………………師父?」
 ようやく呟いた俺へ、
「樊瑞よ。もう儂の手伝いなどせんで良い。経典を紐解くのもじゃ」
「師父」
 と告げる師父。俺は色めき立つ。反射的に腰を浮かし、師父に詰め寄ろうとする。
 今の言葉、額面通りに受け止めるなら、それは、つまり――
「――修行をやめろ、とおっしゃられるのですか?」
 問い返す声が震えた。自分でも嫌になるほど、みっともなく震えていた。
 怯えの声だった。
 だが師父はかぶりを振る。
「そうは言っておらん。胎息や導引、体術のような鍛錬は怠るでない。じゃが、儂から課すのはそれだけじゃ」
「それはどういう事なのでしょうか、師父? 俺を、破門に――」
「樊瑞よ」
 ピシャリ、と撥ねつけるような師父の厳しい声に、動揺しきっていた俺は姿勢を正す。
 声は、続く。
「とくと、観よ」
「…………?」
「世界を、森羅万象を遍く観よ。
 ――それが、今後のお前の修行じゃ」


 この時はその言葉の真意が解らず、俺はただ見捨てられたような気分に苛まれていた。

 

 

 俺が師父から実質的な修行の打ち切り宣告を受けた事は、その日の内に紫虚観中に広まった。
 裏庭の片隅の岩に胡坐をかいてぼんやりとしている俺を、他の弟子たちが遠巻きに眺めている。中には「見捨てられた」「落ちぶれた」と嗤う声もある。天下に名高い仙域・二仙山紫虚観と言えど、そこにいるのは聖人君子ばかりではない、という事だ。
 気に入らない奴の足を引っ張り、追い落とし、陥れられた者を嘲笑う手合いは聖俗を問わずどこにでもいる。
 そして二十歳を少し過ぎた若造なのに高弟と認められ、その日の内に修行を打ち切られた俺は、そうやって蔑視する格好の標的だった。ふと視線を道観内に続く回廊の上がり口に向ければ、俺を笑う人垣の向こうにそいつらの頭分が垣間見える。
 俺はその名を口にした。
「――何師兄」
 途端にさざめきのようだった笑い声はピタリとやんだ。俺を笑っていた十把一からげの見習いどもは面食らった様子でお互いの顔を見合わせ、後ろにいるそいつをおずおずと窺う。
 人垣の隙間から覗く顔は、三十代前半ほどの男のもの。俗世にいれば官吏と間違えられそうな怜悧な面差しと高い背丈、スラリとした体つきは、師父の法話を聞きに来る麓の住民をして「道士にしておくのがもったいない」と言わしめるほど。
 俺の呼び声に反応して不興そうに眉根を寄せたその男の名は、何玄通。
 神代の文字である蝌蚪(かと)文字の解読においては弟子たちの中で右に出る者のいない、師父の高弟の一人である。
 俺は問いかけた。
「俺に、何か御用ですか?」
 人垣を作っていた者たちが、今度こそはっきりと何玄通に視線を送った。
 バサリという衣擦れの音が微かに聞こえた。何玄通が手を振ったらしい。人垣は左右にわれ、弟弟子たちの作った道を何玄通は不機嫌と不愉快が同居する表情でやってくる。
 しかし、裏庭に入りこそすれ、俺のいる奥の方まではやってこない。
 それもそうだろう。本当ならば、俺だってこんな所に長居はしたくないのだ。一人でいられる場所がここしかないから、ここを選んだだけで。
 歩数にしておおよそ十歩ほどの距離を置き、何玄通は俺に問いを投げてくる。
「――師父から、修行はもう良いと言われたそうだな」
「はい」
「ではここで何をしている、樊瑞」
 答えに詰まる俺。
 何をしているのか、俺もよく分かっていない。とりあえず一人になりたかったのだけれど。
「ここは修行の場だ。お前のような破門一歩手前の半端者がぼんやりしていていい所ではない」
 そうして、何玄通は笑みを浮かべる。
 ひどく俗っぽい臭いのする、嫌な笑顔だった。
「それとも、追い出されるやもと途方に暮れるしかないか? 師父に見捨てられようとしている未熟者が」
 皮肉にしてはひねりがなく、それだけに、俺に対する侮蔑がよく伝わってきた。
 だが、
「――……そうか」
「何?」
「俺は今、途方に暮れていたのか……――ありがとうございます、何師兄。俺は自分が今何をしているのか、よく分かっていなかったのです」
 俺はそう返す。
 皮肉半分、感謝半分で。
 実際、何をしていたのか分かっていなかった。何玄通の「途方に暮れるしかないか?」という言葉で、何か目から鱗が落ちた思いがした。ああ何だそうだったのか、と。だから、それに気付かせてくれた事への感謝の気持ちは本物だったのだが――
 当然、何玄通に通じるはずがない。彼は眦(まなじり)をキッと吊り上げ、
「樊瑞、お前、私を馬鹿に――」

 その時だった。


 ――……ォォ……ォオ……オオォ……


 何玄通の表情が凍る。
 見習いたちの表情が凍る。
 そして俺の表情もまた、凍る。
 何玄通の激昂に反応したかのように裏庭に響いたのは――

 この世ならざるものの怨嗟の哭き声、

 に、聞こえた。
 それは亡者か、はたまた魑魅魍魎か。そのどちらであっても如何にもと頷けるほどにおどろおどろしく、おぞましく、吐き気を催すほどであった。
 人としての本能が、拒否反応を示す。
 顔色を一瞬で真っ青にした何玄通は、声のする方に恐る恐ると視線を向けた。それは道観内への回廊とは別方向、俺から見るとちょうど右手側の小道の奥だ。
 そちらに哭き声の源が、ある。
 しかし完全にそちらを向いてしまう事にもやはり恐ろしさを覚えるらしい、彼は振り切るように俺に目を向け直す。
「お前が――」
 面に浮かんだ怒りと恐れの表情は、俺の恐怖が一瞬でどこかに吹き飛んで白けてしまうほどの八つ当たりのそれ。
「お前が、こんな所にいるからだ!」
「…………」
「お前のような師父に見離されかけた半端者がいるから、封忌堂の主が怒っているのだ!」
 おいおい、天下に名高い羅真人の高弟が、何て迷信じみた妄言を――
 と突っ込んでやろうかと思ったが、それよりも早くに回廊の方に溜まっている見習いたちが恐慌一歩手前で騒ぎ出す。「封忌堂の主が怒っている」「禁術が」「どうしよう」「師父をお呼びした方が」「師父を」――
 師父、の二文字に、さすがの彼も我に返らざるを得なかった。俺に向けていた目を背後にやり、
「ええい、このくらいでうろたえるな! 封忌堂の禁術の書が哭声を上げるのはいつもの事ではないか!」
「で、ですが何師兄が、樊師兄がいるから封忌堂の主が怒ったと――」
「馬鹿者、それは言葉の綾だ! あれがいようがいまいが禁術の書は哭く、お前たちもその声を常に聞いているだろう!」
「それは、そうですけど……」
「この程度の事で師父を煩わせる事は私が許さん! さあ、修行に戻れ!」
 まあ要するに、自分の煽動で弟子たちに不安が広がった、というのを師父に知られたくないらしい。おそらく自分で集めただろう弟弟子たちを半ば蹴るようにして追い散らす何玄通の姿は、何と言うか、本当に高弟なのかと首を傾げるほどにせせこましい。
 そんな俺の心の声を読んだわけではないだろう。見習いたちを道観の中に押しやり、自分もまた戻ろうとしながら、彼はクルリと俺の方を振り返り、
「お前もだぞ、樊瑞!」
「……は?」
「お前も身の振り方をよく考えるがいい! 修行を諦め俗世に戻るか、それとも師父のお慈悲にすがるか、な!
 だがそれ以上そこに居座る事を私は許さん! さっさとどこにでも行ってしまえ!」
 ……やっぱり八つ当たりだ。
 師父の高弟の一人に数えられ、この紫虚観で長く修行していながら、何玄通が師父の高弟の筆頭になれないのは多分この辺りに理由がある。
 つまり、頭の中身に見合った心の成熟を手に入れていないのだ。
 バタバタと慌しく中に退散していく兄弟子の背を見送りながら、俺は何か苦笑したい気分に駆られた。彼を馬鹿にするわけではないが、何と言うかこう、もう少し落ち着いてもいいと思うのだ。

 ――と。

 兄弟子たちと入れ替わるように、視界の端で、何かモコモコしたものが揺れた。
 それに視線を向ける。焦点を合わせる。
「……公孫勝か」
 何玄通らが去っていった扉の陰から、一際目立つモコモコモッサリした髪の毛が姿を現わした。いやちがう、髪の毛ではなくその下の見習い道士の顔が、である。
 やたらと嵩と量のある髪の毛の下の白い顔には少年らしさが残っている。普段から表情の変化に乏しいそいつの目は、今だけは何か言いたげな色を宿していた。
 名を、公孫勝。
 この道観の中では少数派の「若輩者」の俺の、数少ない弟弟子の一人だ。
 公孫勝はそのモサモサとした頭を揺らしもせず、滑るように俺の前に進み出てきた。何玄通のように、あの哭き声を恐れる事もなく。
 ジッと、感情の薄い目で俺を見つめてくる。
 俺は何か苦虫を噛み潰したような心持ちに襲われた。何故そんな風に見つめられなければならない。居心地の悪さと収まりの悪さに、俺の表情は自然と苦々しい仏頂面に変わる。
「……何の用だ、公孫勝」
 結局根負けする形で俺の方から問うた。その口調がぶっきらぼうで棘を含んでいるのは、我ながら少し大人気ない。
 が、仕方ない。俺はこいつが少し苦手だ。
「――貴方が」
「俺が?」
「修行を打ち切られたと、聞いた」
「それが?」
「何故だ、樊瑞」
「樊師兄と呼べ」
 これである。
 俺が公孫勝を苦手とする理由の一つである。こいつが師父に弟子入りしてかれこれ十年近く経つが、その間、こいつが俺に兄弟子への礼を払った事は一度としてない。
 と言うか、公孫勝が自分より年上の弟子たちを兄弟子扱いした事は、一度もないのだが。
 どういうわけか師父はそれについてとやかく言わず、公孫勝の好きなようにさせている。師父は公孫勝がお気に入りなのだ、とか、公孫勝を後継にと考えているのだ、とか、好き勝手に憶測を並べ立てる奴らもいる。
 そいつらの憶測を裏づけるかのように、公孫勝の才能は抜きん出ていた。おそらく、あと数年も真面目に修行すれば、何玄通ほどの力しか持たない高弟たちはこいつに抜かれるだろう。
 俺も含めて。
 俺の突っ込みなどサラリと無視して、公孫勝は問いを重ねてきた。
「何故、貴方の修行は打ち切られたんだ?」
「もう必要ない、と思われたからだろう。俺はそれしか聞いていない」
「何故?」
「知るか」
 何故何故と聞かれても、その理由を一番聞きたいのは俺だ。それに知っていたとしても、こいつに教えてやる義理は――……なくはないが、ほとんどない。
 ややあって、公孫勝が呟きを漏らした。
「――破門されかけているのか?」
「何?」
「師父は貴方を放逐しようとしているのか? それは駄目だ。師父と話を――」
「くだらない事を言うな、公孫勝」
 俺の冷ややかな声音に、弟弟子はしゃっくりでもするように出しかけた言葉を飲み込む。
 白い顔には、珍しく面食らったような表情が浮かんでいた。
「師父のおっしゃる事に間違いなど一つもないだろう」
「……そうだが――では、何故樊瑞だけがもう良いと言われるんだ」
「さてな」
 生返事を返しつつ、俺は今更のように公孫勝を見た。


 俺と公孫勝の間には、何か深い関係だとか因縁だとかいったものは何もない。
 こいつが師父に連れられて山に登ってきた時、ここで生活していく上での規則やらを教えてやったのが俺だった――それだけの関係だ。
 しかし、この弟弟子はそれだけの関係であるはずの俺の後ろをやたらとついてくる。どうも懐かれたらしかった。鬱陶しい、としか思わなかった。
 鬱陶しいと俺は思っているのに、何故か何玄通などは俺と公孫勝が仲良くやっているように見えたらしい。才能豊かな新入りへの嫉妬は俺にまで飛び火し、おかげでこいつ共々いつの間にか紫虚観の中で孤立する羽目になった。

 何か深い関係だとか因縁だとかいったものは、ない。
 ただ、そう……時々、そのやたらとたっぷりした頭をスパンとはたいてやりたくなるだけだ。


 それはちょうど今みたいな時である。
 何故何故何故何故、だからそれを知りたいのは俺の方だ。断じてお前じゃあない。
 ただそこはそれ、年長者としてイライラはすれど飲み込むのが礼儀というもの。癖毛の頭をガリガリ掻く俺に、公孫勝はまた問いを発しやがった。
「修行は、どうする」
 俺は頭を掻く手を止める。
 公孫勝を、改めて見た。
 表情の薄い顔。だが慣れれば多少は読み取れる。
 ……途方に暮れたような顔をしていた。
 森の中で、行き先の目印を見失った迷子の顔だ。うろたえ、戸惑い、どうしていいか判らなくなって、泣く事も出来ずにただ辺りを見回すばかりの子供の顔だ。
 何でこんな顔をする。
 何でこんな顔をされなければならない。
 しかしすぐに思い当たる。公孫勝はどういうわけか、俺のあとを追いかけようとしていた。それは俺の背中についてチョコチョコ歩いてくる、というそのままの意味でもあるし、俺を修行の目標にしている、という意味でもある。
 どうして公孫勝が俺などを目標にしているのか、分からない。
 分からないが、その事実は何となく、俺にとって尻の辺りがムズムズするような、落ち着かないものだった。
「一日中、そうして岩に座しているつもりなのか?」
 そうだ、と頷いたらこいつは俺と同じ事をするのだろうか。
 俺と比べて鍛錬が足りず、今日も読んでおらず、仙丹の材料も暗記しきれていない、未熟者以上に未熟者のこいつ。
 時々張り倒してやりたくなる奴だが、それでも俺はこいつの兄弟子だった。こいつの事を多少は気にかけてやる義務がある。
 不意に師父の言葉を思い出す。森羅万象を遍く観よ、と言われたあの声を。
 その真意は解らない。俺より未熟なこいつにはもっと解らないだろう。
 だからこう答える。
「――鍛錬は、する」
「では」
 どことなくホッと表情を明るくした公孫勝に、
「けれど鍛錬だけだ。あとは――」
 俺は、少しだけ意地悪く笑ってやった。
「ろうそくの火でも、見つめるさ」

 

 

 

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