5.一斉の声
――何年か前、王進に理想の女性像について聞かれた事があった。
その時は、夫の三歩後ろを逆らわずについてくる控えめな女性、と答えた。
そんなだから、今、少し戸惑っている。
扈三娘が泣きやみ、林冲の髪から手を離したのは、それから三十分くらい経ってからだった。
あーヤダ、あんたに恥ずかしいとこ見られちゃった。苦笑気味に顔を上げて濡れた目元や頬を拭う彼女は、確かに、林冲の知る扈三娘だった。
やっと、扈三娘と再会する事が出来た。
胸にこみ上げた安堵とも懐かしさともつかない感傷に苦笑すると、林冲は跪いた姿勢からスッと立ち上がる。つられて顔を上げる扈三娘。
「……豹子頭?」
「軍議に出ないといけないので、私はもう行きます」
「軍議って」
「呉用殿は数日中にこの戦いに決着をつける気でいます。誰にどこをどう攻めさせるか、それをこれから話し合うんです」
一拍置いてから、座ったままの扈三娘を見下ろし――そこで私は、と林冲は続ける。
「扈家荘軍を無視し祝家荘軍、それも祝朝奉とその三人の息子だけを倒す事を進言します」
扈三娘がハッと表情を強張らせる。
祝家荘の保正・祝朝奉。
その三人の息子、祝竜、祝虎、そして祝彪。
全ての元を正せば、この四人の暴虐が原因なのだ。
官軍を引き入れ、梁山泊に対し攻勢を仕掛けてきたのも。
李家荘と扈家荘が長年に渡り圧迫されてきたのも。
扈太公が彼らに取り入らなければならなかったのも。
――扈三娘と彼女の妹が、犠牲にならなければいけなかったのも。
「晁蓋殿も呉用殿も、もちろん本寨の宋江殿も、無用な流血は望んでいません。聞き入れてくれるでしょう」
それから林冲は、もちろん、と続ける。
「君たちの姉妹の協力が必要です。扈家荘軍を抑えるために」
祝家荘と扈家荘の連携を徹底的に壊せれば、こちらは祝家と官の連合軍とだけ戦えばいい。
なまじ事情を知ってしまって力を発揮しきれなかった者たちも、これなら思う存分戦えるはずだ。
扈三娘は、しかし短い考え事の後にパッと立ち上がると、
「――私も戦うわ」
「な……!? いえ、君には扈家荘軍を」
「お父様たちの説得ならあの子だけで十分! それより、私にはやらなくちゃいけない事があんの!」
「やらなくちゃいけない事……?」
決まってるじゃない、と扈三娘は強気に笑った。林冲がよく見てきた彼女の笑顔。強い意志を目の光と口調に宿して、はっきりとした宣言は、
「祝彪を、私がぶちのめすのよ!」
ああ――
林冲は思わず苦笑を漏らした。
「……? 何笑ってんのよ、気持ち悪い奴ね。
それより軍議はどこでやんの? ちょっと連れてってよ」
「……こっちですよ、扈三娘」
林冲は先に立って歩き出す。しかし扈三娘はすぐに隣に並ぶ。歩調を合わせているつもりはない。だが彼女は平然とした顔で林冲に合わせ、ついてきている。
――何年か前、王進に理想の女性像について聞かれた事があった。
その時は、夫の三歩後ろを逆らわずについてくる控えめな女性、と答えた。
それから林冲の理想の女性像に変化はない。今でも三歩後ろを静かに従うような、控えめで穏やかで包容力があって夫を陰から支えられる女性となら妻帯してもいい、と思っている。
それは、言うまでもなく扈三娘とは真逆の女性像だ。静かに従うなんて望むべくもなく、穏やかさなど欠片もなく、包容力など逆にこちらが持つべきであり、夫を陰から支えるどころか平然と尻に敷いて笑うだろう。三歩後ろをついてくる? 下手に目を離せば突っ走りかねない彼女をこちらが追いかけなければいけないだろう。――特に、今日は。
けれど、と林冲は思うのだ。
それでも今この瞬間――祝彪を倒すと物騒な宣言をした、静かでも控えめでも穏やかでも何でもない扈三娘と並んで歩くまさに今この時が、林冲にはどうしようもなく新鮮で、そしてやけにしっくり来るのだ。
それは、抱く共感の為せる業か。
それとも林冲自身にも未だ掴めない自分の心のありようのせいか。
歩く内、扈三娘さん! と前方から呼び声が響く。
軍議が行われる幕舎の前、翠蓮がホッとした笑顔で大きく手を振っている。その隣には、ニヤニヤ笑って並んで歩く林冲らを眺める戴宗の姿。
そして翠蓮の声で気付いたのだろう、幕舎の中からゾロゾロと群議のメンバーが顔を出す。扈三娘と面識のある物たちは口々に、よぉ一丈青、だの、扈三娘殿、だのと彼女を呼ぶ。
そして、
「お姉ちゃん!」
同じく幕舎から出てきた妹に、扈三娘は表情を輝かせて駆け出す。
それこそ海棠の花のような、弾けんばかりの鮮やかではつらつとした笑顔で。
駆ける扈三娘を林冲は大股で歩いて追う。
低い山の稜線からやっと顔を出した朝日が、一日の始まりを告げていた。
彼女の、新しい朝を。
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