4.教えて
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……本当は。
本当は、私が三娘のはずだった。そしてあの子は四娘と呼ばれているはずだった。
でもこの怪力と食欲のせいで捨てられた私にその名は与えられなかった。私は名無しの娘として自分に名前がない事に疑問も持たず、と言うか気付きさえせずあの日まで過ごし、排行――生まれた順でつけられたその名はあの子のものとなった。
だから、「扈三娘」は私の名じゃない。
あの子の身代わりになるために名乗った、借り物の名前。
私には、名がない。
「――……こんな所で何をしているのですか、扈三娘」
なのにこいつは借り物の名前で私を呼ぶのだ。
豹子頭。私を捕まえ、ここまで引っ張ってきた張本人。
ここ――梁山泊軍の本営に連れてこられたのはもう昨日の事で、私はそのまま総大将の晁蓋や軍師の呉用、それに花和尚といった面々の前に引き出された。裏切り者として処断されるのかな、そんな覚悟さえ固めた私に、彼らがかけた言葉と言えば「話は全部聞いてるぜ」だの「僕たちに任せてくれませんか。貴女たちにとって悪いようにはしません」だので、それから流星の奴と翠蓮ちゃんが保護してくれたっていうあの子と何ヶ月かぶりに再会して……何かもう頭がグチャグチャで、私はずっと人目につかない本営の隅で抱えた膝に顔を埋めていた。一晩中。
もう世が明けた頃だ。豹子頭が私の前に立っているのは顔を上げなくても分かった。だから私は膝に顔を伏せたまま無愛想に返す。
「……何か用、豹子頭?」
「用があるから君を探していたんです。顔を上げたらどうですか」
言われてそうした。ノロノロと上げた視線の先、豹子頭は私の目線の高さに合わせているのか地面に膝を突き、顔を覗き込んできている。
間近に見る、男だと言うのに驚くほど整った顔立ち。そこには疲労の色が濃い。そして――目の下に、薄らと隈が。
「豹子頭、あんた……?」
「――これを、君に返しに来ました」
そう言って彼が差し出したのは――
あの時こいつに弾かれてそのまま置き去りにしてしまった、私の手足。
大切な……――日月双刀。
祝家が兵を引き、警戒が緩むのを待ってあそこまで戻ったのだ。そのために、おそらく徹夜を……――
私は受け取る。きちんと鞘に収められた双刀。たどたどしい手つきで鞘を払って、刃こぼれがないか、祝彪の奴の憂さ晴らしに傷つけられていないかを検分し、
「……でも、何で?」
「大切な物なのでしょう?」
豹子頭がサラッと言った言葉に――
私は虚を衝かれ、目を見開いて……それからようやく、コクリと頷く。
「……そうよ。この日月双刀はね……双子の妹との、唯一の絆……――本当の『扈三娘』との。
――でも」
剣を鞘に収める。胸に抱きかかえる。顔を伏せる。
「本当は……私のじゃ、ない……」
豹子頭は何も言わない。でも聞いていてくれているのは気配で分かる。
だから私は話す。
『――だから、お願い、この日月双刀はお姉ちゃんが使って。私はお姉ちゃんほど強くないから使えないし……――この双刀が、私の代わりにお姉ちゃんを守ってくれますように』
私とあの子の、物語の続き。
――入れ替わりの生活が何年も続いた、去年の秋頃の事だった。
あの子が泣いて山の中の家にやってきた。
私も婆やも驚いた。だってその日は入れ替わりの日じゃなかったから。しかも夜も遅い時間。確かに独竜岡一帯は祝家のおかげで賊の類なんていないけれど、それでも保正の娘が一人で出歩いていい時間じゃない。ましてこんな山の中に入ってくるなんて。私は必死にあの子を宥め、何があったのか聞き出した。
そして愕然とした。
あの子と祝彪の結婚が、正式に決まったのだ。
前々からそんな話はあった。私があの子の代わりに屋敷にいる時に祝家の親子がやってきて、私を値踏みするような舐め回すような嫌な目で見ていった事もある。
だから予感はあった。けれど急すぎた。そしてあの子は祝彪が嫌いだった。祝彪と結婚するくらいなら自殺した方がマシだとまで思い詰めていた。
扈家荘を守る事だけにあくせくするお父様はそんなあの子の様子に気付いていない。気付いたとしてもあの子の言い分なんて聞かないだろう。
だから――私は、あの子の身代わりになる事にした。
皆が幸せになるにはそれしかないと思ったから。
何言ってるのお姉ちゃん、駄目よそんな事! あの子は真っ赤に泣き腫らした目で私を見上げてそう言った。私は笑った。大丈夫、あんな奴なんか平気よ、力は私の方が強いんだし、結婚したら尻に敷いてやるわよ!
だから、あんたは幸せになって。
あんたの幸せが、私の幸せなんだから。
年が明けて、春が来て。日が悪いとか何とか適当な理屈をつけて結婚を先延ばしにさせて、私はあの子と本当に入れ替わった。私は扈三娘として屋敷に入り、あの子は扈三娘の名を捨てて婆やと一緒に旅に出た。
日月双刀は、あの子に持たせるつもりだった。
お父様があの子のために打たせた守り刀。あの子は武術はからきしで力もないから日月双刀を持って戦うなんて無理だけど、それでも女の二人旅、ないよりあった方がいいに決まっている。
しかしあの子は言ったのだ。扈家荘から旅立つ――故郷を捨てる、その日に。
『ううん、駄目よお姉ちゃん。私は持っていけない。
だって、私はお父様やお母様やお兄様を捨てて、お姉ちゃんに嫌な事を全部押しつけて、扈家荘から逃げ出すんだよ? そんな私に、この刀を持つ資格なんかない』
『何言ってんの、資格なんて』
『それに、この刀が急になくなったりしたら不自然だわ。お父様やお兄様が調べればすぐに気付かれちゃう。――ううん、お父様たちに気付かれてもいい。でも、祝家に知られたら? あの人たちはきっと馬鹿にされたと思って酷い事をするわ。そうしたら、お姉ちゃんが危ないよ。
――だから、お願い、この日月双刀はお姉ちゃんが使って。私はお姉ちゃんほど強くないから使えないし』
そう言って、双刀を私の手に戻して、
『この双刀が、私の代わりにお姉ちゃんを守ってくれますように』
そうやって私は「扈三娘」になった。
これで後は祝彪と結婚してしまえば――そんな時にやっちゃったとんでもない大失敗。祝彪の奴と独竜岡の外れまで遠乗りデートをさせられた時に、梁山泊の山賊が日月双刀を盗んでいってしまったのだ。
失うわけにはいかなかった。
失えるはずがなかった。
あの子がいなくなった今、日月双刀があの子とのたった一つのつながりだ。それが盗まれた? 冗談じゃない! あんな安っぽい刀なんていいだろ、そう言ってくれた祝彪をぶん殴って独竜岡を飛び出して梁山泊に潜入しようとして、
「――……私たちに、会った」
そう、と私は頷いた。
「では、君がいなくなったのは」
「あの子の代わりに祝彪の奴と結婚しなきゃいけないんだもの……――いつまでも梁山泊にいるわけにはいかないじゃない? だから、本当はもっと早くに逃げ出さなきゃいけなかったんだけどさ……」
あの戦いの直後に流星が行方不明になって、翠蓮ちゃんがすごく心配して泣きそうになって。
私は多分、翠蓮ちゃんにあの子を重ねていたんだろう。いなくなった流星を心配し、宿星なんて変なものになってしまった事に不安がって精神的に不安定になった翠蓮ちゃんを放っておく事なんか、私には出来なかった。
せめて流星が戻ってくるまで。そう思っていたらズルズルと惰性で居座り続けて、その内に豹子頭が華州に行ったり何だったりバタバタして、それからまた少ししてやっと流星が戻ってきたと思ったら見た事ない連中と一緒に官軍に追われてまた一騒動あって、そうこうする内にそろそろ豹子頭が戻ってくるって話が出て――
梁山泊は、居心地良くて。
これで豹子頭が戻ってくれば、また前みたいに騒がしくて腹立たしくて、でも楽しくて飽きない日々が戻ってくるって思って。
――そうしたら、もういられなかった。
私は、あの子の代わりに祝彪と結婚すると決めたんだから。
「そうして人生を棒に振って……――君は、それで本当にいいんですか?」
呆れたような声音の豹子頭に、私は鼻で笑ってみせる。
「いいわよ。だってそうじゃない。『扈三娘』の名前もこの日月双刀も、本当は私の物じゃない。私には何もない。
だったらさ……命を賭けてお父様やお母様やお兄様や扈家荘の皆やあの子のために働いた、って、そんな風に胸の張れる事が……一つくらい、私にあっていいじゃない」
「――そうでしょうか?」
いきなり、豹子頭がそう言った。
そうでしょうか。私の決意に、拠りどころに水を差す言葉。私の頭にカッと血が上り、
「何よ豹子頭、あんた文句つける――」
「君には本当に、何もないのでしょうか?」
呼吸が、自然と止まった。
何を、言ってるんだろ、こいつ。
きょとんと見つめ返すだけの私に、豹子頭の目はやけに穏やかで優しい。
「君は気付いていないんですか?」
「……?」
「その刀」
と、私の手の中の日月双刀を指差し、
「自分で持ってみて気付いたのですが……日の刀の方が、月の刀より持ち重りがするんです」
「――……え?」
私の口から漏れるぽかんとした声。
日の刀の方が、重い? 嘘。だって、私はそんなの感じない。
「人並み外れた怪力の君には、逆に判らないかもしれませんが……でも、本当は無意識の内に気付いていたんじゃありませんか? 君は、力で叩き潰す攻撃には右手に持った日の刀を、私の首を取ろうとした時のような速度優先の攻撃には左の月の刀を使っていました」
「……気付かなかった」
ポツリとこぼした。自分でも意識していなかった癖を指摘されるのは何か妙な気分で、それ以上何て言っていいのか分からない。
それから、私ははたと気付く。
「でも、何でそんな重さの違いが」
「そう、そこです。
君の話によれば、その二振りの刀は君の妹の守り刀として作られた。ですが、そもそも非力な女性にそんな本格的な刀は二振りもいりません。まして君の妹は君と違ってか弱い女性、軽い月の刀でも両手で構えるのが精一杯でしょう」
「ちょっと、私と違って、ってどういう意味よ!」
「そのままの意味ですよ。
ともあれ――だから私は、こう推測します」
飛びかかろうと身構えた私は、その言葉に勢いを奪われる。続く言葉を待つ形にさせられる。
そして、豹子頭は、言った。
「日の刀は、君の妹のためではなく……――君自身のために作られたのではないか、と」
頭が、真っ白になった。
それでも何とか、拙くたどたどしく、散らばったたくさんの言葉を必死に掻き集める。それを、懸命に声に乗せる。
「嘘……嘘よ、そんなの。だって、だって、お父様、私を……」
「そう考えなければ、その重すぎる守り刀の説明がつかないでしょう」
「お父様、でも、私を捨てたのに……」
「――……それでも、何かしらの情はあった。
そういう事では、ないのですか?」
私は双刀に目を落とす。
月の刀より重い、日の刀に。
――お父様。
見下ろす私の視界が滲んで歪んで揺らめいて、
――お父様、お母様。
私はちょっと目を瞑ると日月双刀を抱きしめて、また顔を伏せた。
豹子頭が、苦笑するようにフッと息を吐く。
「――それと、君が前に言っていた『扈三娘の偽者だったらどうするか』という件ですが」
ピクリ。震える私へ――彼は呆れた、だけど優しい笑みを含んだ声で続けた。
「そんな事、今更言われても困ります」
私の震えが大きくなる。
「君は初めて会った時、『自分は一丈青・扈三娘だ』と名乗りました。だから私にとって、君は一丈青・扈三娘以外の何者でもありません。自分は扈三娘ではない、扈三娘は妹の方だ、と言われても、この認識は今更覆せません」
だから。
そこで言葉を区切って、少し前を置いてから――豹子頭は真面目な声で、こうはっきりと言ったのだ。
「君が扈三娘でなくても――私にとって、君は扈三娘です」
私が言いたかったのは、それだけです。
淡々とそう言って――豹子頭の気配が私から離れようとした。
顔を膝に埋めたまま私は手を伸ばす。
掴む。
艶やかだけどしっかりした手触り、それは紛れもなく彼の髪。
「うわっ――扈三娘! 君は人の髪に何を」
「――んで」
「するんで――は?」
「呼んで」
「……扈三娘?」
立ち上がりかけた豹子頭が、また私の前に屈み込む。
「呼んで」
お願い。
「……扈三娘」
「もっと」
お願い、豹子頭、
「扈三娘」
「もっと」
――林冲。
私を、
「もっと、呼んで」
「扈三娘……――扈三娘、扈三娘、扈三娘」
――……どうして。
どうして、私の一番欲しいものをくれるのが、よりにもよってこいつなんだろう。
聞きわけのない子供に言い聞かせる優しい声音が降り注ぐ中、私はただ、嬉しさと悔しさと安堵と戸惑いでグチャグチャになった心を抱え、声も出さずに泣いていた。
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