3.喉が裂けても
その娘を連れてきたのは、戴宗と翠蓮だった。
娘は「扈三娘」と名乗り、梁山泊軍を率いる晁蓋に頭を下げてこう言った。
『お願いです! 私のお姉ちゃんを助けてください!』
そして「扈三娘」は語りだす。彼女と彼女の姉の長い物語。独竜岡の三つの荘の物語。
その全てを聞いて林冲は思い出す。
――ねぇ豹子頭。あんたさぁ……私が扈三娘の偽者だったら、どうする?
(――……あれは、こういう意味だったのですか?)
その答えを知りたかった。
何より林冲は気付いてしまった。
自分が扈三娘に抱いた、ある感情に。
――それ故に林冲は彼女の前に立ちはだかる。
数ヶ月ぶりにまみえる扈三娘――そう、林冲の、林冲たちの知る扈三娘だ――は、険のある無表情で祝家荘への道に立ち塞がっていた。彼女の横には人を見下す表情の青年がいて、更にその後ろには「祝」の旗を持った民兵の一団。
「おい扈三娘、何だあの野郎は! まさかお前、この祝彪様の許婚だってのにあんな奴をくわえ込んでたってのか!?」
「何を言ってるんですか祝彪殿」
高圧的な物言いで下品な発言をした青年――どうやらあれが祝家の三男・祝彪らしい――に、扈三娘は冷然と言い放つ。
「あんな男など知りません。――許婚の貞操を疑うつもりですか?」
ギロリと鋭く冷ややかに睨まれ、祝彪は怯えの表情を僅かに滲ませた。「ふん、ならいいがな」と殊更不機嫌を装って居丈高に言い放つその姿は、いっそ微笑ましいくらいに見え透いた虚勢だ。これだけで二人の関係が見えた気がした。が――それにしても。
あそこにいるのは、林冲の知る扈三娘ではない。
甲高い声でキャンキャン喚き、とんでもない馬鹿力を持つくせに自分で自分を「か弱い」と言い、美味しい物に目がなくて、そんな食べ物を作ってくれる朱貴や歳下で同性の翠蓮にそれこそ海棠の花のような笑顔を見せていた扈三娘は、いない。
――いいや、いる。あそこにいるのは、確かに自分たちの知る扈三娘だ。けれど彼女は自分を捨てたのだ。自分を捨て、「無私」の仮面をかぶったのだ。愛する妹のために。
それがどれほどの覚悟か、思って林冲は胸の痛みに似たものさえ覚えた。
彼女は、林冲を前にしても顔色を変えない。
戴宗を見ても、金剛コンビの声にも、朱貴の呼びかけにも、
「――扈三娘さんっ……!」
翠蓮の、涙混じりの叫びにも。
顔色を変えないまま、扈三娘は日月双刀を構える。
林冲もまた、蛇矛を構える。
張り詰めた一瞬、
「――かかれぇっ!」
それを破る祝彪の号令で全てが動き出す!
林冲と扈三娘は互いに得物を繰り出し打ちかかり――
戴宗は炎をまとって祝彪に伏魔之剣で斬りかかり――
朱貴と金剛コンビは百名から成る民兵部隊を足止めする!
扈三娘は私が説得します。そう志願した林冲が提案した手はず通りに。
つまり戴宗たち四人が他を足止めしている間に、林冲が扈三娘を確保。と同時に戴宗の炎を目くらましにして戦線を離脱、本営までひたすら逃げる。
その作戦を成功させるべく、
「――戻ってきなさい、扈三娘!」
林冲は説得を始める。
蛇矛を繰り出す。日月双刀で弾かれ受け流される。交錯の一瞬。彼女へと叫ぶ林冲。扈三娘の冷たい面差しは動かない。
「君の妹は、我々が保護しています! 彼女が望まない限り祝家の手には決して渡しませんし、何より彼女自身が君の帰りを待っています! だから――」
そこから先を遮る天転旋舞、扈三娘の舞い。
弧を描く切っ先に押されて林冲は姿勢を崩す。そこを突いてくる扈三娘。右手に持った日の刀による大上段からの斬り下ろしを、ギィンッ、林冲は蛇矛で受け流す。力勝負は――情けないが――勝てる気がしない。
「だから、何?」
そんな林冲に追い討ちをかける扈三娘の声。
だがそれは、先ほど祝彪に向けられた丁寧だが感情のない声ではない。溢れる感情を懸命に押し殺した声だ。
轟音を奏でて日の刀が地面をえぐる。大穴が開くほどの衝撃を与え、林冲どころかこの場にいる全員の姿勢を崩させ――特に民兵たちが転びまくっているから、結果としてこちらに加勢された形だ。戴宗なぞここぞとばかりに祝彪を押している――、しかし扈三娘は止まらない。体勢を低くして地面の揺れをやり過ごした林冲の、中途半端に上げた首を左の月の刀で薙ぐ。
――殺(と)られる!
そして避けられない。半瞬でそう判断した林冲は、
膝を地面に突き、
首を反らせ、
上体を反らせ、
ほとんど地面に仰向けに寝そべる(しかも正座状態で寝そべったから、やたらと腿の筋肉のストレッチになる)姿勢を取り――顎先をかすめる扈三娘の刀が通りすぎるのを待って。
頭の上の地面に手を突いて、腹筋と脚のバネをフル活用してバック転の要領で起き上がると、こちらの脇を通り過ぎて斜め後ろに立っていた扈三娘に対し蛇矛を振るう!
ギャアンッ!
派手な金属音。火花。ガチガチと噛み合わさる蛇矛と日月双刀。刃越しに見つめあう林冲と扈三娘。彼女の表情は相変わらず冷厳な無表情を保っていた。それでも少し余裕がない。必殺の一撃がかわされたせいか。双眸がギラギラと悲壮な殺意に輝いている。だが、紡がれた声音はかろうじて冷ややかさを保っていた。
「あの子から全部聞いたんなら……――知ってるんでしょ? この独竜岡の事も」
それは、祝家荘、李家荘、扈家荘の三荘のパワーバランス。
「――ええ」
頷く林冲。
「国の不必要な介入を避けるため、祝家荘、李家荘、扈家荘の三荘は有事の際に共に戦おうと同盟を結び――その中で、祝家荘だけが膨張し、暴走し始めた」
単純と言えば単純な話である。
武の祝家荘。文の李家荘。その二荘に比べてこれと言った強味を持たない扈家荘。祝家が最前線に立ち、扈家が後方から支援し、李家が糧道確保を一手に引き受ける――同盟が結ばれた当初に決められた役割分担が、三荘の力関係をあっさりと変えた。
武の祝家。その役割ゆえに彼らは流れの武芸者を堂々と食客に招いた。保正の三人の息子――祝竜、祝虎、祝彪も武術の腕を磨いた。武術の腕しか磨かなかった。結果として彼らは食客たちを率いて、荘の内外でやりたい放題するようになった。
手つかずの土地を開墾して祝家の耕地を広げるのは、まだいい。
彼らは李家荘や扈家荘の耕地まで強奪し始めた。グッとこらえて、しかし上手く立ち回る保正を持った李家荘は、まだマシだ。けれどお世辞にも才気溢れると言えない保正を戴く扈家荘は悲惨だった。土地だけでなく若い娘たちまで奪われるようになった。
そんな祝家の乱暴狼藉の行き着いた先が、三荘の同盟によって締め出したはずの国にすり寄っての、梁山泊討伐である。
これに対し李家荘は「文」である事を強調して参戦不可を表明、事実上の中立を保っている。
だが、扈家荘は――
「――お父様は怖いの。図に乗ってく祝家の馬鹿たちに扈家荘を乗っ取られるのが」
扈太公は、祝家におもねる事に生き残りの可能性を見出したのだ。
「文」は李家に及ばず、「武」については祝家に匹敵するだけの力を持った扈成や扈三娘(姉)をまるで生かしきれていない。長年に渡る祝家の圧力に反骨精神を奪われた扈太公は、祝家に下ってでも命脈を保ちたい――そう思うようになったのだ。
「あの子と祝彪の結婚話も、そうよ。あの子を祝家に食い込ませて、扈家の『居場所』をキープしておきたいのよ」
そのための、結婚。
そのためだけの――生贄。
扈三娘は、内実をそこまで理解していながら――あんな居丈高な男の元に嫁ぐと、言うのか?
「君は……君は、それでいいのですか!?」
激しく鋭く問う林冲の声に勝る、
「いいに決まってんでしょ!」
それこそ数ヶ月ぶりに聞く、扈三娘の、感情豊かな激しい声。
「何馬鹿な事を聞くのよ豹子頭――いいに決まってんじゃない!
私が嫁いだからって祝家の連中が扈家荘をそのままにしておいてくれるはずがないわ。でもそれでも何年かは手出ししないはずよ。嫁が来てからすぐにその実家に喧嘩を売るなんて、いくら何でも外聞が悪いもの。たった何年か、でもそれだけの時間があれば大丈夫。成お兄様がその間に扈家荘を立て直して、祝家の馬鹿たちが好き勝手できないようにしてくれるもの。
何より、豹子頭、その『何年か』があれば――その『何年か』私があの子のふりをしきれば……あの子は、本当に、自由になれんのよ。扈家に縛られず、祝家に強いられず、名前を変えて、好きになった人と結婚して、独竜岡じゃない遠い所で幸せに暮らす! そのためなら私は!」
――どれだけ犠牲になったって、構やしないわ。
ああ――
林冲は、嘆息と共に思い知る。
やはり、そうだ。そうなのだ。
林冲が扈三娘に対し抱いた感情。それは……
共感、だったのだ。
自分と扈三娘は、似ているのだ。食に対するこだわりも戴宗の師匠に対する思い入れもまるで正反対で自他共に認める犬猿の中の自分たちだが、ある一点において、どうしようもなく、恐ろしいほどに似ている。
大切な人のためなら、この身を犠牲にしても構わない――
その、覚悟が。
かつて林冲が、師とも父とも慕う王進のために命を賭けて関勝と戦ったように。
扈三娘もまた、妹のためなら自分の人生を丸ごと捨てても構わないと思っているのだ。
だが――だからこそ、
「扈三娘」
ギィンッ! 懇親の力で日月双刀を弾き、仕切り直しとばかりに一旦距離を取る林冲。
お互い武器を構え直して、そして、
「君は、嘘を吐いている」
扈三娘の冷たい無表情に、はっきりとひびが入った。
そう。林冲には解るのだ。似た部分を見出し、共感したからこそ、彼女の嘘が手に取るように解る。
彼女自身もおそらく気付いていないだろう、その本心が。
「何を……豹子頭、あんた、何を」
「君は気付くべきだ、扈三娘。自分自身にさえ嘘を吐いている事を!」
扈三娘の顔が激情に歪む。突進。振り上げられる刀。
「あんた……何馬鹿な事を!」
二度、三度と斬りかかってくる扈三娘。勢いは先程よりも増し、だと言うのに太刀筋は先程よりもずっと鈍い。
「私が自分に嘘!? 何それ、意味解んない!」
「自分でも気付かない内に、君は自分の本心を偽っている! 扈家荘の、家族の、妹のために犠牲になる事が自分の幸せだと、そう信じ込む事で自分を欺いて、本当の望みに蓋をしている!」
それは最早剣閃ではなく振り回し。ただ速いだけのそれを、林冲は紙一重でかわしていく。その最中に放った言葉に――扈三娘の顔が、憤怒と苛立ちに染まった。
「うっさい! うっさい豹子頭、何であんたにそんな事が解んのよ!」
林冲は、叫んだ。
様々な思いを込めて、叫んだ。
「私もそうだったから!」
扈三娘はハッと目を瞠る。
動きが鈍る。止まる。林冲は蛇矛を突き出し、技を繰り出し、それでも叫び続ける。
「私も王進様のためなら死んでもいいと思っていました! 血に汚れ、泥にまみれ、ボロ屑のように成り果てても、王進様のためなら本望だと思っていました!
しかし華陰県で再会した王進様は、そんな私にこう言ってくれたのです――『無事で良かった』と。『お前は、私の自慢の息子だ』と!」
その時、林冲は気付いたのだ。
自分が蓋をし、意識しないようにしていた、己の本当の望みに。
自分が、王進や母君と無事に再会し、いつの日にか三人またあの頃のようにどこかで穏やかに暮らしていく事を、切実に、痛いほどに夢見ていた事に。
扈三娘の動きが鈍る。林冲の攻勢に対し防御で手一杯だ。
「こんな私の事をそう思ってくださった王進様のために、私はもう、この命を粗末に出来ない」
夢幻百花・蓮華。蛇矛で円を描いた軌跡に衝撃波が走り、扈三娘を足元から襲う!
「そんな王進様の――父上の志を引き継ぎ、国を変革し、そしていつか家族三人でまた暮らす。それが今の私の望みです」
宙に舞い上がり、クルリと一回転して再び地に下り立った扈三娘は、しかしもうがむしゃらに打ちかかってこない。
林冲は彼女に訴える。
もう一人の自分へ。
王進が林冲を救ってくれたように。
今度は林冲が――自分を、彼女を救うのだ。
「扈三娘! 君の妹は我々に『お姉ちゃんを助けてください』と言いました! それでもそこに留まって人生を台無しにする事が、君の本当の望みですか!? 君の求める幸せなのですか!?」
「――うるさいっ!」
彼女もまた叫ぶ。
林冲の声を更に上回る、割れんばかりの金切り声で拒絶の言葉を紡ぎ放つ。
「うるさいっ! うるさいっ! うるさいっ!
これが私の望みよ! これが私の幸せよ! 扈家荘のために、お父様やお母様やお兄様や、何よりあの子のために犠牲になる事が私の幸せよっ! 私は今、幸せなのよ!」
「――では!」
林冲は言い放つ。
どうか届けと願いを込めて、言葉を紡ぐ。
「何故君は、そんなにも泣きそうなのですか!」
その瞬間。
扈三娘の冷厳な仮面が、完全に、崩れた。
鋭く息を飲む彼女は構えさえ解く。それでも日月双刀は手放さず、柄を握ったままの指先で恐る恐る顔に触れる。おい、扈三娘!? 異変にようやく気付いた祝彪の苛立った声。けれど彼女は最早反応しない。ただ、虚ろな顔で震えている。
――今だ。
林冲は一気に間合いを詰める。我に返って双刀を構え直す扈三娘。だが遅い。蛇矛を振るう。カァンッ! 乾いた音を立てて、日月双刀は扈三娘の手からすっぽ抜けて飛んでいく。あ、と呻いてそれを目で追う彼女を、林冲は、
「――捕まえましたよ、扈三娘」
「っ――ひ、豹子、と――」
扈三娘の虚ろな表情が変化する。怯えてうろたえた顔。お互いの吐息がかかる近さを恐れて距離を取ろうとする――けれど、右の手首をしっかりと掴まれていて扈三娘は身動きが取れない。
いや、動けるはずなのだ。いつもの彼女なら、林冲の手など簡単に振りほどいて逃げ出す。それをしない。出来ない。混乱しきってしようとする発想が出てこない。今しかなかった。
「戴宗!」
林冲は戴宗を呼んだ。華州から戻り、正式に替天行道の一員となった林冲は、最早戴宗を「義賊」呼ばわりできない。
祝彪に傷を負わされながらも戴宗は戦意を一欠片も失っていない。こちらを肩越しに振り返ってニヤリと不敵に笑うと、
「よくやった坊っちゃん!」
「誰が坊っちゃんですか!」
林冲の突っ込みを無視して戴宗は楽しげに声を張り上げる。固まれ野郎ども! 翠蓮が、朱貴が、杜遷が宋万が林冲の傍によってくる。扈三娘さん、翠蓮の感極まった声に彼女は応えない。ガランッ、と地面に落ちた日月双刀を食い入るように見つめ、
「神行旋龍!」
戴宗の放った炎が大きく弧を描いて林冲たちと祝彪たちとを分断する。うわぁっ! お、おい誰か突っ込め! 無理です祝彪様! 無茶振りと動揺の声が続く中、彼らは離脱を開始した。先頭は扈三娘とその手を取った林冲、続いて金剛コンビに朱貴、戴宗と翠蓮はいつも通り殿(しんがり)だ。
「走りますよ、扈三娘!」
「待って――待って、豹子頭、剣が、私の剣が――」
気付いていたが引き返している暇はなかった。今はとにかく本営まで駆けに駆けて撤退しなければならない。
待って、お願い、離して。扈三娘の声は弱々しく、林冲に手を引かれるまま走るばかりで抵抗しない。林冲は振り返らない。抵抗されてもこの手は絶対に離さない。
彼女を本当に救うには、どうすればいいか。
ただそればかりを考えて、真昼の道を林冲はひたすらに走った。
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