2.誰も知らない



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 ……本当は、私は扈三娘じゃない。
 私に名前はない。この怪力と食欲を恐れた両親に私は生まれてすぐに捨てられた。
 梁山泊の北にある独竜山。その麓の独竜岡に並ぶ三つの荘の一つ、扈家荘が私の生まれ故郷。でも私はそこで暮らした事はほとんどない。私のお父様、人目と風評と世間体を気にする扈家荘保正の扈太公によって、私は山の中に隠された。世話係の婆やと一緒に。
 学問は、婆やが教えてくれた。
 私は少しの見込みの悪い生徒だったけれど、その内に理解した。
 自分には、家族というものがない事に。
 普通なら、両親というものがあって然るべきだという事に。
『――ねぇ婆や、私のお父様は? お母様は?』
『……お嬢様のお父上は、麓の扈家荘の保正・扈太公様で、お母上はその奥様でいらっしゃいます』
『どうしてここにいないの? どうして私、一人なの?』
『そ、それは……扈太公様は……――お嬢様が、大切だったのです。大切だったから、何かあってはいけない、とここに隠されたのです』
 だからお嬢様、麓に行ってはいけませんよ。
 麓の扈家荘には、恐ろしいものがいっぱいあるのですから。
 ――だから、私は扈家荘に降りた。
 荘にそんな恐ろしいものがあるなら、お父様とお母様もここで暮らせばいい。――私は自分の発想に興奮して、お父様お母様と山の中の家で暮らす想像に胸を高鳴らせて、あれほど行ってはいけないと婆やに言われ続けてきた扈家荘に、下りた。

 そして、恐ろしいものと出会った。

 コソコソと隠れながらお父様やお母様を探していた私は、ついに、荘の真ん中を貫く道でその人を見つけた。馬に乗った、小ざっぱりとした身なりのその人。
 お父様だった。
 婆やに聞いていた通りの年格好、顔立ちだった。
 でも私は駆け寄れなかった。
 身動き一つできなかった。
 だって、

 お父様は、「私」を鞍の前に乗せていたのだ。

 私よりずっと綺麗な格好をした「私」を。

 父上! 呆然とする私の前で、馬に乗った一人の男の子がお父様に近付く。お兄様! はしゃいだ声を上げる「私」。どうした、成? 優しげにお父様。三人は楽しそうにお話している。私は指一本動かせない。三人は私の前をゆっくりと通り過ぎる。私は物陰に隠れたまま目で追うだけ。大きな屋敷の前で三人を迎える、私によく似た女の人。お母様。四人は屋敷に入る。私は一人で立ち尽くす。
 三娘様? 後ろから声をかけられた。私はやっと金縛りから解放されて振り返る。婆やよりも若い小母さんが、不思議そうに私を見下ろしていた。三娘様どうなさったんですか、こんな所でお一人で? 父上様と兄上様は? ……その格好は?
 私は逃げ出した。
 一瞬前まで動けなかったのが嘘みたいに踵を返して走り出した。三娘様!? 小母さんの声を無視してとにかく走った。走って走って走って、山の中の――あの屋敷に比べるまでもなく質素な――家に帰って寝台に潜り込んで、私は声を殺して泣いた。
 飲み込みの悪い私でも分かった。
 私は捨てられたのだ。
 この山に。
 あの子が――「私」が、いたから。

 憎かった。

 あの子が憎かった。
 私と同じ顔をしているくせに、いや、同じ顔をしているからこそお父様とお母様とお兄様を独り占めしているあの子が、憎かった。
 引き裂いてやりたいくらい憎かった。
 実際殺してやろうと思った。殺して、私が「扈三娘」になろうと思った。何度も扈家荘に下りた。人に見つからないように慎重に、あの子を殺す隙を窺った。あの子が私より力がなくて、食べなくて、そしてたくさんの人に囲まれて愛されているのが分かった。殺そう、そう思って、ある日の夕方、一人になったあの子の前にとうとう姿を現わして、


『――お姉様?』


 あの子は。

 私を、そう呼んだ。

 呼んだのだ、私を――姉、と。

『お姉様! お姉様、お姉様、お姉様! 会いたかった、私ずっとお姉様に会いたかったの! 初めましてお姉様、私、お姉様の双子の妹です!』

 成お兄様から聞いていました。私に双子のお姉様がいる、って。
 生まれたばかりなのにお姉様がすごくよく食べて力も強いから、怖くなったお父様とお母様が山の中に隠してしまった、って。
 でも、私はお姉様に会いたかった。
 だって、もっと小さかった時からずっと「何か足りない」って思ってたの。大切な何かが足りないって。
 お兄様から聞いて分かった。足りなかったのはお姉様なんだって。私と一緒にお母様のお腹の中にいて、私と一緒に生まれてきたお姉様。もう一人の「私」。だから会いたかった。ずっと会いたかった。

 ……そうはしゃぐあの子を前に、私に何が出来ただろう?
 泣くしかなかった。
 あの子が抱いていた「何か足りない」感じを持たなかった自分の鈍さを泣いた。あの子を殺して取って代わろうと思っていた自分の愚かさを泣いた。
 あの子に殺意を抱いた自分の情けなさを泣いた。
 そんな私を「お姉様」と呼んでくれたあの子の優しさに、泣いた。
 泣きやんだ時には私の中から殺意は消えていた。綺麗さっぱり、涙に溶けて流れていってしまったみたいに。
 それから私たちは本当の姉妹になった。
 婆やも抱き込んで時々入れ替わろう、と提案したのはあの子だった。それは私に家族の団欒を味わわせてやりたいというあの子の優しさでもあったし、扈家の令嬢として常日頃から厳しくしつけられる窮屈な生活から少しでも逃げ出したいという願望でもあったのだろう。私はそれに乗った。お父様やお母様やお兄様と同じ時を過ごしたかったし、あの子のためなら何だってしようとも決意していた。

 ――そう、決めたのだ。小さい時に。私を姉と呼んでくれたあの子のためなら、何だって出来る。

 だから、

「おい扈三娘! 梁山泊の賊どもが来たぞ! さっさとついてこい!」

 この横柄で偉そうな男――祝家荘の保正の三男坊・祝彪とも結婚できるし、梁山泊の人たち――金剛コンビや朱貴さんや雑魚だけど気のいい手下たち、それに流星や……翠蓮ちゃんとだって、戦える。

「――扈三娘」

 だから、あんたとだって戦える。
 戦えるのに、――あんたは、何でそんな目で私を見るの?

「話は全て、君の妹から聞きました」

 哀れみの表情で、そいつ――久しぶりに見る豹子頭・林冲は、静かにそう言った。

 

 

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