1.虚ろに響く



 明らかに、様子がおかしかった。
 翠蓮を心配してか、高めのテンションで何くれとなく構っている、かと思ったらふとした瞬間上の空で考え事をし、彼女に対し気のない返事をする事もしばしば。何より、いつもなら五十個は平らげる朱貴のメガ豚マンをその半分も食べず、「何かもうお腹いっぱい」とあり得ない事を言って席を立ってしまったのだ。
 あの扈三娘が、である。
 ひどく奇妙な事態になっている事については、林冲も異論はなかった。
 ――が、
(それで、何故私にお鉢が回ってくるんですか)

『――おやだって三娘ちゃんと仲がいいのは翠蓮ちゃんか林冲君でしょ? 翠蓮ちゃんは今、戴宗君の行方不明で人の悩みを聞き出すどころじゃないからねー』

 つまり消去法で自分、という寸法らしい――林冲は一応納得はした。朱貴のニハハという笑いを思い出すと、とても感情的に納得できるものではないのだが。

『明日から華州行きで大変とは思うんだけど、頼んだのよね林冲君』

 ――という経緯で、林冲は今、扈三娘を探している。夕食も終わって辺りは既に真っ暗という時分ではあるが、寨内のあちこちにはかがり火が焚かれていた。先日入ってきて梁山泊の主導権を握った替天行道メンバーの指揮によるものである。見回りも強化されており、寨内にはまだ眠るのを惜しむ活気があった。
 その中を、林冲は歩く。
 扈三娘はどこにいるのか。何人かに尋ねたら、金沙灘へと下りる階段にいるらしいと分かった。そちらに足を向ける。
 月はまだ出ていない。
 階段へと歩を進める林冲の目には、茫漠とした闇が映っている。広大な湖の上にわだかまる、それは星明かりにもかがり火にも払えない圧倒的で虚ろな漆黒の領域である。
 その闇の広がりに、林冲は僅かに怯むものを覚える。幼い頃はさておき、十年以上も不夜城・開封府で暮らしてきたのだ。光が淡く滲ませる穏やかで優しい宵闇ならばともかく、こんな――踏み出せば冥府の底まで落ちていってしまいそうな闇には親しんでいない。
 夏も近いと言うのに、どこか肌寒くゾクゾクする。それは何も湖から吹いてくる、水を含んだ涼風のせいばかりではない。
 人は、闇を恐れる。敵も味方も塗り潰し、全てを懐に飲み込んで分からなくしてしまう闇を畏怖し、退けようと努力する。だから群れを成し、火を使う。
 そうしてようやく人は闇に対抗できると言うのに――

 何故彼女は、そんな闇と一人向かい合っていられるのか。

「――……扈三娘?」
 一人で万の軍勢に立ち向かう――
 かがり火に僅かに照らし出された彼女のほっそりとした背中は、漂わせていたそんな悲壮感を掻き消して大仰に震えた。
「っ――……って、何よ豹子頭じゃない。びっくりさせないでよ」
「驚いたのはこちらです。こんな所で何をしているのですか、君は」
 別に、と気のない返事で湖の方に視線を戻す扈三娘。林冲は階段に腰かけた彼女の横に並ぶ。
 しかしお互いに何も口にしない。
 扈三娘は膝に頬杖を突いてぼんやりと闇の虚空を見つめるだけ。
 放つ雰囲気は、憂愁か悲嘆か。整った面差しが常からは想像もつかない暗い陰を帯びているのを見て、林冲はついに問いかけた。
「――何か、あったのですか?」
「何か、って何がよ」
「それは、ここの山賊たちに――」
「冗談じゃないわよ豹子頭」
 フン、と鼻で笑う扈三娘。
「あんた、この私がたかが山賊に襲われた、とでも言うつもり? 冗談! 確かに私はか弱い美少女だけど、だからってここの連中にどうにかされるなんて真っ平ごめんよ!」
「――その大食いと怪力で、とうとうメスゴリラ扱いされたのかと」
「湖の底に沈めてやる――――!」
「ま、待ちなさい扈三娘!」
 パッと立ち上がり、目を吊り上げてこちらの体を担ぎ上げようとした彼女から、必死の思いで逃れ――
「……それで、どうしたのですか?」
「…………」
 改めて問えば、扈三娘は興奮を収めて林冲から顔を逸らす。不機嫌そうに、それでいてどこか……悲しげに。
 そのまま再び石段に座って膝を抱えた彼女へ、林冲は続ける。
「最近の君の様子がおかしいのは、皆気付いています。翠蓮殿も心配していますよ」
 翠蓮ちゃん……と何か確かめるように弱々しく呟く扈三娘。どんな表情をしているのか、暗がりに紛れて林冲には見えない。
 それが、彼の心に不安を呼び起こした。扈三娘? その思いに駆られて呼びかけようとした、その時だった。
「――ねぇ、豹子頭」
 彼女の方からかけてきた声。
 その声も、見上げてくるその顔も――どこか空っぽで、不安げで、そして彼女らしくないほどに、暗い。
「あんたさぁ」


 ――私が扈三娘の偽者だったら、どうする?


「――そうですか」
 林冲は、重々しく呟いた。扈三娘の顔はまだ虚ろだ。
 それを見下ろしながら、彼は言った。哀れみと共に。
「空腹の余り、君はとうとうおかしくなってしまったのですね――君が君の偽者だったら? どんな論理の破綻ですか。きちんと食べないからそんなおかしな事を考えるんですよ」
「あんたが私の事どう見てんのか、よぉっく分かったわ」
 途端に扈三娘は苦々しいような腹立たしいような不機嫌面を見せた。憮然とした声音の底には怒りが見え隠れしている。
 それらは確かに、いつもの彼女のもので、
「――あーあ、何かお腹空いちゃった。ちょっと豹子頭、夜食に付き合いなさいよ。朱貴さんの店に行くわよ」
「なっ……!? ま、まさか君はこんな時間からメガ豚マンを……!? お断りします、そんな不健康な食生活!」
「うっさいいいから付き合え! あんた明日から華州に行くんでしょ!? しばらく食べらんないんだから、今の内に食べ納めしときなさいって!」
 ギャアギャアやりながら林冲は扈三娘に引っ張られ、抗議の声を騒々しく夜空に響かせながらもいつもの彼女である事に自分でも意外なほどに安堵して――

 

 ――……それでどうして、こんな事になっているのだろう?
 梁山泊から華州に行って、帰ってきて。――二ヶ月も経っていない。
 それなのに、

「りっ……林冲、さぁんっ……!」

 帰ってきた林冲を見るなり、翠蓮がボロボロと泣き出す。髪型は乱れ裳裾は汚れ、顔色も少し悪くて見るからに憔悴しきっている。
 そして、――いつの間に戻ってきていたのだろう――戴宗がその様子に気付いて駆け寄ってきた。久しぶりに見る顔に懐かしい気持ちが湧き起こるが、泣きじゃくる翠蓮と、苛立ちと焦燥を表情に乗せる戴宗が、寨内のどこか騒然とした空気が、それに浸らせてくれない。
「翠蓮殿……――一体何が?」
 問えば、彼女はしゃくり上げながら、
「こっ……こ、さんじょ、さんが……扈三娘、さんがっ……!」
 扈三娘。その名にハッと戴宗を見やる。視線だけで問えば彼は不機嫌そのものの声で答え――それは、林冲を愕然とさせた。


 扈三娘が、行方不明になった。

 

 

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