7.私は讃えて歌うだろう


 罪状は、殺人。
 妾を口論の末に匕首で刺し殺した――とある。
「んなわけあるか」
 口から紫煙を一しきり吐いて、晁蓋はそう、馬鹿馬鹿しいとばかりに吐き捨てた。
「あいつは、いくら口論したからって女を殺すような男じゃねぇ――はめられたかしたんだろ」
 聚義庁の頭領の部屋に、続く言葉が響く。それを聞く呉用、蔣敬、劉唐といった北斗七星と替天行道の首脳陣は、一様に厳しい表情をしていた。
「で、誰がそんな事をした、って話だが……」
「頭領(ボス)を陰から守っていた同志(メンバー)からの情報ですと、新任の知県の意向を受けた胥吏の仕業だ、と」
 蔣敬が報告する。
 知県は官吏、すなわち国の人間だ。その意向という事は、そこには十中八九、朝廷の意志が介在している。
 だが、
「……頭領の正体が知られて、の事として」
 と、劉唐が思案げに呟く。その表情も声も苦々しい。
「この流刑先は、一体どういう事だ?」
 流刑先は、長江の傍、江州。
 南である。
 南は南でも、大越との国境に近い、疫病がよく流行るような暑さ厳しい土地ではない。長江の傍と言えば実質国のほぼ真ん中、気候は穏やかで食べ物も美味しい土地である。
 殺人を犯した者がそんな土地に流罪になる――情状酌量が認められて温情をかけられたなら、そうなるだろう。
 だが、宋江に情状酌量が認められたのか。
 自称義賊の賊の頭目に、国の人間が温情をかけたのか。
 ――あり得ない。もし義賊の頭領として知られていたなら、流刑先は江州なんて生温い地にはならないはず。北辺、燕雲十六州との境界に近い滄州か北の近海の沙門島、その辺りが妥当なところで、さもなくば死刑だ。
 思考を巡らせ、まとめた呉用が、慎重に口を開く。
「……もし万が一、都合のいい可能性が残っているのだとしたら、替天行道の頭領としての危険性が認められず、組織と切り離してしまえばどうという事はない、と高をくくられた――というところかな。
 だが、そんな都合の良さなんかあるわけないから、一番高い可能性は」
 そこで言葉を切る呉用。眼鏡の橋に指を添えてクイと押し上げて位置を直して、

「――罠、だね」

 すなわち、宋江を餌にして替天行道の同志をおびき出し、一網打尽にする――

「――……ったく、面倒臭ぇ事になったなぁ」
 呆れ半分、笑い半分の声で、晁蓋。彼の視線は呉用へと据えられる。
「で、どうするよ、呉用?」
「一番の安全策は、宋江さんの刑期が満了するのを待つ――」
「却下だ。俺ぁんなの待ってられねぇ。それに、流刑先の役人どもがおとなしく刑期を満了させてくれると思うか?」
「まったくだ。だから一番手っ取り早いのは」
 と、呉用は人差し指をピンと立てた。彼が建策する時の癖である。
「護送中の奪還だ」
「よしそれで行こう! 劉唐、腕の立つ奴を集めろ!」
「おお任せとけゴルァ!」
「ちょっと待てー!」
 椅子を蹴倒して立ち上がる晁蓋と、その指示を受けて部屋の外へと駆け出そうとする劉唐へ、呉用は怒鳴りつけた。
 二人が動きをピタリと止めたのを見計らい、
「今、梁山泊がこの状態で、腕の立つ強い人たちが軒並み出払ったらどうなる!? もし万が一済州軍と鄆州軍が手を組んで南と北から挟撃してきた場合、防備も整っていない、人手も足りない、戦力はもっと足りていないこの状況でどうするつもりだ!?」
 その訴えに二人は顔を見合わせた。それから渋々といった表情で劉唐はこちらに戻り、晁蓋は椅子を起こして座り直す。
「――じゃあ、どうしろってんだ?」
「まずは、華州にいる花和尚魯智深と豹子頭林冲を呼び戻す」
 再び人差し指を立て、呉用は策を披露し始めた。
「そして、こちらから宋江さん救出の人員を出す。人数は最低限で一騎当千の実力を持つ人だ。その人に護送役人を襲ってもらって、江州入りの前に宋江さんを救い出す」
 宋江の護送役人が誰かは、まだ分かっていない。
 ごくごく普通の役人が当てられるかもしれないし、あるいは、それこそ一騎当千の猛者が務めるかもしれない。済州軍が部隊を動かし、人数に頼んで宋江を奪還されまいとするかもしれない。
 ならば、どんな状況にも対応できるだけの実力を持つ者を当てるべきだ。
 今の梁山泊で、それに当てはまる者と言えば――
「――……ここはやはり……」
 呉用が、その名を口にする。
 ……いささか不安げな声音で。

 

§

 

「どういう事なんですかっ!?」
「何がです?」
 怯んだ様子も慄いた様子も慌てた様子さえ全くない、呉用の平静とした態度に――
 勢い込んで呉用の仕事部屋に突撃してきた翠蓮は、逆に怯んだ。
 様々な書類が詰まれた仕事机の向こうからこちらに向けられた呉用の双眸は、ちょうど差し込んでくる午後の日差しが眼鏡のレンズに反射して、どんな色をしているのか全然見えない。その事が更に翠蓮を怯ませる。得体の知れなさを感じたからだった。平静とした、これといった感情が一切聞き取れない口調もまた、恐ろしくさえあった。
 その恐怖をグッと押し殺して、翠蓮は、再び食ってかかる。
「どうして、私が戴宗さんの任務についていっちゃいけないんですか!?」
「君の同行が不必要で、かつ、今の君ではただの足手まといだからです」
 翠蓮は絶句した。
 不必要。
 不必要?
 不必要、って……――
 心臓が、急にバクバク言い出した。
 体がガタガタと震え始めた。
 背中を、脇を、嫌な汗が流れて落ちた。
 それでもどうにか気持ちを奮い立たせて、反駁の言葉を紡ぐ翠蓮。
「私はっ、戴宗さんの、見張り役を宋江さんから言いつかっていて――」
「その役割は、現状、小五君の方が適任です」

 小五。
 阮小五。

 その名が翠蓮の心をえぐる。斬りつける。刺し貫く。体は更に震えを増し、顔色は青白くなっていき、口の中が干上がっていく。
 それでも、翠蓮はキッと呉用を睨む。震える手を胸に当て、ギュッと握り込んで、キリキリとした痛みを懸命にこらえながら、抗弁する。
「ど……どう、して――」
 しかしその声は弱々しく途切れて消える。どうして小五さんの方が適任なんですか。そう語気を強くして叩きつけたいのに、尻すぼみになってしまって張り詰めた部屋の空気に搔き消えていく。
「小五君の星の力は、見たでしょう?」
 そんな翠蓮に対し、呉用の声はどこまでも冷静で、容赦ない。厳しく突き放す声音である。
「戴宗君とは真逆の、水を操る力――彼は現在、我々の中で唯一戴宗君の暴走を抑えられる人材です。
 一方翠蓮さん、君の星の力は動物の声を聞く力で、それも暴走気味。戴宗君を抑えるどころか、能力的に全く噛み合っていない。
 ならば、軍師として僕はリスクの低いコンビを任務に当てます」
「っ……!」
 再び、絶句する翠蓮。
 呉用は今、つまり、戴宗と翠蓮の組み合わせはリスクが高くて使えない、と言ったのだ。
 小五より使えない、と。
 小五より。
 小五より……――

 ……嫌だ。
 そんなのは、嫌だ。

「分かりましたか、翠蓮さん? 分かったのなら、劉唐君の星の力の講義を――」
「――――嫌……」
「……? 翠蓮さん?」
「そんなの、嫌……!」
 翠蓮は――
 もう呉用の言葉など、聞いていなかった。
 いや、もう、彼の存在自体を忘れていた。
 もうどうでも良かった。呉用の存在も、言葉も、決定さえどうだっていい。
 ただ、怖い。
 恐ろしい。

 戴宗が、また行ってしまう。

 翠蓮を置いて、どこかへ行ってしまう。

 翠蓮を、一人にする。

 嫌だ。
 嫌だ。

 そんなのは、絶対に、嫌だ!

「――翠蓮さん!?」
 表情を恐怖に強張らせ、真っ青になって震えながらも突然身を翻して駆け出す。背にかかる呉用の声は無視し、彼の仕事部屋を出て、聚義庁を出て、今日も忙しく立ち働いている手下たちや替天の同志たち、扈三娘や朱貴、杜遷、宋万といった面々を尻目に、梁山泊内をひた走る。階段を駆け下りる。
 一直線に目指すは金沙灘。
 修繕が終わりつつある門を出て、息を弾ませながら船着場へ。
 息が苦しい。
 ちょっとの距離なのに、すごく疲れた気がする。
 腿やふくらはぎや膝がおかしい。足の裏が痛い。少し走っただけなのにこれだなんて、
(……最近、全然ご飯食べられなくて、動いてなかったから……)
 戴宗が戻ってきてからも食欲は中々戻らなかった。肉も吐き気がして未だに食べられない。だからか、体力がいつの間にかすごく落ちていた。
 でも、
(――それが、何?)
 翠蓮は、息を整えながら辺りをキョロキョロと見回す。
(そんなの関係ない。私は、戴宗さんと一緒に行く)
 見張り役なのだ。
 宋江から言いつかった役目なのだ。
 一緒に行くのは当たり前だ。

 ――小五に、その役は譲らない。

 これは、私の役目なのだ。

 私の、居場所なのだ。

 奪わせない。


 ――――――――奪わないで。


 船着場中に巡らされていた翠蓮の目が、これから湖へと漕ぎ出そうとする船を見つける。背の高い人影がもやい綱を解こうと屈み込んでいる。あれだ。翠蓮は震える膝を叱咤して再び走り出す。
 桟橋を渡って、その舟の傍へ、
「すいません!」
 声を上げれば、舟の上の人は手を止めてこちらを振り仰ぐ。
「え……っと、翠蓮、ちゃん? どうしたの?」
「お願いします! 鄆城まで出てください!」
 了承の返事も貰わないまま乗り込み、まだ何が何だかよく分かっていない様子の彼に詰め寄る。
 彼――阮小五の弟の阮小七は、お願いしますと何度も何度も頭を下げる翠蓮の勢いに押され、梁山泊の西岸へと、船を漕ぎ出した。

 

 小七の漕ぐ舟は、速かった。
 翠蓮が余程急いでいたからだろう、小七は舟を馬のごとく水面に滑らせた。速い。そして風圧が強い。強すぎる。舳先にでもしがみついていないと吹き飛ばされてしまいそうだ。翠蓮は必死でしがみついた。
 その間、艫の方の小七が色々聞いてきた気がした。こんなに急いでどうしたのか、とか、鄆城に何の用があるのか、とか。翠蓮は曖昧な返事しかしなかった。戴宗の監視役として、一緒に任務に行く――それだけだが、それすらちゃんと答える余裕はなかった。
 ――戴宗と一緒に行く。
 ――戴宗と一緒に行くのだ。
 ――誰にも譲らない。あの人と一緒に行くのは私。あの人の傍にいるのは私。私はあの人とずっと一緒に行く。ずっと傍にいる。いつだってどこだって、いつまでもどこまでも、私はずっとずっと戴宗さんと一緒にいるんだ。
 ――だって、
 ――だって、私は、


 ――――――――あの人が、好きだから。


 船は、初めてこの湖を渡った時と同じくらいの時間で鄆城県側の岸に着いた。初めて渡った時が途中から戴宗の神行水龍だった事を考えると、この速度は舟としては恐ろしいほど速い。
 船を桟橋につけ、もやい綱で係留しようとする小七への礼もそこそこに、翠蓮は桟橋に上がって駆け出した。翠蓮ちゃん! 背中にかかった小七の呼び声を無視して桟橋を離れ、手下に任せられっぱなしの朱貴の店を横目に、街道へ。
 南へ。
 戴宗の、元へ!


「――――――――っ!?」


 しかしその足は、街道が伸びていく林の前でピタリと止まった。
 止めざるを得なかった。
 梁山泊を出る時より大分西に傾いた日に右側から照らし出されて、翠蓮は、行く手に立ちはだかる「それ」と息を飲んで対峙する。

「それ」は、翠蓮に比べれば余りにも小さな影。

 しかし、今の翠蓮には杜遷や宋万よりもずっとずっと大きな影。

 内心の怯みを悟られまいと表情と無理矢理グッと引き締め、怯えを封じるように胸元をギュッと握り締める彼女のその手の下で、「獣」の文字がボゥ……と光り始める。
 その事に気付かず、翠蓮は、震えそうな自分を懸命に取り繕って、呼びかけた。


「――師匠、さん」


 どうして、ここに?

 かすれる声でそう問うと、小さな影――戴宗の師匠たる小さな虎は、口元をモゾと動かして、
「……ブー」
 鳴いた。
 だが、地獣星の力を無意識に目覚めさせた今の翠蓮の耳は、その鳴き声と重なって、

《……やはり来てしまったか、翠蓮》

 そう、聞こえた。
 呆れたような少し悲しいような、そんな複雑な声音だった。
 鳴き声と重なって聞こえる、その、小さな虎の声にしては低く渋い声に、翠蓮は一瞬息を飲んだ。だがすぐに、自分に宿った地獣星によるものだと理解した。そしてまたいつかのようにたくさんの動物の声を聞いてしまうのかと、顔を青ざめさせ強張らせ身構える。
 が、
《今、お前に話しかけているのは私だ。私の声だけを聞け、翠蓮》
 ブー。不満げな鳴き声が、翠蓮にはそう聞こえた。
 師匠の声だけを聞く。目の前の師匠の声だけを。彼の声だけを。
 そうして集中する内に――聞こえ始めていた有象無象の動物の声が、遠退いていった。けれど集中する翠蓮はそれに気付かず、ただ、目の前の圧倒的な存在感を放つ師匠へと目が釘づけになるのを感じていた。彼女が、己の声だけを聞ける状態になったのを察したのだろう、
《……翠蓮》
 ブー、と師匠は改めて呼びかける。
《どこへ、行くつもりだ》
 一人で、梁山泊を抜け出して。
 胸元を――
 星の光を握り潰さんばかりにギュウッと握り込んで、答えた。
「――……戴宗さんの、所です」
《何故?》
 ブー。その鳴き声の重なる問いかけの声は、殊更に冷静で冷厳だ。
 問われて、師匠を強い視線で見つめる翠蓮。
 ほとんど睨んでいると言っても過言ではない強く鋭い視線。
 それと同じくらいに強く鋭い口調で、翠蓮は、応答の言葉を紡いだ。
「私は、戴宗さんの見張り役です」
 宋江から言いつかった翠蓮の大切な役割だ。
 翠蓮の大切な居場所だ。
「だから、私は戴宗さんの行く所についていきます」
 だから、
「そこをどいてください、師匠さん……!」
 師匠は――
 翠蓮のその言葉に、すぐに反応を返さなかった。
 ただ、その茫漠として掴みどころのない眼差しを、翠蓮にひたと据えている。
 それに形容しがたい圧力を感じ、思わず一歩退きそうになる翠蓮。だが、
(私は、戴宗さんと一緒に行く……!)
 その一念でグッと踏みとどまった。師匠の視線を真っ向から受け止める。
 そうして、しばし、
《……駄目だ》
 ブー、と鳴きながら静かにかぶりを振る師匠。え、と呻いた翠蓮へと再び視線を据えて告げる言葉は、

《今のお前では、あれの足手まといになるだけだ》

「なっ……!」
 思わずいきり立ちかける。が、更に続いた言葉がそんな翠蓮の熱を冷ました。

《いや、下手するとあれの新たな心の傷となりかねない分、足手まといより悪い》

 ヒュッと鋭く息を飲む翠蓮。傍から見ていてもそれと分かるほどに動揺を露にし、先程は何とか踏み留めた足を一歩、後ろに引く。
 後退りした。
「な……何、ですか、それ……?」
 開いた口からこぼれ落ちるのは、動揺を隠しきれない声だ。震えるそれは余りに頼りなく、今にでも泣き出してしまいそうに聞こえる。
「た、戴宗さんの、心の、傷……? 何で……どういう……?」
《今のお前では容易く死ぬ》
 死ぬ――
 余りにも無造作に放たれた言葉に、翠蓮は今度こそ言葉を失う。気が付けば陰を帯びていた師匠の双眸に、続けるべき言葉を全て取りこぼす。
《私の声を聞き、私と会話する――地獣星の力をその程度しか引き出せていないお前では、あれの天速星の暴走など抑えられん。いや、よしんばお前が地獣星の力を十全に使いこなせるようになろうと、その力で天速星の炎を抑止できるはずもない。
 今あれの傍にいるべきは、お前ではない――あの水の使い手、天罪星の宿主だ》

 ――それは、結局のところ能力の相性の問題であった。
 翠蓮が地獣星によって得た能力は、動物の声を聞く、というもの。これは星の力を使いこなせるようになるにつれ、「動物と齟齬のない意思疎通が出来るようになる」へ、そして「動物を己の意のままに操れるようになる」と進化していく、魔星の中でも少々珍しいタイプである。
 が、この能力では、どれだけ習熟しても天速星の業火を止める事は出来ない。声を聞くだけ、会話するだけ、言う事を聞かせられるだけ、なのだ。そこに何か更に付加されるわけではないのである。出来てせいぜい動物たちを盾に炎をやり過ごすくらいだ。
 だが、小五は違う。
 水を釣る天罪星の能力――正しくは、釣り針を媒介にして水を操る能力。ともすれば暴走しがちな戴宗の天速星を抑えるのに、これほど適した能力はない。
 まして小五は、戴宗や翠蓮のように星の力を暴走させていないのだ。
 能力の相性から言っても、安定感から言っても、翠蓮より小五の方が戴宗の見張り役に適しているのは明らかだった。

 だが、
「でっ……でも……!」
 翠蓮は抗弁した。目に涙を浮かべ、必死の形相で。
「でもっ、私はっ……私はっ、宋江さんから戴宗さんの見張り役を言いつかって――」
《お前は替天の一員で、替天の頭領である宋江は晁蓋に組織と同志を預けた。今の替天の実質的な頭領は彼だ。
 彼は、そして彼の軍師である呉用は、お前の江州行きを認めたのか?》
「い、いいえ……――でも、でも私――」
 焦燥が翠蓮の胸を焦がす。
 こうしている間にも戴宗は行ってしまう。
 小五と共に南へ行ってしまう。
 嫌。嫌。嫌。
 だって、
「それでも私は、戴宗さんと一緒に行きたい……!」

 好きだから。
 あの人が、好きだから!


《――――――――それは、本当に恋か?》


 それは――
 全くの、不意打ちだった。
 熱に浮かされたような翠蓮の告白の、その熱を完全に奪い去って冷ます冷水のような問いかけだった。
「え……」
 ポツリと、無感動な声を漏らす翠蓮。ひどく奇妙な心地で師匠を見つめる。
 身を焦がすような、居ても立ってもいられなくなるような焦燥は、今の一言でいつの間にか完全に冷め切っていた。通せんぼする師匠への苛立ちやもどかしさ、今戴宗の隣にいるだろう小五への嫉妬、翠蓮を置いて行ってしまった戴宗への切ない悲しさや寂しさ、怒りのようなものも、全部、削ぎ落とされて洗い流されたかのように消えていた。
 代わりにあるのは戸惑いと、妙な居心地の悪さ。
 そして、
(……嫌、やめて)
 ――恐怖。
(言わないで)
《翠蓮、お前が戴宗に対し抱いている感情は、本当に恋か?》
 更に一歩、後退りする翠蓮。師匠と距離を置くように。離れるように。
 ――逃げるように。
 だが師匠の目はまっすぐに翠蓮に据えられている。まっすぐに突き刺さっている。
 距離を取ろうと、逃げようと、逃れられない。逃れきれない。
 怯え、青ざめ、震える翠蓮を、師匠のブーという鳴き声が――その鳴き声に込められた思いが、容赦なく追撃して貫いた。

《お前は星の力の恐ろしさを実感する余り、戴宗を逃げ場にしたいだけではないか?》

 私が、
 戴宗さんを、
 逃げ場、に……?

「――――…………う……」

《魔星に怯え、恐れ、誰かにすがりつきたくなった。それがたまたま身近にいた戴宗だった。見張りという名目で。違うか?》

「――――がう…………」

《しかしやっと戴宗にすがりつき、逃げ場を得たと思った矢先に、阮小五が現われた。お前よりも十全に戴宗を抑えられる小五が。戴宗の昔をよく知る小五が。だからお前は恐れ、焦り、嫉妬した。違うか?》

「――――違う」

《では何故お前は命令を無視して星の力の習熟をそっちのけにして梁山泊を出てきた? 何故戴宗を追ってきた? ――恐れたからではないか? 小五に、居場所を奪われる事を》
「違うっ! 違う違う違うっ! 私、はっ……!」
 翠蓮は叫んだ。
 喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
 悲鳴じみた金切り声が上がった。ひび割れ、裏返った声だった。無様でみっともない声だった。そしてなりふり構わず叫んだから喉に痛みが走った。構わなかった。この声が、この気持ちが、師匠にさえ届けば。彼の容赦ない糾弾の声を掻き消せれば。
 しかしそうして上げた声は、すぐに涙に濡れ、頼りなく途切れた。
 涙がこぼれる。ボロボロとこぼれる、流れ落ちる。拭い、しゃくり上げながら、――しかし翠蓮には分かっていた。

 違わないのだ、と。

 違わないのだ。

 翠蓮はもう分かっていた。
 宿星になれて嬉しかった。ドキドキした。自分が特別な存在になれたような気がした。
 星の力を使いこなせるようになれば、もっと特別な、素敵な存在になれると、そう無邪気に信じたのだ。
 戴宗の隣に立ち、足手まといではなく――役に立ちたい、と。
 だが星は魔星だった。それを忘れていて、そして思い知らされた。あの圧倒的な質量を感じさせる鳥の声。ネズミをいたぶって遊び殺す猫と、ネズミの悲嘆の声。
 そして、屠殺される豚の断末魔。
 星の力は決して良いものではないのだと、むしろ両刃の刃になりかねないのだと、そう痛いほどに思い知らされた。そのために苦しみ、のた打ち回った。やつれ痩せ衰えた。
 苦しかった。
 怖かった。
 誰かに助けてほしかった。
「助けて」とすがりつきたかった。
 誰にならすがれるか? 朱貴か? 杜遷か? 宋万か? 扈三娘か? いいや、彼らは出会ったばかりだ。すがりつくには余りに縁が浅すぎる。
 では劉唐か? 蔣敬か? 孫二娘か? 張青か? 王定六か? 公孫勝か? いいや彼らは遠すぎる。かつて憧れた替天行道、その同志ではある彼らは今や仲間であるのだけれど、それでも翠蓮にとってまだまだ遠い存在だった。
 では花和尚か? 林冲か? すがりつきたかった。助けてほしかった。だがそれを口にしようとする前に彼らは梁山泊から旅立っていた。助けてほしかったのに助けてもらえなかった。
 そんな時に、戴宗が帰ってきた。
 故郷の村で出会って以来ずっと一緒だった人。乱暴でぶっきらぼうで食い意地が張っていて人を平気で囮や盾に使ったりして。傍若無人を地で行くのに、時々すごく寂しそうで、切なそうで。
 戴宗は、翠蓮をあの村から連れ出した。困窮する村人たちを助けたい、この国を何とかしたい、そう思いながらもあの村で立ち竦むばかりだった彼女を、広い世界へと、殺伐としていて厳しいが希望と可能性に溢れた世界へと連れ出してくれた。
 何度も、助けてもらった。
 村でも、宿星たちの襲撃でも、翠蓮は戴宗に助けられ、守られた。
 翠蓮にとって彼は、この国の暗闇に差し込んだ光そのものだった。

 だからすがりつけると思ってしまった。

 だから助けてほしいと思ってしまった。

 彼もまた、魔星の力に目覚めたばかりだという事を忘れて。


 彼もまた、翠蓮と同じように――いや、翠蓮よりもずっと苦しんでいるのかもしれないという事に気付きもしないで!


 ただただ自分の都合ばかり考えて、戴宗にしがみつこうとしたのだ!


(私は……何て事を……!)


 何と浅はか。
 何と醜い。
 人の事を気遣えず、自分の事ばかりなんて、
(ああ、嫌だ……)
 自分の醜さが露呈される。
 露になった醜さと身勝手さを直視させられる。
 ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 こんなものは見たくない!

《――――――――直視しろ、翠蓮》

 己の本当の姿、その余りの醜さに声もなくかぶりを振っていた翠蓮に――
 師匠の声は、穏やかにかけられた。
 伏せていた顔を上げれば、師匠は静謐な眼差しをこちらに注いでいる。
 何もかも暴いてさらすのではなく――穏やかに、いたわるように。

《己の弱さと向き合い、直視しろ。見つめ、見据えろ――辛くとも。苦しくとも》

「――でも……」
 言い澱む翠蓮の双眸にまたジワリと浮かぶ涙。そんなものは見たくない。向き合いたくない。
《己の弱さから逃げるな。見つめろ。見据えろ。打ち勝て。強くなれ》
 強く。
 その単語に体が震えた。
 心が震えた。
 強く……なれるのだろうか? 私が?
《翠蓮、強くなれ。
 あれについていきたいのなら、隣にいたいのなら――強くなって、小五から己の手で奪い返せ》

 ……出来るのだろうか。
 そんな事が、出来るのだろうか。
 頷く事にためらう翠蓮のすぐ前へと師匠はトコトコとやってきて、そしてブーと鳴く。
 それは、こんな言葉だった。

《私は、そのために梁山泊に残ったのだ》

 だから、

《帰るぞ翠蓮――強くなるために》

 しばし逡巡して――翠蓮は、頷く。
 そして師匠の体を抱き上げると、踵を返して歩き始めた。肩を落とし、背を丸め、時折鼻をすすり上げ。
 元来た道をトボトボと戻り、桟橋へ。戻ろうか待とうか迷っていたらしい小七に声をかけ、梁山泊へ戻るために舟を出してもらう。彼は翠蓮の憔悴した様子に何か聞きたそうだったが、しかし結局何も聞いてこずにただ黙々と舟を漕ぐ。
 その舟の上で、翠蓮は夕陽を見た。
 それは見事な夕陽だった。
 見事な、赤く美しい夕陽。

 ――あの、戴宗の炎のような。

 あの色に追いつくために、
(……強くなりたい)


 強く、なるんだ。


 涙に濡れ、赤く充血した目で翠蓮は決意する。
 その表情は、凛然としていて美しかった。

 

 

 

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