8.初めて歌ったその時よりも


 それから、二年の月日が流れた。

《彼氏が任務でおらんけ、寂しそーじゃのぅ翠蓮!》
《この二年でやけに色っぽくなったと思ったら、恋焦がれてんのね〜。うふふ》
《あっ、あんなチビのどこがいいんだよぅ》
《アレの過去、聞いちまったんだものな……小せぇ師匠から》
《「私が癒してあげる」ってか? ギャハハハ傑作だぜぇ!》

 それぞれ猪、馬、象、虎、ヒヨコの言葉である。からかわれながら、
「やっ、やめてよ、そんなんじゃないんだってば! もぉっ!」
 と否定する翠蓮は、今、この五匹の声しか耳に入ってこないのを自覚する。
 いや、もっと言えば、この五匹以外の声を意識的に耳に入れないようにしている。
 動物の声を聞き、意思疎通を図り、果てには従えさせられる地獣星の力。ともすれば無秩序に垂れ流して、周囲にいる動物全ての声を聞いてしまいそうになる。それを懸命に抑え、この五匹の声だけに絞る。
 それが、翠蓮がこの二年繰り返してきた修行だった。
 任意の動物とのみ会話する――師匠との一対一の対話から始めて、梁山泊で飼っている馬や牛、豚、居ついていた犬や猫、馴染み深い動物から初めて見る動物まで、力の習熟に合わせて意思疎通できる難易度を上げていき、やっと、複数匹の動物と気楽な雑談を交わせるに至った。
 たかが雑談と思うなかれ。そもそも人間と動物では思考の仕方が違うのだ。いつかの鳥のように――人間で言うところの――感情らしい感情もなく、ただ「食べたい」「暗い」などと散漫に思考する方が、動物として普通なのだ。
 それを、人間的な思考へと変換し、自分にとって受け入れやすいものとする――この術を身につけるまでにどれだけ苦労した事か。この二年は、ほとんどその習得に費やしたと言っても過言ではなかった。
 それでも、この思考変換が通じるのは師匠や眼前の五匹、寨内で飼われていて翠蓮も世話を手伝っている動物たちくらいなもの。梁山泊の外で初めて出会う動物相手にはまだまだ通用しない。
 だが。
 だが、もしそれが出来るようになれば。
 翠蓮は晴れて諜報要員として戦力の一人に数えられ、梁山泊の外の任務に就けるようになる。

 今度こそ、彼と一緒に行ける。

 余りにからかってくる五匹に「ホントニオコルヨ」と怒りをちょっとだけ見せて静かにさせたところに、「精が出るな」とかかった声。振り返ればそこにいたのは髪を生やしたドヤ顔の花和尚で、しかし一瞬後にその髪は切り取られて炎を上げて燃え尽きる。悲嘆にくれる花和尚の声を聞きつけた劉唐や林冲がワラワラとやってきて、王定六は喜び、小五が笑う。
 その渦中にいる人物。
 ここのところずっと任務で、随分と久しぶりに顔を合わせる人。
 その名を、翠蓮は呼ぶ。


「――――戴宗さん」


 ――……翠蓮は、まだ覚えている。
 二年前のあの日、役人たちに殺されそうになった翠蓮を助けてくれた姿を。
 月を背にして替天行道の旗を掲げた彼を。
 あの日、あの時、あの瞬間から、彼は翠蓮の憧れとなった。目標となった。彼のように強くなりたいと――彼のように誰かを助けられる人になりたいと、そう願うようになっていた。
 彼の隣に立って、彼と共に戦いたいのだ、と。

 後ろに付き従うのではなく。

 ただ守られるのでもなく。

 肩を並べ、同じ方向を見て、共に歩んでいきたいのだ。

 今、翠蓮に名を呼ばれた彼がゆっくりとこちらを向く。
 翠蓮は、彼に向かって微笑む。
 この二年で美しく成長した翠蓮の、その、花がほころぶような笑み。


「お帰りなさい」


 戴宗は、戸惑うような鬱陶しがるような仏頂面で、
「……おぅ」
 とぶっきらぼうに返してくる。
 この二年で、いつの間にか随分と言葉少なになってしまった彼の返答。しかし翠蓮はそれを逆に嬉しく思う。うっかりするとつるつると口から滑り出る挑発の言葉ではなく必要最低限のその応答は、近しい者に対しどう応じていいか分からない彼の戸惑いの表われだ。
 どう返事すればいいか分からない、そう戸惑ってくれている事に、翠蓮は自分が戴宗の中で「近しい者」の位置にいる事を知る。
 それが嬉しくて、こそばゆくて、照れ臭くて、幸せで。



 ――ああ。
 私やっぱり、この人が好きだ。
 大好きだ。



 翠蓮は更に笑みを深めると、仏頂面の彼へと一歩、歩み寄る。
 二年前と比べて随分開いてしまった二人の距離、それを縮めるための、第一歩を。

 

 

 

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