5.何も見えていなかったが、今なら見える


 流星が。
 戴宗が?
 帰ってきた。
 帰ってきた?
 ――帰ってきた!

 翠蓮はガバリと跳ね起きた。
 布団を跳ねのけ、寝台から飛び降り、履(くつ)を履いて上着を羽織って駆け出す。扉を勢いよく開ける。
「すいれ――きゃっ!」
 扉の外に立っていた扈三娘を押し退け、謝罪もそこそこに営舎の廊下を駆け出す。それほど長くないそこを駆け抜けて、外、へ。

 ――眩しい。

 降り注ぐ光が視界を一瞬真っ白に塗り潰した。眩しい。目を開けていられない。中天に差しかかりつつある太陽の光は暴力的ですらあって、ずっと暗い所にいた翠蓮には強すぎる。
 ……何日ぶりの、外だろうか。
 涙の滲む目を細くすがめ、手をかざし、上着の袖を日よけにして、目が外の明るさに慣れるのを待つ。その時間が、いつもより――引きこもるようになる前より長い、気がする。
 それはすなわち、どれだけ自分がまともに光を見ていなかったのかを表わしていて。
 ――こんなにも光を見ていなかったか。
 ――こんなにも闇に親しんでいたのか。
 自分が闇の中でうずくまっていた時間、その長さをこんな形で思い知らされて、翠蓮は何やら気が遠くなるような思いを味わう。少し前までなら毎日陽の光を浴びる事など当たり前だったのに、その「当たり前」がいつの間にか当たり前でなくなっていた事にまた驚く。
 そして、部屋の中の生温く澱んだ空気とは違う爽やかで新鮮な空気に、けれど翠蓮は激しく動揺してたじろぐ。
 ここが外だというのを、今更のように思い出す。
 営舎の外には人が行き交っている。物を持ち運ぶ者、どこかへ移動する者、見回りをする者。
 ざわめきが満ち溢れている。
 彼らの話す声が溢れている。
 ――彼ら以外の声も、溢れている。
 飛び交う鳥。
 草むらに潜む小動物。
 牧で飼われている豚や羊、馬たち。
 声が。
 たくさんの、声が。
 翠蓮が恐れた、翠蓮に外を恐れさせた、たくさんの、常人が聞くよりずっとずっとたくさんの声が――

(――……戴、宗、さん)

 ……そうだ。
 戴宗だ。
 戴宗が、帰ってきたのだ。
 敵を追って行ってしまった戴宗。梁山泊からいなくなってしまった戴宗。どこにいるのか分からなかった戴宗。すぐ無理をする戴宗。好戦的で、いつでもがむしゃらに、何かを振り切るように戦う戴宗。それなのに、あの日、あの時、翠蓮をかばい、守ってくれた戴宗。
 その戴宗が、帰ってきた。
 帰ってきてくれた。
 やっと、やっと、この梁山泊に帰ってきてくれた。
 翠蓮のいる所に、翠蓮の元に、帰ってきてくれた!

 気が付けば彼女は駆け出していた。
 すっかり萎えてしまった脚を懸命に動かして、フラフラと、走る。営舎のある梁山の中腹から、金沙灘へと下りる階段をフラフラと下りる。集った人だかりを掻き分け、警戒と好奇の表情を見え隠れさせている手下たちの話し声を聞き流し、聞かないようにし、船着場へと続く門を目指す。
 その内に、見えてきた。
 手下たちの先頭に立つ杜遷、宋万、朱貴。
 その彼らの更に先に――というか門の外にいる、劉唐、蔣敬、孫二娘、張青、王定六。
 そして劉唐とやり取りをしている――見た事のない、男。
 パッと見の第一印象は、「大人の男の人」だった。
 高い身長、野生的だが整った顔立ち、くわえ煙草、無精ヒゲ。肩に羽織った緋色の上着。
 歳の頃なら宋江とそう変わらないだろう。が、見るからに人の好さそうだった宋江に対し、その男はいかにもヤクザな雰囲気を漂わせている。その雰囲気が、翠蓮の警戒心と好奇心を刺激した。
 男との隣に控えるのは、眼鏡をかけた書生風の男。くわえ煙草の男と同い年ほどに見える。が、身長はこの眼鏡の青年の方が低い。くわえ煙草の男が不敵に笑っているのに対し、彼はあわあわと男と劉唐のやり取りをとりなしているようだった。
 くわえ煙草の男が、劉唐に何かを差し出す。手紙、のように翠蓮の目には映った。それを一読した劉唐が、表情を引き締めて蔣敬らに回す。そんな替天行道の面々の様子を尻目に、翠蓮は小走りで近付きながら更に観察する。
 くわえ煙草の男と眼鏡の青年の後ろに控える面子は、何と言うか、一目見ただけで「何か濃い」と思えるような人たちだった。
 眼鏡の青年より更に背の低い、ネズミっぽい顔立ちの男。
 やたらとヒョロ長い体格の、全身を包帯でグルグル巻きにした男――……男、だと思う。多分。
 その人の肩に乗っている少年――というか、子供。翠蓮より歳下に見えるが、ミイラ男の肩の上から手下たちを眺める目つき顔つきは、大人びているを通り越して老獪ですらある。
 そして、背格好こそバラバラだが、顔立ちがとてもよく似た三人の少年――いや、一人は青年? 一番背の低い少年はくわえ煙草の男と劉唐のやり取りに鋭い眼差しを向け、一番背の高い青年は対照的にハラハラした表情をしており――
 中ぐらいの背と体格の少年はやけにニコニコと、楽しそうな、ワクワクした表情をしていた。
 その表情は、少し離れた所に立つ少年に向けられている。何事か話しかけ、あしらわれ、ワハハッとこちらにまで聞こえてくる快活な笑い声を上げている。
 翠蓮は、見た。
 梁山泊を訪れ、替天行道と何事かの交渉をしている見た事もない一行の、最後の一人を見た。

 それは、この十日ほどの間、翠蓮が夢にまで見て焦がれた人だった。

 橙色の頭。
 生成り色を基調とした上下。
 ふてぶてしい表情。
 目の下の隈。
 背中に背負った大剣。
 ――伏魔之剣。

 門をくぐり、駆ける足を更に速めて、翠蓮はついにその名を呼んだ。

「――――――――戴宗さんっ!」

 ハッ、と――
 虚を衝かれたような意外さで以ってこちらに向けられた顔。
 彼らしくない、きょとんとした、ぽかんとした表情。
 しかしそれは紛れもなく彼だった。
 戴宗。
 いなくなってから、ずっと、ずっと、ずっと、翠蓮が焦がれていた――
 翠蓮の表情がクシャリと歪む。
 もう駄目だ。
 こらえきれない。
 駆け足をもっともっと速くして、限界まで速くして、駆けて、走って――

 戴宗へと、飛びつく。

 抱きついた。

「戴宗さんっ……無事で良かった……!」
 喉から、口からほとばしる声。 
「何のっ……何の、連絡もっ、ないから……ずっと、ずっと、心配してたんですよ……!?」
 感情のままに吐き出される言葉。涙に濡れたそれらに、抱きついた胴が居心地悪そうに身じろぎするのを感じる。その動作で翠蓮は少し我に返り、かと思ったら、不意にグイと上着の襟首を掴まれ引っ張られた。
「……暑苦しい。離れろ、翠蓮」
 少しだけ、目を瞠る翠蓮。
 ぶっきらぼうな声。
 ぶっきらぼうな言葉。
 久しぶりに聞く気がした。懐かしささえ感じた。


 ああ、何て、何て――――愛おしい。


「あっ……ご、ごめんなさい、戴宗さん」
 戴宗の胴から腕を離して顔を上げれば、その先には、困ったような、戸惑ったような彼の顔がある。
 その顔を見つめていると、またジワリと目に涙が浮かんできた。
 ずっと見たかった顔だった。
 ずっと会いたかった人だった。
 消息不明になってから今日まで。ずっと心配していた。ずっと不安だった。どうしているかと、誰かに迷惑をかけてはいないかと、怪我をしていないかと、考えるだけで不安に押し潰されそうだった。
 早く、帰ってきてほしかった。
 やっと、帰ってきてくれた。
 やっと。
 やっと――――――――


 ――――――――これでもう、大丈夫。


 何も、怖くない。


「――お帰りなさい、戴宗さん」
 袖でこぼれ落ちていた涙を拭い、翠蓮は微笑んだ。
 すると戴宗は、不意に、何とも不機嫌そうな仏頂面になった。
 それから口を「へ」の字に曲げ、不機嫌そうな目つきでそっぽを向き、
「……………………おう」
 と、喉の奥から搾り出すような小さな応答を寄越してきた。
 あれ、と翠蓮は疑問を得た。
 ……この反応は、何だろうか。
 ……戴宗は、そんな反応をする人だったろうか。
 こんな時戴宗なら、不機嫌そうな仏頂面をやはり浮かべ、「ふん。って言うかおたく、何抱きついてくれちゃってんの? おかげで俺の服に鼻水ついたんだけど笑えねー」とか何とか言ってこちらを邪険に突き放す――くらいの事はしてくるだろうに。
 何だろう、この変な感じは。
 この何とも言えない中途半端さと違和感は。
(……戴宗さん……?)
 偽者――ではないだろう。戴宗との体格差は翠蓮の記憶にある通りだし、背中の伏魔之剣は見た限り本物だ。彼の腰の師匠袋からもブーと、
「今帰ったぞ、翠蓮よ」
 と師匠が顔を覗かせている。
 本物だ。
 本物の戴宗、のはずだ。
 偽者なんかではない。
 ならば、
(――どうしちゃったんだろう、戴宗さん……)
 こんな変な反応をするなんて。
 この数日で、何があったのか――


「わははっ、なーに固まってんだよ戴宗!」


 ――バシンッ!

 既視感。
 翠蓮の眼前で繰り広げられた光景は、いつかどこかで見た事のあるそれだった。
 呵々大笑する誰かに、戴宗が思い切りはたかれる。
 見覚えがあるなと思ったのは、しかしこの一点だけだった。突然の声と音に身を竦ませた翠蓮の目は、即座に相違点を見つけ出す。
 まず一点。戴宗をはたいたのが花和尚のような巨躯の人物ではなく――戴宗と同じ、中肉中背の少年だったところ。
 そしてもう一点が、
「――ってぇな、いきなり何しやがる小五」
 戴宗が。
 戴宗が、あの戴宗が、声音こそいつものローテンションだけれども、驚くほどの気安い口調で言い返した。
 背後からいきなり叩いてきた少年を振り返る表情にも、どこか打ち解けた感がある。
 替天行道の同志に向けるものより。

 ――翠蓮に、向けるものより。

「わははっ、気にすんなって。ってーかさ戴宗、駄目じゃん、女の子泣かしちゃあさ!」
「うっせー、泣かせていいかどうかは俺が決める」
「うっわ相変わらずだなお前!」

 翠蓮は、唖然とした。
 呆然とした。
 愕然とさえ、していた。
 戴宗が。
 あの、戴宗が。

 この少年と、随分、かなり打ち解けた様子で、

 軽口を、叩き合っていて、

 ――チクリ、と、胸に走る微かな痛み。
 全身をゾワゾワと這い回って居ても立ってもいられなくさせる焦燥。

「――戴、宗、さん?」
「……あん?」
 呼びかければ、こちらに視線を寄越してくる戴宗。
 ……打ち解けているとは程遠い目。
「その、人は?」
「こいつか? こいつは――」
 戴宗が答える、
「俺は阮小五!」
 より早く、少年が――阮小五という名の彼が、答えた。
 明るく。
 はつらつと。
 快活に。
「戴宗の親友だ、よろしくな!」
 え、と小さく漏れる呻き声。
 親友。
 親友、だと?
 この、小五という少年と、この戴宗、が?
 そんな、
 まさか、
「――っておい小五、誰がおたくの親友だって? 俺とおたくはそんな親しくねーだろうが」
「いいじゃんかー。んなつれない事言うなって」
「笑えねー。俺とおたくは、ただの昔馴染みだ」
「……昔……馴染み……?」
 呆然とした心持ちでようようとおうむ返しの問いを絞り出した翠蓮は、小五は嬉しそうに楽しそうに、戴宗は面白くなさそうに忌々しそうに、おう、と頷く。
 全くの同時に。
「俺たち、生まれ故郷が一緒なんだよ」
「んで、色々あって、ちょっと前に再会した、ってわけ。分かったか、翠蓮?」
「って戴宗、お前はしょりすぎ! 『色々』にどんだけ詰め込んでんだよ!」
「ああ? んー……色々?」
「答えんなってねーよそれ!」
 小五の抗議の声は明るく賑やかで、投げやり気味で適当な戴宗の受け答えも、芯の部分では投げやりでも適当でもなかった。このやり取りを楽しんでいるような、そんな雰囲気が漂っている。
 昔馴染み。
 生まれ故郷が一緒。

 ――幼馴染み。
 戴宗の、子供の頃を知る――――
 ――――翠蓮の知らない戴宗を、知る、

「――……っ!」
 翠蓮は不意に息を詰め、背中を少し丸めると、胸元をギュッと押さえた。
 痛みをこらえるように、顔をしかめる。
「――? 何、どうしたよ翠蓮?」
「い、いえ……何でも、ないです、戴宗さん」
「何でもないって顔してねぇぞ? ――あ、安道全医師(せんせい)に診てもらうか? 神医って呼ばれるくらいすごい名医なんだぜ!」
「だ、大丈夫です!」
 そう小五に返した声が、自分でも思ってみなかったほどの険を帯びていた。その剣呑さに刺された小五はビックリして目を見開き、戴宗は怪訝そうに眉根を寄せる。
 二人の表情にハッとし、同時に視線を感じた翠蓮は、反射的にマズいと思った。視線の主は、小五によく似た背の高い青年と背の低い少年。一瞬だけだが、眼鏡の青年もチラリとこちらに視線を向けていた気がする。
 外からやってきた人たちに、おかしく思われる。
 それは何となく良くない事だと思い、慌てて笑顔を取り繕った。
「え、えっと……そう、お腹! お腹が、空いちゃって!」
 すると、
「……翠蓮、おたく」
 戴宗が、
「何あの怪力女みたいな事言っちゃってるわけ? 俺がいない間にあいつみたいになった、とか?」
「違いますっ! 今日は、ちょっと、朝ご飯をちゃんと食べてなくて――」
 そこから先、翠蓮は思いつくままに適当な事を並べ立てまくった。
 言い繕った。
 それしか出来なかった。
 本当の事をきちんと説明する、なんていう選択肢は翠蓮の中にはまるで存在しなかった。
 説明など出来るはずもなかった。
 だって、どう言えと言うのだ?
 胸の奥の方が疼く、と。
 胸の内に針を幾本も抱え込んでしまったかのように痛む、と。
 その痛みがわずらわしくて居ても立ってもいられないのだ、と。
 二人を見ていると、そんな風に胸が痛むのだ、と。
 阮小五。
 戴宗の、幼馴染み。
 戴宗と気安く軽口を交わせる――
(――どうして)


 その相手が、自分じゃないのだろう?

 どうしてあの位置にいるのが、翠蓮ではないのだろう――?


(――え?)
 あれ?
 私は今、何を考えた?
 余りにも無意識に自然に浮かんだ想念に、翠蓮は虚を衝かれ、きょとんとして、

「――ま、そういうわけで、だ」

 そんな彼女の耳に、低いがよく通る朗々とした声が飛び込んできた。
 反射的に見やる。劉唐と何やらやり取りをしていたくわえ煙草の男だ。彼は両腕を軽く広げ、自分がいる場所を改めて示している。
 そういえば、
「戴宗さん、あの人」
 誰ですか?
 何をしているんですか?
 そう聞こうとしたのだが、翠蓮は口をつぐんだ。戴宗が表情を、すさまじく嫌そうな仏頂面に変えていたからだ。この表情は見た事がある。確か孟州の十字坡近くで、だ。戴宗、翠蓮、林冲の三人で開封府から逃げていた時だ。花和尚が迎えに来て、「頭領(ボス)が待っている」と告げた時の、あの表情――
 一体どうしたのか。何であの時と同じ表情をしているのか。何となく聞きづらくて、仕方なく小五に聞こうかと彼を見れば、小五は小五で、戴宗とは逆に楽しそうな顔をしている。ワクワクと、期待に目を、顔を輝かせている。
 ……何だろう、この両極端な反応は。
 これでは小五にも聞くに聞けない。仕方なく男へと視線を戻す翠蓮。よく見れば、男と対峙している劉唐が、いつの間にか妙に険しい顔をしている。いや、殺気立っている? 彼の近くにいる蔣敬や王定六、孫二娘や張青も。
 一体何事か。反射的に身構え警戒する翠蓮の視界の中央で、男は、言葉を継ぐ。
 そして、彼女は知る事になる。
 替天の同志たちの表情のわけを。
 戴宗と小五の反応の違いの理由を。
 そして。

 男が手を広げて示していたものが、「今いる場所」ではなく――この梁山泊そのものであった事を。


「この梁山泊は、俺たち北斗七星がいただくぜ」

 

 

 

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