4.かつて見失われていたが、今見出された
聞こえた瞬間、翠蓮は表情を強張らせていた。
「……翠蓮ちゃん?」
メガ豚マンをいつものように四つ一気に平らげ、次に食べる物を手に取った扈三娘が、こちらの異変に気付く。どうしたのかときょとんとしている。
しかし翠蓮は、知らず内にガタガタと震え出していた翠蓮は、もうそれどころではなかった。目が、扈三娘の手にあるメガ豚マンに釘付けだった。
メガ豚マン。
豚肉。
豚。
『嫌っ……嫌だ、っぁぁぁぁああぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!』
あの声が。
断末魔の悲鳴が!
死にゆく人の声が!
死の叫びが!
「――――っ!」
声が!
叫びが!
死にたくないと、嫌だと訴える悲痛で悲壮な悲鳴が!
耳の中でいくつもいくつも響いて反響してこだましてグルグルと回って巡って翠蓮に訴える!
死にたくない、と!
死にたくない、と!
――そのフラッシュバックに翠蓮は耐えられなかった。
「翠蓮ちゃん!?」
顔を青ざめさせて身を翻し食堂から駆け出していく――逃げ出す彼女の背にかかる、扈三娘の焦った声。だが応える余裕は最早ない。
駄目だった。
もう駄目だった。
視界のあちこちにメガ豚マンが入る。それ以外の豚肉を使った料理が入る。皆美味しそうに食べている。この豚美味ぇなぁと談笑している。
『嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ俺は俺は俺は俺は俺はまだまだまだ死にたく――』
そう訴えた彼の肉を!
死にたくないと、まだ死にたくないと金切り声で泣き叫んだ彼の体を!
美味しそうに――美味しそうに!
吐き気が、した。
心臓を握り潰されたような、心が引き裂かれんほどの悲痛で悲愴な悲鳴。耳の中で未だこだましているそれと焼けた豚肉の香ばしい匂いが合わさって、翠蓮の口の中に嫌な酸っぱさが広がった。
もう駄目だった。
限界だった。
それでもどうにか我慢して頑張って、こらえきって、食堂の外に駆け出て、黄昏の薄闇の中をフラフラと人気のない方へない方へと進んでいって――
営舎の近くまで来た辺りで、本当の、限界が、
「――うぐっ……ぉえっ、おええっ……――」
地面にひざまずいて、四つん這いになって、翠蓮は――嘔吐した。
耐えがたいほどの猛烈な吐き気が、翠蓮の腹を無理矢理へこませた。痛いほどに胃を押し潰し、その中のものを逆流させた。その痛さと酸っぱさと苦さに、出したくもないのに涙と鼻水が出た。口から吐き出された胃液は更に吐き気を催す酸っぱさと苦さで、ビチャビチャと地面に滴って跳ねて翠蓮の上着と裙子(スカート)を汚した。
昼食を食べたきりでそのあと何も口にしていなかったから、胃の中は空っぽだった。吐き出したのは胃液だけ。ひとしきりゲェゲェ吐いて、吐くものなどもう何も残っていないのに腹を強く強くへこませる。吐こうと開けた口から流れるのは唾液だけだ。それでも吐き気は収まらない。もう嫌だと泣きたくなるほどにえづいてえづいて、やっと吐き気の波が通りすぎて、息を切らしながら腹筋の痛みと口の中に残る嫌な味と疲労感に脱力、
――――ボゥ……
しようとした時に不意に淡く光る胸元。「獣」の文字。
翠蓮はビクリと身を竦ませ、強張らせ、目を見開いて、恐る恐るといった手つきで触れる。
熱くない。
冷たくもない。
ただ光っている字。獣。地獣星。どうして、と嘔吐の波をやり過ごした気だるい虚脱感のままぼんやりと考えて――
「――なぁ」
不意に背後から聞こえた声に、再び身を震わせる。
こんな醜態を誰かに見られてしまったか。それにしては気遣いの調子も何もなく、隣にいる誰かに呼びかけたかのような淡々とした何気なさだ。遠くからうずくまっている翠蓮を見つけ、一緒にいる仲間に声をかけたような。だが……それにしては、声が、近い。近すぎる。地面に座り込んだままの翠蓮のすぐ後ろで話しているような。
ノロノロと、振り返る翠蓮。
「――……え?」
呆けた声が、意識しないまま漏れる。
誰も、いなかった。
さっきよりずっと濃くなった闇はもう夜のそれだ。所々に篝火の明かりを孕んだ闇は暗い青色をしていて、食堂の方から聞こえてくる喧騒がこの辺りの物寂しさを助長している。
誰も、いない。
遠くで人の動く気配は、ある。だがここではない。翠蓮のすぐ後ろではない。背後ではない。
……頭の、上?
翠蓮は、振り返ったまま、ゆっくりと、殊更にゆっくりと……上を、見上げた。
そこに広がるのは、周囲に立つ木々の枝葉だ。湖から吹きつけてくる風にサワサワと梢を鳴らしている――
その、梢から、
「あいつ、吐いたぞ」
声、が。
「食えるかな」
「食い物あるか?」
「やめとけ」
「胃液だけだ」
「何だ、つまんね」
「腹減ったな」
「虫でも探すか」
「やめとけ。見えないぞ」
「それもそうだ」
「腹減ったな」
「食い物ないか」
「木の皮でもつつけ」
「食い物があるかも」
「それよりもう寝るか」
「寝ちまえ」
「腹減ったな」
「あのゲロ食えないかな」
「あれは食えん」「やめとけ」「虫でも探せ」「もう暗いぞ」「何も見えないぞ」「やめとけ」「寝ちまえ」「寝るか」「腹減ったな」「何か食い物」「食い物」「何か」「ないか」「食い物」「あれは」「食えない」「腹減った」「寝るか」「腹減った」「食い物」「食い物」「食い物」「食い物」「食い物」「食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物食い物腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減った腹減ったたたたたたたたたたたたたたたたた――――――――――――――――――――」
――月が、闇を照らす。
木々を、梢を、照らす。明らかにする。
翠蓮は、見た。
見てしまった。
――――――――――――――――――――――――――――――鳥。
木々を、枝を、梢を埋め尽くす、無数の鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥……………………――――――――――
その目が、無数の目が、無感動な目が、全て、翠蓮に、
「――――嫌あああああああああああああああああああああああああっ!」
悲鳴と共に翠蓮は再び駆け出した。
嘔吐して体力を消耗したこの体のどこにこんな力がまだ残っていたのか、と不思議なほどだった。だがしかし、とにかく脱兎のごとく駆けた。力の限り、いやそれ以上に駆けた。
そうして営舎に駆け込んで。
あてがわれている部屋に駆け込んで。
灯し火もついていない真っ暗闇の中で、翠蓮は、扉に背を持たせかけてズルズルと座り込んでいた。
もう立っていられなかった。
限界以上の力を振り絞ったせいでもあるし、心が限界を迎えたせいでもある。
昼からのあらゆる出来事が、翠蓮の気力を根こそぎ奪っていた。心をへし折っていた。
(あの……)
体が、ガタガタと震えている。
今は初夏だ。肌寒い夜もあるが、寒さに全身を震わせるほどではない。
しかし翠蓮の震えは止まらない。両肩を抱いても止まらない。上着の前を掻き合わせても止まらない。
寒さではない。
恐怖だった。
恐慌だった。
(あの、声……――)
あの、圧倒的なまでの質量の声。
それだというのに、恐ろしいほどに、おぞましいほどに淡々としていて、人間味が一切感じられなかった、堂々巡りの声。
あれは、鳥の声だ。
木々に止まっていた、鳥たちの声だ。
(どうして、あんな声が……)
どうして、など。
そんな事はもう分かっている。
先程まで光っていた胸元。今はもう光っていない胸元。今はもう、鳥の声も何も聞こえない。
――地獣星だ。
翠蓮に鳥の声を、屠殺される豚の声を聞かせたのは、地獣星だ。
動物の声を、聞く。
それが、翠蓮に宿った星の力なのだ。
§
翠蓮が同室の者を追い出して閉じこもって、数日が経過した。
「――やー、今日はどうだい?」
「……少しは、食べてくれたみたい」
力ない声で答えて、携えてきた皿や椀、匙を乗せた盆を出迎えてくれた朱貴に渡す扈三娘。受け取った朱貴は盆の上に目を落とし、少しだけ笑った。
粥も、羹(スープ)も、持っていった時に比べて少しだけ減っている。
……少ししか、減っていない。
「全然食べないよりかはマシだけどね。ありがと、扈三娘ちゃん」
「ううん、私はいいんだけどさ。
……翠蓮ちゃん、大丈夫なの?」
厨房に引っ込む朱貴を見送りながら一番手近な卓に着いて、扈三娘が放った言葉の後半は彼に向けてのものではない。
同じ卓の斜め向かいに座って、昼間っから酒を飲んでいる巨漢の破戒僧に対してだ。
「さあのぅ」
巨大な徳利を床に下ろして彼は言う。結構な量を飲んでいるだろうはずなのに、その顔に酔った様子は微塵もなかった。言葉にも、声にもだ。
替天行道の幹部花和尚は、淡々とした、どこか突き放した、どうでも良さそうですらある口調で続けた。
「感情に任せた星の力の暴走、己の意に沿わない発動……星の力に目覚めたばかりの宿主に起こりがちな事。好ましくない状態だし、場合によっては危険ですらあるが……翠蓮殿の能力を考えるとこの状況は、まあそこまで差し迫ってはおらんなぁ」
「でも!」
扈三娘はいきり立っていた。声を荒らげ、座った椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がる。
確かに差し迫ってはいない。翠蓮の力は、暴走したところで周りに危険を及ぼすようなものではないからだ。
――動物の声を聞く力。
その力を自分でコントロールできず、寨内にいるあらゆる動物の声を無差別に聞いてしまうため、翠蓮は今、部屋に引きこもっている。
例えば炎をまとった戴宗のような危険で強大な力だったなら、翠蓮の現状はとても放っておいていいものではない。
しかし良くも悪くも、彼女の力は動物の声を聞くだけだ。それが暴走したところで梁山泊に被害はない。
最悪、翠蓮が廃人になるだけ――
そんな風に、いざとなったら仲間を切り捨てて組織の安泰を図る――それが天下の義賊のする事か、と扈三娘は柳眉を逆立てて更に食ってかかろうとして、
「まぁまぁ扈三娘ちゃん、ちょっと落ち着きなって」
背後にかかる朱貴の声。一旦厨房に引っ込んだ彼はまたこちらにやってきていて、
「朱貴さん、でも――」
「とりあえず、これでも食べて」
と、差し出されるメガ豚マン。もちろん無言のまま手に取って口へ。そしてあっという間に胃の中へ。一個くらいじゃ腹持たせどころか気持ちを紛らわせる事も出来やしない――と思っていたら、食べ終えたその瞬間を見計らったかのようにドドンと追加されるメガ豚マンの山。ああもう朱貴さんってば、食べざるを得ないじゃない! 扈三娘はむっちむっちとメガ豚マンの山との格闘に入る。
……こんな美味しい物を、翠蓮は今、食べられないなんて。
屠殺される前の豚の声を、聞いてしまったらしい。
その瞬間、翠蓮の中で豚は「食べるための家畜」ではなく、「自我を持った一個の個人」になってしまった。
彼女の今の認識を例えて言うなら、食べるために育てた人物を、泣き喚き命乞いするのを無視して殺し、解体し、その肉を調理して食べる、という感じだ。人肉を食べる事はない事もないが(扈三娘は食べた事はないし、食べたくもない)、他に食べ物がある時にも食べるなんて正気の沙汰ではない。
正気の沙汰でなくなってしまったのだ。
だから翠蓮は今、動物の肉が食べられない。
食べられるのは、粥、饅頭、野菜の類、あとはかろうじて魚。しかしそれらにも拒絶反応が出るのか、食べる量は少ない。
このままでは、病気になってしまう。
朱貴は笑みを――穏やかなようでいて油断のならない笑みを、花和尚に向けた。
「花和尚様、もちろん、このままでは良くないと思っているんですよね?」
「もちろんだ」
花和尚は即答した。強い声音に扈三娘は安心する。
「――だが」
「?」
「これは、翠蓮殿が乗り越えねばならん問題だ」
――星の力は、己の心のありようを反映する。
それは、翠蓮がこうなってしまった時に花和尚が扈三娘や林冲、朱貴といった彼女を心配する者たちに言い聞かせた言葉だ。
「全ては翠蓮殿次第――星の力を物にするのも、力に押し潰されるのも」
そんな、と目を瞠る扈三娘。
そんな、冷たい言葉。
だが花和尚の、恐ろしいほどの真剣な表情に何も言えなくなる。
「……出来れば儂と林冲殿の出立までにどうにかなってくれれば、と思っておったのだが、仕方あるまい」
ボソリとした呟き。二人は明日、西の華州は華陰県に向かう。その県の史家村という村にいる、林冲の師に会いに。
二人は明日から、いない。
寨外に出て大絶賛消息不明中の戴宗も、まだ帰ってくる気配がない。
早く帰ってきなさいよ、流星。
心の中で毒づきながら、扈三娘は最後のメガ豚マンを一気に食べた。
§
もう、どれくらいこうしているだろう。
寝台の上、頭から布団をかぶって膝を抱えている翠蓮は、ぼんやりと考えた。
五日? 十日? 一ヶ月? それ以上? よく分からない。部屋の外から漏れ聞こえる声に終始震えていたから。
怖かった。
ただただ怖かった。
声を恐れ、怯える翠蓮は、少し前までのはつらつとした明るさが嘘のようだった。ちゃんと梳いていないからボサボサになった髪、食べる量が激減してしまったせいですっかりこけてしまった頬、まるで病んでいるかのように青白い顔色、怯えの色にギラギラ光る双眸。その姿はさながら幽鬼のようですらあって、普段の彼女を知る者ならば揃ってギョッとし、ゾッとする事は必死だろう。
己のそんな変貌に気付かず、翠蓮はただただ布団の中で震えていた。
怖い。
怖い。
怖い。
聞こえてくる様々な声が怖い。人だとか動物だとかそういった区別なく、垂れ流され、注ぎ込まれる声が怖い。時に様々な感情に彩られ、時に背筋が凍りつくほどに虚ろな声が怖い。
耳を塞いでも、部屋に閉じこもっても、布団をかぶっても、声はどこまでもどこまでも翠蓮を追ってくる。
「うわぁっ! 逃げろ、逃げろっ!」
「あはははははっ、遊ぼ、遊ぼっ!」
追い込む。
「逃げろ、逃げ――ぎゃああああああっ!」
「あはっ、捕まえた! 捕まえた! 僕の、僕の!」
追い詰める。
「いっ、嫌っ、い、ぎゃああっ! やめ、てっ、おねがっ、離し――」
「あははっ、面白ーい。ほらもっと遊ぼ、動いて、動けって!」
「――――やめてえええっ!」
翠蓮は鋭い叫びを上げた。頭上、天井裏から聞こえてきていた声――おそらく、ネズミと、猫――がそれぞれピタリと収まり、頭上からズダダダダダッと駆け去る音が続く。そして遠くから、
「――……うわぁ、びっくりしたぁ。何だよぉ、僕、遊んでただけなのに〜」
と少しむくれた無邪気な声がし、かと思ったらすぐ上で、
「助け……助、けて……痛い……痛い……」
という、今にも死んでしまいそうな哀願の声が。
猫に襲われ、おもちゃにされ、死にゆかんとしているネズミ。
その息も絶え絶えな声を――最後まで、聞いてしまう。聞こえてしまう。
「もう、嫌……!」
寝台の上で更にうずくまって、丸まって。
呻いた翠蓮の声は涙に濡れていた。
嫌だ。
もう、こんなのは嫌だ。
どうして動物の声を聞かなければならないのか。
どうしてこんな風に怯えなければならないのか。
どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
(こんなはずじゃ……)
うずくまり、敷布団に顔を埋めて、翠蓮は鼻をすすり上げる。
(こんなはずじゃ、なかったのに……)
こんな風に、怯えるはずじゃなかった。
こんな風に、引きこもるはずじゃなかった。
こんな風に、苦しむはずじゃなかった。
(私は、もっと――)
もっと、働けるようになっているはずだった。
自分にしか出来ない事を見つけているはずだった。
この星の力で、皆の役に立っているはずだった。
もっと、輝いているはずだった。
もっと、こう、輝いていて、皆の役に立てていて、皆に感謝されていて、もっとこう、もっとこう……――!
こんなはずじゃ、なかった。
星の力を手に入れてこうなるなんて、思いも寄らなかった。
こうなるつもりじゃなかった。
こうなりたくなんかなかった。
私が、なりたかったのは、
「――……戴宗さん……」
不意に脳裏をよぎった橙頭の面影に、翠蓮はそっとその名を囁く。
乞うように。
すがるように。
「助けて……戴宗さん――」
いつか、翠蓮を助けてくれたように。
いつか、翠蓮を守ってくれたように。
助けて。
守って。
「戴宗さん……!」
翠蓮は、すすり泣く。
今はいない人を思って泣く。
今はいない人を求めて泣く。
助けてほしいと、守ってほしいと泣く。
――泣き続け、怯えるばかりの翠蓮は、それからも部屋から出られなかった。
花和尚と林冲が華州へ出立すると扈三娘から聞かされても、部屋から出られなかった。
翠蓮にとって部屋の外は、あらゆる声に満ち溢れた恐ろしい場所だった。翠蓮の心を削り、すり減らす、悪夢のような場所だった。
このままではいけないと思う時もあった。部屋の外に、出ようとも。
しかし駄目だった。扉の取っ手に手をかけた途端に足が竦んだ。体が震えた。表情が強張り、嫌な汗がジットリと滲んだ。心臓がバクバクと急に早鐘を打ち始め、あの、吐き気が。
心が悲鳴を上げた。
屠殺される豚の声が耳に蘇って。
感情のない鳥たちの声が圧倒的な質量でのしかかってきて。
猫に弄ばれいたぶられたネズミの悲鳴が心に迫ってきて。
駄目だった。
どうしても、駄目だった。
(――助けて)
今日も、部屋の外で様々な声がさざめいている。それらを聞かないように耳を塞ぎ心を閉ざしながら、翠蓮は、思う。
願う。
(助けて、戴宗さん)
そんな彼女の塞いだ耳に、バタバタと忙しい音が飛び込んでくる。
これは……足音?
「――翠蓮ちゃん! 翠蓮ちゃん!」
部屋の戸が大きく叩かれる。名を呼ばれる。この声は、
(……扈三娘さん?)
どうしたのだろう。食事の時間だろうか? 閉じこもって久しく、窓を閉め切って音がなるべく入ってこないよう窓を塞いでもらったから部屋は暗く、時間感覚がすっかりあやふやだ。
寝台に手を突いて上体を起こし、かけ布団の中から僅かに顔を覗かせる。目を向けた先の扉の向こうから、扈三娘の、快活だがどこか急いだ――いや、焦った? ――声が更に飛び込んできた。
こんな、言葉で。
「流星が! 流星の奴が、帰ってきたわよ!」
え、と呻いた声は、待ち望んでいた報せを受けたものとは思えないほど、乾いて、かすれていた。
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