3.それは私のような愚か者をも救う


 翠蓮は駆けた。
 呆然と西の空を見つめる手下たちを掻き分け、掻いくぐり、裙子(スカート)の裳裾が足にまとわりつかないよう少し持ち上げて、梁山の中腹へと続く階段を精一杯駆け上る。
 そして駆け上った先、山肌に抱かれるようにして建つ聚義庁の前にまろび出た。
「――おお、翠蓮殿」
「かっ……花、和尚、さん……!」
 肩でするほどの荒い息に言葉を途切れさせながら、翠蓮は、見上げる。
 異変に気付いていたのだろう、聚義庁で色々と指示を出していた花和尚が、外に出てきていた。彼だけではない。物資の在庫をチェックし、帳簿に記していた蔣敬も、公孫勝まで。
 聚義庁の外に出て、一様に、真剣な眼差しを燃え上がる西の空に向けている。
 長い階段を一気に駆け足で上ってガクガクと膝が笑うのを何とか叱咤して、翠蓮は、花和尚へと歩み寄った。
「あ、あのっ……あの、炎、戴宗さんの……!」
「うむ、分かっておる」
 翠蓮に皆まで言わせず頷き、再び西へと鋭い眼差しを向ける花和尚。その隣で佇む公孫勝が、感情の読み取れない表情と声で、ボソリと呟いた。
「――天速星の、暴走だな」
「え――」
 暴走?
 暴走とは、どういう――それを問おうとした翠蓮の機先を制するように、花和尚は吐息を漏らす。
「やはりか」
「ああ」
「一度目は朝、二度目は夕方……――流星め、命を削るつもりか……?」

 命を、
 削る……?

「……それって」
 我知らず、ポツリと漏れる声。
 花和尚が、公孫勝が、蔣敬が、こちらを見る。
「それって、どういう事ですか……? 命を、削る、って……」
 おずおずと放った問いに、三人は顔を見合わせた。
 その視線の交錯は一瞬だった。三人は再びこちらに目を向け、花和尚が口を開く。
「概ねそのままの意味だよ」
「星の力は、宿主を心身共に疲弊させる」
 花和尚の言葉を継いだのは公孫勝だ。彼は、淡々と続けた。
「特に戴宗は今日力に目覚めたばかりだ。力の配分の仕方なんて知らない。飛んで逃げた宿星を追った時、戴宗は途中で落ちたろう? あれは、星の力を使いすぎて体力が底を尽きたんだ」
 言われて、その光景を思い出す。梁山の頂上を越えた辺りで戴宗の体は不自然に失速し、北麓の方へと落ちていった。
 あんな短時間で、そんなにも消耗するものなのか。
 愕然とする翠蓮の前で、花和尚が公孫勝の言葉のあとを呆れ声で引き取った。
「そのままジッとして動けるようになるのを待てば良いものを、宿星軍を……倒さねばならない敵を、見つけてしまったのだろうなぁ。
 それを倒すために、戴宗は無理矢理星の力を使って、暴走させたのであろう」

 暴走――

 人づてに聞いた北麓の惨状を思い出す。一直線にえぐれた地面と、焼失した森林の一部。えぐれた所の両端に接する木々は、見に行った時はまだ燃えていたという。
 広範囲に及ぶ炎を奔らせた、天速星の暴走。

 ――「体力が尽きた」状態で。
 ――何を原動力として、星の力を奮い起こした?
 ――しかも、二度目、って。

 聞いた言葉、起こっている事実。それらが翠蓮の頭の中で組み合わさり、一つの解答を導き出す。
(あのまま炎を出し続けさせていたら――)

 戴宗の命が、危うい。

「っ――花和尚さん!」
 焦燥に駆られて、翠蓮は花和尚に訴える。
 懇願する。
「私、戴宗さんを連れ戻しに――」
 行く。
 連れ戻してくるのだ。
 このまま星の力を使い続ければ、戴宗の命に関わる。湖の向こうで何が起こっているか知らないが、そんな事、黙って見ていられるわけがない。
 西の空を赤く焦がす炎。
 あれは――戴宗の、命なのだ。
 連れ戻さないと。
 探して、見つけ出して、力を使うのをやめさせて――梁山泊に、連れ戻さないと!
 ――しかし、

「駄目だ」

「――――え」
 その声に。
 向けられた厳しい眼差しに。
 翠蓮の体が、スゥ、と冷えた。
 血の気が引いたような思いだった。
 愕然と強張った表情で見上げる彼女へ、花和尚は、いつもの朗らかさが嘘みたいな冷厳な表情と声音で、言う。
「気持ちは、分かる。
 だがな翠蓮殿、戴宗はもう新たな任務に就いた。あの場所にいるのはその一環なのだ。あやつにはまだあそこでやらねばならん事がある。連れ戻す事は許可できん」
 思考停止しかけた頭で、必死にその言葉を反芻し、理解した。

 任務?
 やらなければいけない事?

 そんな、そんなの、
「任務って……! 戴宗さんは、あんなに傷付いて……!」
「それについては何の心配もないそうだ。元々公孫勝の道術で傷は粗方治っておったようだし」
「で、でも、それなら――それなら、私も一緒に! 私は、戴宗さんの見張り役なんだから――」
「駄目だ」
「どうして――!?」
「魔星の宿主になったばかりの者と星の力をすぐ暴走させる者を一緒にするなど、危なっかしくて出来ん。
 聞き分けてくれ、翠蓮殿。これは幹部命令なのだ」
 命令。
 その言葉が持つ気圧されるほどの厳しさに、翠蓮は口を噤んだ。
 命令。有無を言わさないその言葉。その響き。否応なく己の立場を思い知らされる。

 花和尚は、替天行道の大幹部であり、
 翠蓮は、ただの見習いにしか過ぎないのだ。

 拳をギュッと握る翠蓮。うつむいて、目を固く瞑って、唇を噛んで。そうやって胸中に去来する様々な感情を懸命にやり過ごして、乗り切って、
「……はい」
 顔を上げて、ようようと頷く。
 花和尚はそんな翠蓮の態度にほんの少しだけ申し訳なさそうな、しかし満足げな様子で頷き返したが――それでも彼女は、言いたかった。
 どうして。
 どうして探しに行ってはいけないのか。どうして同行してはいけないのか。
 私は、戴宗さんの見張り役なのに。
 宋江さんに直々に任命された、見張り役なのに。
 納得しきれない翠蓮の視界の端で、西の空を焼く炎が、今――消えた。

 

「――と、いうわけなんです」
「ふぅん」
 聞いているのだか、いないのだか。
 何とも判別しづらい気のない声で応じる対面の扈三娘へ、翠蓮は少し頬を膨らませた。
「聞いてます、扈三娘さん?」
「聞いてるわよ、翠蓮ちゃん」
 昼食のメガ豚マン五十個を食べ終え、食後の茶で喉を潤して。
 茶碗を卓に置いた扈三娘は、淡々とした口調と表情で言った。
「要するに、流星を探しに行っちゃいけないって言った花和尚さんがムカつく――って事でしょ?」
「いや、『ムカつく』まで言ってませんよ!?」
「でもそうじゃない」
 と、呆れたような表情で頬杖を突き、茶をもう一口。
「分からないでもないわよ? 昨日あそこに流星がいたのはほぼ確実なのに、探しに行っちゃ駄目、迎えに行っちゃ駄目、なんて。豹子頭の奴もおかしい、って言ってたもの」
「……林冲さんが?」
 翠蓮は僅かに目を見開く。そう、と頷いた扈三娘は、
「昨日花和尚さんに迎えに行く事を提案して突っぱねられて、今朝またやって、駄目だった、って」
 と、続けた。いつも戴宗と事あるごとにいがみ合い、罵り合っていた彼が、そんな提案をしてくれたのか――翠蓮はその事に、軽い驚きにも似た感慨を得た。
 だが、駄目だった。そうですかと応じる翠蓮の声には、隠し切れない落胆の調子があった。
 一夜明けて翌日の昼である。
 あれからそれだけの時間が経っているのに、花和尚の言葉を、それで得た感情を、翠蓮はまだどう受け止めて納めればいいのか分からずにいた。
 納得できないのだ。
 戴宗を一人で行動させるのは不安だ。心配だ。そして翠蓮は戴宗の見張り役である。替天行道の頭領(ボス)の宋江に直々に命じられているのだ。
 だからその任を全うするためにも、戴宗を探しに行く。迎えに行く。
 それは、当たり前の話ではないか?
 それなのに、「魔星の宿主になったばかりの者と星の力をすぐ暴走させる者を一緒にするなど危なっかしくてできん」という理由で戴宗の元に行ってはならない、なんて……――
「――まぁ、仕方ないんじゃないかしら?」
 思考に沈みかけたところにかかった言葉が、翠蓮をビクリと身じろぎさせる。自然と伏せがちになっていた顔をバッと上げれば、扈三娘は思案げな表情でこちらを覗き込んでいた。
「翠蓮ちゃん、別に武術が出来るわけじゃないでしょ? 翠蓮ちゃんに宿った星ってのがどんな力を持っているのか分からないけど、まだその力を上手く使えない翠蓮ちゃんとあの流星をまた組ませるのが不安なのは、私も分かるわ。だってまたあんな連中が襲ってきたら、と思うと心配だもん。
 流星が心配なのは分かるけどさ、とりあえずはその星――えーっと、地獣星、だっけ? それがどんな力なのか、見極めるのもいいんじゃない?」
 と、不意にニコリと明るく笑う扈三娘。卓の向こうから手を伸ばしてポンとこちらの肩を軽く叩くと、
「大丈夫! そんな心配しなくたって、あいつならきっとそう簡単にくたばったりしないわよ! 多分!」
「多分って何ですかー!?」
 いつもの癖でつい突っ込むが、扈三娘はアハハと笑うだけで何も応えず、手をヒラヒラ振って卓から離れ、食堂をあとにしてしまう。その軽やかな動き。残された翠蓮としては釈然としない思いを抱えるばかりだ。
(――……私だって……)
 昼食の食器を片付けて、扈三娘より少し遅れて食堂を出る翠蓮。昼の休憩が終わったら朱貴の手伝いで夕飯の下ごしらえだ。梁山泊の構成員は何百人といる。昼からやらないと夜までに間に合わない。
(私だって、何か、したいのに)
 誰かの手伝いとか使い走りとかした働きのような仕事ではなくて、何かもっと、自分にしか出来ない、確かな役に立つ事がしたいのだ。
 誰かの役に、立ちたいのだ。
 この星の力があれば、きっと誰かの役に立てる。立てるはずだ。だってこの地獣星には、あの寇烕がやって見せたような凄まじい力が秘められているはずなのだから。
 その力を、
(上手く使いこなせれば――)
 早く、使いこなせるようになりたい。
 そうすればきっと。
 きっと――
 そんな事を考えながら、翠蓮は寨内をそぞろ歩きする。昼休憩が終わるまで時間はもう少しあった。午後の仕事が始まってからではぼんやり物思いにふける余裕などない。だから、今の内に――

 その時だった。

「――――――――嫌だ」

 不意に、

「――――――――嫌だ」

 悲痛で、悲愴な、声が、

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ俺は俺は俺は俺は俺はまだまだまだ死にたく――」

 寨内のあらゆる喧騒を突き破って、翠蓮の、耳に、

「…………!?」
 表情を強張らせた。
 ハッと息を飲んだ。
 全身を総毛立たせた。
 まるで昨日の惨劇の時に聞いたような声だった。死を恐れ、死に抗って絞り出す、絶望的な声。
 晴れ渡った空の下で聞くには余りに不釣合いな声。
 全身に緊張を走らせた翠蓮は辺りを見回す。周囲には、昨日と同じく寨内の片付けや防壁の修繕で忙しく立ち働く人々。歩哨、巡視。あるいは翠蓮のように、昼休憩中で仲間と談笑している人。
 普通だ。
 余りに、普通だ。
 時折沈痛な表情を浮かべる人はいる。険しい表情をしている人もいる。けれど寨内の雰囲気は全体的に明るい――それはきっと、王倫がいなくなり、替天行道という新しい風が吹き込んできたからだ。
 あんな悲鳴を上げそうな人はいない。
 あんな悲鳴が上がりそうな様子はどこにもない。
 だが聞こえた。確かに聞こえた。翠蓮の耳に、確かに聞こえた。助けを求める声。いやだと抗う声。死にたくないと訴える声。
(誰――?)
 あの悲痛な声の主は。
(どこ――?)
 嫌だと懇願した声の主は。
(どうして――?)
 皆、忙しく立ち働いていて。
 忙しそうだけれど、それでも、表情はいきいきとしていて。
 今にも死んでしまいそうな、「死にたくない」と言いそうな人なんて、翠蓮の周りにはどこにも、誰もいなくて。

 それなのに、

 それなのに!

 

「嫌っ……嫌だ、っぁぁぁぁああぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 

 その、
 悲痛な、
 心が握り潰され、引き裂かれるような、
 ――断末魔の、金切り声。

「――――――――っ!?」
 翠蓮は声にならない悲鳴を喉で弾けさせて、耳を塞いでうずくまった。
 何で!? どうして!? 疑問の叫びが胸中で巡る。
 戦いなど起こっていない。梁山泊は攻められていない。
 誰も戦っていない。誰も傷付いていない。皆笑って、喋って、働いて……当たり前の日常を送っていて、当たり前に生きていて、断末魔を呼ぶような死の気配なんてどこにもないのに!
 どうして!?
 どうして、誰かの死にゆく声が!

「――――――――翠蓮ちゃん?」

 ハッ――と。
 かけられた声に、翠蓮は恐る恐る顔を上げた。
「……朱……貴、さん……?」
 たどたどしい声でその名を紡ぐ。朱貴は、少し身を屈めて心配そうな表情をして、翠蓮の顔を覗き込んでいた。
「やー、どうしたんだい?」
「……え?」
 問いかけられた事よりも、その心配そうだが朗らかな声に、翠蓮は、訝しげな声を漏らした。
 どうして朱貴は、こんな何もなかったような、それこそ「うずくまった翠蓮をただ案じる様子」をしているのだ?
 あんな声が聞こえたのに。
 誰かの断末魔の叫びが、響いたのに。
「顔、真っ青だよ? 大丈夫?」
「え――」
 どうして?
 どうして?
 あの声が聞こえなかったの?
 あの悲鳴が聞こえなかったの?
 あの悲痛な、死にゆく者の声が。
 あんなに大きな、あんなにはっきりとした死の叫び。
 それが響き渡ったというのに、梁山泊全体に響き渡るほど大きく轟いたはずなのに、どうしてこんな平然と、平静と、普通に、何事もなかったように――
 翠蓮は、舌をもつれさせながら、答えた。
「だ……だって、だって……声――悲鳴、が……――」
「悲鳴? ああ――」
 一旦首を傾げ、すぐに思い当たる節があるとばかりに表情を明るくする朱貴。
 そして、告げる。


「豚の声?」


 ――……え?
 豚?
 豚、と言った?
 どこが豚?
 あれの、どこが、豚?
 はっきり言葉を喋っていた。
 はっきり悲鳴を上げていた。
 死にたくないと哀願していた。
 あれは人の声だ。
 紛れもなく、人の――

「翠蓮ちゃん、豚が潰される時の声聞くの、初めて? やー、それはまずい時に屠殺小屋の傍を通りがかっちゃったね。私なんかメガ豚マンやギガ豚マンを作るのにしょっちゅう聞いてるからすっかり麻痺しちゃったけど、いやぁ、何かごめんね」

 潰される。
 屠殺小屋。
 朱貴の背後を見る。そこにあるのは小さな小屋だ。でも、他の小屋や建物には頻繁に人が出入りしていて活気に溢れているのに比べ、そこはどこか閑散と、うら寂しい雰囲気をまとっている。
 さもあらん――屠殺小屋なら。
 生きた豚や羊や牛を殺し、血抜きし、解体し、食肉とする場所なら。
 皆、何となく忌避するのも当然の心理だ。
 翠蓮の村にもあった。翠蓮自身も忌避していた。肉は食べるけれど、食べられるように加工するための場所に近寄るのは憚られた。
 怖かった。
 そこで、今、豚を、潰した――

 ……豚の声なんて、しなかった。
 人の、男の人の声しか、しなかった。
 何で。
 どうして。
 一体、どういう――

「女の子にはちょっと刺激が強かったかもねー。
 翠蓮ちゃん、気分が悪くなったなら休んでていいよ。夕食の下ごしらえは私と手下たちでやっておくから」
 いえ、大丈夫です、お手伝いできます――
 そう言いたかったのに、……言えなかった。
「――……すみません」
 胸元を押さえ、顔を青白くさせたまま、翠蓮はただ頷いた。


 ――この一件は、しかし、これで終わりではなかった。
 むしろ、これが始まりだった。

 

 午後は結局、朱貴の手伝いではなく違う仕事をやらせてもらった。
 怪我人の治療の助手をしたり、包帯を洗って干したり、乾いた物を取り込んだり、使いやすいよう巻いておいたり。朱貴の手伝いを辞退してもやる事はたくさんあって、そうして忙しく働いている内に昼間の出来事をすっかり忘れ、夕刻になる頃にはすっかりお腹がペコペコだった。
「――あら翠蓮ちゃん」
「扈三娘さん」
 食堂に行ったら既に人でいっぱいで、どこにも座る場所がなさそうだった。そんな時に扈三娘を見つけ、相席させてもらおうと歩み寄って――
 扈三娘が食べている物に、気付く。

 メガ豚マン。

 豚肉。

 豚。

 それを見た瞬間、


 耳に、
 あの、声が。

 

 

 

書架へ次頁へ前頁へ