―4―
ハンス・ペルソナ=オルヴェントの趣味は、掃除である。
(だからと言って、まさか間諜の「掃除」を命じられるとは思わなかったなぁ……)
薄暗い「艦内」で、彼は気弱げに溜め息を吐く。
彼と部下たちの前には、輝く光の幕がある。その幕は色鮮やかな映像を映し出していて、無数に浮かぶ岩礁群の中に錨を下ろした小さな艦を、その中央に据えていた。
反乱軍の旗艦。
ペルソナはカーナ駐留師団の司令であるが、同時に、グランベロスが極秘裏に開発した「特殊戦艦」の艦長も務めている。何故そんなものを任される羽目になったか、といえば、どうも参謀本部から自分はこう思われているらしいからだった――皇帝派でもなく旧政権派でもなく、将軍たちの中で最も人畜無害そうで、「特殊戦艦」を任せても他の連中よりは安心できる、と。
そんな風に侮辱された上にこんなおかしな戦艦を任されるなど、まさに踏んだり蹴ったりだ。しかも今回の任務は、半ば、というかほとんど使い走りみたいなものである。
(「掃除好きのお前に相応しい任務」か……。まったく、いい加減ストライキでも起こしたくなるねぇ)
しかし、頭に「極秘」が付くとは言え、これは正規の任務である。拒否する事は許されない。それが軍人というものだ。
「オルヴェント将軍、目標、捕捉しました」
部下の報告に、我に返るペルソナ。件の艦を幕の映像で視認できた段階で、こちらの「射程」に捕捉できているのだった。
これまでの戦艦とはまるで異なる運用。それに、未だに戸惑う事は多い。しかし、それは今はどうでも良い。ペルソナはよし、と声を上げた。
「では、主砲、斉射よ――」
「それはちょっと困るんで、やめてくれます?」
斉射用意、と言い放とうとした声は、唐突に割って入った、その場違いなほどに穏やかで、困っているようには到底聞こえない声によって遮られ、掻き消された。
「――何者だ!?」
逸早く動いたのはペルソナ自身だった。声が聞こえてきたのは背後。一動作で振り返ると、同時に手に持っていた槍を構え、穂先に付けていたカバーを外して切っ先を露にする。部下たちの挙動は、それから僅か半拍遅れた。
映像幕の明かりが薄ボンヤリと照らす、その範囲。そのギリギリの所に、その男――いや、青年は無造作に立っていた。
(いつの間に……!?)
内心の動揺を押し隠しながら、ペルソナは青年を観察する。
印象は、「凡庸」、その単語を全身で体現している――そんな感じだった。
中肉中背、珍しくもない黒髪黒目、やはり珍しくもない黒縁眼鏡、これといった特徴もない、穏やかなだけの造作。まとう深緑のローブだけがその青年の中で唯一目立つパーツだった。
その姿は、この特殊戦艦の内部という「戦場」においては、まるで異質のものだ。文官然とした外見に、当たり障りのない微笑。余裕を持っているようにも、こちらに媚を振っているようにも取れるその笑顔は、適当な店にでも入れば見られる類のものだ。見る者の神経を逆撫でせず、かと言って和ませもしない、毒にも薬にもならない営業スマイル。
だが、とペルソナは胸中で警戒心を強める。
その青年が、右手に持つ物。
それは、黒い、何の飾り気もない杖だ。頭部に貴石も何も据えられていないが、その杖は青年の正体の一端をペルソナたちに雄弁に物語る。
魔道士だ、と。
ペルソナの誰何の声に、青年はこちらの警戒などまるで気付いていない様子で笑みを崩さないまま、唇を動かす。
「失礼しました。僕――じゃなくて、私はゴドランド当局の代理人です」
「ゴドランド……当局?」
構えを解かないまま、ペルソナはその単語を繰り返す。
ゴドランド「当局」とだけ言った。
「具体的に、どこの部署だ?」
青年の表情は、動かない。
「お教えできません」
「私は宗主国グランベロスのハンス・ペルソナ=オルヴェント将軍だ。その私にも答えられない、と?」
「我がゴドランドには、細かな用件に関する将軍職への説明義務はありません」
つまり――
ゴドランド政府のどこの部分が動いているのか、も。
代理人とはどういう意味なのか、も。
(説明する気はない、って事か……)
ゴドランドは扱いにくい。なまじ自治権やら憲法やら行政組織の維持やらを認めてしまったから、ほとんどの国がグランベロスの「属国」となった中、ただ一つの「他国」として振る舞う。
そして、そんなゴドランドに余計な手を出すべからず、というのは、グランベロスの中では浸透した風潮だった。
「……で、この艦に立ち入った用件は?」
「警告です」
溜め息混じりの問いに、青年は間髪入れずに答えた。それも、物騒な単語を。
ペルソナの左右に並ぶ部下たちが色めき立ち、相手に対し殺気を放つ。ペルソナは、それを視線だけで制してから、
「警告とは?」
「えーと、大きく二点なんですが……」
そう言葉を選び、濁す青年の呑気な事。部下が飛び掛からなければいいけど、とボンヤリ思うペルソナの耳に、青年の淡々とした言葉は信じられない響きを伴って届いた。
「まず、こちらの戦艦なんですが、ゴドランドの領空を侵犯する恐れがあるので、一刻も早く退去してください」
「何だと!?」
これは、ペルソナではなく部下の一人の絶叫だった。
「貴様、我らは宗主国グランベロスだぞ! その軍事行動を妨げるとは、皇帝反逆罪に問われても良いと言っているようなものだぞ!?」
「失礼ですが、我々ゴドランドは自治領、いくら宗主国といえども、その中で勝手に軍事行動を展開する権利はありません。これは講和条約にも記載されていますよ」
そつのない青年の反論に、叫んだ部下はグッと押し黙る。
それを満足げに見やって、青年は言葉を続けた。
「次に、この艦そのものなんですが……これは魔道条約に違反しているので、すぐに運用をやめてください」
「貴様、一体何の権限があって――」
「ですから、私は、ゴドランド当局の代理人ですから」
「ちょっと待て」
いきり立つ部下と、その火に油を注いでいるようにしか見えない青年に対し、ペルソナは制止を掛けた。
「この艦が魔道条約に違反している、とはどういう事なんだ?」
「だってこちら、複合生体戦艦でしょう? 魔道条約の第四十二条、複合生物(キマイラ)生成を禁止する条項に明らかに抵触していますよ」
ペルソナたちはギョッとする。
確かにこの「特殊戦艦」の実態は、ゴドランドから流出した魔道技術を用いて試験的に開発された、魔道式複合生物艦だ。だが、それと気付かれないために外観には普通の戦艦らしい外殻を取り付け、大っぴらな運用は控えてきた。
(そうか……内部を見れば、一目瞭然か)
常人ならば「何だ、この気色悪い内装は」で済む、このやたらと柔らかい床もたまに脈打つ壁も、ゴドランドの魔道士から見れば「気色悪い内装」どころの騒ぎではないのだ。
「まぁ、この二点ですね。ゴドランド当局は、以上二点について、グランベロス軍ハンス・ペルソナ=オルヴェント将軍に異議申し立てをし、速やかな退去を要請します。……こちらとしても余り事を荒立てたくないので、お帰り願えませんか?」
ペルソナは目を僅かに細める。
見据えるのは、青年――
――の、後方。
彼に迫る、無数の影。
「――……我々も、本国からの任務で来ている。そのような要請を素直に聞く事は出来ない」
「駄目ですか」
「駄目だ」
「それでは、私が当局に怒られるんですが……」
「安心しろ」
ペルソナの意外な言葉に、青年は不思議そうにえ、と呻く。
「どうせ、当局に報告する事はない――生還できねぇんだからな」
――ォォォォオオォオォォォォォッ!
言葉の途中から響き渡った、低くざらついた呻き声に、青年はハッと背後に視線をやった。
そして彼が見たものは――
迫り来る、アンデッドの群れ。
(ラディアの奴に仕込んでもらったアンデッド兵……まさかこういう形で役に立つとはなぁ)
腐り落ちた手が、細い骨ばかりとなった手が、無数に青年に伸びていき――
「フレイムゲイズ」
その中心から巻き起こった炎の渦が、全てを灰燼に帰した。
それは、「圧倒的」という形容さえ控えめになるほどの業火だった。
その炎は火柱と化すと、逆巻きながら立ち上り、天井や内壁を焦がし、焼く。
それを痛みとして感じたか、生物艦が大きく震動――いや、痙攣した。
余りにも間近から受ける膨大な熱量に、ペルソナは息を止めた。呼吸すれば、肺を焼かれる。咄嗟にそう判断した。実際、悲鳴を上げようと大きく息を吸った部下の一人が、すぐ傍で喉と胸を押さえてのた打ち回っている。おそらく、助からないだろう。真っ白な炎にあぶられ、触れてもいないのに肌が火傷していく中、ペルソナは妙に冷静にそう思った。
そして、
(化け物か……!)
その極大の炎にペルソナたちよりもずっと間近にいる青年は、ペルソナたちよりもずっと平然と佇んでいた。
何かの魔法で熱を防いでいるのだろうか。魔法や魔道技術には疎いペルソナには、その程度の事しか判らなかった。
何もかもを焼き尽くす炎熱の傍らで、青年は口を開いた。
「……これも、魔道条約に違反しますね」
こちらに視線を戻す青年。
目を灼くほどの炎の明かりで、その顔は影になってしまっている。
しかしペルソナは、断言できた。
彼の笑みは、決して崩れてはいない。
「ご存知でしょうが、グランベロス帝国も魔道条約を批准しています。そして、ゴドランド魔道連盟は、魔道士の倫理と道徳を守るため、相手が誰であってもそれを罪として問います」
その瞬間。
ペルソナの中に、最悪のシナリオが浮かんだ。
ゴドランド魔道連盟は、ゴドランド政府に深く根ざしている。それは最早、政府と同等の存在と言っても過言ではない。
ゴドランド政府が尻込みしても、彼らは、魔道条約違反という名目の下、グランベロスと真っ向から対立するのを躊躇わないだろう。
そうして待つのは、グランベロスと、ゴドランドの、真の総力戦――
そしてそこに、反乱軍が加われば……ゴドランドと手を結べば――
ペルソナは、生唾を飲み込もうとした。
しかし口の中はカラカラに干上がっていて、飲み込もうとしても何も流れていかず、嚥下のために動いた喉が痙攣して微かな悲鳴を上げただけだった。
(そんな事を、実現させるわけにはいかない……!)
「――どうやら、こちらの申したい事をご理解いただけたようですね」
青ざめるペルソナに対し、青年はあくまで穏やかで柔和だった。場違いなほどに。腹が立つほどに。殺したくなるほどに。
「では改めて、こちらの要求を申し上げます」
「要求……? 撤退、ではなかったのか?」
「とりあえず、領空内に立ち入らなければ、こちらとしてもそこまで言う権利はありませんので、それについては実はこのままで良いんですが」
アハハ、と笑って頭を掻く青年。ペルソナはそれを、苛立った思いで見つめる。
それが伝わったか、彼は失礼、と言って、やや真面目な顔を見せた。
「では、要求の第一点。――反乱軍には、手を出さないでいただきたい」
「何だと……? どういう事だ?」
「それを説明する義務はありません」
「……まだあるのか?」
「えぇ。第二点は、このまま領空外、ちょうどこの辺りにもうしばらく留まっていただきませんか?」
「……どういうつもりだ、それは?」
「いやぁ、多分そうした方がそちらとしても楽なのでは、と思うだけですよ。あ、でも、用事が済んだら早急にお帰りくださいね」
「随分と、勝手な言い草だな」
「それを言ったら、侵略行為をしたそちらも、随分と勝手ではなかったのではないでしょうか?」
「…………」
返す言葉が見つからなずに押し黙るペルソナを尻目に、青年は、ふと床に目を落とす。
そこには、先程、喉と肺を熱で灼かれた部下が、小刻みに痙攣していた。
青年は動いた。その部下の元に歩み寄り、しゃがみ込む。
「貴様、何を――」
「失礼」
そこで初めて、青年の声音は変わった。
腹立たしいほどの穏やかさが消え、代わりに、張り詰めた真剣さが表に出た。
一体何をするつもりか。そう見守るペルソナの目の前で、彼は部下の肩に手を掛け、仰向けにする。それからその胸のところに手を当て、小声で口早に、何事かを呟いた。
すると、青年の手に淡い光が宿った。そしてその光は、すぐにスゥ、と部下の胸に吸い込まれるように消える。
それが一体何なのか、ペルソナが答えを出すよりも早く、青年は立ち上がった。
「では、私はこれで失礼します。――あ、それと、この艦におかしな行動が見られた場合には、即座に落としに来ますから、そのつもりで」
それだけ、言い残して。
「テレポトレース」
直後、青年の姿は掻き消えた。
まるで、空気に溶けたかのように。
「――う……」
唖然としたまま動きを止めていたペルソナたちは、床から聞こえたその呻き声で我に返った。
視線を落とせば、喉と胸に手を当てていた部下が、恐る恐る目を開き、怖々と起き上がる。それから、信じられない、とばかりに二、三度ゆっくり大きく深呼吸して、
「オ、オルヴェント将軍――」
喉も、肺も、焼け爛れたはずなのに、彼は何事もなかったかのように声を発した。
そこでようやくペルソナは悟った。青年の、あの行動の意味を。
「助けられたか……」
あれは、治癒魔法だったのだ。プリーストが使う白魔法『ホワイトドラッグ』辺りだろう。
そして、青年が灼熱地獄を現出させた所に目をやる。
そこは穴が開き、すっかり焦げて黒くなり、異臭を放っていた。人体が焼けた時のような、あの何とも言えない胸がムカつく臭いだ。
そこには、あれだけ群がっていたはずの、優に百を超えていたアンデッドの痕跡は、ない。
すっかり焼き尽くされてしまった。灰すら残らずに。それがどれだけの熱量なのか、察してペルソナは背筋が凍る思いを味わう。
彼は、こちらを攻撃しなかった。その必要はなかった。あの『フレイムゲイズ』だけでこちらが彼に対する戦意を失う事は、目に見えていたから。
(奴は、何者だ……?)
これだけの実力を持つ魔道士――それも黒魔法と白魔法を両方とも操る者など、聞いた事がない。しかも彼は、『テレポトレース』とかいう、聞いた事もない魔法を使ってこの場から立ち去った。
何者だったのか。
しかし、それを考えるよりも先に考察しなければいけない事がある。
(奴は、ゴドランド当局の代理人と名乗った)
それが真実だとして。
(ゴドランドが反乱軍を助ける理由は何だ?)
ゴドランドには、キャンベルやマハール、カーナと違って、グランベロスに表立って反抗する動機がない。反乱軍を助け、手を結ぶ要因がない。
いや、あるにはある。例え名目上とは言え、他国を宗主国と仰ぐ、それ自体がグランベロスに反旗を翻す大きな要因であり、動機であり、大義名分だ。だが、講和条約の席で口先三寸で名を捨て実をもぎ取ったゴドランドが、それを本当にするのか? よりにもよって、サウザーが倒れたこの時期に――
(まさか……ゴドランドは、それをもう掴んだってのか?)
それはあり得ない。ゴドランドにまで情報が漏洩するほど日が経ってはいないし、情報漏洩対策は、グドルフの情報機関が徹底して行なっている。だが、それが何だと言うのだ? あの青年は、誰も知らない魔法でこの艦に侵入し、そして去っていった。遠く離れた地へ情報を伝える魔法があったとしても、不思議ではない。
(――どちらにしろ)
ペルソナは、苦々しく未だ映像を映し続ける幕を見やる。
暮れ掛けた空に浮かぶ反乱軍の小さな旗艦は、こちらのドタバタなどまるで知らず、絵に描いたような平穏さで岩礁群の中に佇んでいた。
反乱軍とゴドランドに、どんな繋がりがあるというのだろうか。
「オルヴェント将軍……我々は、これからどうすれば?」
オズオズと尋ねてくる部下の一人に、彼は、映像から視線を外さないまま、答えた。
「退くぞ」
「どこまで、ですか?」
「とりあえず、反乱軍からは距離を取る。距離を取り、ゴドランド領空には一歩も踏み入らない。そしてそのまま待機だ」
「では、将軍――」
「ああ」
ペルソナは、横目に部下を見やる。
「ゴドランド情勢を見極める。本国への帰投はそれ以後だ。――回頭、面舵いっぱい! 本艦はこれより、反乱軍旗艦より距離を保ち、周辺岩礁群へ潜伏する! 総員、周辺警戒を怠るな! かすりでもしたら修理代をお前らの給料から差っ引くぞ!」
「了解!」
その声に、部下たちもまた声を張り上げ、応じる。
そしてそれに呼応するように、生物艦は、緩やかにその艦首の方向を変えた。
その光景を、遠くから眺める影がある。
深緑のローブとマントの裾をはためかせたその人影は、外見だけは普通の戦艦に見えるその艦の動きを見て、満足げに二、三度頷いた。
「よしよし、これで境界線上は当分平穏、と。問題は……」
岩礁と呼ぶには余りにも小さな岩塊に立ち、宵闇を背後にしたその影は、黒縁眼鏡の奥の瞳を南へと向けた。
その方向には、ゴドランド・ラグーンがある。
「評議会がその気になるか、だね。それもこっちの手腕に掛かってる、っていうのは、ちょっと頼られすぎな感もあるけど……」
愚痴めいた呟きを漏らし、彼は視線を更に転じる。
その先には、ファーレンハイト。
「どちらにしろ、今の状況のままがいい、なんていう腰抜けはゴドランドにはほとんどいない。そこだけは安心してほしいな、ビュウ」
そうして浮かべる笑みは、先程まで生物艦の中で浮かべていた作り物めいた微笑とは掛け離れた、砕けた、気さくな笑みだった。二十歳そこそこの青年が浮かべる、年相応の笑顔だ。
それはまるで、気心の知れた友人に向けるような。
「さぁ、僕は伝令役に戻るかな。中央も、いい加減方針を決めてくれると、今度ビュウと会う時食堂の支払いを押し付けられなくて楽なんだけど……これって、経費で落ちるのかなぁ――」
その呟きも、中途で掻き消える。
青年の姿は、朱と紺に塗り分けられた空に、溶けるように消えた。
§
それから数日後。
その日のヨヨの診察の当番は、フレデリカだった。
彼女にとってその時間というのは、嬉しくもあり、虚しくもあった。
ファーレンハイト二階、貴賓室。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、フレデリカは応対に出た。
軋む扉を、音を立てないように慎重に開け、
「――ビュウ」
「フレデリカ」
今朝方、いつものように出掛けていったビュウが、いささか荒い息でそこに立っていた。彼はどこか興奮した様子で、
「殿下のご容態は? お話は出来そうか?」
「――ヨヨ様は……」
お帰り、という挨拶もできないまま、フレデリカは事務的な回答を口にする。肩越しに、貴賓室の奥を見やって、
「今日は、余りご気分が優れないみたい。……余り長くは駄目よ」
背中に敷いたクッションにもたれるヨヨは、虚ろに窓の外を見つめていた。本当ならば大事を取って面会謝絶を言い渡したいところだったのだけれど、きっとビュウには押し切られてしまう。というか、この間、実際に押し切られてしまった。
ここでゴタゴタしてヨヨの気分を害してしまうよりは、とフレデリカは彼に道を譲る。悪い、と一言こちらに告げて、ビュウは大股にヨヨの枕元へと歩み寄った。
「――殿下、ただ今戻りました」
「ビュウ……お帰りなさい」
帰投早々、マントも脱がないままヨヨの枕元に駆けつけるビュウと、血色の悪い顔に弱々しい笑みを浮かべてそれを迎えるヨヨ。
フレデリカはその光景を、壁際に下がって見守っていた。
病に倒れた姫君と、その姫君を何が何でも守ろうとする騎士。
(……まるで、何かのお伽話ね)
嘆息混じりに、そう思う。皮肉げな眼差しを向ける彼女など、二人の眼中にはもう入っていない。
「殿下、お喜びください。ゴドランドから、入国許可が下りました」
「――本当なの?」
「はい。皆にもこれから伝え、すぐにでも艦を動かさせます」
「待って、ビュウ」
立ち上がるビュウを、ヨヨは引き止めた。
「貴方……どんな手品を使ったの?」
ビュウは、薄く、ニヤリと笑う。
「その説明は、またその内に」
答えにヨヨはつまらなさそうに吐息し、妙に楽しそうに笑うビュウは再び足を前に運ぶ。
そして、彼はフレデリカの前を通り、無言で手招きした。彼女は、ヨヨがこちらから窓の外に視線を移したのを確認すると、壁際から離れてビュウについていく。
「――ゴドランドの連中と、話がついた」
「えぇ」
「ヨヨの診察と治療についても、目処がついた。それで、だ」
ビュウは、フレデリカの顔をまっすぐに見つめる。
その表情は真剣そのもので、我知らず胸が高鳴るのを、彼女は感じた。
「これまでのヨヨの診察記録と治療記録を、プリーストたちで全部文書にしてまとめておいてくれないか?」
「――……分かったわ。皆に言って、すぐにでも取り掛かるわ」
「頼む。じゃあ、俺はこれで」
そうして、ビュウは部屋を出る。
ヨヨの診察を担当する時間。
嬉しくもあり、虚しくもある時間。
こんな時間でなければ、忙しいビュウと会話する事は出来ない。
そして、その会話の内容はいつもヨヨの話ばかり――
……いい加減虚しくなってくる。
「――ねぇ、フレデリカ?」
「は、はい?」
嘆息しかけたところにヨヨの声。思いがけない呼び掛けに、答えるフレデリカの声は上擦る。
「な、何でしょうか、ヨヨ様?」
「フレデリカには……」
視線をやれば、ヨヨは窓の外をボンヤリと見つめたまま。こちらには目もくれない。
そのままの姿勢で、彼女は、尋ねてきた。
「好きな人が、いる?」
「……え?」
フレデリカは、思わず、呆然と聞き返してしまった。それからすぐに、
「あ、あの、ヨヨ様? それは、一体どういう意味でしょうか……?」
「嫌ね、そのままの意味よ。好きな人、いないの?」
そう笑ってこちらを向くヨヨの顔には、まるで少女のような、ワクワクとした笑みがある。
その笑みに押されるようにして、フレデリカはオタオタと、
「え、えーと、好きな人……ですか……?」
脳裏に浮かぶ顔がある。
太陽の光を凝縮したような金髪と、この青空のような瞳を持った青年の顔。
時に険しく、時に優しく、時に狡猾に、コロコロと変わる彼の表情。
「――……いません」
――言えるわけがないではないか。
彼は、ヨヨのために生きているような人で。
ヨヨもまた、彼に支えられて生きている。
その間に入って、なんて……そんな事、出来るわけがないではないか。
「……そう」
答えを聞いたヨヨは、しばらく押し黙った後で、興味津々の笑みを消して、それだけ呟いた。
それから彼女は、興醒めしたように再び窓の外に目を向けて、話はそれだけで終わったから、フレデリカは正直ホッとした。
「――嘘吐きね」
気を抜いたから、ヨヨのその小さな、本当に小さな呟きは、フレデリカの耳には入らなかった。
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