―1―
――来い。
来い、と。
寄せては返す波のように、その声は、遠く、近く、高く、低く、延々と、耳の奥でこだまする。
「――王女? ヨヨ王女、どうなされた?」
気遣わしげな呼び掛けに、ヨヨはハッと我に返る。
顔を上げる。その時にはもう声は遠ざかっていた。余韻すらなかった。まるで、元々そんな声など聞こえていなかったかのように。
まるで……自分の頭の中でだけ繰り広げられた、妄想のように。
いっそそうであった方がどれほど良かったか。白い顔を更に白くさせ、しかめっ面で唇を噛むヨヨは、前を行くギョームがこちらを振り返っているのを見た。
彼が持つランプだけがこの暗闇を照らす灯り。それに浮かび上がるギョームの顔には、心配げな色が浮かんでいた。くっきりとした陰影に彩られるその表情に、ヨヨはどうにか笑みを返す。
「いえ、何でもありませんわ、オークール公。――お話の続きを」
「はい……では」
ヨヨの催促に、不安げな色を浮かべていたギョームは、それでも頷いた。幾分話しにくそうにしながらも、続けて総括するには、
「ともあれ、このようにして、この地下神殿は忘れ去られていったのです。幾度かの王朝の交代劇の中で多くの文献は失われ、ここについての資料で残っていたのは、我が司法院の資料室に納められていた、数代前の王朝の即位儀礼に関する法令集の断片だけでした」
即位儀礼。
「……では、かつてのマハール王朝ではここで戴冠式を行なった、と?」
「正確には、戴冠式後の秘儀という形で、です。王と、祭祀を司る神官のみがここを訪れ、あの扉の向こうに即位の報告と守護の嘆願をしたのだといいます」
ギョームは視線を遥か前方に向ける。つられて、ヨヨも彼から視線を前に移した。
緑青で彩られ、闇がその色を深くする水底色の空間。ヒヤリと冷たいジメつく空気には、地下だというのに意外なほどにかび臭さがなく、清浄さすら感じさせる。それは単に「神殿」という場所から来る錯覚か、それとも本当に何かしらの力が働いているのか。ギョームの持つランプが照らし出す光の先からは全く見通せないこの闇では、それを判断するのも難しい。
その灯りが僅かに照らし出す視線の先。
列柱を侍らす回廊の先。
そこに鎮座するのは藍青の大扉。
神殿の中、内殿と奥殿とを仕切るそれ。
何十年、何百年、いやもしかしたら、何千年と開けられた事がないはずである。それ以前に、この神殿に足を踏み入れたのは、ここ二百年以内では今この瞬間の、ヨヨたちだけだ。それだというのに、扉の表面は、まるで常に手入れされているかのごとくツルリと光を反射し、苔やカビはおろか曇り一つない。
(……キャンベルのとは、大分違うわね)
何となくそんな事を思うが、その違いの一つには、キャンベルの『草原の民』もしくは『森林の民』と、マハールの『湖畔の民』との間の宗教観の差があるに違いない。前者は狩る狼と狩られる鹿の神を崇敬し、後者は屈服できそうで出来ない大河の象徴としての神なる竜を畏怖した。祀るための神殿を建てるか否かは、そこに掛かる。
扉を見上げながらそんな事を考えるヨヨは、唐突に耳鳴りを覚えた。
キィィィン……と、遠くなったり近くなったりする甲高い音ではない音。途端に表情をしかめる彼女。
そして、その耳鳴りの奥で、聞こえる。
――ここに来い、ここに来い、さぁ、さぁ、さぁ……――
寄せては返す波のように。
悪寒と吐き気と眩暈と嫌悪を伴って。
ヨヨの様子の変化に気付き、ギョームは再び気遣わしげな視線を送ってきた。
「ヨヨ王女殿下、どうされます? ご気分が優れないようであれば、今日のところは――」
「いえ、オークール公」
吐き気を堪え、ヨヨは決然とかぶりを振る。まっすぐに扉を睨み据えたまま、
「参ります」
「しかしヨヨ様、無茶をなさっては」
「そうだよ姫。ビュウはまだ帰ってこないよ。明日ならいるから、明日にしようよ」
「今日やるも明日やるも同じ事です」
背後に控えるマテライトとセンダックに素っ気なく返す。二人が絶句するのを気配で捉えながらも、ヨヨは決して、視線をそちらに向けない。彼女の双眸は、ランプの揺れる灯りに照らされてそれこそ水底のように青色を淡く濃く揺らめかせる回廊の奥に注がれている。
視線を逸らすわけにはいかなかった。
その向こうに、圧倒的な気配を感じていたから。
チリチリと肌を焼く熱のような。
ピキピキと骨を凍らす冷気のような。
ビシビシと身を打つ暴風のような。
それでいて、そこはまるで凪の湖面のように耳が痛いほどの静寂。
その静寂を。
――コツッ。
靴音で、破る。
――コツッ、コツッ。
人ならぬ気配に圧倒されたか、マテライトやギョームはついてこない。センダックなぞ震えてさえいる。
おそらく、それが正しい。
――コツッ、コツッ。
君子危うきに近寄らず。
危険と判断すれば身が竦む、それが人の、いや、生物の本能。
――コツッ、コツッ。
けれど。
――コツッ……。
それを押し込めて。
押し殺して。
立ち向かわなければ、いけない。
扉の前で足を止めたヨヨは、人の背丈の優に四倍はあろうかと思われるその扉を、険しい目つきで見上げた。
「――……来ました」
口の中で、小さく、本当に小さく、呟く。
「神竜リヴァイアサン」
――よく来た、ドラグナー。
次の瞬間。
――バァァァァァンッ!
永劫に開く事はないと思われていた紺碧の大扉が、音を立てて勢いよく開き。
「――ヨヨ様っ!」
突然の事態に驚くマテライトの悲鳴が聞こえ。
身を凍らせるほどの冷気が突風となって吹きつける中、彼女は、見えた物に目を見開き、絶句する。
戸板と戸板の隙間から垣間見える、扉の奥。
そこに鎮座する、巨大な氷塊。
その中に埋もれるは、瑠璃色の鱗を持つ長大な竜。
閉じられていたその目がカッと見開き、青白い光を放つ。
――それが、ヨヨがマハール王宮地下の忘れ去られた神殿で見た、最後の光景だった。
§
ヨヨが倒れた。
それが、サルーン市から戻ってきたビュウにもたらされた急報だった。
「この一大事に、ビュウ、貴様一体どこで油を売っておったのだ!」
「単独任務だ、って話は通しておいただろう! それより俺の方だってオッサン、あんたに言っておいたはずだ! 俺が戻るまで、ヨヨを地下神殿に入れさせるな、って! 何で入れさせた!?」
「貴様が戻るまでに神竜の神殿を見ておきたい、とヨヨ様が申されたのだ! 臣下として主君の言に従うのは当然であろう!」
「それを諌めるのも臣下の務めだ!」
「あんたたち、いい加減にしな!」
互いに責任を押し付けあうマテライトとビュウに、ゾラの怒声が降り注ぐ。
腰に手を当てた彼女は、二人をそれぞれ鋭く険しく睨みつけ、こめかみの辺りに青筋すら立てて、怒鳴る。
「まったく何だってんだい、大の男が二人して情けない! 臣下の務めだか何だか知んないけど、そんな事を盾にしてグチャグチャやるのはやめな! みっともないったらありゃしない!」
――ったらありゃしない、りゃしない、しない、ない、ない……――
静寂の回廊にこだましていく声。三人は身じろぎし、ギクリと表情を強張らせて周囲を見回す。
石造りの床と壁。声は吸い込まれず、ただ反響していく。窓から差し込む黄昏の光が廊下を朱色に染め上げ、静寂と相俟って、その光景は余計に人気のなさを助長させているようだ。
こだまは、徐々にどこかへ消えていく。見えるわけでもないのに見送っていた三人は、耳に届かなくなってようやく、強張らせていた表情をほぐした。もっとも、そうして作られた次なる顔は、決まりの悪そうな曖昧な渋面だったが。
騒ぐのを叱責する者もいなければ、止める者もいない。ヨヨが倒れてすぐに、この場所は関係者以外立入禁止となった。一つにはヨヨの容態を案じて、一つにはスキャンダルとなるのを恐れて。
そんな場所で、自分たちは何をやっているのだか。感情に任せて怒鳴った事に、今更ながらに呆れ混じりの吐息を一つ。
いや、三つ。ビュウだけでなく、ゾラも、マテライトまで溜め息を吐いている。
それが契機だった。ビュウは、今度こそ廊下に響かない程度の小声で、
「……すまなかった。つい取り乱した」
「いや、わしも不甲斐なさから立ち会わなかったお前に当たってしまった。許せ」
苦々しい仏頂面で、とりあえずの謝罪。それを終えてから、気を取り直し、やはり苦々しく顔をしかめているゾラに視線を向けた。
「それでゾラ? ヨヨの容態は?」
「……今の状態じゃ、何とも言えないね」
と、肩を竦めるゾラ。
「とりあえず今は、ここのプリーストたちにヨヨ様のお体の状態をよく知ってるセンダック老師とディアナとフレデリカが加わって調べてるけど……正直な話、お手上げだよ」
「何じゃと!? それだけ人手を掛けていながら――」
怒声は再びよく響いていく。
それに気付いたマテライトは慌てて口を噤み、こだまする声が掻き消えるのを待ってから、
「お手上げとは、一体どういう事じゃ?」
すぐにいきり立つ彼に咎めの視線を送っていたゾラは、フゥ、と溜め息一つの後に、
「姫様の今の状態は、大体こんな感じさ」
七時間以上にも及ぶ昏睡状態。
あらゆる外傷、特に頭部の打撲などは認められない。
発熱はなし。
その他異常は一切なし。
「――……つまり、ただ眠っているだけ、か」
「それも、夢を見ない深い眠りを、さね」
要約するビュウに、声音に深刻な調子を交えて補足するゾラ。
「人間ってのは、寝ている時に夢を見る浅い睡眠と夢を見ない深い睡眠を繰り返すんだよ。その周期が、大体一時間半。午前に倒れられてからもう七時間は経ってるから、四周しているはずなんだけど――」
「夢を見ている兆候はない」
ゾラは無言で頷いた。それから、いささかの逡巡を見せてから、
「……キャンベルで姫様をお助けした後の時と、おんなじだよ」
それを聞いて、ビュウは表情に苛立たしさにも似たものを乗せる。
「つまり――」
その一方で、話を進めるのはマテライト。
「ヨヨ様が地下神殿で神竜と接触したからこうなった……――すなわち原因は神竜、と、そういう事か?」
「そう思うけど、断言は出来ないよ」
彼女はかぶりを振る。
「はっきり言わせてもらえればね、あたしたちの手には負えないんだよ、神竜なんてのはさ」
それから、不意に思い出したように、
「……キャンベルの森で、遠くからだけど、あたしも神竜ヴァリトラを見たんだよ」
「…………」
無言でその声に耳を傾けるビュウとマテライト。
「あの化石の姿も、姫様に呼び出された姿も、はっきり言って、息が止まるかと思うくらい恐ろしかった」
「…………」
「そりゃ、あたしだって解ってるよ。見た目はサラマンダーやアイスドラゴンやモルテンや、要は戦竜たちとほとんど変わらない、って事は。でもね、それでも恐ろしかったんだよ。何をどう、なんて説明できるモンじゃない」
「…………」
「聞くところによると、姫様の心の中に、神竜が入っちまった、ってんだろ? あんな恐ろしいものが自分の心ん中に入っちまったんだ。そりゃあおっきな負担で昏睡もするさ」
ビュウも、マテライトから聞いていた。
キャンベルで、ヨヨが呼び出した神竜ヴァリトラの力の程を。
敵も味方も、無差別に薙ぎ払った青い閃光。力の奔流。
ヨヨはそれを制御できていなかった。神竜に振り回されていた。
「――とりあえず、もうしばらくは様子を見てみないと判断しようがないよ」
そう締めくくって、ゾラはもう一度、肩を竦めた。吐息と共に。そして、すぐ傍らの扉――ヨヨが運び込まれた仮の病室へと向き直る。
「容態が変わったらすぐに呼ぶよ。だから、しばらくおとなしく待ってるんだね」
「……あぁ、判った」
「ゾラよ……ヨヨ様を、頼むぞ」
ビュウは頷き、マテライトは珍しく素直に相手を頼る。
その珍しさに目を僅かに丸くしたゾラは、すぐに視線を柔らかくして、無言で一つ頷いたのだった。
ヨヨが目を覚ましたのは、それから優に三日後の事。
しかし目が覚めてはまた眠り、眠ってはうなされ、目覚めては食事も取らずに時折思い出したように水分だけを摂る、そんな日が続いた。
そうしてヨヨは、みるみる内にやつれていった。
「――ゴドランド、に?」
たった数日で随分と頬をこけさせたヨヨは、その国名を不思議そうに繰り返した。
「そうです」
ビュウは頷く。背後に控えるマテライトとセンダックは、すっかり弱ったヨヨの様子にただ沈痛に表情を曇らせるだけ。
ヨヨは、何とか起き上がっている。だが、背中にクッションをいくつも置いてそれにもたれ掛かっている状態で、加えてそれだけでも疲れてしまうという。
それほどまでに、彼女の衰弱は深い。だから説明は簡潔に。細かい事なんて、後で文書にまとめて「暇な時にでもどうぞ」とばかりに丸投げしてしまえば良い。
「正直に申し上げますが、今の殿下のご容態は、反乱軍(うち)のプリーストでは手に負えません。ですからゴドランドの専門家に診ていただきます。――ご異存は?」
「ゴドランド……」
もう一度その単語を繰り返し呟き、ヨヨはスゥッと目を細めた。そのまま、エメラルドの瞳だけをこちらに向ける。
病人然とやつれているにも関わらず、その瞳に宿る光の強さだけは変わっていない。
「――分かりました」
ヨヨは、そう言った。
「このままでは、私は旗印としての役も果たせなくなります。ゴドランドへ行き、私の身に何が起こっているか、調べてもらう事にしましょう」
「では、殿下」
「えぇ」
ヨヨは宣言する。
その声の強さもまた、いつも通り。
「これより、ゴドランドを次の目的地と定めます。出立の準備を急ぎなさい」
「「「はっ!」」」
三人の了解の声は唱和し、仮の病室に響く。
そして退出のため礼をし、踵を返したところを、
「――ビュウ」
ヨヨは、ビュウだけを呼び止める。
立ち止まるビュウ。肩越しに振り返る。
そして見る。
ここのところ食がすっかり細くなり、痩せてしまったヨヨ。
顔色は悪く青ざめていて、唇の色も薄い。
それでも口の端を持ち上げ、笑っている。
「ゴドランドは、一筋縄じゃいかないわよ」
「承知しています」
「では、お手並み拝見ね」
楽しみだわ、と。
そう楽しそうに囁いて、ヨヨは布団の中に潜り込む。
聖暦四九九九年、八月三日。
反乱軍はマハールを出立。
ファーレンハイトは、その艦首をマハール・ゴドランド国境線へと向けた。
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