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 ――それは、『草原の民』にとっては屈辱の象徴とも言うべき存在だった。
 彼らの愛すべき美しい草原に突然現われた醜悪な建物の群れ。小さくまとめて運ぶ事はおろか、馬車に乗せる事も出来ない、この草原の理から反した建造物。
 壁で囲われ、その内には小さな町と、濠(ほり)。水を湛えた濠の内側に建つ倉庫の群れと、一際大きな石造りの建物。
 西部の穀倉地帯と王都とを結ぶ要衝に据えられた、それがグランベロスがキャンベル占領後に建造した補給基地だった。


 それを遠くに見据えるビリカ・カンは、馬上で黒々としたヒゲを無意識にしごいていた。
 その口元が僅かに持ち上がり、笑みを形作っている。
 中原で行なわれた大族長会議から、既に四日。事態は異様なほどの速度で進行している。それほどに短い間に、ビリカ・カンが自ら率いるケルート族を中心とした『草原の民』騎馬隊の先頭に立って補給基地に迫るには、それ相応の経緯がある。
 思い出されるのは、あの娘の笑顔だった。挑むような、試すような、嘲るような、称えるような。如何様にも映る、しかし捉えどころのない微笑みで、あのカーナの姫はあっさりと言ってのけたのだ。

『では、もったいぶらずにさっさと西部と王都を繋ぐ補給基地を潰しましょう』

 まるで、これからする遊びを提案するような、そんな気楽な口調で、彼女はあっさりと今後の進軍計画を切り出したのだ。隣に控えた、あの『魔人』とすら謳われたビュウ=アソルには何も言わせずに。

『西部方面からの物資を一時的に蓄えておく件の補給基地には、現在、駐留師団のガティ・ゾンベルト=グラスター将軍が留まっています。ですので』

 臣下にも、集ったカンにも、そして『カーン』としてついに立ったトゥルイにも口を挟ませずに、彼女は笑ったまま宣言したのだ。

『ガティ・ゾンベルト=グラスターには、ここで退場していただきましょう』

 その一言で、この後の指針が決定してしまった。
 外部の者の意見に左右されるなど、族長会議の長い伝統を鑑みればあってはならない事だった。しかし、何故かビリカ・カンは愉快で仕方なかった。
 いつの頃からか、族長会議は紛糾するのが常だった――誰もが己の氏族の利益だけを追求し、部族の、あるいはこの国そのもののそれまで考える事は決してなかった。
 その悪しき伝統を、ヨヨはあっさりと笑って打ち砕いてしまった。粉微塵にし、しかもカンたちの上に立つべき新たな君主まで見出した。トゥルイ・カーンがどれほど力ある君主に成長するかはまだ分からない。だが、ビリカ・カンは決めていた。自分こそが、彼を支える第一の臣になる、と。
 何故ならトゥルイは、今はまだ力はないかもしれないが、慧眼の持ち主だ。彼が強く主張しなければ『魔人』の使者であるリック=マーカスが宿営地のカンの天幕に出入りする事も、カーナの残党たちが大族長会議に出席する事も叶わなかったのだから。

「カン、斥候が戻りました」
 部下が近寄り報告する。ビリカ・カンは無言でそれを促した。
「四つの門の内、南門が開放されています。そこから突撃できるものかと思いますが……」
「どうした?」
「城壁の上に兵の展開が見られます。おそらく、真っ正直に正面突破をすれば、たちまち矢の雨が降り注ぐ事でしょう」
「ふん」
 ビリカ・カンは鼻で笑った。
「矢の雨、だと? ベロスの貧弱な弓矢が、我らを射抜く、と?」
 部下を見返す。その視線に、壮年に差し掛かりつつある士官が僅かにたじろいだ。
「我らを守るは草原の覇者『蒼き狼』」
 部下から視線を基地の城壁に戻し、ビリカ・カンは笑う。
「『狩る者』が狩られると思うのか?」
 獰猛さすら秘めた、しかし静かな口調でそう問うと、部下の答えを待たずして、彼は馬首を返し、そこに控える数千の突撃騎馬へと高らかに言い放った。
「恐れる事など何もない! 我らは『蒼き狼』の子、誇り高き『草原の民』! その恩寵厚きこの地で、我らが夷狄(いてき)に破れる事などあるはずがない!」
 そして再び基地へと向き直り、鬨の声を上げる。
「鼓を打ち鳴らせ! いざ、突撃ぞ!」
 鼓手たちが鳴らす太鼓が進軍の合図となる。
 ビリカ・カンは先頭を切って、城壁の南門へと馬を走らせた。
 もちろん、城壁の上にいるグランベロス兵を射る矢をつがえる事を忘れずに。





§






 倉庫群を見下ろす要塞本丸の司令室で、ガティ・ゾンベルト=グラスターは焦らされる思いで報告を待った。
 早く来い。早く。口元にうっすらと嗜虐的な笑みが浮かぶのを、彼は止められない。
 目障りな『草原の民』の駆逐が出来る。反乱軍の討伐で出撃し、損害を被って補給のためにこの僻地に逗留していただけなのに、まさかこんな幸運に出会うとは。
「――グラスター将軍閣下」
 その彼に、この基地の守備隊長が声を掛けた。ゾンベルトは顔を上げる。何かを決心したような守備隊長の強張った顔に出会った。
「……この作戦を、本当に決行されるおつもりですか?」
 ゾンベルトは眉根を寄せた。眉間にしわが刻まれる。興を削がれたような、明らかな不快の表情。守備隊長の後ろに控える士官が顔を青ざめさせたが、守備隊長の表情は硬いまま。
「それが、どうした?」
 抑揚も少なく、問う。一瞬口ごもる守備隊長。だが、すぐに意を決して口を開いた。
「考え直していただけませんか?」
「……何?」
「自分は、このような作戦には反対であります。ここは、駐留師団十万の兵士ための食料や衣服、衣料品、武器火薬を集めた補給基地です。閣下の作戦は、十万の兵士の胃袋を一ヶ月賄う食糧を全て灰燼に帰させてしまいます! それに、軍属職員の避難もまだ――」

 ゴスッ!

 守備隊長の言葉が最後まで紡がれない内に、ゾンベルトの大きな握り拳がその顔にめり込んだ。鼻を潰され、歯を折られ、守備隊長は司令室の壁まで吹っ飛ばされる。
 その彼を助け起こそうと駆け寄る士官に汚らわしそうな視線を送りながら、ゾンベルトはブツブツと低く言った。
「食料だと? 軍属だと? それが一体どうした? そんなものを気に掛けるような惰弱な精神を持つ男が、栄えあるグランベロスの軍人とは……」
 一方で、士官は怯えた眼差しをこちらに向けている。それはそれで、ゾンベルトの嗜虐心をいくらか満たした。
「いいか、奴らのような目障りなハエは、ここで叩き潰さねばならんのだ。そのために犠牲が出ても、それは仕方のない事。むしろ、祖国の栄光の礎になれる事を誇りに思うべきなのだ!」
 守備隊長がノロノロと体を起こす。口元を押さえる手は血まみれだった。しかし、向けられる視線はあくまでこちらを非難するかのようなそれで、決して怯え、恐れ、屈服したそれではない。目障りだ。ユラリ、とゾンベルトは指揮卓から離れる。守備隊長と士官の下へと一歩踏み出し、脇に置いていた、鋼の甲冑をも一振りで砕く巨大な棍棒を手に取る。その瞬間、二人の顔に恐怖が浮かんだ。ゾンベルトはニィ、と笑う。そして、棍棒を振りかぶり――

「将軍閣下!」

 司令室に駆け込んできた伝令の声が、ゾンベルトの動きを止めた。
「監視より報告! 『草原の民』ケルート族騎馬隊、城門を突破し、濠へと突撃している模様!」
 棍棒を振りかぶったまま、ゾンベルトは伝令を見た。一息に報告し終えたまだ若い兵は、司令室で起こりつつあった異常事態に目を剥いている。しかし、最早それはどうでも良かった。
「……なら、倉庫群の工作班に伝えろ」
 その笑みが深くなる。
 見る者がゾッとする、それはひどくサディスティックな笑顔だった。
「奴らの鼻面を叩け、とな!」





§






 何かが、おかしい。

『草原の民』騎馬隊の後方。臨時司令部となっている天幕の中で、ヨヨはマテライトと共に補給基地の建物の配置図と睨めっこしていた。
(……ビュウがいてくれたら)
 こちらの作戦にこそビュウがいてくれれば――と思いはするが、ビュウたち戦竜隊は戦竜隊で、機動力を要する任務に就いている。ないものねだりは、いけない。


 補給基地攻略作戦は、その当初から軍をいくつかの部隊に分割せざるを得なかった。
 まず、実際に補給基地の攻略に当たる、ビリカ・カンの率いる騎馬隊と、ヨヨとマテライトが率いるウィザード、プリースト、ランサー、ヘビーアーマー隊。規模はそう大きくもないが、作戦の性質上小回りが要求されるので、これで最適だ。
 次に、ビュウとマーカスの率いる二個小隊。これが、現在キャンベル各地の基地へと向かっている輸送隊の襲撃に当たっている。戦竜の広範な機動力が一番生かされる配置だ。
 最後に、今も尚、王都に迫っているトゥルイ率いるエンケ族を中心とした部隊。こちらの規模が最大であり、王都の師団司令部との戦いに備えてのものである。

 補給基地を攻略するその最たる意義は、そこからの物資を当てにするしかない各地の部隊を疲弊させる事にある。
 しかも都合の良い事に、王都の師団司令部までが、ここからの補給を生命線にしている。先端を開いたその初期に相手の「胃袋」にダメージを与えるのは、戦略としては定石とも言える策だった。
 補給基地を確保し、輸送隊を潰し、王都の司令部の士気が低下したところに、トゥルイの部隊が突撃する。それが、対キャンベル駐留師団の大雑把なプランだった。
 更にこちらにとって幸運な事に、今、この補給基地にはゾンベルトがいる。生死はさておき、ここで司令部に復帰できないほどの痛手を負わせておけば、指揮系統が混乱するのは必定。
 要するに、この補給基地を滞りなく占領できるか否かに、駐留師団を下せるか否かが掛かっているのだ。


 ――だが。
 ヨヨの頭に、何か引っ掛かる事がある。明確な形を成しそうで成さない何か。それはまるで、霧の向こうで揺れる人影のようにはかなく頼りないものだった。
(一体何が――)
 それを感じたのは、ビリカ・カンの率いる騎馬隊が城門を突破したとの報せを受けた後だった。その時、ふと何の気なしにこの配置図に目を落として……――
(ビュウがいれば……きっと、彼ならすぐに答えを出してくれるのに)
 ないものねだりは分かっているが、そう願わずにはいられない。
 もどかしさと、焦りと。今ヨヨを支配する感情は、まさにその二つだった。
 勘が、言っている。この違和感の正体を突き止めなければ、何かが手遅れになる。
 彼女のエメラルドの瞳は何度も配置図をなぞる。城壁のすぐ内側に築かれた、軍属職員や労働者のための住宅地。出入りの商人のための宿屋街に、商店街。そんな住宅地に囲まれた正方形の中央部分には濠があり、濠が囲む要塞本丸の周辺には、様々な物資を蓄えている倉庫群がある。食料、衣料品、医薬品、その他雑貨、そして武器や火薬。
 目が、ある一点に止まった。
(……火薬)

 その瞬間、唐突に、脳裏に閃くものがあった。
(いえ、でも、これは――)

「……マテライト」
「は、何ですかな、ヨヨ様?」
「ビリカ・カンの騎馬隊は、今、どこまで進軍したのだったかしら?」
「先程来た伝令によれば」
 マテライトの節くれだった人差し指が、配置図のある一点を指し示す。
「ここまで進軍したそうですが、それが何か?」
 それはちょうど濠に架かる橋の手前。
 では、今頃はもう、騎馬隊の一部は橋を渡って要塞本丸に迫っている――
 引っ掛かっていた「何か」が、とうとう明確な形を得る。その推測にヨヨは目を見開いた。
 あり得ない。
 こんな戦術、あり得ない。あってはならない。だが……否定しようとすればするほど、ヨヨの中でその戦術の可能性が高くなっていく!
「誰か――」
 配置図から目を引き離し、顔を勢いよく上げて、ヨヨは声を上げた。いや、絶叫した。
「誰か、ビリカ・カンに伝令を! 早く――」
 マテライトが腰を浮かし、天幕の外に駆け出ようとし――

 大気を、大地を揺るがすほどの轟音が、天幕を隔てて、ヨヨの鼓膜を、体を震わせた。

 マテライトが天幕の外に飛び出すのと、ヨヨが立ち上がったのは同じタイミングだった。彼に一歩遅れてヨヨは外に出る。
 そこで目にした光景に、マテライト同様、彼女もまた体を強張らせ、絶句した。

 空が、赤々と燃えている。
 城壁の内側から立ち上る黒煙は、赤く染まる空を暗く彩ろうとしている。
 風が吹く。草原特有の強い風は煙を運び、それが見開かれたヨヨの目にしみた。
 炎が燃え上がる。悲鳴が聞こえる。ヨヨたちと同じく後方に留まっていた者たちは一斉にざわめきだし、あるいはパニックに陥り、それが徐々に広がっていく。

 ゾッとした。
 吐き気がした。
 肌が粟立つのは、決して風のせいではない。薄ら寒さすら覚えて、彼女は肩を抱き締めた。
 どうしてこんな時に、ビュウはいないのだろう。いればきっと、
(こんな事態を、防いでくれた――)
 だが、彼も予見できたのだろうか?

 ゾンベルトが……火薬庫を爆破して、侵入してきた敵を吹き飛ばす、など。
 備蓄していた食糧や衣服などの全てを捨ててまで、敵の殲滅を優先する、など。

 補給物資の有無は、軍の士気に直結する。兵士を飢えさせない事よりも、侵入した敵を吹き飛ばす事の方が優先されるなんて。
「何て事……!」
 ヨヨは呻いた。
 倉庫群の中で、火薬庫は全部で十棟。その全てに火が点けられたとしたなら、その周辺にいた人間はもちろんの事、他の倉庫や建物、もしかしたら本丸にまで炎が及ぶかもしれない。それでも、ゾンベルトは火薬庫の爆破を選択した。
 それは、戦術でも戦略でもない。
 虐殺だ。
「……マテライト」
「……はっ」
「戦竜を出して。私も本丸に向かいます!」
 未だ上がる爆炎から目を離さないまま、ヨヨは命じた。隣のマテライトはギョッとする。
「ヨ、ヨヨ様、何を馬鹿な――! ヨヨ様おん自らが行かれてはなりませぬ! ここは、我々が――」
 バッと視線を戻し、動揺するマテライトを睨みつける。
「私も、行きます」
「…………」
 彼はジッと押し黙る。その顔は難しそうに強張って、ヨヨの言葉を真剣に吟味してくれているようだった。
 硬く引き結ばれた唇が、おもむろに動く。
「……承知しました」
 紡がれた声は、しかし未だ固く、ヨヨの言葉をまるで歓迎していない事がありありと聞き取れる。
「ヨヨ様がそうおっしゃられるならば……わしは、反対いたしませぬ」
「マテ――」
「ですが!」
 マテライトが強く遮った。
「ですが……危険と判断したら、すぐに引き返しますぞ。よろしいですな?」
 こちらを見据える目に宿る光の鋭い事。さすがは、カーナ軍を代表する将校だ。
 ヨヨもまた、固い表情で頷いた。



 ビュウの命令をあらかじめ聞いていたらしい戦竜のサンダーホークは、マテライトの拙い指示に素直に従った。
 飛び立ち、火勢の衰えない要塞本丸の上空へ。マテライトの背中にしがみつくように乗っていたヨヨは、ソォッと下を覗き込んだ。
「……先行した騎馬隊の生存は、絶望的ですな」
「…………」
 その分析は冷静そのものだった。というか、例え頭に血が上っていても、眼下のこの景色を見れば誰でも同じ結論を下すだろう。

 炎が、風にあおられ渦を巻く。
 倉庫群を焼き、本丸を巻き込み、一部は住宅地へと飛び火している。このままでは、住宅地も大火に飲まれるだろう。

「同胞を犠牲にするとは……何という男でアリマスか」
 サンダーホークに同乗するタイチョーが呻く。その声には、こんな正気とも思えない作戦を採用したゾンベルトへの怒りが含まれている。
 立ち上る煙に辟易しながら、それでもヨヨは目を凝らす。煙の黒と炎の赤に埋め尽くされ、人影なんてほとんど見えやしないのだが。
 ――いや。
「…………?」
 視界の片隅に、何かが動いている。そちらに視線を移動させるヨヨ。
 要塞本丸の裏手、北側から、何か固まりのようなものが動いている。
「マテライト、あれを!」
「むっ? あれは……?」
 ヨヨの指が指し示す方向に目を凝らすマテライト。次の瞬間、あっと声を上げた。
「――あれは、グラスターの部隊ですぞ!」
 二個小隊が、未だ火の及ばない裏手から、コソコソと北側へと逃れようとしている。濠は小船で渡るつもりなのだろう。
 これだけの事をしておきながら――こんな形で『草原の民』を殺しておきながら、自分は部下と共にコソコソと逃れる?
 何て男。何て卑劣漢。これが、誇り高きグランベロスの将軍だと?
 許せない――

『ならば、高らかに唱えよ』

 ――沸々とたぎる怒りに呼応するような、声。

『さすれば、汝の望みを叶えよう』

 ――どこか何かを嘲るような、暗い笑みを含んだ声。

『さぁ、我が声に続け――』

 鼓膜を通さずに、直接頭に響くその声が一体何なのか、ヨヨは本能的に悟っていた。
 だから、その声に抗えなかった。
 その提案は……余りに、魅力的だったから。

 ヨヨはサンダーホークの背の上にすっくと立ち上がった。隣のタイチョーが驚いて危ないでアリマスとか何とか喚いている。だが、それはもう聞こえない。
 眼下で未だ轟く爆音も、どこかから響く断末魔も、獣のような鬨の声も、何もかも。
 聞こえるのは、ただ、内なる声――

「……我が内の、猛き魂」
 自分の唇から漏れた声は、まるで己のものとは思えないほど、冷たく、静かに、抑揚すら欠いている。
「そは竜。雷の王者」
 右手を、スッと差し伸ばす。眼下の大地に――今まさに小船で脱出しようとしている、ゾンベルトに向けて。
「永の眠りより醒めしその荒ぶる心、咆哮となりて響き渡らん」
 己の身の内のどこかで、何かが吼えた。
 それは、歓喜の咆哮。
「この血の盟約によりて、我は汝に怒りの場を与えん。さればこそ」
 詠唱の結尾こそその名。ヨヨは、高らかに叫んだ。
「来たれヴァリトラ! かしこにて、その神威を示さん事を!」

 空間が、揺らぐ。
 その揺らぎから生えるように現われたのは、半透明の巨竜。ヨヨの双眸と同じ鮮やかなエメラルド色の鱗がどこからかの光を受けて煌めき、次の瞬間、夕日色の皮膜が張られた翼をバサリッ、と一つ羽ばたかせる。
 その口蓋が開かれる。ビッシリと生えた牙。逸らされるおとがい。
 竜が頭を下に向けて一振りした瞬間、口の先に青い閃光が生まれた。それが、音もなく弾け――

 全てを、埋め尽くす。





§






 マテライトの命令を受けたサンダーホークが、水面へと舞い降りる。
 その脚が、水面に浮かぶ「それ」を掴んでいた。サンダーホークは再び舞い上がり、マテライトとタイチョーの待つ濠の岸辺へと降りてくる。
 ドサリッ、と脚に掴んだ「それ」を離して。
「……どうじゃ、タイチョー」
 すぐに調べ始めたタイチョーに問うと、彼はこちらを見上げ、
「……死んでいるで、アリマス、マテライト殿」
「そうか……」
 マテライトは呻いた。視線は、雑草の生える地面に捨てるように放り出された「それ」に向けられたまま。

 ガティ・ゾンベルト=グラスターの遺体。

「これといった外傷はないようでアリマス……。マテライト殿、これはやはり」
「神竜の……力、というわけか」
 と、かぶりを振った。それから、視線をゾンベルトの死体から背後の要塞本丸へと向ける。

 要塞本丸は崩れ落ち、瓦礫の山と化していた。
 いや、それは本丸だけではない――倉庫群も、要塞の他の建物も、濠のすぐ外側の建物の一部も、皆、一瞬にして瓦礫と化した。
 あの光。
 ヨヨの呼び声に応じて現われた緑の竜が放った、あの青白い閃光。
 あの光が全てを襲い、炎もろとも……全てを、破壊してしまったのだ。

「これで、我らの目的は達せられた、という事か」
「その通りでアリマスが……」
 言いよどむタイチョー。その声に精彩はない。それはマテライトも同じ事だった。

 あの光に襲われたものは、全て倒れた。
 木も、草も、建物も……馬も人も。
 先陣を切ったビリカ・カンの騎馬隊に遅れていたために、倉庫群の罠に掛からなかった他の隊が、今、瓦礫の山をあちこち引っ繰り返している。爆発に、そしてあの閃光に巻き込まれた同胞たちの中で、生存者がいないかどうかを確かめるために。
 それが絶望的なのは、確かめるまでもないのだが。

 マテライトは踵を返した。ゾンベルトの死体に背を向ける。
「行くぞ、タイチョー。ヨヨ様のご報告せねば」
「はいでアリマス」
 重い鎧をガチャつかせ、瓦礫の山をよじ登り、越える。時折つまずきそうになりながら、それでもマテライトの敬愛する主君の背中に近付いた。

 ヨヨは、その場にしゃがみ込んでいた。
 彼女のすぐ近くには馬の死体があった。倒れ伏してピクリとも動かない『草原の民』の騎馬兵の姿があった。

「……ヨヨ様」
 その背中に声を掛ける。
「大丈夫、ですか?」
「えぇ」
 予想に反して、ヨヨの応答は毅然としていた。同時にパッと立ち上がり、羽織るマントの裾をパタパタとはたく。
「平気です」
 ――嘘だ。マテライトはそれを見抜いた。
 だが、その嘘はそのままにした。ヨヨがショックを受けているのは、聞かずとも解る。

 彼女は、一瞬にして多くの命を奪ってしまったのだ。

 それを為し得る――それが、神竜。

(何と恐ろしい……)
 ヨヨが帰還したあの日、そんな力を手に入れたという事実に浮かれた自分は、何と愚かなのだろう。
 そんな力が、まだ若いこの娘の感情のままに解放されるという、その恐怖。
(ヨヨ様……)
 そして、そんな力を手に入れざるを得なかった彼女が実感している、その恐怖。

「マテライト、王都に向かいます」
「……王都へ、ですと?」
「する事が出来ました」
 そう言って振り向いたその顔には、何の悲壮感も気負いもなかった。

 

 

 

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