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 フレデリカ=ラスティンは、震える手で長衣の隠しから「それ」を取り出した。
「おぅい、そっちの煮え具合はどうだぁ?」
 まるでタイミングを計ったかのような野太い問いかけに、ビクンッ、と彼女は身を震わせる。咄嗟に、「それ」を再び隠しに戻し、
「――もうちょっとですぅー」
 そんな彼女に代わって応えたのは、隣で灰汁取りをしていたディアナ=アストリアだった。すると、問いかけの主であるところの料理長はふむふむと何度か頷いた。
「じゃあ、いいところで火から上げてくれ」
「分かりましたー」
 快活な調子でディアナは了解の言葉を口にした。それから、ソッとフレデリカの耳元に、
「大丈夫?」
「…………何とか」
「じゃあ、さっさとやっちゃって。時間ないし」
 フレデリカは一つ頷いて、隠しの中で握ったままだった「それ」をもう一度取り出すと、慎重にその蓋を開け、一気に中身を傾ける。


「それ」は、小瓶。
 中に白い錠剤の入った、小瓶。
 表面に貼られたラベルには、「下剤」と書かれてあった。





§







「――……あー、まぁ、そういうわけで、だ」
 幾分ばつ悪げに、ビュウは口火を切った。
「今回のやり方について、納得のいかない者が数名いるんだが……何か弁明は?」
「だったら全部相手したかったの? ラッシュ坊や」
「誰が坊やだっ! だ・れ・がっ!」
 呆れたように問うディアナと、それに簡単に激昂するラッシュ。
 その二人のやり取りを眺めながら、ビュウは、やはり同じように眺めているフレデリカに、
「弁明は?」
「え? あ――」
 ハッとしてこちらを見上げ、すぐに視線を伏せる彼女。三つ編みにされた淡い金色の髪の毛を右手で弄びながら、
「……内部の制圧方法は、私たちに一任してくれる、って言うから……一番犠牲の少ないやり方かな、って」
 ボソボソと、言い訳のようにはっきりしない物言いをするフレデリカ。それから、上目遣いにこちらを見た。
「駄目……だった、かしら?」
「いや? 全然」
 と、かぶりを振ると、フレデリカは軽く目を見開いた。その、丸くなった空色の瞳を横目で眺めやるビュウ。
「双方、死者・負傷者、共にゼロ。しかも何より安上がり。まぁ、腹痛で未だトイレの方にこもったまんまの奴らもいるが……それも、大した問題じゃない。
 旗艦の奪回作戦で、これは上出来だよ」
 そして、力づけるように笑う。
「お疲れ様」
「ビュウたちこそ……三年間、お疲れ様」
 フレデリカも微笑んだ。


 三年前――カーナが陥落し、ウィントリー城から脱出した後。
 ビュウは、マテライトが率いた脱出部隊と合流した。
 国外に逃れ、カーナとキャンベル両王国との国境付近に位置している孤島テードに辿り着き、少ししてから、ビュウは行動を開始した。
 カーナ防衛線の折に行方不明になってしまった、何頭かの戦竜の捜索。
 特に若い戦竜は、戦闘に興奮しやすい。まして、抑えるべきパートナーたる隊員がいなくなってしまっては、それに拍車が掛かる。
 そうして、混乱の内にどこかへと飛び去ってしまった戦竜が、およそ十頭。
 その全てを、というつもりはなかったが、ビュウはラッシュたちを引き連れ、サラマンダーに乗ってそれらを探しに旅に出た。
 蜂起した暁には、ビュウとマテライトが率いる部隊は、遊撃的な役割を担う。
 だとすれば、戦竜の機動力は欠かせない――
 そう判断しての、決断だった。


 そして三年マテライトたちと離れていて、随分と状況も変化していた。
 例えば、部隊の構成員。
 いつの間にか、かのマハール戦役で敗北したマハール軍の残党を初めとする他国の有志が何人か、参加していた。
 何人かは三年前に旅立つ時には既に顔を見知っていたが、何人かは、今朝が初顔合わせだった。
 例えば、状況。
 三年前に共に脱出したセンダックからの手紙で、蜂起するなら今しかない状況に置かれている事が判った。
 探し当てた戦竜は三頭。欲を言えばもう一頭見つけ出しておきたいところだったが、状況がそれを許さなかった。大慌てでテードに戻り、あらかじめ指示しておいた旗艦奪還作戦へ――

(……よくまぁ、こんな強行軍で俺も戦う気になったよな)
 その意味では、その必要を機転でなくしてくれたフレデリカとディアナには、感謝してもし足りない。

「さて、もういいか?」
 と、声が割って入った。低い男の声。見やれば、そこには銀髪の男。長身で、紺色のコートを着た、眼光も鋭い美男。そんな男だ。
「そろそろ、俺の方の話に移りたいのだが」
「あぁ、失礼。えーと……?」
「ホーネットだ。ホーネット=ストラード」
 と、男――ホーネットは、ビュウに右手を差し出した。ビュウも右手でそれを握り、
「失礼した、ストラード航空士。聞いているとは思うが、俺はビュウ=アソルだ」
「ホーネットで結構。代わりに、俺の方も呼び捨てにさせてもらう」
 ビュウは苦笑した。ぶっきらぼうな物言いが、ひどく小気味良かった。
「どうぞ。
 で、話とは?」
「艦長から聞いていないか?」
 艦長。
「センダック老師から? いや、別に」
 そうか、とホーネットは呟いて、
「知っているとは思うが、この艦の名前は誰も知らない」
「……そういえば」
 カーナ軍の旗艦として防空師団に配備され、防衛戦の敗北後はグランベロスに接収されたこの艦は、長い年月の中で、その名がすっかり忘れ去られてしまった。
「それでだ。今すぐ、この艦の名前を決めてくれ」
「はぁぁ?」
 と奇妙な節回しで呻いたのは――
「おいラッシュ、何だ今の」
「何だ今の、じゃねぇだろビュウ。何で今すぐやらなきゃいけないのが、この艦の名前決めなんだよ」
 それまでずっとディアナと何か言い合っていたラッシュが、急に話に割って入ってきた。さすがにビュウもギョッとし、突っ込むと、ラッシュは不平不満を口にした。
 と、言うか、
「別に、お前にやってくれとは頼んでいない」
「何だとぉ?」
「……ちょっと黙ってろラッシュ。話がややこしくなる。
 それで、艦名? 何でまた」
 するとホーネットは簡単に言ってくれた。
「ビュウ、お前さんは、名前もないドラゴンに自分の命を預けられるか?」
「……成程」
 再び苦笑する。
 名前もない艦を操舵するのは嫌か。
 中々頑固な男のようだ。だが、気に入った。
「で、それは俺がやっていいのか?」
「誰でもいい。とにかく決めてくれ。でなければ、俺はこの艦を操舵しない」
「そうか……」
 そこまで言われては、とっとと決めるしかない。何かいいのはないか、とビュウは記憶をさらいだし――

「待ていこらぁっ! 貴様、このわしを除け者にして何勝手に話を進めとるっ! わしを誰だと思っと
るんじゃ! わしはカーナ騎士団のマテライトじゃあっ!」
「そうでアリマース! 自分たちを外すなんて、何を考えているのかでアリマース!」

 ……騒がしいのがやってきた。

 この艦に配備されていたグランベロス兵を制圧して、艦内に乗り込んで。
 バタバタと子供のように騒ぎながらビュウより先を行っていながらいつの間にか姿が見えなくなっていた、マテライトと、マハール騎士団重装歩兵隊のタイチョー。
 鎧も外さないまま、ガチャガチャと金属同士を擦れ合わせて、そして何故か艦のクルー(もちろん解放軍のメンバー)を引きずって、この艦橋へと駆け込んできた。
 そういえば、一体どこにいたのか。
 それを、視線でホーネットに問うと、
「騒がしかったんでな。少し閉じ込めておいた」
「……出来ればずっと閉じ込めておいてほしかったんだが?」
「まったくだ」
 うむうむと頷きあい、
「って、何和んでおるんじゃお前らはっ!」
「そうでアリマス!」
「まぁ、それはさておき」
「置くでない!」
「とりあえず、艦橋では黙れ」

 ゴスッ。

 鈍い音が、艦橋に響く。
「……わぉ」
 ビュウの声から、無感動な声が漏れた。
 無表情のまま、ホーネットが握り拳をマテライトの顔に叩き込んでいた。
「マテライト殿――」

 メキョッ。

 返す刀ならぬ返す拳で、タイチョーの顔にマテライトの裏拳が叩き込まれていた。
 そして、二人ともバッタリと艦橋の床に倒れ込む。
「これで静かになったな」
「ありがとうホーネット。
 さて、艦の名前だが――」
「って、何であんたらそんな何でもないように話を進められるんだよ」
 ラッシュの突っ込みも無視し、ビュウはさっさと話を進めた。

「ファーレンハイト、ってのはどうだ?」

「ファーレンハイト?」
「ああ」
「ファーレンハイトか……」
 口元に手を当て、考え込むホーネット。指の隙間から、唇が微かに動いているのが見て取れた。ファーレンハイト、ファーレンハイト。語感を確かめているのか、まるで呪文のように唱えている。
「――いい名だな。よし、それで行こう」


 かくして、かつてのカーナ軍旗艦、現解放軍――後に、マテライトの呼びかけによりあえて「反乱軍」と名乗る事になる――の移動拠点は、『ファーレンハイト』という新たな名を得た。





 聖暦四九九九年五月二十一日。
 カーナ陥落よりちょうど三年目のその日。

 反乱軍、蜂起。

 ファーレンハイトはその艦首を、オレルス下層部、キャンベル両王国へと向けた。

 

 

 

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