―2―
事の始まりは、二年前、聖暦四九九四年の二月に求める事が出来る。
その日、オレルス世界の最上層北西部に位置するラグーンの統一国家、グランベロス帝国が、世界統一を目的とする各国への侵攻を、対外的に宣言した。
グランベロス帝国は、それより一年半ほど前に、初代皇帝にして現皇帝サウザーによるクーデターを経て、成立した国である。
それ以前は、他国の紛争に大隊単位で自国の兵士――王属派遣軍と呼ばれた、傭兵部隊である――を派遣し、それに支払われる報酬のおよそ二割ほどを国庫に帰属させる、という、「傭兵派遣」と俗称されていた生業を主産業としていた。
が、クーデターによる帝政樹立以降、傭兵派遣産業は放棄され、各国に高値で貸出していた強力な王属派遣軍は解体、それまでの軍制そのものが大きく見直される事になる。
――けれど。
解体されたからといって、歴戦の傭兵たちが帝国に変わった祖国の軍事から離れる事はなかった。派遣軍解体によって無職となった彼らを、皇帝サウザーは積極的に「帝国軍」と改称された新たな職場に誘致したからである。
一つは、彼らに新たな就職先を提供する事で、国家の統制から離れた傭兵たちが引き起こす社会情勢の不安を回避するため。
もう一つが――おそらく、こちらの方が本題だったのだろう――、世界侵攻を開始するに当たり、即座に実戦投入できるまとまった戦力が必要だったため。
(……要するに、そいつらが俺たちの相手、って事だよな)
今更ながらに近年の国際情勢を思い返して、ビュウは正直、げんなりした気分に襲われていた。
時刻は既に夕方。いつの間にやら太陽は西に傾き、穏やかな朱光で彼らを照らしている。
こんな状況でなければ、思わず見惚れてしまうような、綺麗な夕焼けだった――周りに、目を覆いたくなるような凄惨な光景さえなければ。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
「衛生兵、プリースト! こっちだ、早くしろ!」
「手がっ……俺の、手がっ……!」
「誰か手を貸せ! 重傷人だ!」
「痛い……痛い、よぉ……――母さぁぁぁんっ……」
「おい、どうした? 返事をしろ。目を、目を開けろ! 起きろよ! ――――くそっ…………ちくしょおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
防空師団による防衛線は、カーナ・ラグーンの近空に点在する小ラグーン群を拠点に、展開されている。
その内の一つ――防空師団四〇四連隊が守っていたこの小さな浮島には、鼻腔を犯す鉄臭さに支配されていた。
かつて日常的に嗅いでいたそれは、「血臭」と呼ばれる。
王属派遣軍を解体し、再編成した、グランベロス軍。
カーナでなくても、相手が悪すぎるのだ。
事実、グランベロスが世界侵攻を宣言してから二年で、カーナ以外の国は、その経緯はそれぞれだけれど、四ヶ国全てが帝国の属州となった。
それが、自分たちの相手なのだ。
「――アソル隊長」
どうしようもないほどに気が滅入っていたところに、背後から声を掛けられた。ビュウは振り返る事なくそれに応じた。
「どうした、副隊長」
「各部隊の損害状況が概ね判明しました」
報告にやってきたナルスの声は淡々としていた。でなければ、こんな悲惨な状況の報告など、出来はしまい。
「まず、防空師団四〇四連隊。
砲撃小隊の第一、第二、第三が全滅、第六、第八が行動不能、第四、第五、第七、第九、第十は、損害も軽微で、再編すればまだ行動できます。
突撃中隊の第三は全滅、第四は所在不明、行動可能なのは第一、第二、第五中隊の一部のみです。
遊撃小隊全てと、伏せられていた特務の三個小隊ですが、現在まで帰投した兵が皆無であるところを見ると、おそらくは全滅したでしょう」
要約すれば、四〇四連隊は半壊、というところだ。
「次に、我ら戦竜隊ですが、第一中隊八十九名の内、戦死者二十七名、負傷者五十五名、内重篤は三十九名――その半数以上が、今夜が峠です。
第三中隊は、八十三名中、戦死者十九名、負傷者六十四名、内重篤は二十五名――やはりこちらも、半数は非常に危険な状態にあります。
戦竜の被害は……第一、第三中隊合わせて四十八頭中、死亡五頭、重傷八頭、負傷二十二頭、飛行に差し障りがない程度の軽傷も含めますと、無傷の戦竜は隊長の部隊のサラマンダーと、私の部隊のアズライトくらいになります」
そこまで無言で聞き終えて。
ビュウは、心のどこか奥底が冷えていくのを感じた。
顔から表情が抜け落ち、だからこそ尚の事険しくなっていくのを自覚しながら、彼は静かに呟く。
「酷いもんだな」
「ええ」
「たった一日の戦闘でここまで追い詰められるとはな……――マハール戦役でも、ここまで酷い戦闘はなかったと思ったぞ」
戦端が開かれた早朝から、艦隊が一時撤退した小一時間ほど前まで。僅か半日の出来事である。
たった半日で、防衛線の一部が突破されつつある。
そしてこちらの戦果は、それに見合うほどのものではない。
「……私見を言わせていただければ」
と、小声でナルスが囁いてきた。
「これは、師団司令の用兵ミスです。いつまでも特務小隊を投入せず、後生大事に取っておいた。そのおかげで、突撃中隊、遊撃小隊は援護のないまま孤立する事となり――」
「副隊長」
その言葉を、ビュウは途中で遮る。
「それ以上言うな。誰が聞いてるか分からないぞ」
「……はっ」
とは言ったものの、内心では、ナルスの意見に賛成だった。
カーナ本土を円状に囲む最終防衛線の内、北西を守る四〇四連隊は、グランベロスの攻撃が最も激しいと予想されたため、兵力が集中していた。それは、こちら側に司令本部を置いた師団司令の判断によるものであり、その要請により、ビュウも、こちらに二個中隊を投入したのである。
それが、功名心と保身から来たものである事は、要請が来た時点で予想がついた。
元々、そういう噂のあった司令である――名門貴族の出身で、戦術や戦略よりも、宮廷の貴婦人方とのお喋りの方が得意な凡庸な軍人だ、と。
そんな彼に、ちょっと気の利いた戦略――防衛線にわざと穴を開けておいて、そこから敵を通過させてから、伏せていた兵で挟み撃ちにする、とか――を望むのも、気の毒な話だ。
「――……それにしても」
「は?」
「妙だな」
「何が、ですか?」
「何がどう、ってわけじゃないが……」
言葉を切ると、そこでようやく、ビュウは背後のナルスを振り返った。
「今日の戦闘……どうも、気になってな」
「? どういう事です?」
「グランベロスの連中、大部隊をそのままぶつけてきたろう」
「……それが?」
「おかしいんだよ。奴らが、そんな単純な消耗戦を仕掛けてくる事が」
言いながら。
やっとビュウは、自分の中にある違和感の形を見た。
「相手は、『戦争の天才』とまで言われたサウザーだぞ? そのサウザーが、真っ正直に全軍の半分以上をこっちにぶつけてくるか? そんなわけない。戦争ってのは、相手の裏を掻いてなんぼ、なんだから」
「じゃあ――」
言葉の途中から表情が目に見えて変わっていたナルスが、まさか、と言わんばかりに、微かに震える声を絞り出す。
「じゃあ、隊長は……我々が、裏を掻かれた、と?」
「――――多分、な」
それを、苦々しく認める。
空を埋め尽くすような錯覚を覚えるほどの、グランベロスの大艦隊。
けれどそれが、全て囮だったとしたら?
こちらの裏を掻いて、別働隊――むしろそちらこそ本隊――を動かしていたとしたら?
その別働隊は、どこを突く?
「……やられたかもな」
言いながらも、尚もビュウは冷静だった。
「副隊長、司令はどこから増援を工面した?」
「確か、本土を挟んで反対側の四〇二連隊から――」
答えながら、ナルスはハッと息を飲む。
「まさか、そちらを手薄にさせるために……?」
驚愕に揺れる義兄の瞳を、静かに見つめ返すビュウ。
と――
「……………………?」
不意に、ビュウはその目を南の空に転じた。先程よりも、更に陽が西に傾いただろうか。空の紅さは更にその濃度を増し、東の空の縁から、紺色の夜空が迫ってきている。
「隊長? どうしました?」
「いや……」
生返事を返す。
「何か、聞こえた気が――」
ビュウはそこで言葉を途切れさせた。
南の空、やや東よりの方角から、何かの影が飛んでくる。
竜だった。
それも、戦竜――
ビュウだけでなく、誰もがその姿を視認できるほどに接近した時にはもう、その戦竜と乗っている戦竜隊隊員はこちらの姿を確認して、着陸態勢に入った。
「隊長、あれは――」
「マーカス尉士と、エディルネだ」
ビュウが、部下と、その戦竜の名を口にするのと、エディルネという淡緑色の鱗を持った戦竜が二人の前方に落ちるように着陸したのは、ほぼ同時だった。二人だけでなく、周りで負傷者の手当てに駆けずり回っていた他の戦竜隊隊員も、何事かとエディルネに駆け寄る。
「マーカス! 一体どうした!」
「隊長、副隊長……」
頭を垂れ、倒れ込んだような姿勢のまま身じろぎしないエディルネの背で、傷だらけのマーカスが、こちらに気付いて、竜の体にしがみつくようにしていた身を起こした。鎧の肩当てや胸甲は砕け、体の所々には血が滲んでいる。その様に、ビュウは自分の嫌な予感が的中したのを感じた。
マーカスは、第四中隊所属。
防空師団四〇二連隊の援護に回った部隊である。
彼は、エディルネの周りで人垣を形成しつつある同僚たちと師団の兵士を無視して、こちらを見据えて報告した。
その口調には、最早嗚咽が混じっている。
「グランベロスの別働隊が……四〇二連隊の防衛線を、突破しました……!」
「何だって!?」
「そんな馬鹿な――」
「奴らの本隊は、我々と戦っていたのだぞ!?」
口々に叫ぶ周囲の野次馬を無視して、ビュウは、傷だらけのマーカスをエディルネの背から下ろした。
「それでマーカス」
「はい」
「別働隊の規模と装備、移動手段は? ――誰か、プリーストを呼んでこい!」
周りに指示を出しながら、部下の傷の具合を診る。
主に火傷。おそらく、こちらに来る際に艦砲射撃にあぶられでもしたのだろう。血が滲んでいるのは、その時に、弾の破片か何かが刺さったりかすったりしたのだ。
命に関わるような傷ではないが、放っていて良いものでもない。プリーストがすぐに回復魔法を掛けられるよう、手早く負傷した箇所のボロボロになった着衣を取り去っていく。
それまでに、マーカスは尋ねられた事を記憶から引っ張り出していたらしい。いくらかつっかえながら、彼はビュウに答えた。
「別働隊は、空中戦艦が二隻……――内一隻が、艦砲射撃で我々の目をくらませ、もう一隻が、その隙を突いて防衛線を突破、王都方面へと飛び去った……と、思います」
「『思う』?」
「そこまでは、確認できませんでした。私は、襲撃を受けてからしばらくして、ロイド尉長に隊長への報告を命ぜられましたから……。
けれど、これだけは確実に言えます」
マーカスの深い翠の瞳が、ビュウを射た。
「王都方面へと進攻した戦艦は……帝国旗艦トラファルガーです」
「なっ――――!?」
言葉を失ったのは、ビュウでも、ナルスでもない。他の騎士だった。
「トラファルガーが……王都方面に!?」
「まずいぞ! 王都方面の防空体勢は、トラファルガーを撃退できるほどのものではない!」
「これでは、王城に直接攻め込まれようぞ!」
動揺以上の焦燥が、場を席捲する。
それもそうだろう――ここにいる誰もが、ほんの一時間ほど前まで、その脅威に晒されていたのだ。生々しいまでの恐怖は、まだそこかしこに残されている。
その中で、ビュウは素早く算段をつけた。肩越しにナルスを振り返ると、
「エシュロン佐士」
「はっ」
「この場の指揮は任せた。私は、分隊を引き連れて王城に戻る。後で誰でもいいから、師団司令にその旨を報告しておけ」
「隊長!」
すぐ傍の部下が叫んだ――それが彼の言葉を咎めているのか、それとも迎合しているのか、どうにも判断がつかない。
「隊長が王城に戻られたら、ここの守備はどうなるのです!」
「いや、確かに、隊長の分隊が戻られれば……あるいは」
「けれど、分が悪すぎる!」
「王城には、騎士団も、親衛隊も、戦竜隊の第七、第九、第十二中隊が残っている。ここに隊長が加われば、きっと……!」
「……隊長」
皆が口々に――そんな状況でもないのに――議論する中、ナルスがこちらの肩を叩き、静かに問うてきた。
「戻られるのですね?」
「ああ」
「では、打ち合わせ通りに」
「ああ。これ以上被害が出ない内に、ここは放棄しろ。いいな?」
「――……はっ」
その会話は、それで終わりだった。
最早周囲の議論も黙殺し、ビュウは野次馬の輪を無理矢理に抜け出た。未だ騒然としている場を後に、少し離れた所に待機している鮮やかな紅の鱗に覆われた戦竜に歩み寄る。
ビュウが率いる分隊の戦竜、サラマンダー。
彼の接近に逸早く気付いたサラマンダーが、伏せていた頭を上げて、紅玉のような眼をこちらに向けた。それに少し遅れて、その傍にいた三人の隊員が、やっとビュウに振り返った。
「ビュウ!」
「隊長!」
「アニキぃ!」
それぞれがそれぞれの呼び方で、ビュウを呼ぶ――下士官のくせして士官の、しかも佐長であるビュウを呼び捨てにした赤毛の少年と、この場での分をわきまえて「隊長」と呼んだ真面目そうな少年、どういう状況でも彼を「アニキ」呼ばわりする、やや小太り気味の少年の、三人。
「……今更、俺の事は『隊長』あるいは『佐長』と呼べ、なんて訂正しないけどな」
「んな事どうでもいいだろ、ビュウ!」
「良くないから言ってるんだ、ラッシュ」
実際そうである。部下が、しかも下士官が、隊長を呼び捨てにする――厳然な階級社会である軍隊では、それだけで懲罰に値する。
が、正直今はそれどころでないので、ビュウはとっとと話を進める。
「で、三人とも――話は、そこで聞いてたな?」
「はい。我々は、サラマンダーで王城へと舞い戻り、王城を守る戦竜隊の残留部隊と合流する」
「そういう事だ、トゥルース。
状況は一刻も争う。すぐに飛ぶぞ。ビッケバッケ、準備は出来てるな?」
「もちろんだよ、アニキ!」
気負い込んで頷く小太りの少年――ビッケバッケ。見やれば、他の二人――ラッシュとトゥルースも、似たような様子だった。
緊張に強張った表情と、真剣な眼差し。三人とも、覚悟しているのだろうか?
これから向かう場所が、死地かもしれない、と。
けれどそんな思いはおくびにも出さず、ビュウは三人の頷き返すと、すぐ傍で佇むサラマンダーを見上げた。
「悪いな、サラ……。もう少し、頑張ってくれ」
言いながら、その首に手を回し、優しくさする。サラマンダーもそれに応えるように、その顔をビュウの頬にすりつけた。
かつて戦竜隊に入りたての頃、彼に教えたのは義兄だったろうか――戦竜を遠慮なく触れるようになったら、それが、戦竜がこちらを信頼してくれている証拠だ、という事を。
サラマンダーの信頼を得て久しい。
その信頼を頼みに、これからこの相棒に、かなりキツい長距離飛行を強いるのは、さすがに気が引けた。
(けど)
ビュウは、実をサラマンダーの首から離した。代わりに、その顔――というかその瞳を覗き込む。
(……頼むぞ)
語り掛けるような思いに、
『分カッテイルヨ、ビュウ』
脳に直接響く、たどたどしい声が応じた。たどたどしい、しかし笑いを含んだ、頼もしい声。
それが聞ければ、十分だった。
「よし、行くぞ」
「おう!」
「はい!」
「うん!」
四人はサラマンダーの背に乗り。
夕焼け空よりも尚紅い戦竜が、カーナ王城へと向けて、その小ラグーンを飛び立った。
あと一時間ほどもすれば、夜になる――そんな時分である。
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