真っ暗な部屋に、灯りが一つ。
 灯りを囲んだ影が五つ。
 そして、ヒソヒソ話。


「惜しむらくは、隊員Eが離脱してしまった事だわ」
「まったくですわ、隊長」
「あたしたちを守ってくれる盾はたったの二つ……――これでは任務を完遂するのも難しいと思います」
「ってちょっと待て、その『盾』って俺たちの事か?」
「しかも数え方は『二人』ではなく『二つ』ですか?」
「けれど、隊員Eを惜しんでばかりはいられないわ。新たな任務が迫ってきている」
「新たな任務?」
「あのね隊員B、確かな筋からの情報によると、ついに標的Aが標的Bを両親に紹介するらしいの」
「確かな筋って、それ本人から聞いたんじゃねーか」
「……パルパ――もとい、隊員Eの離脱に関してはそれで終了ですか」
「というわけで」

 影の一つが、ニッコリと笑った。


「王下出歯亀隊、出撃よ!」









行け、王下出歯亀隊! 

〜決戦! 親への挨拶編〜











 未だかつて、こんな心境でこの建物の前に立った事があるだろうか。
 今の心境、それを例えるなら、そう、大昔に幾度か体験した敗走作戦の決行直前の心境によく似ている。味方の残存戦力はごくごく僅か、敵の総戦力はその百倍、追討部隊に回される数は味方の十倍くらいが妥当か、そんな絶体絶命の状況の中、如何にして生き残った味方を戦場から確実に逃がすか――その全てが、十になるかならないかだった当時のビュウに任されていた。
 一つ読み違えれば、死ぬ。
 一つ誤れば、全滅する。
 間違いは決して許されなかった。そのために、神経を徹底的に尖らせる必要があった。何もかもを読み尽くす必要があった。敵の現在位置。残った味方の戦力。天候。周辺の地形。敵将の心理、性格、戦術の癖。味方の士気、戦闘時の心理状態。そして時には、日の出、日の入り、風向きまで計算に入れた。
 使えるものは徹底的に使い、使い尽くす。必要なのはそれだった。そうしなければ、負け戦から逃げ出し生き延びる事など出来はしない。
 生き残った味方全員の命が、ビュウの、戦術とも言えない小賢しさに懸かっていた。
 何か間違いはないか。
 何か見落としはないか。
 一つでもミスがあってみろ。俺も死ぬ。母さんも死ぬ。姉さんも死ぬ。親父も死ぬ。皆死ぬ。誰も生き残らない。狩られて狩られて狩り尽くされて、俺たちは皆殺される。殺される。殺される。殺される。殺されて殺されて殺されて、身ぐるみは剥がれて持っていかれる。死体であっても犯される。徹底的に踏みにじられる。そんな事受け入れられるか? 否。ならば読んで読んで読み尽くせ。頭を捻って知恵を巡らし卑怯な手を使ってでも逃げて逃げて逃げて生き延びろ。そのためになら、俺の神経なんて犠牲にしろ。俺の精神なんて犠牲にしろ。皆が生き延びる事の方が大切だ。俺の家族が生き延びる事の方が大切だ。
 そうして得たのは、戦友たちと家族の命、敗走作戦のスペシャリストという名誉なんだか不名誉なんだかよく判らない評判、そして胃に感じるおかしな疼痛。ちなみに医者の診断は「神経性胃痛」。
 そして今、ビュウはその時に抱えていたのと同じ胃痛を感じている。

 ――自宅を前にして。

「……ビュウ、大丈夫?」
 不意に横手から掛かる心配そうな声。直後、視界の片隅に金色の何かが揺れた。それは人の頭。お下げ髪。チラリと目をやれば、気遣わしげな表情をしたフレデリカがビュウの顔を覗き込んでいた。
「何だか、顔色が悪いわ」
「……大丈夫だよ」
 笑って返す。そう? と疑わしげに小首を傾げる彼女の表情を見れば、浮かべた笑みがどれほどぎこちなかったか判るというものだ。だが、ここで男に必要なのは虚勢と演技力。ビュウは笑みを保って頷いた。
 そうして再び見上げた実家は、まるでのしかかってくるような圧迫感を以ってビュウの前に立ちはだかっていた。――何の誇張表現はない。ビュウはその時確かに、文字通りの威圧感を自宅から受けていた。
 カーナ王都のこの辺りでは別に珍しくとも何ともない二階建ての一戸建て。白い外壁、赤茶けた三角屋根、東向きの玄関に、玄関脇の小さな窓。ありふれた、非常にありふれた、これ以上ないほどに特徴のない民家である。
 恋人の手前、平静を装った表情で自宅を見上げてはいるけれど、その実、背中は冷や汗がダラダラと伝い落ちていた。うっかりすれば顔にも出かねない。ふと、横目でフレデリカを見やる。何か感慨にふけっている様な表情でビュウの家を見上げるフレデリカ。その顔には、緊張感だとか緊迫感だとか、そういった切羽詰まった類のものは一切見当たらない。彼女は感じていないのだろうか、この圧迫感を? だとすれば、これは自分の錯覚なのだろうか?
 どちらにしろ――
「……じゃ、入るか」
「え、あ……はい」
 こうしていても埒は開かない。ビュウの言葉に、フレデリカは少しだけ緊張した面持ちで頷いた。けれどその緊張は、あくまで「恋人の親に会う」からであって、決して「謎の圧迫感に恐れをなしている」のではないんだろうな、しかし何で俺ばっかりこんな圧迫感を受けなきゃならないんだかやれやれ――と、そうではなくて。
 玄関の前に立つ。ノブを握る。一拍置く。息を飲んでみる。生唾を飲んでみる。木の板一枚を隔てて感じられる家の中の気配に動向はなし。時間延ばしは無意味。諦める。ノブを捻る。扉を開ける。

「……ただいま、母さん、親父」
「お帰りなさい、ビュウ」
「おお、よく帰ったな、馬鹿息子」

 息子の緊張などどこ吹く風。

 玄関から入ってすぐの居間で、母イズーと父トリスは、えらくリラックスした様子でニコニコしていた。





 ところで、時刻はそろそろ昼になろうかという頃合いである。

『まあ、やっと噂のフレデリカさんを連れてきてくれるの? ……じゃあ、フレデリカさんさえ良ければ、うちで一緒にお昼なんてどうかしら。母さん、腕を振るっちゃうから』

 というイズーの鶴の一声で、この時間にビュウはフレデリカを連れてきたわけだが――


 全くの余談。
 イズーは信じられないほどに料理が下手である。
 味覚音痴では決してない。むしろ、味覚そのものは元お貴族サマのトリスより優れている。
 上手い料理に必要なのは、作る者の確かな味覚。だというのに、イズーの作る料理は常に大惨事(色々な意味で)で、母さんこれ味見しましたかー、とビュウはいつも聞きたくて仕方がない。もちろん怖くて聞けない。


 閑話休題。

「……なあ、親父」
 ビュウは向かいに座る父に顔を寄せる。
「何だ、息子」
 トリスもテーブルを乗り越えるようにして身を乗り出し、息子の声に応じる。
「この料理、どうしたんだ?」
 ビュウが見下ろすテーブルの上には――
 鶏肉と春野菜のトマトソース煮。
 魚のムニエル。
 山盛りのポテト。
 焼きたて(多分)のパン。
 加えて台所の方から、甘い香りが漂ってくる。多分デザートのケーキだろう。
 正直な話、山盛りのポテトはともかくとして――皮を剥いた芋を適当に切って茹でるだけだ――他の料理はイズーには無理だ。いや、無理ではないかもしれないが、イズーが作ったものなら見た目がまともであっても油断してはならない。何せ、ビュウにとっての「お袋の味」は劇物と同義である。
「おぉ――」
 そんな疑問と疑念から発せられたビュウの問いに、トリスは小声で、しかしきっぱりと答えた。
「アルネが朝から来てくれてな」

 ……振るってないじゃん、母さん。

「いや、イズーはあれで一応自分で作ろうとしたんだがな、お前の事を聞いたアルネが『ビュウみたいな極道者を引き取ってくれる子をみすみす逃がすつもり?』なんて言ってな。イズーを説き伏せてくれた、ってわけだ」
 ああ姉さんありがとう、おかげで俺死ななくて済みそうだ。でも素直に感謝できないのはどうしてだろう――何となしにうなだれるビュウ。
 そんなビュウの隣で、フレデリカはオロオロと食卓と台所のイズーとを交互に見て、
「あ、あの、私も何かお手伝いを――」
「あら、いいのよフレデリカさん」
 上機嫌なイズーの声。肩越しに振り返ったその表情も、やはり上機嫌な笑顔だった。
「息子の連れてきた大切なお客様に手伝わせるなんて。そんな事出来ないわ」
「でも――」
「いいのいいの。フレデリカさんはゆっくり座ってて」
「そうだぞ、フレデリカさん」
 イズーの言葉を継いだトリスは、ふんぞり返って鷹揚に頷く。
「今日の貴女は我が家の大切な客人。もてなしは我が妻と――」
 と、その視線が何故かこちらを向く。
「……手伝ってこい、馬鹿息子」
「……エスコートしてきたホストがゲストを放り出して場を離れるってどうなんだ?」
「ゲストに気を遣わせるよりマシだろう」
「俺がこの場をいきなり離れた方がフレデリカに気を遣わせるっての。大体、それを言ったら親父が手伝っても良いんじゃねぇか?」
「何を言ってるか、この馬鹿息子。家長がもてなしの席からそうそう離れられるか」
「あ、あの、やっぱり私――」
「いやだからフレデリカは座ってていいって」
「そうだぞフレデリカさん、手伝いなぞこの馬鹿息子にやらせるから」
「で、でも――」
「二人とも?」
 台所からの声は尚も上機嫌で、しかしそこにひそむ有無を言わさない口調にビュウとトリスとフレデリカは揃って口を噤む。
「いつまでもそんな子供みたいに言い合いして、フレデリカさんが困ってるでしょ?」
「は、はい……」
「う、うむ……」
「手伝いを押しつけ合うようなら、別に手伝ってくれなくてもいいわ。――ああ、フレデリカさんは違うのよ? あのね、フレデリカさんは、さっきも言ったけど今日はお客様だから。お客様に手伝わせるなんて、もてなす側の恥だわ。だから、フレデリカさんはゆっくりしてて」
 それから、鍋を掻き回していたイズーは不意に振り返り、悪戯っぽい微笑をこちらに向けて見せた。
「でも、そうね、どうしてもって言うなら……次は、手伝ってもらおうかしら?」
 次。
 その意味するところに気付いて、ビュウは思わず頭を抱えた。気恥ずかしさで。
 そして、そんなビュウに一拍遅れてイズーの真意を察したフレデリカは、頬を紅潮させた。
「さ、スープも温まった事だし――お昼御飯にしましょ?」





「さすがはビュウのお母様。良い事言ってくださるわ」
 と、金髪の娘が光差す部屋でほくそえむ一方で、
「ちょっとラッシュ坊や――じゃなかった隊員C坊や、そんなに押さないでよ記録できないじゃない」
「あのな、これでも結構遠慮してる方だぞ? って言うか誰が坊やだ誰が」
 好奇心に目を輝かせた女と赤毛の若造が、狭苦しい暗闇の中でボソボソと言い争い、
「何よ、二人揃ってデレデレしちゃって。何だかすごいムカつくわ」
「あの、それでしたら最初から出歯亀なんてしなければいいのでは……」
 理不尽な事に目くじらを立てる長身の女に対する生真面目そうな青年の気弱な突っ込みが、埃臭い空間に微かに響く。
 それは、居間の風景とはまた別の物語。

 

 

 

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