「……ん?」
「どうしたの、エリシャ?」
「今、何か聞こえなかった?」
 そう言いながらも辺りを見回すエリシャに、同じテーブルを囲むゼノはアトロムやユニ、リーリエに、
「……聞こえた?」
「何が」
「こんな大騒ぎじゃ、何も聞こえないよ?」
「あっちこっちから色々聞こえるもんねー」
 アトロムの淡白な問い、ユニの呆れた応答、リーリエのあっけらかんとした言葉――それらを聞いて、エリシャは考え直す。
 多分、気のせいだろう。大体、突拍子もなさすぎる。

 こんな場所で、剣戟の音が聞こえる、など。

「……ふぅ、死ぬかと思った」
「どわっ!?」
 ニュッ、といきなり下から突き出すようにして現われた壮年の男と、それに驚いて飛び退くゼノ。しかし男はやれやれと、
「まったく、あいつらは手加減というものを知らんから困る……――と、おぉ、ゼノではないか。少しはマシな戦士になれたか?」
「えぇ、おかげ様で――じゃなくて、ヴァルス提督! 生きていらっしゃったのはホームズから聞きましたけど、何でラゼリアにいて、何でいきなり生えてくるんですか!?」
「生えてくる、とは人聞きの悪い。床を匍匐前進(ほふくぜんしん)していたのをやめただけではないか」
 こんな所で匍匐前進? ――という疑問が浮かばないでもなかったが、それより、
「……提督?」
「――あ、そうか。ユニ以外は初めてだっけ? こちらがヴァルス提督――ホームズの、お父さん」
「そう、わしがヴァルスだ。いつも馬鹿息子が世話になっているようだな」
「「えぇ、まったく」」
 エリシャとアトロムの冷徹な声が唱和した。するとヴァルスはハッハッハ、と笑い、
「成程、あの馬鹿息子め、良い仲間を持っている」
「ところで提督、どうしたんですか? 匍匐前進なんて」
 問うユニに、ヴァルスはいや何、と断ってから、
「少々厄介な男どもに追われていただけだ。巻くのが中々難しくてな……結局、匍匐前進をする羽目になった」
 おかげで服が汚れてしまったではないか、とか何とか呟きながら、服の前面を軽く叩くヴァルス。それを渋面で見下ろすエリシャ。
 そんな彼女の様子に、ヴァルスが気付いた。
「どうかしたか?」
「……料理の傍で服の埃を払われるのは如何なものか、とか、そういうところはご子息とよく似ていらっしゃいますわね、とか、色々思っただけですわ。お気になさらずに」
 皮肉を込めて答える。それを聞き、しばしきょとんとしてから、向こうは再び笑った。渋面を更に深くして睨むように見やると、
「おぉ、スマンスマン。いや、そなたを馬鹿にしたわけではない。しかし、あの馬鹿息子とよく似ている、か……――久しく聞かなかった言葉だ」
 というその言葉は、妙に嬉しそうだった。
 そして、続いて向けられた視線は、
「時にそなた……魔道士か?」
「一応賢者ですが」
「おぉ、そうか。いや、それにしてもあの馬鹿息子の元にこんなに麗しい賢者がいるとは……」
 麗しい?
 麗しい、とは、自分が?
「……む? どうした?」
「あ、え、いえ……別に、何でも」
 エリシャは慌ててかぶりを振った。その一方で、顔が少し火照りだしているのを感じる。


 実はエリシャは、恋愛経験が余りにも乏しい。
 原因は、ほんの一年ほど前まで続いていた某居候の介護の日々である。だがそれで、その居候以外の異性との付き合いがなかった、というわけではない。むしろ、その居候の介護に勤しんだ今は亡き母の代わりに何やかんやの雑事をこなしていたから、異性と接する機会はそれなりにあった。
 問題なのは、その居候の存在をいつの頃からか妙に冷めた視線で考察していたせいで、他人との関係をひどく冷静に観察するようになってしまった事。おかげで、親しい異性がいても一歩退いて付き合う事となり、結局恋愛に発展する事はなかった。
 だから。
 こうして不意打ちのように容姿を誉められたりすると、いつものように対応できなくなる。


 そんなエリシャの様子をしばし見つめていたヴァルスは、ふと優しく微笑んだ。
 その表情の変化に気付いた彼女は、ハッとしながらも、しかしその次に放たれた言葉に、やはりまともな対応が出来なかった。
「……どうやらそなたは、自分の容姿に対して自覚が余りにもなさすぎるようだな」
「え?」
 頬を僅かに赤らめたまま、エリシャはただ問い返すだけ。――その様子に、特にゼノとアトロムが驚愕に目を見開いて口をあんぐりと開けているが、彼女はそれすら気付かない。
「それは大いなる冒涜だ――その容姿を生み出した両親と、そして……神への」
「え……あ――」
 思わず顔に手を当てる。――それを見た勇者二名が顎が外れているのではないかと思われるほどに大口を開け続けているのだが、やはり彼女は気付かない。
「その、神が与えたもうた美しき姿の価値をそなたが理解するに、協力は惜しまんつもりだ。それが、わしのような男の使命でもある」
 この時になって、ようやく。
「――あの、提督?」
 エリシャの思考はまともに動き出した。
 というのも、ヴァルスの手がエリシャの方に伸び、それと気付かないほど自然に抱き寄せていたからである。
「どうだね? 己が美しさを、わしの手によって理解してみぬか?」
 グイッ、と懐に招き入れられ、ヴァルスは彼女を伴い歩き出そうとする。
 ここに至ってやっと、エリシャはいつもの冷静さを取り戻す。

 グラナダのヴァルス提督といえば、大陸にその名を知られた女たらしだ。
 その彼が、自分を伴ってどこかへと行こうとしている。
 ――彼の言葉の真意、どこへ行くか、そしてそこに待つ結末が何か……最早考えるまでもない。

「あの提督、私は今はそういう事には興味が――」
「何、こういった事はいずれ通らねばならぬ道。そなたの場合、それが今だった、というだけの事。早いに越した事はないぞ?」
「いえ、ですから――」
「安心せよ。わしはこう見えても……凄いぞ?」
 何がだ。
 思わず胸中で突っ込んでしまったが、しかし、色惚け提督はどうやらこちらの言葉を聞く気がないようだ。このままズルズルとどこかへと連れ込まれてしまい、その後は……――

 エリシャの中での、性格別対人対処法。
 人の話を聞かない者には、面倒だから実力行使。

 彼女はヴァルスの胴を突き飛ばして彼の拘束から離れる。向こうがたたらを踏んで、
「むぅ……中々強情な娘だな」
 とか何とか呟くのを尻目に、マントの隠しから素早くそれを抜き取った。
 魔道書『ブレンサンダ』。
 ――すぐ近くで、ゼノとアトロムがひぃぃぃ、と悲鳴を上げながら身を縮こまらせ互いにしがみついていたりするが、最早エリシャの意識には入らない。
「とにかく――」
『ブレンサンダ』を開き、右の掌をヴァルスに差し向ける。
「私はそういう事はするつもりはありません大いなる雷よブレンサンダぁぁぁぁっ!」

 二条の青白い電光が、大音響と共に空間を切り裂き、ヴァルスへと突き進んだ。

 轟音。床が破砕し、宴の喧騒が消える。
 もうもうたる砂埃の中、しかし彼は立っていた。
「いきなり攻撃とは、乱暴だな。……だが、そういう娘も初々しくて中々可愛いものだ」
 初々しい?
 可愛い?
 誰に向かってそんな事を?
 最早エリシャは惑わされなかった。彼の思惑を察した今、その頭脳は『歳頃の娘』から、泣く子も黙るシーライオンの『雷神』に立ち返っている。
 だからエリシャは高らかに言葉を紡いだ。
「大いなる雷よ、ブレンサンダ!」
 再び広間を走る青の閃光。轟く雷鳴。しかしそれらが消え去った後も、ヴァルスは無傷で笑っている。
「フッ……そんな魔法でこのわしを傷付けるなど、十年早いわ!」
「くっ……!」
 エリシャは悔し紛れの呻き声と共に、『ブレンサンダ』を痛いほどに強く握り締め、しかし三度魔道書を開いて突きつける。
「大いなる雷よ――」
 ありったけの魔力を注ぎ込み、
「ブレンサンダぁっ!」


 かくして、大広間でエリシャによる第一次ヴァルス提督掃討作戦が展開された。





 ヴァルスのナンパ被害が二十件を越えた頃。

「クソ親父が女を口説きまくって、エリシャがキレて暴れたが結局倒せなかった……?」
 ラフィンやナロン、シゲン、ゼノからもたらされた報告に、ホームズは眉根を寄せた。
「何てこった……エリシャでも倒せないなんて」
「ホームズ、そこじゃないから」
 突っ込むゼノを無視して、彼はテーブルの向かい側に座るリュナンを見やる。
「悪いな、リュナン。クソ親父が厄介事起こして」
「いいじゃないか、ホームズ」
 しかし、対するリュナンは穏やかだった。微苦笑すら浮かべて、
「提督は元々そういう人なんだし、女性陣から被害報告が出ているわけではないし」
「だが公子――」
 反論しようとするラフィンに、リュナンは顔を向けた。
「すまない、ラフィン。だが、提督の事も解ってほしい。グラナダが解放されて、提督はやっと自由になれた。……少しくらい、羽目を外したくなったのさ。
 確かに、君たちには不愉快な話かもしれないが、話を聞く限り、提督だって本気で手を出そうとしているわけじゃないようだ。だから、もう少し寛容になってくれ」
「公子……」
 リュナンにそう言われてしまっては、返す言葉もない――ラフィンは他の者たちと顔を見合わせ、肩を竦めた。
「けれど、さすがにそういう事では提督に一言言っておいた方がいいな。――ホームズ、僕は少し行ってくるけど、君はどうする?」
「お前に任せる」
 と、投げやり気味に手を振るホームズ。
「俺ぁもう、あのクソ親父と顔なんざ合わせたくもねぇ。……丸め込まれるんじゃねぇぞ?」
「分かっている、ホームズ」
 答えて、リュナンは椅子から立ち上がった。訴えに来たラフィンたちの先頭に立ち、ホームズとの談話に使っていた客間の扉を自ら開け。

「――そなたは決して悪くない。だから、そう自分を卑下してはいけない。さぁ、顔を上げて、胸を張って。美しい顔が台なしではないか」
「え、ヴァルス提督、あの……――」

 リュナンの動きが止まった。
 何事か、とラフィンたちはその肩越しに廊下を見た。
 この客間から少し離れた所で、今まさに時の人となっているヴァルスが、エンテの顎に右手を掛け、軽く上を向かせていた。
 もちろん左手は、エンテの右手を軽く取っている――

「――ラフィン」
 その光景に硬直していたリュナンが、低い、余りにも低すぎる声を漏らした。
「すぐに、士官を会議室に集めてくれ」
「こ、公子……何を?」
 戸惑いながらも尋ねるラフィンに、彼は軽く肩越しに振り返る。
 向けるその眼差しは、危険なほどに鋭い。
「ヴァルス提督掃討作戦の会議を執り行う」

 

 

 

前頁へ次頁へ開架へ