男は肩身が狭いぞ。
そう語ったマテライトの声を思い出す。
ああまったくその通りだ。恐る恐るといった足取りでソファに座ったビュウは、ニコニコと笑い合う、しかし睨み合っているようにしか見えない妻と母に挟まれ震えるしかない。
ちなみにこの居間は結構広いので、ソファは対面する形で置かれているわけではない。丸いテーブルを中心に、一人がけから二人がけのソファが五つほど置かれている。
三人の座る位置関係は、ちょうど三角形になっていた。
望んでそうなったのではない。何故かイズーもフレデリカも一人がけのソファに座っているのである。となると、ビュウとしては二人とは違うソファに座らざるを得ない。
「はいあなた、お茶どうぞ」
と、フレデリカは即行でカップに茶を注いでビュウに寄越し、
「ほらビュウ、お砂糖入れなさいな。お前は昔から頭を使ってばかりだから、糖分が必要でしょ?」
と、イズーは砂糖壺をこちらに押しやってくる。
「え、ええと……」
ビュウが反応に困るのも束の間、
「――あらお義母様、ビュウはそれほど甘いものが得意じゃないんですよ? ご存知でしょう」
「ええ知ってるわよフレデリカさん。でも、激務を乗り切るためにきっちり栄養管理をするのも妻の勤めよ? 糖分を摂らないと頭が働かないんですって」
「まあ嫌ですわお義母様、それくらい知っています。でも、摂りすぎも体にはよくありませんわ」
「まあまあフレデリカさんってば、それくらい私だって知っているわよ? 大丈夫、うちの子は頭がとってもいいから、『ほどほど』くらいちゃんと出来るわ」
「ええそうですわねお義母様、うちの人はとっても優れた頭脳を持っているから、『ほどほど』くらい普通にこなしてくれますわ」
何だろう――
何だろう、このわけの分からないプレッシャー。
逃げ出したい。
すごく、逃げ出したい!
そんな思いがビュウの行動に出た。押しやられた砂糖壺をひったくるように手に取る。杯数も数えずとにかく砂糖を適当に茶に放り込む。ガチャガチャとスプーンで乱暴に混ぜ、グイッと一口。
……うわぁ、歯が溶けるように甘い。
吐き出したくなるのをこらえて飲み下し、あはは、と彼は乾いた笑い声を上げた。
「い、いヤア、オ茶もこウヤッて飲むト結構美味いナー」(棒読み)
「あらそう? それは良かったわね、ビュウ」
「そうね、あなた」
アハハハハハオホホホホホ――
「――そ、そういえばさ母さん、フレデリカ!」
乾いた笑声が消えたあとの、まるで帯電しているかのごとくにピリピリとした空気に堪えきれなくなって、ビュウはお茶とは違う話題を振った。
「し、仕立て屋は、どうだった?」
まあ、結論から言えば。
最悪のチョイスだったわけである。
「――……ああ、仕立て屋ねぇ」
と、しみじみと呟く母。視線をどこか遠くへやり、頬に手を添え、軽く吐息を一つ。
「王都でも指折りの仕立て屋に行ったんだけど……」
チラリと、フレデリカに視線をくれる。
その視線は――戦場でもかくやというほどに、冷ややかで鋭い。
「フレデリカさんのお気に召さなかったみたいねぇ」
「嫌ですわ、お義母様」
対するフレデリカは朗らかに笑っている。
口元だけ。
目に宿るのは、絶対零度の冷気。
「仕立て屋に文句があるはずもありませんわ。私がどうかと思ったのは、お義母様がおっしゃったデザインの要望だけで」
「まあフレデリカさん、あのくらいの装飾が嫌だなんて、随分とみすぼらしい格好がお好きなようねぇ」
「いいえ、私はもう少しシンプルなものが好きなだけですわ」
「好みは人それぞれだからどうこう言うつもりはないのだけれど、でも、仮にも将軍の妻なのだからその自覚をもう少し持ってもらいたいところよねぇ」
「あらお義母様、それって、人の好みにどうこう言っている事になりません?」
「嫌だ、そう聞こえた? フレデリカさんってば、曲解するのが好きみたいねぇ」
「趣味の悪いデザインを押しつけてくるお義母様には負けますわ」
「貴女がみすぼらしい格好をするとビュウが低く見られてしまうから、それを心配しているだけよ?」
「いつまでもお義母様に干渉されているのかと思われてしまうほうが、よっぽど低く見られてしまいますわ」
その空気たるや、もう。
ピリピリ、チリチリと肌を、神経を刺激し。
ガクガクブルブル、目にはもう涙なんか滲んできて。
はい。「根性なし」とでも何とでも言ってください。ええもう、何と言われたって構いませんとも。
限界でした。
「いい加減にしてくれぇ――――っ!」
ビュウは怒声を居間に響かせていた。
勢いと共にソファから立ち上がっていた。ギョッと見上げてくるフレデリカとイズー。二人を睨むように見下ろして、彼は怒り――いや、圧迫に負けた不甲斐なさのままに叫び散らした。
「二人とも一体どうしたんだ!? 前はもっと仲良くやってたじゃないか! それなのにどうしてこんな風に嫌味を言い合ってるんだよ! 何があったんだよ!」
二人は驚いた風情でお互いに顔を見合わせている。
「フレデリカ!」
名を呼ぶと、ビクリとフレデリカが身を竦ませた。目を瞠ってこちらを見上げてくる。
「母さんに今まで何か言われてきたのは解った! それに気付かなかった俺も悪かったと思う! フレデリカに確認する前に今日の事をセッティングさせたのも本当にすまなかった! 嫌味ばっかり言う母さんに無理矢理仕立て屋に連れていかれて、イライラしたのもよーく理解した!
でも、それでもその人は俺の母さんなんだ! せめて俺の前では、そんなあからさまな嫌味を言わないでくれ!」
「あなた……」
と、瞠目したまま愕然と呻くフレデリカと、
「ビュウ……」
何故か少し感動したような声音のイズー。
しかしビュウは、今度は母を睨んだ。
「母さんも母さんだ!」
「ビ、ビュウ?」
そう目を丸くする顔は、一瞬前のフレデリカとよく似ている。
「姑ってのは基本的に嫁が気に入らないモンらしいから、何かにつけて文句を言いたくなったり嫌味を言いたくなったりするのも解る! 俺の事を今でも心配してくれているのも解った!
だけど母さん、フレデリカにそんな嫌味を言うなんて、母さんらしくないだろう! どうしたんだよ、母さん! 母さんはもっとこう、大らかで、ちょっとやそっとの気に入らない事なんて気にしなくて、基本的にどんな事でもオールOKの人だったじゃないか! フレデリカの事だって、紹介した時はすごく気に入ってたじゃないか!」
「――ビュウ、母さんは……」
「いや、それから何かフレデリカが母さんの機嫌を損ねる事をしたのかもしれない。だから、今になって気に入らなくなったとしてもそれは仕方ない。
だけど! だけど母さん、この人は俺の選んだ人だ! 母さんが気に入らなくてもそんな事は俺には関係ない! もし母さんがこれからもフレデリカに嫌味や無茶を言うようだったら……」
言葉を、一旦、切った。
深呼吸。
そして、瞠目する妻と母に言い切った。
「俺にだって、考えがある!」
二人は――
絶句した。
硬直した。
その内にフレデリカは震えだし、イズーは脱力して更に深くソファに身を沈める。
「あ、なた……」
フレデリカが、立ち上がった。
「あなた……」
ビュウを呼ぶ声が震えている。
唇も、体も震えている。
目なんか少し潤んでいる。
「フレデリカ……ごめん」
ビュウは彼女に向き直って、真摯に謝った。
思い返すにつけ、ここしばらくの自分は母に対して弱腰で、彼女にとっていい夫とは言えなかった。
自分は、確かにイズーの息子だ。
そして、フレデリカの夫なのだ。
「頼りない男で、ごめん。けどもう何かあったらちゃんとフレデリカを守るから――」
「あなた……!」
感極まった様子で、フレデリカはこちらへ一歩踏み出して、
「――――馬鹿ーっ!」
叩かれた。
握り拳で、ポカリと、肩の辺りを。
え? と何が起こったのか理解できずに呆然と立ち尽くすこちらの体を、フレデリカは更にポカポカと叩いた。
「馬鹿馬鹿馬鹿っ! あなたの馬鹿っ! どうしてそこでお義母様をかばわないでこっちに来ちゃうのよーっ! 私、あなたは絶対お義母様を取るって思ってたのにー!」
「……はい?」
「うふふ、だから言ったでしょ、フレデリカさん」
と、ソファに身を沈めた母の何故か嬉しそうで親しみのこもった声。
さっきまでのフレデリカに対する口調とはまるで違い、ビュウは目を見開いてギ、ギ、ギと軋んだ動作で母に顔を向ける。
「私の息子は、いざとなったら、ちゃんと母親よりも自分の選んだ女性を守れる男だ、って。特にうちの人が、ビュウをちゃーんとそういう風にしつけてきたんだもの。
でもビュウ? ここでの態度は立派だったけど、うちに来ていた時の『あれ』は夫としてはちょっと失点よ? お前は確かに母さんの息子だけど、もう母さんの手元から巣立って自分の家庭を築いているんだから、ちゃんと奥さんを大事になさい」
「ああんもうあなたの馬鹿馬鹿ーっ! 秘蔵のハーブティーが取られちゃったじゃない! 仕事ですごく頑張った時とかに、自分へのご褒美にしようと大切にしまっておいたとっておきの茶葉だったのにぃー!」
尚もポカポカと叩いてくる妻の方をとりあえず押さえて、ビュウは首を傾げた。
……何、この状況?
と、その時。
ビュウは不意に視線を感じた。
居間の入り口から。ハッと振り返る。
僅かに開いた居間と廊下を仕切る扉。
そこから垣間見える、いやもとい、がっつりこちらを覗いている見慣れた顔。
キラキラと輝くエメラルドの双眸。
にまにま楽しげに笑っている愛らしく美しい小顔。
揺れる金の巻き毛。
聞いた話では最近仕立てたらしい、控えめなデザインの白いワンピース。
ビュウは叫んだ。そうだ、兆候は最初からあったのだ。このオチへの、兆候は。
「全部お前の仕業かヨヨ――――っ!」
扉の隙間で、我らが腹黒愉快犯的女王陛下はうふふと上品だが出歯亀チックにいやらしい笑い声を立てられた。
事の発端は、ゴドランドの使節団を招いての晩餐会が執り行われる数日前だったらしい。
「――ねえ、フレデリカ」
「何でしょう、陛下」
戦争が終わってから、ヨヨの体調管理はフレデリカを筆頭とする一部のプリーストに一任されている。その日の朝の診察で、ヨヨはフレデリカにこんな事を尋ねた。
「フレデリカって、イズー小母様と仲良くやってるのよね?」
「ええ、お義母様にはとても良くしてもらってます」
世間の嫁と姑ってこういうものだったかしら、と思うくらいにフレデリカはイズーと仲良くやっていた。同居しておらず、息子の家が将軍の公邸だから母親といえどもおいそれと遊びに行きづらい、という距離感もある。
けれど、何よりイズーが「ビュウはもう私の手元から巣立っていった」という認識を持っているのが大きかった。嫁と姑の仲がこじれる原因の大半は、姑の方が未だに息子を子供と思って手をかけたがるところにある。
「じゃあ、いわゆる嫁姑の諍いってないのねー」
「ええ、幸いな事に」
ああ女王陛下ってば、また「つまらない」とかおっしゃるのかしら。結婚前からそういう風にいじられてきたフレデリカとしては、もう慣れっこの展開である。
――が、この時はいつもと違った。
「……もし貴女とイズー小母様がありがちな嫁と姑の諍いを起こして」
「はい?」
いきなり何か考え込んだヨヨに、フレデリカは聞き返す。
何を言い出した、この御方は?
「ビュウは、貴女と小母様のどちらを取るかしら?」
「……それは、お義母様の方でしょう」
フレデリカは特に迷う事なくそう答えていた。
自分の夫がどれだけ母親を大切にしているかよく知っている。自分を愛してくれているのも知っているが、それと母親への愛はまた別次元の問題だろう。
だからフレデリカとしては、ビュウがイズーの方を選んだとしても別に不満はない。少し寂しいかもしれないが、そういうところも含めて、彼女はビュウという男を愛している。
しかし――ヨヨの見解は、違ったらしい。
「そうかしら?」
「……え?」
「私の騎士を見くびっては駄目よ、フレデリカ。あれはそんな甘ったれた男じゃないわよ」
「甘ったれた、って……」
「嫁姑の諍いで母親をかばう男は、例外なく母親から巣立てない甘ったれた子供よ。私は、ビュウはもうその段階を過ぎたと思ってるけど……」
発言のターンが自分に回ってきた。フレデリカはそう感じて、己の見解を口にした。
「――確かに、夫は甘ったれた人ではありません。
ですが、夫婦の情愛と母子の情愛はまた違うでしょう。共に生きてきた年数も、私とお義母様では違いますし」
「じゃあフレデリカは、その辺りから、ビュウはイズー小母様を取る――と思うのね?」
「ええ」
迷いなく頷いた。
この時、フレデリカの気持ちには少しの意地も混じり込んでいた。
「では試してみましょう」
「え?」
「イズー小母様も巻き込んで、実験しましょう。目の前で自分の妻と母が喧嘩をして、果たしてビュウはどちらをかばうか」
ヨヨはニヤリと不敵に笑った。
楽しんでいる笑みだ。
自分の考えの正しさを信じている笑みだ。
それを見た瞬間、フレデリカは、
「いいでしょう」
と受けて立っていた。
「やってみましょう、その実験。私の夫が、私とお義母様のどちらを取るのか」
「でも、ただ実験するだけじゃ面白くないわね。……何か賭ける?」
「では私は、夫がお義母様を取る方に、秘蔵のハーブティーの茶葉を」
「あら、フレデリカの秘蔵って相当じゃない? じゃあ私は、ビュウは貴女を取る方に……そうね、来年の誕生日にこっそり一人で開けようと取っておいてある私の生まれ年のカーナ・ワインを」
「陛下の生まれ年、って……確か、ブドウの出来が良くてとっても美味しいけどグランベロスの侵攻の時に結構な数が失われて幻になりつつあるとか言われてますね。よろしいのですか?」
「ええ。これで賭けは成立ね?」
「もちろんです、陛下」
二人はそれぞれ不敵に強気な笑みを作る。
こうして、二人の賭けに部外者のはずのイズーが巻き込まれて――
「――母さんとしては、どちらが勝ってもお相伴に与れるという話だから悪い話じゃなかったのよね。ヨヨ様からのお話もとっても面白そうだったし」
と、おっとりと笑うイズーはビュウが知るいつもの母である。
もちろんビュウは、そんな母の様子にホッとする余裕などありはしなかった。明かされた種に脱力してソファの背もたれから身を起こす気力も起きない。
「……で、それでどうしてうちにヨヨがいるんだ? って言うかヨヨ、お前、城を勝手に抜け出していいのか?」
「大丈夫、代役を置いてきたから」
と軽く答え、ヨヨはフレデリカに淹れてもらったハーブティーを美味しそうに飲んでいる。ビュウの隣に座り直したフレデリカは、秘蔵のハーブティーとやらを取られてすっかりしょげていた。
フォローする気力も起きない。
ちなみにヨヨが公邸にいるからくりは、こういう事である。
密かに城を抜け出したヨヨは、イズーとフレデリカと合流、三人で一緒に仕立て屋にいったのだ。
そして三人でキャイキャイはしゃぎながらフレデリカに似合う控えめで上品なデザインのドレスを仕立て、一緒に公邸へ。イズーとフレデリカが居間に入る中、ヨヨだけは視覚に隠れ、ビュウが完全に戸口から居間の中へ戻ったのを見計らって扉に取りついたのだ。
要するに、母の突然の登場に気を取られて気配を察知できなかったビュウが間抜けだった、それだけの話である。
うっわー、俺、平和ボケしてる? 昔だったら絶対に気付いたはずなのにー――と更に落ち込むビュウに、母のクスクスという笑い声が聞こえる。
「でも母さん、嬉しかったわよ、ビュウ」
見やれば、ハーブティーを口に運んだイズーがビュウの方へニッコリとした笑みを向けている。
「お前が、ちょっとだけ母さんもかばってくれた事。本当は駄目出しするところなんだけど、嬉しかったわ」
「いや、それは……」
ビュウとしては自分の感情に素直に従っただけなのだが。
と、母はフレデリカの方へと視線を転じる。
「こんなふつつかな息子ですけど、これからもどうぞよろしくお願いします、フレデリカさん」
「いえお義母様、こちらこそふつつか者ではありますが、どうぞよろしくお願いします」
頭を下げあった妻と母は、顔を上げて微笑み合う。
ビュウは思わず横のソファで呑気に茶を飲んでいるヨヨに問うていた。
「……もうお前の不自然な仕込みなんてないんだよな?」
「いやぁねビュウ、この程度の茶番でビビったの?」
そうですビビったんですあんな怖い空気はもう勘弁なんです――とは、さすがに言えなかった。
そして後日。
「ドレス一着に一万ピロー!? ってこの仕立て屋、王室御用達の店じゃねぇか!」
件の仕立て屋から届いた請求書にビュウが頭を掻き毟って絶叫したのは、また別の話。
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