――思い返せば、最初の兆候はこの時だった。


 マハールやキャンベルを引き合いに出すまでもなく、カーナの宮廷も夜会やら晩餐会やらが多い。
 年賀、建国記念日、再興記念日、女王即位記念日、女王誕生日、その他諸々年中行事。そういったものに付随して執り行われるそれらは、他国から貴賓が訪れた時も当然のごとく催される。
 この日宮廷で行なわれたのは、ゴドランドからの使節団を招いての晩餐会だった。一定以上の位を持つ文官・武官は強制参加という、我らが麗しき腹黒女王陛下の哄笑が聞こえてきそうな決まり事である。
 ビュウ=アソル、伊達に戦竜隊を束ねる将軍ではない。「こちらがホストなのだから、さっさと準備してさっさと再登城してちょうだいね」と真っ昼間にわざわざ執務室に呼び出され注意された。つまり女王陛下の背後に付き従ってホストとして使節団を出迎えろ、というオーダーだ。ああ、何て楽しい宮仕え人生。
 仕方ないので嫁と一緒に昼下がりに城から一旦公邸に引き上げ、さぁさ始めろパーティの準備。戦竜隊名物・ドラゴン臭を風呂に入って念入りに落とし、さて晩餐会に着ていくのは平服だったか正装だったかと軍人としてわきまえていなければならない事を失念して大慌てで『将官の手引き・国賓応接編』(サー・マテライト=エシュロン著。非売品)を引っ張り出して、ああドレスコードは正装ねってあっれ俺軍の正装どこやったっけもしかして実家!? と更に慌てて衣裳部屋(本当は夫婦一部屋ずつあるのだが、揃って衣装持ちでないため共用)に駆け込んで探して見つけて虫食いがないかとチェックしてホッとして我に返って着替えて――

「――ねぇ、あなた」

 衣裳部屋をあとにした時、声をかけられた。
 見やれば、いたのは愛しの嫁フレデリカだ。既婚者は伴侶同伴の事、が原則の晩餐会、フレデリカももちろんきちんと着飾っている。
「私の格好、どうかしら?」
 少し自信なさげな様子で問われ――
 ビュウはまず、準備に慌ててすっかり沸いた頭を冷やすべく、一度、二度と深呼吸した。
 それから改めて妻の姿を頭のてっぺんから足の先まで眺め、
「ゆっくり回って」
 フレデリカは疑問の声も出さずにその場でクルリと一回転。
 ふむ、とビュウは唸った。
 今日のフレデリカのドレスは、淡い青を貴重にしたシンプルな形の物である。確か前にも見た事があったか。デコルテを綺麗に見せるために肩がやや露になってしまっているデザインは旦那としてドキドキすべきかハラハラすべきか。結い上げた金の髪を彩るのは、ドレスと同じ色のリボンと銀製の髪飾りだった。
「……うん、似合ってる。いいんじゃないか?」
 実を言えば、フレデリカには青よりも白の方が似合う、というのがビュウの見解だ。
 が、我らが腹黒クィーンはこういった催し物の時には白を着る事が多い。と言うか、白以外を見た記憶がとんとない。
 よって、女王も臨席する晩餐会・夜会では白のドレスを着ない事が貴婦人方の中での暗黙のドレスコードになっているそうだ。結婚式で女性招待客が絶対に白を着ないのと、まあ同じ理屈である。
 だからドレスの色のチョイスから必然的に白が除外されるわけだが、幸い、フレデリカは青も似合う。どぎつい色でなければ大体の色は似合うのだ。だから白が見れなくても我慢しよう、うん。第一白のドレスは結婚式に見た。その美しい姿は今も脳裏に焼きついている。それだけで十分じゃあないか。なあ、そうだろ?
 と、己の脳内で「いややっぱり白見たいよ白のドレス姿をもう一度!」としつこく喚いているワガママ本能を黙らせて、そこでビュウははたと気付く。

 フレデリカの表情は、何故かすぐれない。

 それどころか、
「本当? 本当に似合ってる? 本当にこれでいい?」
 と重ねて問うてくる。その様子は、何と言うか、不安げで、何かに追い立てられているようで――
「ああ、似合ってる」
 ビュウは、笑う。
 妻を安心させるように、笑う。
「大丈夫、綺麗だよ」
「本当? 地味すぎたりしないかしら」
「いいや? 地味すぎず派手すぎず、ちょうどいい感じだと思うけど」
「そう? ……なら、良かった」
 と、やっと笑顔を見せるフレデリカ。その様子に少しおやと思ったが、慣れない晩餐会に招待された神経質になったのだろう、とビュウは自分を納得させる。
 その時、王宮から迎えの馬車が来た事を告げる声がビュウたちを呼んだ。じゃあ行こうか、とビュウはフレデリカをエスコートして玄関を出、馬車に乗る。
 結論から言えば、晩餐会はつつがなく終わった。ビュウも「救国の英雄」だとかいう看板を背負って接待役をフレデリカと共に担う羽目になってしまったが、夫婦揃って緊張しすぎる事も粗相をする事もなく、何とか役目を全うできた。――まあこれは、反乱軍時代にゴドランド解放に一役を買った、あの頃の功績やら人脈やらがまだ生きていた事も大きいが。
 とにかく夫婦揃って美味しいタダ飯を食べてお腹いっぱいで、ご機嫌で家に帰って寝たのだが――

 

 

 第二の兆候は、それから数日後の事。
 ある用事でビュウが実家に帰った時の事である。
「……ねぇ、ビュウ?」
「何、母さん」
「この間の晩餐会で、フレデリカさん、前と同じドレスを着ていったそうね?」
「…………………………………………は?」

 一瞬。
 母イズーが何を言い出したのか、ビュウは理解できなかった。

「それは確かに年甲斐もなく派手なドレスを新調するよりかはいいかもしれないけれど、でも、ヨヨ様主催の晩餐会で前にも着たドレスを着て行くのもねぇ……」
「……あの、母さん?」
「ドレスコードに『一度袖を通したドレスの使い回しは駄目』なんてないけれど、一国の将軍の妻として、やっぱりそれなりに見栄を張らなきゃいけないと思うのよね、母さんは。
 ――ああそうだわ、それじゃあビュウ、フレデリカさんに言っておいてくれる?」
「……………………はい?」
「今度一緒に仕立て屋に行きましょう、って。『将軍の妻』に相応しいドレスを作ってもらわなくちゃ」

 ――この時、ビュウの脳裏で様々な事実が駆け巡った。
 ドレスを気にしていたフレデリカ。
 似合うに合わないよりも、むしろ派手か地味かを。あの、何かに追い立てられるような、いや――有り体に言えば、怯えた顔。
 繋がった。

(――これは、もしや)

 ビュウは戦慄する。


(嫁姑の諍い……!?)

 

 

 

 

我が家に嫁姑戦争がやってきた

 

 

 

 

 

「……お義母様と一緒に、仕立て屋……?」

 というのが、その話をした瞬間のフレデリカの反応だった。
 実家から公邸に戻ってからの事だ。居間のソファでのんびりお茶を飲んでいた彼女は、夫のこの言葉を聞いた瞬間、今にもそのカップを取り落としてしまいそうなほどうろたえ、困惑し、訝しさと怯えが複雑に入り混じった何とも言えない表情をした。
 あえてその表情を言語化するなら……「え、マジで?」。
 ビュウもまた戸惑い、うろたえた。彼の目から見る限り、フレデリカとイズーはこれまで仲良くやっているように見えていたからだ。

『それはまあ、同居しておらんしのぅ』

 ――何故か唐突にマテライトの声が耳に蘇った。
 あれは、そう、マテライトと結婚生活について話した時の事だ。

『同居しておると悲惨じゃぞ……? 家に帰ってみれば母と女房のおる居間には戦場もかくやというピリピリと緊張した空気が流れておって、こちらからすれば「何でそんなどうでも良い事で」としか思えん理由で無意味に角を突き合わせておるんじゃからのぅ。空気は最悪、嫁の肩を持てば母から突き上げを喰らい、母の肩を持てばあとで嫁にネチネチ嫌味を言われる。男は肩身が狭いぞ、ビュウよ』

「……それで、あなたは、何て?」
 妻の問いかけで我に返る。探るような目つきをされている。そしてその視線の奥底の方にすがる色がある、ような気がした。
 気圧されるものを感じつつ、ビュウは、答えた。
「『分かった』――って」
 すると。
 フレデリカの表情に、瞬く閃光のように様々な感情が走って消えた。
 驚愕、懐疑、悲憤。ここまでは読み取れたが、あとは目まぐるしすぎて掴めなかった。
 解るのはただ一つ――フレデリカがイズーの申し出を歓迎していない、という事。
「――……分かった、って言っちゃったの?」
「……ああ」
「私に確認する、とか、じゃなくて?」
「……あ、ああ」
「勝手に?」
「……あ……ああ……」
 答えるごとに、ビュウの相槌はあやふやで頼りないものになる。そして尋ねるごとにフレデリカの顔から表情が失われていく。
 さすがにビュウは悟った。自分が何か厄介な間違いを犯した事に。
「……そう」
 深々とした溜め息と共にそう言って、うつむく彼女。ソファに身を沈めて脱力する妻は、今にも寝込んでしまいそうなほどに疲れて見えた。
「フレデリカ……?」
「――ああ、ごめんなさいあなた」
 我に返った様子でパッと顔を上げるフレデリカ。
 ビュウはギョッとした僅かに身を退かせた。
 いや、だって。

 何かすっごい笑顔なんですけど。

 いやいやいやあり得ないあり得ないよマイスウィート奥さん何でこんなに笑顔ナンデスカ? 混乱した思考に見舞われるビュウに、続くフレデリカの問い。
「それで、お義母様からはいつだって?」
 仕立て屋に行く日、だろう。イズーが告げた日程を、ビュウは答える。躊躇いがちに、どもりがちに。
「つ……次の休みの日に、って」
「それも、もう決まってるのね?」
「あー……はい」
『次のお休みはいつ? その日でいいわよね?』
 小首を傾げて微笑んで、そう尋ねてくる母にビュウは反論という行為を選べなくなった。息子なんてそんなものである。
 気まずげに言葉を失くした夫へ、フレデリカはそれはもうニコニコと笑う。
 ニコニコと、やたらと素敵でやたらと空恐ろしい笑顔で。
「それじゃ、仕方ないわね……。でもね、あなた」
 と、小首を傾げるフレデリカ。ビュウはどうにもその仕草に弱い。

「出来れば次は、あなたの方でこと――いえ、私に確認してね?」

「こと」!?
「こと」って何!?

「――あ……はい、分かりました……」
 ビュウは敬語で答えるしかなかった。
 これが、第三の兆候である。

 

 

 そして数日後の次の休みがやってきた。
 フレデリカは明らかに気乗りしない、いや、積極的に「行きたくない」オーラを撒き散らしながら昼過ぎに出かけていった。
 戻ってきたのは、数時間後の夕方前。

「こんにちは、ビュウ」
「か……母、さん?」

 何故か母が一緒だった。

 居間に率先して入ってくるよそ行きモードの母と、あとからフラフラと疲労困憊の態でやってくるフレデリカ。イズーをソファに落ち着かせ、女中に茶を頼みがてらフレデリカの元へと歩み寄ったビュウは、声をひそめて尋ねた。
「母さん、どうして?」
「それが……」

 曰く――
 主にイズー主導で仕立て屋にデザインの要望を伝え、採寸を終えたあとの事。
『そういえば、今日、うちの人ってば出かけちゃってるのよね』
 と、ニッコリと微笑んでイズーは続ける。
『フレデリカさん、お夕飯を一緒にいただいてもいいかしら?』

「……どうしましょう?」
「どうしましょう、って……」
 ビュウは、ソファでくつろぐイズーをこっそり見やった。
 考えてみれば母はそれほどこの公邸にやってきた事がない。息子の家が物珍しいのか、まるで子供のように目を輝かせ居間を眺めている。
「……しょうがないだろ」
 フレデリカの表情が失望に染まったのが分かった。
 だがそれこそ仕方ない。中々やってくる事の出来ない息子の家に遊びに来てはしゃいでいる母に、「悪いけど……」とは言い出せない。
 例え、妻が思いっきり顔をしかめ、頬の辺りをヒクヒクと痙攣させていようとも。
 その表情の上に不自然極まりない強張りまくった笑みを貼りつけ、
「――ビュウ? フレデリカさん? そんな所に突っ立って、どうしたの?」
「あ、はい、お義母様、今参りますわ」
 と、やはり不自然極まりない半オクターブ高めの取り繕った声で応じて、自棄っぱち気味に身を翻しても。

 ビュウは、フレデリカの夫であるが――同時に、イズーの息子なのだ。

 女中が盆に茶器を載せてやってきた。母に茶菓子と共に給仕する。台所へ下がろうとする女中を、ビュウは呼び止めた。
「夕食の準備は?」
「はい旦那様、これから始めますが」
「悪いが、もう一人分追加だ。出来るか?」
「かしこまりました」
 マテライトの紹介だけあって、有能な女中である。一礼した年齢不詳(おおよそ三十代くらいだと思うのだが、どうにも判断つきかねる)の女中は、急にやってきた見慣れない主人の母親だとかあからさまにそれを厄介視している主人の妻の様子だとかに興味を持った素振りも見せず、仮面のような落ち着いた笑みで居間を出ていった。
 それを見送って、さて、とビュウは居間の中へと目を戻す。

「――あら、このハーブティーまあまあ美味しいわ」
「ありがとうございますお義母様。私が育てたハーブなんですよ?」
「あら、そう……。こちらのお菓子も中々美味しいわねぇ。これもフレデリカさんが?」
「いえ、それはお菓子作りの得意な女中さんに作ってもらった物で……」
「あらまあ、フレデリカさんのお手製じゃないの。ハーブは自分で育てても、お菓子は自分で作らないのねぇ……」
「まあ嫌ですわお義母様、今日はお義母様と仕立て屋に行っていたじゃないですか。仕立て屋に行って、同時にお菓子も作っておくなんて、体が二つないと出来ませんわ」
「まあまあフレデリカさんってば言い訳上手ねぇ」
「お義母様の無茶振りには負けますわ」

 そして響く、オホホホホホホホ、という不自然すぎる笑い声。

 やっベー何これ尻尾巻いて逃げ出したいんだけど!?
 って言うか何か二人ともずいぶん嫌味の言い合いに慣れてない!? 俺の知らないところで散々嫁と姑が角を突き合わせてたわけ!? 俺、それに気付いてなかった!?
 こんな中にいるくらいなら武装なしでグランベロス軍(サウザーが病に倒れていない、最も精強な時の)の前に一人で立った方がまだマシだ!

 自然、ビュウの体が震えてくる。ガクガクブルブルガチガチガチ。歯の根も合わなくなってきた彼を、

「――ああ、ビュウ」
「まあ、あなた」

 グルンッ、と。


 二人が全く同時にこちらを見た。


「いつまでもそんな所にいないで、こっちへ来たら?」
「お茶、冷めちゃうわよ?」

 ――この瞬間。
 ビュウの中の選択肢から、「退却」の二文字が綺麗に霧散した。

 

 

 

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