薄汚れたベージュ色が、目に飛び込んできた。
 天井だ。ファーレンハイトの、自室の。
 顔を少し動かして、周囲を見回す。いつも使っている書き物机の上に、金桶やら水差しやら包帯やら薬瓶やら、見慣れない物が色々と乗っかっていた。出しっ放しにしていた帳簿と領収書はどうしたろう。
 だから彼は、それを、机の傍に立っていた彼女に聞いてみた。
「領収書は?」
「えっ……?」
「机にあった、領収書。どうした?」
 彼女が振り返る。キッチリと編まれた淡い金髪が、跳ねた。

 振り向いたフレデリカは、空色の瞳を驚愕に見開いて、ベッドに横たわるこちらを呆然と見つめていた。

「ビュ、ウ……?」
「ああ。おはよう」
「ビュウ――!」
 持っていた包帯を放り投げ、ベッドにすがりつくフレデリカ。その、今にも泣き出しそうな顔が、すぐ近くにあった。
「ビュウ、大丈夫? 私の事、分かる? ちゃんと、分かる?」
「それは大丈夫だけど……」
「今までの事、覚えてる? 何があったか、ちゃんと覚えてる?」
「今までの事……?」
 記憶をさらう。三歳の時、六歳の時、八歳の時、十歳の時、十四歳の時、十八歳の時、二十一歳の今、そして……――
「……そういえば、あの戦闘は結局どうなった?」


 思い出してみれば、情けない話である。
 ダフィラ近空に位置するグランベロスの補給基地を潰すべく、出撃したビュウたち反乱軍。
 戦闘そのものは、比較的楽だった。商人に人脈がある、というのは非常に便利なもので、要するに、補給基地に物資を納入している商人たちに声を掛けて、物資流通の停滞と、詳細な情報の入手を実現したのである。
 先日のゴドランド駐留部隊の本国撤退により、グランベロス本国も、部隊の再編に大忙しのはず。ゴドランド・ダフィラ航路間にある補給基地は、確かに要衝かもしれないが、そうすぐには手が回らない。
 その予想が大当たりした。
 つまり結果として、出入りの商人から生活物資を買う事もままならず、本国からの補給も当てにならなくなった件の基地は、一気に疲弊した。
 ビュウたちは、そこを突いたのである。

 ――が。
 そんな簡単な作戦で、ビュウは生死の境を彷徨う羽目になった。
 興奮した戦竜の放った電撃が、基地の建物を破壊。その瓦礫が、偶然、すぐ傍にいたビュウに降りかかり――
 それが頭に思い切り直撃したのだから、自分もまぁ、間抜けだった。


「……あの戦いは、もちろん、私たちが勝ったわ。でも……その代わりに貴方が大怪我をして、昏睡状態になって、五日も目を覚まさないで……――」
「五日……?」
「ええ」
 五日。
「……寝すぎたな」
 素直な感想を呟くと、途端に、フレデリカの顔がクシャリと歪んだ。
 こちらがギョッとするか否か。彼女は、ポツリと呟いた。
「そうよ……寝すぎよ」
 晴れの日の青空のような明るい青の瞳が、潤む。
「ゾラも、ディアナも、ジョイも、私も、必死で魔法で怪我を治したのに、貴方は全然起きなくて……」
 ひっ、としゃくり上げる。
「このまま、ずっと起きなかったら、って思ったら……怖くて……怖くて……――!」
「フレデリカ――」
「……良かった」
 不意に零れ落ちた涙を手の甲でこすって、彼女は、少し笑った。
「貴方の目が覚めて……本当に、良かった」

 良かった?
 良かった……のだろうか。

「――そうだ。ヨヨ様にお伝えしないと」
 と、彼女はパッと立ち上がる。
「ヨヨ様も、ずっと心配されていらしたから」
 まるで言い訳のように呟いて、ベッドから離れようとする。

 その手を、ビュウは掴んだ。

「……ビュウ?」
 驚いて足を止め、肩越しに振り返った彼女に、ビュウはベッドに寝そべったまま、
「ちょっとごめん」
「え?」
 と、彼女が問い返す間もろくに与えず。

 ビュウは、掴んだフレデリカの手を頬に当てた。

「えっ――ビ、ビュウ!?」
 さすがにいきなりの事で、フレデリカは狼狽した。頬が紅潮している。
 けれど彼は、気にしなかった。

 少しヒンヤリとした、フレデリカの手。
 その温度を、感じるという事。
 その冷たさの奥にある、確かな温もりを感じられる、という事。

 生きている。


 背後で立ち止まっていた死神が、すごすごと、彼方へ歩み去っていく。

 今度こそ、死が、遠退く。


「……ありがとう」
「え――あ、うん」
 その謝辞を、手の事と思ったのだろう。解放された手を胸に抱えるようにして、フレデリカは、どこか戸惑いがちに頷いた。
 ビュウは苦笑し、しかし、胸に抱いた思いは口にしない。
 フレデリカが部屋を去り、自分一人が取り残されても、彼はまだ笑っていた。
 気分はひどく清々しかった。


 そうじゃない。
 君のおかげなんだ。
 死んでもいいと思った俺を、この生に引き留めたのは、君だ。
 俺の死にたがりを食い止めたのは、君だ。
 君のおかげで、俺は戻ってこられたんだ。



 ありがとう。

 

 


 ベッタベタにもほどがある。
 ――……という突っ込みは、出来ればナシの方向で。


 そろそろビュウさん過去編を立ち上げようかなぁ……。
 でも、過去編はネタがネタだから、批判と非難が凄そうだ。

 

 

 

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