あの、世界を巻き込んだ戦争が終わり、四度目か五度目かの春が緩やかに訪れつつある――
その出来事は、そんな時分にやってきた。
執務室の扉が叩かれた。
その音に、ビュウは睨み合っていた書類から顔を上げた。
今、執務室にはビュウ以外には誰もいない。元は庶民の出、いくら将軍位に就いたからといって、周りに従卒やら秘書官やらが侍るのはどうにもこうにも鬱陶しくて気持ちが悪いのだ。だから彼は、必要な時にはトゥルース辺りに秘書の真似事をさせる以外、そういう者を身近に置いた試しがなかった。
だからこういう時も、良い感じに応対してくれる者がいないから、
「どうぞ」
誰が来たのかも確認せず、さっさと中に入ってもらう。
と、少し間があった。あれ、と思っていると、
「――……隊長、失礼します」
ビュウは僅かに目を見開いた。声の主に、ではなく、むしろその言葉遣いに。
カチャリ、とドアノブの回る音が響いた。扉は音もなく開き、精緻な浮き彫りの施された一枚板の向こうから、見慣れた顔が硬い表情を浮かべて現われる。
その表情に何か予感めいたものを感じながら、ビュウは、こう声を掛けた。
「いきなり言葉遣いを改めて、一体何事かと思ったが――」
赤毛、黒髪、薄い茶髪。
髪の色も顔の造作もまるで違うのに、それこそ兄弟のように似通った硬い表情を浮かべた顔が三つ並ぶのを見つめながら、続ける。
「とりあえず、この間の辺境調査の報告書を持ってきた、というわけじゃなさそうだな……」
それから、彼は、執務卓の向こうに揃った三つの顔を見て、
「雁首揃えて、一体何の用だ?」
三人――ラッシュ、トゥルース、ビッケバッケは、一度顔を見合わせ何か頷いた。そして、代表のつもりか、ラッシュがほんの少し躊躇った後に口を開く。
「相談が、あるんだ」
往く道の分岐
「相談?」
ビュウはその単語を繰り返す。少し眉をひそめた。
おかしな単語が出てきたものだ。そう思う。三人の顔には、誰かの助言を必要とするほどの迷いはない。
訝しげに思いながらも、ビュウは先を促した。
「相談って、何を?」
すると三人は、再び互いに目配せした。
肩を寄せ合って額を寄せ合って、何やら素早く唇が動いている。ビッケバッケがラッシュに何か言い、トゥルースがその脇腹を肘で突いた。
(……話があるなら、段取りくらいつけてから来いよな)
呆れ混じりに思う。と。
針山みたいな赤毛が動いた。ラッシュが再びビュウに視線を向ける。固く結んだ口元が、相当の緊張を窺わせた。
その口が、開く。
「じ、実は、俺たち――」
ラッシュは、一拍間を置いた。
一拍。
何故か、妙に長く感じた。
「俺たち、退役しようかと思うんだ」
「そうか」
あっさりと頷くと、むしろ向こうが驚いた顔をした。
「え……?」
「あ、あの、隊長……」
「今、な、何て?」
ラッシュ、トゥルース、ビッケバッケの順である。この三人の、こういう息がやたらとぴったりの思考分業ももう見られなくなるのか、とか何とか思いつつ、
「だから、そうか」
再び頷いてやる。
すると、ラッシュたちは。
硬直。
沈黙。
そして怒声。
「ってちょっと待てよビュウ!」
大股一歩。それだけで、顔を一気に赤くしたラッシュは執務卓との間を詰めてきた。色々な書類の乗った机をバンッ、と両の掌で叩く。
「それだけかよあんたは!」
「おぉ」
「『おぉ』じゃねぇだろ!」
「他に言う事ないだろう」
「いや、あるだろ色々と!」
「例えば?」
「『何でいきなり退役なんて』とか、『退役してどうするんだ』とか!」
「いや、あんまり興味ない」
直後にラッシュが見せた表情の変化は、それなりに楽しかった。
紅潮すらしての激昂。食い縛った口元が、一転、弛緩した。カクンと落ちる顎。沸騰寸前を想起させるほど顔に上った血の気が、それこそザァッと音を立てて引いていく(いや、そんな音など聞こえないが)。見開かれた目は先程よりもずっと強く驚愕を表わしていて、何と言うか、総じて間の抜けた呆け顔である。
そして、それが三つあるものだから、
(俺に笑いを提供しに来たのか、こいつら?)
「退役するなら、俺の所じゃなくて、事務局に相談に行け。エンバーっていう事務の小母さんが退役希望者の担当だから、まずは彼女から退役申請書と諸々の手続きの書類を貰う事。書式はトゥルース、大体分かるだろ。分からない事はエンバー女史に聞くんだな。退役届けの提出先は俺、年金受給手続と予備役関連書類は、退役届受領確認後に事務局に提出する事。それが受理されたら、身辺整理を手早くやるんだな。特にラッシュとビッケバッケ、お前ら、事務仕事なんか残していくんじゃないぞ」
と、そこまで一気にペラペラと説明してから、
「で、相談って?」
「……あ、いや、えっと、その――」
話を振られ、我に返ったラッシュは言葉に詰まった。それからまだ少し口の中でモゴモゴと言葉にならない言葉を転がしてから、
「――……もう良い」
「そうか。なら、早いとこ事務局に書――」
――バタンッ!
その音は、ラッシュが勢いよく扉を開け、そして力任せに閉めた音だった。
三人は、無言で出て行った。ラッシュは振り返る事なく、トゥルースはやや非難を込めた眼差しを一度だけこちらに向け、ビッケバッケは最後まで何か言いたそうにこちらを見ながら。
荒々しい足音が、執務室から遠ざかっていく。ついには聞こえなくなった。そしてようやく、ビュウは一つ溜め息を吐いた。椅子の背もたれに完全に体重を預け、後ろ頭と首の付け根を乗せるようにして、喉を反らして天井を仰ぐ。
自分でも意外なほどに、ラッシュの言葉を静かに受け止めていた。心はさっきも今も、動揺どころか身じろぎ一つしておらず、それはまるで凪の中にある水面のようだ。
いつか、こんな日が来る、そう思っていた。
そして、来た。
彼はパッと顔を真正面に戻した。先程一旦やめた書類との対決に戻る。先日高官たちから持ち出された軍縮に関するものだった。軍縮自体は賛成だが、グランベロスの情勢が未だ不安定でいつこちらに飛び火してくるか判らない、という現状を考えると、諸手を挙げて歓迎するわけにもいかず――
その時ビュウは、ふと閃いた。
「――……兄貴分として、最後の仕事をしてやるか」
と、呟くと。
ビュウはその書類との本格的な対決に入った。
§
ビュウの執務室から出た途端、ラッシュは人目も憚らず怒声を発した。
「何なんだよ、ビュウの奴!」
「ちょっとラッシュ! そんな大声で――」
「これが怒鳴らずにいられるか、ってんだ!」
宥めようとしてくるトゥルースに、逆に噛み付き返す。ギョッとした彼が眼を白黒させている内に、ラッシュはギャンギャンと、まくし立てた。
「俺たちずっと一緒だったんだぞ!? あの戦争でも、ずっとビュウと戦ってきたんだぞ!? その俺たちが退役する、ってのに、何だよあの態度! もっと何か言う事あるだろ!」
「確かにそうですが、ラッシュ、落ち着いて――」
「落ち着けるかっ! 俺たちが何で退役するのか、とか、退役してどうするのか、なんて『あんまり興味ない』だって!? それしか言う事がねぇのかよ!」
「だからラッシュ――」
「悔しくねぇのかよ! 俺たち、あんなに死に物狂いでビュウについてきた、ってのに、あれだけだぞ!? 結局あいつにとって俺たちなんて――」
「ラッシュ!」
トゥルースの、常にない大声に。
それまで一方的に吐き出すだけだったラッシュは、初めてハッと口を噤んだ。
この、滅多に怒鳴らない幼馴染みが、よりにもよって宮廷で怒鳴ったから――というのもさる事ながら。
「――滅多な事を、これ以上言わないで。ここは宮廷で、私たちは軍人で、隊長は将軍で……まだ私たちの上官で、私たちはまだ退役していないんです」
一気に頭が冷えた。
ラッシュは左右に鋭く視線を走らせる。どこかに何かを運ぶ途中らしい侍女や、書類を持つ秘書官、通りすがりの兵が、何事かとラッシュたちに訝しげな視線を向けている。
ここは、宮廷で。
自分たちは軍人で。
ビュウは将軍で、自分たちの上官で。
そしてまだ、退役もしていない。
「……悪い。頭に血が上ってた」
「気持ちは解ります。ですが、控えてくださいラッシュ。退役する前に始末書を延々と書かされたくはないでしょう」
その図を想像して、ゾッとするラッシュ。ちょっとした不始末――例えば上官への暴言とか、軽い軍規違反とか――のためだけに、十枚以上にも渡る反省文を書かされる。これまで何度かそれを経験し、そしてその度に、規定枚数を埋められずに三日三晩徹夜してきた彼は、思わずブルブルと頭を振った。その想像を振り払うように。
ただでさえ、退役するまでにはやっておかなければいけない事が山ほどある。溜めた報告書の提出やら、引き継ぎ事項の確認やら、私物の整理やら。時間はない。貴重な時間を始末書ごときに割く時間は、尚の事。
とりあえず、将軍の執務室前、という最悪のロケーションからは離れた方が良い。三人は顔を見合わせるだけで意思疎通を完了すると、そそくさとその場から立ち去った。足は自然と行き慣れた方、すなわち練兵場へと向かう。
「――でも本当に、あの隊長の態度は何なんでしょう」
トゥルースが口を開いたのは、戻る道も半ばの頃。彼は隣を歩くラッシュと、少し遅れてついてきているビッケバッケに一度ずつ視線を送って、
「確かにあの淡白さは、隊長らしいと言えば隊長らしいです。けれど私は、隊長にとって私たちがそこまで軽い存在だとは思えません」
「……そりゃトゥルース、お前の思い込みだよ」
ひねくれた口調で、小さく返すラッシュ。トゥルースはその言葉に、
「そうでしょうか……」
「そうだよ。じゃなきゃ……普通、あんな言い方、しねぇよ」
暗く、吐き捨てるように、呟いた。
ビュウとの付き合いは長い。出会ったのはまだ軍に入隊する前、トゥルースとビッケバッケを引き連れて下町で野良犬のようなその日暮らしをしていた頃だから、その期間たるや、かれこれ十五年ほどになるだろうか?
その頃のビュウというのは、およそ少年らしからぬ少年で、やたらと実務的でひたすらに現実的でとことん功利的だった。一度など、他の浮浪児のグループとの縄張り争いの最中に遭遇し、徹底的に傍観され、思わず「見てねぇで助けろよ!」と腹立ち紛れに怒鳴ったら、「高いぞ」と一言静かに返されてしまった。
つまり、そういう少年だったのだ。
その後、軍に入った彼を追うようにして、ラッシュたちもまた、軍人の道へと踏み込んだ。それ以来、ビュウはずっとラッシュたちの上官であり、ラッシュたちはずっとビュウの部下だった。
そうして、十五年。
その関係は変わらないまま、二つの大きな戦争と、無数の死地を乗り越えて、十五年。
その十五年の関係が、ラッシュたちの退役によって終わる、というのに――
正直。
ショックだった。
ビュウがあんなにも簡単に、あっさりと、自分たちが離れていくのを認めるなんて。
ビュウにとって、自分たちの存在というのは、その程度のものだった、という事なのか。
傍にいようが離れていこうが、特に気に留める事もない、という事なのだろうか。
「……なぁ」
「何です、ラッシュ?」
「俺たち……何なんだろうな」
問いを口にしたその声は、自分でも思わずハッとするほどに、途方に暮れていた。
チラリと横目にトゥルースを見れば、彼もまた、目を見開いて言葉を失くしていた。それからラッシュの視線に気付き、内に秘めた感情を悟られまいと軽く視線を逸らす。
同じ事を考えていたのだろうな、と何となく察した。
それから気まずい沈黙が流れた。次の言葉を何と切り出すべきか、そう迷っている内に足はドンドンと先に進んで練兵場まであと少し。
「――ねぇ、ラッシュ、トゥルース」
後ろでずっと黙っていたビッケバッケが、不意に口を開いた。肩越しに振り返るラッシュとトゥルース。
「事務局に、書類貰いに行くんじゃなかったの?」
「「……あ」」
そして三人は立ち止まる。
ビュウの事を考えていて、それを忘れていた。唖然とした顔で互いに見合っているラッシュとトゥルースの耳に、ビッケバッケのあっけらかんとした声は何の抵抗もなく滑り込んだ。
「きっとさ、アニキの事だから、何か考えがあるんだよ」
「何か、って何だよ」
「さぁ?」
と、首を傾げたビッケバッケに、ラッシュはガクリと肩を落とした。
「あのなぁビッケバッケ、お前、適当に言ってんじゃねぇぞ」
「適当じゃないよ。アニキって、そういう人じゃん」
改めて見る弟分の顔は、不思議そうにきょとんとしていた。何故そんな事も分からないのか、そう言いたげだ。
それを見ている内――
「……何か、馬鹿らしくなってきた」
考えてみれば。
ラッシュが、一度でもビュウの思考を読めた試しはない。
彼ら三人が、ビュウの思惑を察する事の出来た試しなど、この十五年近くで一度としてなかった。
それに気付いた途端、ラッシュの中に、また沸々と怒りが湧き起こってきた。
という事は、何か? これほどに一緒にいながら、自分は、少しもビュウという男を理解していなかった、という事か?
「……おい」
「何です?」
「事務局、行くぞ」
そしてラッシュはバッと勢いよく踵を返した。練兵場と事務局は方向が違う。途中まで戻らなければいけない。二人がちゃんとついてきている事も確かめず、大股で先へ先へと急ぐ。
「ちょっと、ラッシュ!?」
「もう知るかあんな奴の事!」
足の裏を廊下のタイルに叩きつけるようにしながら、彼は大声で返した。
「とっとと退役届叩きつけて、こっちから縁切ってやる!」
ラッシュたちが退役届をビュウに出したのが、その三日後だった。
ビュウは特に表情も動かさずにそれを受け取り、その場で受理し、
「他の書類は事務局だぞ」
「うるせぇそれくらい分かってる!」
冷ややかですらあるその言葉に、ラッシュの苛立ちは更に増した。執務室の扉を蹴り開け、床を踏み抜かんとばかりにドシドシと歩いて事務局に向かい、窓口に必要な書類を三人揃って提出して――
信じられない事を聞いた。
「この書類は受理できないわよ」
「はぁ?」
三日掛けて書いた書類を就き返してくる退役担当のエンバー女史に、ラッシュはカウンターに手を突いて詰め寄った。
「待てよ小母さん、何だよそれ」
「ちょっとラッシュ――」
問い詰める声が険を帯びた。それに気付いたトゥルースが押し留めようと肩に手を掛けてくる。そしていきり立つこちらの代わりに、カウンターの向こうに尋ねた。
「どういう事でしょう? 何か、書類に不備でも?」
しかし、書類を受け取ったエンバーがそこまで詳しくチェックしているようには見えなかった。ラッシュの眼には、書類の末尾だけで彼女がそう判断したと、そんな風に映った。
「一昨日だったかしら? アソル将軍閣下がこちらにいらして」
「ビュウが?」
その名に眉をひそめるラッシュ。一方のエンバーは、上官のファーストネームを呼び捨てにしたこちらに胡乱げな視線を向けたが、それだけで何も言わずに話を続けた。
「戦竜隊の隊員三人が近々退役するけれど、その三人の退役後の年金の全額カットと予備役枠からの削除を命令されていったわ」
年金の全額カット。
予備役枠からの削除。
それは、つまり――
こちらが、余りにも愕然としていたからだろう。エンバーはいささか驚いた表情でラッシュたちの顔を順に見つめ、
「……貴方たちが、将軍閣下に申し出たんじゃないの?」
三人は、それにすら何も返す事が出来なかった。
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