……その時はまだ橋は架かっていなくて、あの大工は、こう言ったものだった。
『お前らは、物を壊す。でも俺らは作る。……俺らの方が、偉ぇじゃねぇか』
――それは、もう十年以上も前の事。
それだけの時を経て、しかしその言葉は鮮明に脳裏に蘇る。声の低さ、抑揚、その奥に潜む感情の起伏さえ、まるでついさっき聞いたもののように、耳の奥でこだましている。
ビュウは笑った。口角を僅かに吊り上げて。血が一筋、二筋と流れるその顔に、その笑みは余りにも凄惨に映る。
そして次の瞬間熱が走り。
ビュウの左腕は、剣を握ったまま、宙を舞った。
橋大工
―1―
遠くで音がした。
それはノックの音だった。遠くに感じたのは、自分がうつらうつらと夢と現の境を行ったり来たりしていたからだ。コンコン、という硬質の音でどうにかこうにか現の側に踏みとどまると、まだ何となくボンヤリした頭で、応じる。
「……はい?」
「フレデリカ? 俺――ビュウだけど」
フレデリカは、自分の意識が今度こそバッタリと現側に盛大に倒れたのを感じた。
意識が一気に覚醒する。目を見開いてガバリッ、とベッドから起き上がると、すぐに口を開いてどうぞ、と言おうとした。しかしその直後に、ついさっきまで眠っていた、という状況を思い出し、
「ご――ごめんなさい! ちょっと待って!」
「あ、あぁ……」
扉の向こうでビュウが答えるよりも前に、フレデリカは手早く、そしてバタバタと慌ただしく寝乱れた自分の姿を直し始めた。ボサボサになり緩んだ三つ編みはほどき、手櫛で梳いたらチャッチャと編む。ズレた上掛け布団の位置を戻し、しわのついた寝巻きのしわも伸ばしてみる。
この間、僅か一分半。
「お、お待たせ――どうぞ」
「じゃあ……失礼」
ギィ、と。
軋む扉を開け、ビュウは少し躊躇いがちにこの部屋、医務室に入ってきた。扉に半分身を隠したまま、訝しそうな顔つきでキョロキョロと部屋の中を見回すと、
「……今、本当に平気か?」
「へ、平気だけど」
「……その割りには、何かバタバタしてたような」
「だ、大丈夫! だからどうぞ!」
強く――というかいささか強引に招く。ビュウはまだ躊躇った様子で――むしろ何か疑う様子で――狭い医務室の中をもう一度一瞥し、しばらく考え込んでから、ようやく中にちゃんと入った。
戸が閉まる。その音に、フレデリカは不意に、今部屋に二人しかいないのだ、という事実を意識した。途端に緊張し――
ビュウの姿を改めて見やった瞬間、それは違う感情に取って代わられた。
「……ビュウ」
「ん?」
フレデリカのいるベッドへと歩み寄ると、彼は壁際にあった椅子を右手で引き寄せ、それに腰掛けた。背もたれがないから、姿勢が自然と前のめり気味になっている。
「左手は……まだ、使えないの?」
彼女は彼の左腕に目をやる。彼も自分の左腕に目を落とす。
三角巾で吊られた、ビュウの左腕。
「まぁ、くっつけてまだ三日だしな。そう簡単に動くようにはならないさ。感覚は、戻ってきてるけど」
「不便じゃ、ない? 左利きなんでしょ?」
「それは大丈夫だ。子供の頃に右利きに矯正されて、今は両利きだから」
「そうなの……」
そう、と頷いたビュウは、それから足を組み、膝の上で頬杖を突いた。
「それにしても」
不意に話題を変えた彼の表情は、いつの間にか渋いものに変わっている。渋面で、ベッドで上体を起こすこちらを見ていた。
「普通、反対だよな」
「え?」
「三日前の戦闘で倒れたのは俺の方だぞ? なのに何で治療した方が寝込んでるかなー」
「そ、それは、貴方の治療で限界を無視して魔力を使ったから……」
「ゾラから聞いたんだけど、何でも、大丈夫って言い張ってディアナに手伝わせなかったとか?」
「そ、それは……」
痛いところを突かれた。ビュウから視線を逸らし、彷徨わせる。
続く言葉を失ったフレデリカに、彼はフゥ、と吐息した。
「普通、一人じゃやらないだろ。切断された箇所の接合治療なんて。何でディアナに手伝ってもらわなかったんだ?」
話は、三日前に遡る。
ファーレンハイトの現在位置に程近い空域。そこに浮かぶあるラグーンに、グランベロス軍の中継基地がある。カーナ方面への物資輸送においていくらか重要な役割を担うそこが、三日前の作戦の目標だった。
幾度かの偵察を経て確認された守備隊の規模はビュウたちの予想を上回っていて、彼は作戦を変更、一気に叩き潰さず、作戦を何回かに分けて徐々に守備隊の戦力を削る方法に出た。
その第一回目が、三日前。
遠方からの魔法攻撃に援護され、ビュウたち前線の部隊が突撃を掛ける。戦竜の力を借りて守備隊の一部にダメージを与えると、即座にその場を離脱した。
反乱軍の経験からいって、ビュウに抜かりはない。彼は撤退ルートをちゃんと確保していた。その途中に川があり、その川には白い石造りの橋が架かっていて、その橋さえ落とせば追撃部隊から完全に逃れる事が出来る、と。
しかし。
殿を務めていたビュウは、その橋を渡ろうとして。
不意に足を止めた。
橋の袂から動かなくなった。
ラッシュやマテライトの声で異常事態は全体に知れた。橋の方を振り返ったフレデリカは、ビュウがバッと踵を返すのを目の当たりにした。
彼は、一人で追撃してくる敵に挑み掛かり――
ふとした瞬間に生まれた隙を突き、敵の一人がビュウの左腕を斬り落とした。
切り口から血が勢いよく吹き出た。剣を握ったままの左腕が血を撒き散らしながら宙を舞った。ビュウが絶叫した。しかしそれは激痛を堪えるものではなくて、むしろ自分を鼓舞する雄叫びに聞こえた。彼は右手だけで、それでも敵と戦った。
ラッシュが叫んだ。トゥルースが硬直した。ビッケバッケが悲鳴を上げた。マテライトが毒突いた。そして彼らはビュウを助けるべく、渡った橋を向こう側へと戻っていった。
そして気が付けば、フレデリカもまた、ディアナの制止を振り切って駆け出していた。
その後の話は、それほど難しくはない。
追撃部隊を蹴散らした瞬間、ビュウはそのまま倒れた。激痛と出血のショックで気を失った彼を治療したのが、真っ先に駆けつける事の出来たフレデリカである。彼女はラッシュにビュウの左腕を持ってこさせ、裁縫道具で腕を縫合すると、それからひたすら『ホワイトドラッグ』を掛け続けていたのだ。くっつけるだけなら大丈夫、とか言ってディアナの助力を遠慮して。
それについては、言い訳ならいくらでも出来る。ディアナの力は、その後の治療のために取っておいてもらいたかった。接合だけなら自分の力だけで出来ると思った。魔法治療を途中から複数でやるとなると魔力を練り合わせるのが大変で、その調整をする暇すら惜しかった。
けれど本音は――まさか、言えるはずもない。ビュウの怪我を、自分の手で、自分だけの力で治したかった、などという身勝手な動機を。
「……まぁ、いいか」
自分の身勝手ぶりに落ち込むフレデリカは、ビュウのその言葉で、改めて彼を見る。
彼は、自嘲気味の笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
「俺だって、自分で立てた作戦を無視して一人で馬鹿やらかしたわけだし。フレデリカの事は言えないな」
「そうね――」
と頷きかけてハッとし、慌ててブンブンとかぶりを振る。
「ち、違うのよ今のは! 今のはその、癖というか弾みというか妖精さんのいたずらというか!」
ビュウは笑みを、いや、表情そのものを消した。無表情の、しかしその中に苦いものを含んだような顔で、
「どんな妖精だそれは」
「え、えーと、それは……く、薬の?」
「追い払えそんな妖精」
「え、でも……私持病があるから薬はちょっと手放せないなー、って」
「それをそろそろ脱却しよう薬代もタダじゃないんだし」
「……結局そこに行き着く辺り、さすがビュウ、って感じがするわ」
吐息混じりに言うと。
彼は、思いきり苦りきったしかめっ面を浮かべてみせた。
「……似たような事、ヨヨにも言われたな」
「ヨヨ様にも?」
ビュウの忠誠が注がれているただ一人の人。その名をフレデリカは繰り返す。「言われた」と過去形で言うとなれば、それは今より前の段階での事。――ここに来る前に、自分とこうして話すより以前に、一体何を話したのだろう。
「今回の事で個人的にあいつと話してな。俺が『要らない医療関連費が掛かったのが一番のミスだ』って言ったら、『結局はそこに行き着くのね貴方は』ってさ」
そういう話か。
前振りの時点で予想して然るべきだった。それに気付かない考えの至らなさと、ただの杞憂で嫉妬を感じてしまった浅はかさに思わず頭を抱えながら、それでもフレデリカは、疑問に思わずにはいられなかった。
「ヨヨ様は、今回の事……何て、おっしゃってた?」
「だから、結局は金の話か、って」
「そっちじゃなくて」
遮り、方向修正。ビュウは一瞬、他に何があったろうか、とばかりに首を傾げたが、すぐに思い当たったらしく、途端に渋い顔をしてみせる。
「……『こんな失態、貴方らしくないわね』」
フレデリカはギョッとした。
まさか、ビュウはヨヨの口調はおろか声色まで真似るとは。
気色悪くすらある彼の声真似に顔を引きつらせていると、そんなこちらの様子にビュウは疲れた笑みを浮かべて、
「……だとさ」
と、肩を竦める。
「確かに、ヨヨの言う通りだ。自分で立てた作戦を自分で駄目にするなんて、本末転倒もいいところだよな」
フレデリカから軽く視線を外して、まいったなぁ、と続けて呟く。
「俺とした事がなぁ……」
「――どうして?」
フレデリカは問うていた。え、とビュウが我に返った様子で視線を戻す。
「どうして、あそこで立ち止まったの?」
それは、この三日間、あの戦場からここまで、ずっと抱き続けてきた疑問だった。
あの橋の袂。あそこでビュウは、何故立ち止まったのか。それさえなければ、反乱軍は余計な戦闘を強いられる事もなく――
ビュウが左腕を断たれる事も。
その治療でフレデリカが倒れる事も。
そして、こうして医務室で二人きりで会話をする事も。
なかった、はずだ。
問いを受け、ビュウはただ口を閉ざしていた。渋さの混じる不健康な笑みはもう消え、まるでフレデリカの追及から逃れるように、軽く顔を伏せている。
その様子に、彼女は、自分が立ち入った事を聞いてしまったのを悟った。
彼だって、好んで失態の理由を話したがるはずもない――そう気付いて、フレデリカは口を開く。ビュウ、ごめんなさい。そう、言おうとして、
「――感傷だよ」
「……え?」
機先を制され、放とうとした言葉は代わりに問い返しの母音に転ずる。言葉と共に謝罪の気持ちすら掻き消えて、彼女はただ目を丸くして、視線を動かすビュウを、顔を上げながらもこちらには決して視線をよこさない彼を、見つめる。
「感傷だよ、ただの――馬鹿げた」
ビュウの顔は、フレデリカから、ベッドの枕元にある窓の外へと向けられる。
窓の外は、青空。白い雲がまばらに一つ、二つ。昼前の日差しは柔らかく、全てが全て穏やかだった。
平和。漠然と、彼女はそう思う。三日前、彼も自らも血塗れになった事が、まるで嘘のよう。
だが嘘ではない。自分にそう言い聞かせるフレデリカ。眼前にいるビュウは左腕を包帯で巻き、三角巾で吊っている。自分は無理が祟って、この三日間臥せったり起き上がったりの繰り返し。
全ては、三日前。あの白い橋の袂。
ビュウはついに、それを語りだす。
「――俺がまだ、ガキの頃だ」
それは優に、十年以上も昔の事だった。
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