―4―
亡者たちは、生前の記憶をほとんど留めていなかった。
彼らはただ飢えていた。食べ物に、温もりに、人に、愛に。
彼らはただそれを満たしたかった。微かに残る生前の記憶をよすがに。こぼれ続ける記憶の底にほんの少しだけ残っている、愛する者の面影を頼りに。
そんな彼らは、鐘楼の鐘が歌うのを聞いた。
あちらこちらで不意にかがり火が燃え上がるのを見た。
彼らは呻き声を上げる。オオ、オオ、オオオオオオオオ――やめてくれやめてくれ、と。痛みに苦しむように、涙に咽ぶように。その呻き声が不協和音を奏でる。
――……コツン。
石畳に、何かが当たって跳ねる音。
――……コン。
建物の壁に、硬い物が弾かれる音。
――……ポトリ。
そして青白い顔をした亡者の子供の手に、落ちてきたそれ。
飴玉だった。
子供はがらんどうの顔で空を見上げた。雲の多くなってきた晴れの空。そこを翼を広げた竜の影が悠々と渡っていく。それを見つめる子供の目が、僅かに見開かれた。
降る。
降り注ぐ。
降りしきる。
お菓子の、雨。
トリートの、雨。
手の中の雨を再び見下ろした子供の顔に表情が戻る。生きていた頃と同じような精彩が再び宿る。
『――おかあさん』
言葉が紡がれる。舌足らずな口調はそのままに、しかし声音は愛する者への憧憬と気遣いに溢れていた。生前の記憶が蘇り、先程まで追い求めていた母親を、今度は別の目的で探し出す。
透け始めた体で、完全に消えてしまうその前に。
§
空からお菓子を撒き始めてから、亡霊たちの動きが変わった。
生きている者を見つければ襲い掛かろうとし、それ以外はただ彷徨うだけだった彼らは、お菓子に触れた途端に表情を浮かべ、律動的に動き出した。ある者は倒れた生者を助け起こし、ある者は目的を持った足取りでどこかへと向かい、ある者は諦めの笑みを浮かべて消えるのを待つ。
まるで、暴徒が正気に返ったように。
「……どういう事なんだ?」
「ハロウィンですから」
ビュウの尋ねる声に、ネルボの答えは素っ気ない。「つまり?」と重ねて問えば、
「講釈は、後でお聞きになるのでは?」
根に持たれていた。ビュウは痛みを堪えるようにこめかみを押さえ、
「……状況が理解できる程度に説明をしてくれ」
「……ではそんなわがままなビュウさんにお尋ねしますが、『トリック・オア・トリート』を突きつけてくる仮装した者たちは、何だと思います?」
「……?」
「彼らは、還ってきた死者なんです」
ネルボは説明を続ける。
「サムハインの夜、死者たちは煉獄からこの世に帰還します。死者を迎える家族は彼らのために供え物を用意し、弔いの鐘を鳴らします。そして同時に――彼らが近付いてこないよう、かがり火を焚きます」
供え物。
鐘。
かがり火。
つまり、
「私たち反乱軍では、これほど広域に顕現した亡霊たちだけを選んで浄化するのは不可能です。ですのでサムハインの正しい様式を再現しました」
かがり火で彼らを退かせ。
鐘の音で彼らの魂を慰め。
供え物――お菓子で、彼らの飢えを満たす。
そして彼らは帰っていく。煉獄へ。死者たちの国へ。
「中途半端で即席の儀式ではありますが、流出した魔法も中途半端な代物。――これで、事態は収拾されます」
その言葉の通りになっていく。満足な顔をし、あるいは少し寂しげな笑みを浮かべ、亡霊たちは次々にその体を透けさせていく。生きる人々の安堵と寂寞の表情が、サラマンダーの背からでもよく見えた。
と、お菓子を撒く手を止め、ビュウはふとした疑問を口にする。
「屋内に入り込んだ奴にはどうすればいい?」
「さあ、そこまでは」
「って、おい」
「ですが、亡霊たちは招かれなければ家の中には入れません。これは迎賓館の厨房で実証済みです。
こんな状況で、あんな亡霊たちを招く人はそうそういないと思いますが……」
何でも、撤去作業で彼女たちが外に出払っていた際、プリーストたちが厨房で休憩用のお茶菓子を作っていたという。事件の構造に気付いたネルボはそこに駆け込み、出来立てのお菓子をばら撒いたそうだ。
その際、亡霊たちは扉や窓をぶち破ってくる事はなかった。窓に張りついてバンバンと叩く事はあっても、窓ガラスを破る事はなかった。そういえば、メロディアの祖父の家でもそうだった。
ヨヨに「戻ってくるまで開けるな」と言い置いたのは、結果的には正解だったのか。
そうなれば、後は――
(――メロディア)
彼女はどこに行ってしまった? ビュウの報告で、市街に展開した部隊がお化け退治と平行してメロディアの捜索も行なっている。だが未だどこの部隊からも発見の報が届かない。
焦燥が、胸の内に起こる。
(子供の足で、そう遠くに行けるわけがない)
と思う一方で、
(あの子もうちの主力戦力だ――過小評価しちゃいけない)
頭の片隅から否定の声が返ってくる。
そうしている内に、サラマンダーとツインヘッドはいつしか街の中心部を大きく離れ、うら寂しい雰囲気の漂う区画の空に差し掛かる。
そこはゴドランドの街の北東部。
スラム街。
そんな単語がビュウの脳裏をよぎる。
だがここは亡霊の数が少ない。どうやら亡霊たちの出現比率は人口密度に比例するようだ――つまり、人が多い所に多く現われ、少ない所にはそれに応じた数しか見られない。それもまた、彼らが誰かの元へ還ってきた者たちだからか。
お菓子の撒く手を緩める。反乱軍の経費で買った物だ。しかも臨時出費でかなり痛い。そうホイホイ撒き散らして後で「結局ゴミになりました」的な終わりは本当に勘弁だ。
袋から無造作に掴み取ったお菓子を、少なく調整していた時に、その声は上がった。
「マニョー!?(メロディアー!?)」
同じサラマンダーの背上、余り同乗させたくなったプチデビの一匹が焦ったように騒ぎ出す。マニョ! マニョッ! その小さな指が地上を指し示す。ビュウはつられて見下ろし、そして――
そこに、茶色のお団子頭を見た。
かぶっていた帽子は、どこかに落としてきたのだろうか。揺れるお団子にまとめた髪も大分崩れてきているようだ。マントの裾をたなびかせて走る速度は歩いているのと大差なく、だがそれでも彼女は走る。前へ、前へ。
そして少女の前方で、青白い肌と空っぽの表情をした茶髪の女が、道の先の廃屋に入る。スゥッと、あの滑るような動作で、入っていくその瞬間に――メロディアの方に、視線を投げかけて。
一瞬立ち止まるメロディア。しかし彼女は再び走り出す。廃屋に向かって。
「メロディア!」
ネルボが叫ぶ。アナスタシアが、エカテリーナが更に呼ぶ。だが少女は止まらない。聞こえていないのか。一心不乱に走り続けている。
ビュウの決断は早かった。
「俺が行く」
「――ビュウさん!?」
叫ぶネルボの声を無視し、サラマンダーに降下の合図を送る。みるみる高度を下げるサラマンダー。せめてこれを! 上から投げ落とされたのは一振りの長剣。ビュウの物だ。受け取り、ありがとうと叫ぶ。
そして路面まであと三メートルの所で袋からお菓子を掴むと、彼はサラマンダーの背から飛び降り、舗装もされていない道を蹴って走り出した。
§
『行ってくるわね、メロディア』
思い出されるのは、母の柔和な笑み。
『……そんな顔をしないで。ママは、貴女たちを守るために行ってくるんだから』
行っちゃやだ。泣いた自分に母は少し眉尻を下げて、少し悲しそうに微笑んだ。
『大丈夫。すぐに帰ってくるから』
それが、メロディアの聞いた母の最期の言葉。
その言葉はすぐに嘘になった。
ゴドランド軍に召集された両親が共に戦死した、という報がメロディアとその祖父の元にもたらされたのは、この国がグランベロスに降伏する、僅か一日前の事だった。
そしてメロディアは今走っている。
(ママ、ママ、ママ――ママ!)
人込みを走り抜ける中で帽子は脱げてしまった。ほうきも邪魔になったから捨てた。マントも鬱陶しかった。だがこれを脱ぐためには襟元を留めるブローチを外さなければならず、一度立ち止まらなければならない。そんな事をすれば、
(ママが、行っちゃう!)
また一人、置いていかれる。
――嫌、嫌、嫌!
だからメロディアは走る。懸命に走る。息が切れ、汗だくになり、喉も胸も痛くて痛くてしょうがなくて、足がガクガクになって何度も何度もつまずきかけても、走る。
走らないと、追いつけない。
(置いてかないで――置いてかないで、ママぁ!)
そうしていつしか入り込んでいたうら寂しいスラムの細い路地。その先に廃屋がある。窓は破れ、扉もほとんどなくなった家――の残骸。
そこに、母は入っていく。
その直前に、
「こっちよ、メロディア」
そう言うように、肩越しにチラリと振り返って。
彼女は一瞬立ち止まる。笑う膝に手を突いて、空気を喘ぐように息を整え、
(――よし!)
再び、走り出す。そんな彼女の耳に、自分を呼ぶ声がする。だがメロディアは気のせいだと一蹴する。そんな事よりも、ママ、ママ!
足を懸命に前に出し、必死で地面を蹴り、歯を食い縛って廃屋へと一歩一歩と近付いて、
「――ママ!」
廃屋に、入る。
メロディアをまず迎えたのは、埃っぽさだった。
外から見た時は家かと思ったけど、違うようだった。家にしては見通しが良い。そして奥にカウンターがある。酒場だと直感した。
穴の開いた床板と、打ち捨てられた椅子とテーブルと、所々にガラスの破片。それは窓か酒瓶か。踏んでしまわないように気を付けながら、恐る恐る一歩、踏み出す。
どこかから鳴り響く鐘の音も、入れば更に遠かった。屋根にも穴が開いていて、漏れ込む日差しが埃だらけの床に光の斑点を描いている。ギシギシ鳴る床に身を竦ませながら、更に一歩、歩を進めて、
「――ママ!」
入り口から右手の奥、破れた窓の前に、女は立っていた。
魔法使いのローブを着て、招くように両腕を軽く広げている、
「ママぁっ!」
ガラスの破片だとか、壊れた椅子だとか、今にも抜けてしまいそうな床だとか。
その全てを忘れ、母の腕の中に飛び込んでいた。
「ママ、ママ、ママ――会いたかった、ママ! 会いたかったよぉ!」
母の胸にすがり、メロディアはとうとう涙を流していた。もう母が戻ってこないと理解した日に何度も何度も流し、故郷のこの街を出た時から今まで一度も流してこなかった涙。
『メロディア……』
記憶にある通りの、母の声が少女を呼ぶ。ママ、とメロディアは応じた。
またママの声が聞けるなんて。またママに名前を呼んでもらえるなんて。至福が胸を満たし、
『メロディア――』
母の手がこちらの両肩に触れた瞬間、彼女はビクッと身を震わせた。
冷たい。
すごく、冷たい。
氷のような冷たさだった。
芯まで針で貫き通してくるような冷たさだった。
『メロディア――』
その声を聞いた瞬間、満たされたはずの至福が奪われた事に――いやそもそも、そんなのは最初から錯覚であった事に気付かされる。
記憶にある母は――
柔和な笑みが似合う人だった。
音楽のように美しく豊かな声を紡ぐ人だった。
いつもいつでも優しく温かな手の人だった。
例えるなら、冬の日差しのような人だった。明るくて、ポカポカして、触れるとジンワリ暖かくなって、心まで何だかウキウキして、ホッとする――そんな人だった。
触れられて、抱き締められて、そこから暖かい幸せが満たされる。それが、メロディアの母だった。
そんな母を、恐る恐る見上げる彼女。
柔和な笑みはどこにもなかった。冷ややかで虚ろな無表情を浮かべた青白い顔があるだけだった。
美しく豊かな声もなかった。娘の名を呼ぶその声は、どこまでも平板で、乾ききっている。
優しく温かな手もなかった。メロディアの肩を触れるその手は冷たく、ただ冷たく、幸せを満たすどころか何もかもを奪い去っていく、そんな気がした。
「……マ、ママ……?」
そしてメロディアはやっと気付いた。今更気付いた。
母は、何年も前に死んだのだという事実を。
死人が還ってくるはずがないのだという現実を。
そして、ハロウィンに現われる死者は――生きた者を、異界に連れ去るという真実を。
『メロディア』
ひっ――
彼女は表情を凍りつかせると、小さな悲鳴を上げた。
母が――母の亡霊が表情を変えた。
笑った。
微笑んだ。
凍てつくように冷ややかな、嘲弄の薄笑いを。
そして、肩に置かれた母の手が、強く皮膚に喰い込む!
「痛っ……痛い、痛いよママっ!」
『メロディア、メロディア、メロディア……』
涙さえ浮かべてかぶりを振って苦痛を訴える娘に、母親の亡霊は壊れたようにその名を繰り返す。
『メロディア、メロディア……一緒に、行きましょう』
ギリギリッ。肩の骨が軋む。痛い痛い痛い! 悲鳴を上げるメロディア。だというのに母の力は少しも弱まらない。
嘘だ、こんなの。
やっと会えたのに。
会いたくて会いたくて、何度も何度も夢に見て、でも目が覚める度にそれが夢だった事に落ち込んで、でもママが生き返るわけがなくて、だから諦めるしかなくて、だから泣く事もしないで――
「マ、マ……」
会えるはずがなかった。でも会えた。それが嬉しくてメロディアは走った。母を呼び、走った。止まるどころか歩く速度さえ緩めない母を不審に思う事さえせず、走りに走った。走って走って走って、本当はとっくの昔に限界は来ていたのに、それでも母の姿を見られた事が、母にまた会えた事がどうしようもなく嬉しくて嬉しくて、だから限界も何もかも忘れて走った。走った。走った。
それなのに。
それなのに。
それなのに、こんなのって――
「ママ……」
視界が滲む。
涙で揺らぐ。
ボロボロと涙をこぼし、鼻水さえ垂らし、グスリとしゃくり上げ、それでも足りずに顔中をグシャグシャにし、メロディアは母を呼ぶ。痛みはとっくに激痛を通り越し、肩は皮膚が破れ骨が砕けているのではないかというくらいに痛いのに、頭は何故かボンヤリしてきて筋肉が潰れそうな痛みもどこか遠い。
だけど、痛い。
痛いよ、ママ。
「助、けて……――」
母の手は緩まない。
『逝きましょう、メロディア』
「助けて――!」
その叫びに答えるように。
その声は、メロディアの鼓膜を震わし、朦朧とし掛けていた意識を揺さぶり起こした。
「フレイムヒット!」
突然彼女の肌を焼く熱。
逃げるように退く激痛と冷気。
直後ダンッ! と大きく床を蹴ってやってきた誰かが、メロディアの胴に腕を回し、掻っ攫うように後退した。一瞬体が浮き、次の瞬間、フワリと床に足がつく。
視界を巡らせたメロディアは、自分と同じ目線の高さに、見慣れた碧眼があるのを見た。
「――ビュウ!」
「酷い顔だな、メロディア」
レディに対してとても失礼な事に、駆けつけたカーナの騎士ビュウはそう言って苦笑したのだった。
「遅くなって悪かったな。外の始末が中々つかなくて」
「外……?」
涙と鼻水を拭って、メロディアは問い返す。だが青年は曖昧に笑うと、後でな、と頭にポンと手を置いた。そしてメロディアを離すと立ち上がり、何故か一振りだけ携えている――そういえば、今朝迎賓館を出る時は丸腰だったはず――長剣の切っ先を、奥で震える母に向ける。
それが何だか、怯えているように見えた。
「――ママ!」
「ママ?」
素っ頓狂な声を上げるビュウ。こちらを見下ろし、それから母の亡霊に目をやって、
「……似てないな」
「似てるよ! おじいちゃんも『メロディアは背の小っちゃいとことかやたらとテンションの高いとことかが昔のお母さん似じゃな』って言ってたもん!」
「うん、俺は主に顔立ちの話をしているんだが」
『メロディア――』
炎は未だチロチロと床を舐め、母はそこから逃れるように隅に移動し、背を向け、丸める。だがそう声を上げると同時に、おずおずと顔を上げてきた。
『メロディア――』
懇願するような声音に聞こえた。ママ。メロディアは囁く。
『行かないで、メロディア――』
「――ママ!」
悲しげに聞こえた。
寂しげに聞こえた。
だからメロディアは駆け出そうとした。母の元に駆けつけ、そんな事ないよと言おうとした。そんな事ないよ、行かないよ、だからママも置いてかないで、一緒にいて――そう言おうと。
だが。
視界を塞ぐように現われた大きな手に、少女は反射的に声を上げる。
「ビュウ!?」
「行くんじゃない、メロディア」
「でも――」
「いいから」
「――……何でビュウがそんな事言うのよっ!」
荒らげた声に、彼は驚いた顔を見せた。
彼のギョッとした顔は珍しい。メロディアはそれをキッと睨み上げる。だがその視界もすぐに歪んだ。
「わっ、私っ、私、ずっとママに、ママに会いたかったんだから! もう会えないって、もう会えないって解ってるけど、解ってたけど、でも、でも、会いたかったの! 会いたかったの、だって……だってママたちが行っちゃった時、私、泣いてばかりだったから! 泣いて、困らせちゃったから! 行ってらっしゃいも、き、気を付けても、言えなかった! 言えなかったの! だから、だから――」
ひぐっ、えぐっ、としゃくり上げる。またボロボロとこぼれだした涙は床に落ち、砂埃の積もる床に静かにしみていく。
「だから……ママ、死んじゃった……!」
――ずっと。
ずっと、それを悔やんできた。
どうしてあの日、泣くだけだったのだろう、と。
笑えば良かった。
そうしていれば、きっと母は安心して戦場に向かっただろう。
今メロディアは反乱軍のウィザードとして戦場の一翼を担う。だからよく解る。少しでも何かに気を取られ、集中を削げば、それが死に繋がる――それが戦場で、戦争なのだ。
母は、何を思って戦場に赴いたのだろう。
母は、何を想って死んでいったのだろう。
自分はただ、母の足枷にしかならなかったのではないか、と。
「――違うだろ」
なのに、ビュウはそれを否定する。
何も知らないくせに、あっさりと否定する。
「少なくとも、メロディアのせいじゃない。子供がそんな事を気に病まなくていいんだ」
「そんな事……!? ビュウは、何も知らないじゃない!」
そうだな、と彼は頷いた。
何だか呆れたような表情だった。
その顔を奥にいる母に向けると、
「俺は知らない。だから、知っている人に教えてもらえ」
そう言って。
左手で、ズボンのポケットから何かを取り出す。
何かを軽く握って作った拳を、彼は母の亡霊に向け、
「あんたは、メロディアの母親だろう」
ひどく静かな声を、投げ掛ける。
「だったら――子供に、こんな事を言わせるんじゃない」
そして、左手の「それ」を放る。
放物線を描いて虚空を渡り、こちらに向き直ろうとしていた母の手にポトッと収まる――
それは剥き出しの、丸い飴玉だった。
変化が始まる。
母の目が見開かれた。メロディアのそれと同じ緑色をした目が丸くなり、手の中の飴玉を呆然と見つめる。
呆然と。そう、母は呆然としていた。
呆然とした表情を浮かべていた。
表情が、宿っていた。
精彩が戻ってくる。
虚ろさが消える。
彼女は驚きに溢れた目を、掌から真正面に戻した。まっすぐにこちらを見た。
メロディアを、見つめた。
『メロディア……!』
声。
声が。
「ママ……?」
喜びに震える声だった。
豊かな抑揚を持つ声だった。
メロディアの大好きな、母の温かな声。
「ママ!」
今度はビュウも止めなかった。メロディアは母の元に駆け寄ると、再び抱きつく。メロディア、そう囁いた母はまだ小さな娘をそっと抱いた。
その手はやはりヒンヤリしていた。だが、あの恐ろしいほどに冷たい氷のような手ではない。水のような冷たさだった。
優しい手付きで、母は、娘の頭を撫でる。
『メロディア……ごめんね』
「ママ……?」
『ママ、嘘を吐いちゃったわね。すぐに帰る、って言ったのに』
母の体から顔を離し、顔を見上げるメロディア。
母は、笑っていた。
悲しそうに、寂しそうに微笑んでいた。
『ごめんね、帰れなくて。一緒にいられなくて。こんなに小さな貴女を置いて、死んでしまって』
「そんなの……」
ジワリ、とまた涙が滲んできた。喉が締めつけられるように痛い。そこから先が言葉にならない。
だからメロディアは必死に首を振った。何度も何度も振った。
そんな事ないよ、ママ、と。
こうして会いに来てくれたじゃない、と。
だからそれで十分だよ、謝らないでよ、と。
言いたい事はたくさんあって、尽くさなければいけないはずの言葉が次から次に溢れてくるのに、その全てが上手く声にならない。そのもどかしさにメロディアは泣く。伝えきれない事の悔しさに泣く。
母は、微笑む。
メロディアを体から離し、屈んで、こぼれる涙をソッと拭う。手の冷たさが心地良い。だが――その心地良さもだんだん消えていく。原因を知って彼女は愕然とした。
「――ママ、手が!」
透け始めている!
『……もう、お別れの時間ね』
と、寂しげに呟く。指先から掌へ、手首へ、腕へ――どんどんと消えていく。
嫌だ。
嫌だ!
「やだ、ママ!」
メロディアは手を握ろうとした。だが握れたのは空気だけだった。言いようのないショックが彼女を襲う。
また、お別れだ。
そしてもう会えない。
「やだやだ、ママ行かないで、行かないでぇ!」
まだ消えていない体に抱きつく。嫌だ嫌だとかぶりを振る。そんな娘を抱き締め――母は、笑う。
生前のように。
いや、生前よりももっと鮮やかに。
『また会えて良かった、メロディア』
ごめんね。
どうか、元気で。
腕に感じられていたはずの母の体の感触が、――消えた。
§
メロディアはしゃがみ込み、膝を抱えて泣いていた。
泣いている。ただ泣いている。ママ、ママ。嗚咽に混じる母を呼ぶ声が悲しい。
その中、ビュウは待つ。彼女が落ち着くのを、ただ待つ。ゴーン、ゴーン――未だ奏でられる鐘の音はまるで泣き声の伴奏のようで、静かに耳を傾けつつ手持ち無沙汰に割れ窓の外を見やった。
日はいつしか傾き、光が黄色味を帯び始める。あと二時間もすればダフィラの影が差し込んでくる時間だ。ゴドランドの早い夜が始まる。
そうしている内に、メロディアの泣き声はようやく少しずつ収まってきた。嗚咽は少なくなり、代わりに丸まった背中の向こうで両腕がしきりに動き出す。ビュウの手が戦闘服の上着の内ポケットに入った。
取り出されたのは、ハンカチ。
ビュウの持つ数少ないハンカチの中では、一番清潔な物だった。それを手に、ビュウはメロディアにそっと歩み寄る。
「ほら」
メロディアの傍にしゃがんで差し出す。乱れた前髪の隙間から覗く少女の真っ赤になった目が、ビュウと、その手のハンカチに向けられた。
「使えよ」
「……汚しちゃうよ」
「気にすんな」
メロディアの手が、ハンカチを取る。それで目頭を押さえ、頬を拭い、そしてズビビビビビと鼻をかんだ。そのハンカチを丁寧に、もちろん鼻水のついた面を裏向きにして折り畳み直して、彼女はまだ濡れた感じの鼻声で、
「……ありがと、ビュウ」
「……ああ」
気にすんなと言った手前、顔色一つに受け取らざるを得ない。――このハンカチ、どうする?
とりあえず色々諦めて手に持つ。この服のポケットに入れるのはさすがに躊躇われた。色々な意味で。
「落ち着いたか?」
「……うん」
「そうか」
「そんなにね、泣いてばっかりじゃ……ママが、心配するから」
そう言って彼女は泣き腫らした目で笑う。その笑みは少し痛々しい。
「だからね、私、もう泣かないよ」
「…………」
「いっぱい泣いたから、もう、泣かない」
――ああ、もう。
ビュウは頭を抱えたくなった。
(いっぱい泣いたから、って……)
笑うメロディアの顔を見る。
無理矢理作った痛々しい笑顔を見る。
(――泣いちゃいけないって、法はないだろ)
だからビュウは、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。先程飴玉を取り出したポケットだ。
そこに突っ込んでいたお菓子は飴玉だけではなかった。適当に掴んできたからもう一つあった。取り出すのは、小さな紙包み。
「メロディア、手ぇ出して」
「え?」
「ほれ」
ポン、と彼女の掌に乗せる、それは、
「……何、これ?」
「約束のお菓子。後でやる、って言っただろ」
「うん……」
「――なあ、メロディア」
釈然としない様子のメロディアが、その呼び掛けに顔を上げる。
「普通はさ、皆泣くんだよ」
「……え?」
「誰か大切な人と死に別れた時、皆、泣くんだよ。どれだけ時間が経っても、泣きたくなる時があるんだよ。笑うだけじゃ立ち直れないんだよ」
上手い言葉が見つからない。
説得や交渉ならともかく、慰めは苦手だ。特に子供、女の子。何て声を掛けていいのかすら判然としない。
伝わっているだろうか。
きちんと伝えられるだろうか。
「だから、いつも笑ってばかりじゃなくていいんだ」
泣きたい時には泣いていい、と。
「泣いてばかりも駄目だけど、笑うばかりも多分駄目だ。だから、いっぱい笑って、たまに泣いて――それでまた、笑うんだよ」
そう言葉を締めくくって、ビュウは気付く。
メロディアの肩が、落ちていた。
いつの間にかうつむいている。前髪が邪魔になってその表情までは判らない。だが、肩は震えていない。嗚咽も聞こえない。……泣いているわけでは、なさそうだ。
「……メロディア?」
「ねえ、ビュウ」
顔を上げないまま、彼女から呼び掛けてくる。
「これ、食べていい?」
手の中の包みを示す。突然何だ。だがビュウは、ああ、と頷いた。
カサカサと紙包みを解くメロディア。そこから現われたのはビスケットだった。だが、
「……割れてるね」
「あー……そりゃしょうがねぇ。適当に突っ込んでき――いや、何でもねぇ」
「……でも、いいや」
メロディアは、割れたビスケットの欠片を一つ口に運ぶ。
サクリ、サク、サク。小気味良い音を立てて、ビスケットが砕ける。
「――美味しい」
そう呟いて、顔を上げる。
「ありがと、ビュウ」
泣き笑いのような表情だった。
ビュウは静かに苦笑した。しゃがみ込んだ姿勢から膝を伸ばし、立ち上がる。
「行くか。プチデビどもも心配してるし」
「うん。おじいちゃんの所にも戻んなきゃ」
そうして二人は廃屋を出た。雲の多くなってきた午後の空を見上げ、迎えに来てくれたサラマンダーとツインヘッドに手を振る。
空を満たす弔鐘はまだ鳴り響く。
――忘れるな。愛する者の、その死を。
そう、謳って。
|