トリック・オア・トリート!
お菓子くれなきゃ悪戯するぞ〜。
――……悪戯でも良い。悪戯でも良いから。
だからお願い。
還ってきて。
来たりて謳うはメメント・モリ
―1―
「トリック・オア・トリート!」
「マニョー!(お菓子よこせ!)」
「モニョー!(お菓子お菓子!)」
「ムニョー!(早く出さないと悪戯するぞ!)」
玄関ホールに、やたら滅多に明るい声が響く――
ビュウは、眼前の四つの影に軽く碧眼を見開いた。真っ黒なとんがり帽子とオレンジ色のかぼちゃが三つ、リアクションに困るほどのインパクトで視界に飛び込んでくる。
……何だろう、これは。
胸中にこだまする自問はどこか虚しい。それはそのまま、ビュウの唖然とした心境を表わしていた。
とんがり帽子の主は、ついでに、一体どこから引っ張り出してきたのか首を傾げてしまうほどに古めかしい黒のマントを羽織っていた。裾が長すぎて、引きずっている。おまけに手にはほうき。古式ゆかしい魔女の姿だ。
その隣に並ぶ三つのかぼちゃは、中身をくり抜いて、目や口の形を彫り抜いて作った仮面だった。気楽な笑みがゆらゆら揺れる。揺れるのは、あれだ。かぶっている奴の体格に対し、かぼちゃが大きすぎるのだ。
どちらにしろ、何とコメントして良いものやら、
「――えーと……」
「あら可愛い」
言いよどむその傍で、微笑んで放つヨヨの言葉は端的である。おいおいそれで済ませていいのか。思わずげんなりするこちらをよそに、王女殿下と魔女もどきの会話が弾む。
「ほんと、ヨヨ様?」
「ええメロディア、とっても似合ってるわ」
「ほんとはね、もっとちゃんとした仮装をやりたかったんだ。服もね、帽子とマントだけじゃなくって、その下のローブもちゃんと作りたかったの。でも、時間がなかったから」
「――ああ、ただの黒い服なのね。でも、これはこれで可愛いじゃない。うん、とっても素敵」
「えへへ〜、良かったぁ」
その一方で、
「マニョマニョ!(おいビュウ、お菓子よこせよ!)」
「モニョモニョ!(そうだぜ、早くしろ!)」
「ムニョムニョ!(ないなら悪戯決行だぜ!)」
「ニョーニョーやかましい! そして人の足を蹴るな!」
かぼちゃ頭のプチデビどもを文字通り蹴散らし――そしてやはりニョーニョー悲鳴を上げてプチデビ三匹はかぼちゃを揺らして走って逃げる――、ビュウは改めてメロディアを見た。
「で、メロディア、まさかそれで出掛けるのか?」
「もちろんだよビュウ! だって今日はハロウィンだよ?」
ハロウィン?
聞き慣れない単語に首を傾げるビュウ。記憶の棚を引っ繰り返す事、一秒、二秒、三秒――
「――ああ、万霊節か」
ハロウィン。
カーナやマハールでは、万霊節と呼ばれる事の方が多い、いわば一種のお祭りだ。
この日になると子供たちは仮装し、「トリック・オア・トリート」の掛け声と共に家々を回ってお菓子を脅し取る―もとい、ねだる。来歴や意味は詳しく知らないから、ビュウにとっての認識はその程度のものだ。
成程、だからこの仮装か。だが、
「あのなメロディア、俺たちは遊びに行くわけじゃ――」
「分かってる。でもねビュウ、ハロウィンはとっても大切なんだよ? だから皆、かぼちゃのランタンを飾って仮装をするの。街中でハロウィンをやるんだよ?」
「いいじゃない、ビュウ」
クスクスと、ヨヨ。
「これから行くのはメロディアのお祖父様のお家よ? 何も、ゴドランド政府の高官に挨拶に行くわけじゃないんだから」
「そりゃそうだが――」
「何となれば、話は私たちだけで聞けばいいわ。久しぶりの故郷なんだもの、ハロウィンを楽しませてあげても構わないじゃない」
ね? と首を傾げるヨヨ。
主の笑顔を渋い顔で見つめ、ビュウは肩の力を抜いた。軽く吐息する。
「……しょうがないな」
「やったあ! ありがとうヨヨ様、ビュウ!」
「いいのよ、メロディア。――その代わり、後でビュウに悪戯する時は私も一緒ね?」
「うん!」
「ってちょっと待て――――――――!」
再びの怒声がホールに響き渡る。ビックリして目を丸くする二人にビュウは詰め寄った。
「悪戯!? お前らが俺に悪戯!? ちょっと待て、何でそうなる!?」
「だって、『トリック・オア・トリート』って言ったのにお菓子くれないんだもん」
絶妙な反撃。彼は思わずこめかみに手を当て、唸った。
そうだった。忘れていた。万霊節は菓子をやるか悪戯されるかの二者択一だった。何て嫌な二択だ。
「……なら、後で買ってやるから」
「ほんと? やったねヨヨ様!」
「そうねメロディア! ……でも正直、私はビュウに悪戯したかったわ」
「じゃあ、お菓子貰ってからこっそり悪戯――」
「やめい! ほら、さっさと行くぞ!」
まだ何かゴチャゴチャ言う二人を強引に急き立て、ビュウは玄関を出た。
外は、まだ暗い。
現在時刻は午前九時。他の国ならとっくに朝を迎え、燦々と降り注ぐ陽光にいっぱいに浴びられるというのに、空はまだほのかに青暗く、夜明け前の空色をしている。
ゴドランド、オレルス最下層のラグーン。上層に位置するラグーンの影が差し込むため、一年を通じて昼の時間が短い国。
カーナならまだ秋真っ盛りという時季なのに、吐く息はもう冬を思わせるほどに白い。日照時間の短いこのラグーンの冬はどこよりも早く、どこよりも長いのだ。ヒヤリとした風が顔と首筋を撫でていき、咄嗟に平服代わりの真新しい戦闘服の襟元を合わせた。
三人で、戦竜たちを繋いでいる竜舎代わりの厩舎に向かう。ラッシュたちがサラマンダーの飛行準備を整えているはずだった。踊るように走るメロディアとプチデビたちはあっさりとこちらを追い抜き、その背中にビュウとヨヨはどちらからともなく笑う。
そして、口を突いて出てきた言葉が、
「平和だなー」
「そうね」
とんでもなかった。
ビュウがそれに気付くのは、これより三時間後の事となる。
§
迎賓館の方から、赤いドラゴンが街に向かって飛び立った――
(……あ、そうか)
群青色の空にサラマンダーの姿は一際よく映える。南にある街の方へと飛んでいくその姿をいつまでも目で追いながら、アナスタシアは一人で合点していた。
(ビュウとヨヨ様、メロディアのお祖父ちゃんのとこに行くんだっけ。……いいなぁ)
「おいアナスタシア、何をよそ見してるんだ。こっちを手伝え」
不意に投げ掛けられる声は大概付き合いの長いヘビーアーマーのものだった。その声は少し刺々しく、最前から始まった作業に早くもうんざり来ているのが手に取るようによく解る。だから彼女はそちらも見ずに言ってやった。
「うるさいわねノロノロヘビーアーマー。力仕事はあんたたちの仕事でしょ? 頭脳労働班にまで肉体労働を強いないでよ」
「なっ……!? 誰がノロノロだ、誰が!?」
と、バルクレイがわあわあ喚く。けれど無視。アナスタシアはサラマンダーの飛んでいった方、ひいては街の方から視線を剥がすと、隣に立つエカテリーナと、その向こうのネルボを見やった。
「ねえ、ここはこいつらに任せて私たちは違うとこのやらない? さっさと終わらせないと、すぐに日が暮れちゃうわ」
「そうね、街に行きたいし」
乗り気のエカテリーナは気弱げに微笑み、
「なら、あっちの培養槽を片付けてしまいましょうか」
ネルボはいつも通り冷静で淡々と事務的だ。
「オッケー。――じゃあね、バルクレイ。そっちはそっちで頑張って」
「なっ!? ちょっと待てチビウィザード――マテライト殿、ウィザードの連中が他に手をつけると言っています!」
「おお、そうしてくれた方が早く済むわ。それよりもバルクレイ、無駄口よりもそっちを叩け!」
「はっ、はいぃっ!」
そんな老パレスアーマーと若きヘビーアーマーのやり取りを背後に、アナスタシアたちは彼らが取りついている物の隣に立つそれに歩み寄る。
ガラス製のシリンダーと、その下部を覆う鈍色の土台。ようやく差し込み始めた太陽の光を鈍く反射させるその金属は、この手の魔法装置でよく使われる合金だ。目の前にある装置のシリンダーは人一人が入ればいっぱいになる程度の大きさだが、全体を見回せばそのサイズはまちまちで、中には戦竜が一頭余裕で入ってくつろげるほどに巨大な物もある。
その大きく透明度の高いガラスも、今は粉々に砕け散ってしまっている。二日前の戦闘の名残は生々しく、未だ培養液が乾ききらず、ヌラリと照り輝く。その薄赤色にアナスタシアは思わずうんざりした表情を作った。
グランベロスの将軍ラディアの厄介な置き土産、アンデッドの培養槽。
反乱軍は現在、その撤去作業に追われている。
そもそもの始まりは一昨日。
反乱軍は、ラディア率いるグランベロス軍ゴドランド駐留部隊を撃破した。
残存する兵を徹底的に掃討し、どうにか体裁を整えて幹部たちがゴドランド自治政府のお偉方との会談を持った。
そして、培養槽の撤去作業を押しつけられた。
ちなみにその対価は、ラディアも使っていた迎賓館の仮宿としての使用許可。
戻ってきたビュウが苦々しく話した事によれば、ゴドランド側としても複雑な胸中だという。
グランベロスに頭を押さえられて、嬉しくないはずがない。
だがゴドランドは他のラグーンと違って大幅な自治が認められていた。将軍こそ駐留していたけれど、例えばマハールで専横と圧政を繰り広げていたレスタットに比べてラディアはゴドランド統治に対する意欲が薄く、ほとんど自治政府任せだったという。
要するに、ゴドランドとしては「嬉しくないけど、まあマシな状況」だったわけだ。
何せグランベロスの軍門に下ったのだから、当面あちらと事を構える必要はない。その間に国力を回復させるつもりだったという。
そこに反乱軍がやってきて、誰に頼まれたわけでもないのにラディアを倒し、残存勢力を撤退させてしまった。
独立と主権回復のための手間が省けたし、これでもうグランベロスの顔色を窺う事をしなくて良くなったのだから、ありがたいと言えばありがたい。だが、こちらにはこちらの事情があるし、やり方がある。それを全て無視して蹴散らした、その乱暴さを全て受け入れるわけには行かない――というのが、ゴドランド政府の弁。
そして反乱軍としても、目的がグランベロス軍の一翼を担うラディアの排除とゴドランドの神竜の確保だったから、少し後ろめたかったというのもある。
(それで押しつけられたのが培養槽の撤去だけ、ってんだから、ビュウもかなり頑張ったんだろうなー)
センダックから聞いた話によれば、ゴドランド政府は当初、完全な主権回復まで反乱軍にゴドランドを守らせようとしたという。高官たちは、「軍と治安機構の再組織まで治安維持に努めるのがそちらの義務だ」と声高に主張したらしい。
それを「培養槽の撤去」だけで納めたのだから、一体どんな論争が繰り広げられたのやら。
とにかく、とアナスタシアは改めて歩み寄った培養槽を観察する。
思い出されるのは二日前。側を通りがかった瞬間にガラスを食い破って襲いきたアンデッド兵たちだった。大慌てで撃退したは良いものの、それ以降怖くて培養槽の側を通る時はヘビーアーマー隊やランサー隊を先行させたものだった。そして彼女たちウィザード隊は、後ろから援護――という名の傍観を……と、まあそれはさておいて。
とにかくそんな経緯でろくすっぽ近付かなかった培養槽だが、改めて近寄って見てみると、初めて気付くものがあった。
それは、記号と図形の集合が織り成す、精緻で複雑で混沌とした文様だった。
記号は、ウィザードやプリーストに代表される魔法使いたちが使う特殊な文字、魔法文字だった。
図形は、いくつかの幾何学模様を組み合わせて魔法的な意味を持たせたものだった。
訝しげに眉根を寄せるアナスタシア。
それらは、見慣れているといえば見慣れているものだ。
だが同時に、まるで意味が解らない。
「ねえエカテリーナ、あれ、解る?」
隣の親友に問えば、彼女は美しい顔を僅かに曇らせてかぶりを振る。
「……私たちが習ったものとは、様式が違うみたい。ネルボさんは、解ります?」
「私も同意見よ。ウィザードが普段使う魔法文字の様式とは別物だわ。どちらかと言えば……プリースト様式に近いかしら?」
ネルボは紅玉のような瞳を眇(すが)めた。口元に手をやって、考え込む。
「組み込まれているのは何かの術――いえ、魔法陣? ……駄目ね、解析するなら魔法総覧と様式事典が欲しいわ」
「とりあえず……私たちがすぐにどうにか出来るようなものではなさそうですね」
「なら」
アナスタシアは右手の杖でコンコンと割れたガラスを軽く叩いた。
「さっさと『サンダーゲイル』で壊しちゃお。早くしないと、本当に今日中に終わらなくなっちゃう」
任務は培養槽の撤去だ。こんなデカ物を撤去するなら、完全に破壊してからでないとどうにも出来ない。何か魔法が組み込まれている? 魔法装置なら当たり前だ。そんなのの解析にかかずらって時間を無駄にするわけにはいかない。
「ええ。なら、詠唱始め――」
異変が、始まる。
――バリィィィィンッ!
「むぅ、やっと砕けおったか」
「意外と手間取ったでアリマスね、マテライト殿!」
「ですが、まだ土台が残っているでアリマス。更に苦労しそうでアリマス」
「もう『インスパイア』使いましょうよ〜。『マジックジン』なら多少使っても良い、ってビュウさんに言われてますから〜」
「ふん、あんな吝嗇家の言葉など信用できるか! ――じゃが、確かにこれでは日が暮れてしまう。ここは一気にカタをつけるぞ!」
「墓場」の、匂い。
アナスタシアが連想したのはそれだった。
微かな腐臭の混じる、湿った土の匂いが嗅覚を刺激する。ほんの僅かな、しかしはっきりと吐き気を催すほどの存在感を持った匂いだった。ゾッと背筋を粟立たせる怖気に身を震わせて、咄嗟に口を手で覆うアナスタシア。呼吸を止め、胃からせり上がってきた消化途中の朝食を必死で押し戻す。
発作的な吐き気が収まる。口の中がすっぱい。涙が出てきた。エカテリーナとネルボを見れば、親友の白い顔は更に血の気を失い、歳上の友人は冷や汗を掻いて両肩を抱いていた。
続けて、振り返る。ヘビーアーマー隊は――
平然としていた。
変わらず騒いでいた。「よぉし行くぞ者ども!」「お願いでありますマテライト殿ー!」「ちょっと待ってくださいグンソーさんがガラスに引っ掛かりました!」――目を剥くアナスタシア。どうして? どうしてそんな普通にしていられるの?
更に視線を巡らせる。同じく撤去作業に悪戦苦闘しているランサー隊もライトアーマー隊も、異変を察知した様子はない。ドンファンの軽口、ルキアの突っ込み、ゾラの息子の溜め息、ジャンヌのさっぱりとした笑い声――マテライトたちの声に混じって聞こえてくるそれらは、どうしようもないほどに普通だ。
気付いているのは、自分たちだけ。
(――まさか)
突然の事で、その可能性に気付かなかった。彼女たちウィザード、いや、魔法を使う全ての者にとっては当たり前すぎる感覚で、すっかり失念していた。
そしてアナスタシアよりも早くその可能性に思い至ったネルボが声を上げる。
「マテライト殿、お待ちください! 少し様子が――」
遅かった。
「インスパイア!」
振り下ろされた斧を目印とするように、虚空から青白い電光が無数に降り注ぐ――
耳をつんざく轟音。
空気に満ちる金臭さ。
もうもうと上がる煙。
「……む? 誰か、今何か言うたか?」
今更のように首を傾げるマテライトに――アナスタシアとネルボは、絶句した。
消えた。
あの、墓場を想起させる吐き気が匂いが。
微かな、しかし濃密な――魔力の「匂い」が。
――それは魔法使いに特有の知覚だった。
発動される魔法、あるいはその前の魔法、更にはその術者――その放つ魔力が、擬似的な嗅覚で捉えられる。中には視覚で捉える者もいる。
魔法という才能を開花させ、磨きを掛けた者のみが持ちうる特異な知覚で、裏を返せば、それ以外の者にはほとんど解らない感覚。
しかし「匂い」は消えた。もう判らない。気のせいだったのか、それとも、培養槽が『インスパイア』で完全に破壊された事で、そこに組み込まれていた何かの魔法が完全に消えたのか……。
「――ネルボ、今のは」
「アナスタシア、気を付けなさい」
しかしネルボの声は未だ固く、表情は険しく強張っている。
「何か、おかしいわ」
少し離れた所で、ヘビーアーマー隊が完全に破壊した培養槽の残骸を回収し始める――
十月三十一日、午前九時。
ゴドランドが帝国の名目的な支配から解放されて初めて迎えるハロウィンの朝は、このようにして始まった。
穏やかな中に、確かな異変を孕んで。
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