誕生日に飲もう、と言っていた酒だった。
封がなされた古びた甕の中に入っているのは、十年物の酒である。水が不味いこの梁山泊一帯で作られた物ではない。蔣敬がたまたま手に入れた、水どころ・米どころで有名な江南の酒だ。
江南の酒といえば美味で知られている。花和尚や武松などの梁山泊の名ただる飲兵衛たちが争奪戦を繰り広げる最中、彼――晁蓋が、頭領権限を濫用して独り占めした。
大人気ないと咎めた呉用に、晁蓋はこう言ったものだ。
『固ぇ事言うなって、呉用。俺の誕生日に一緒に飲もうぜ』
春の日差しの中、呉用は無表情で封を解く。途端、甕の口から芳醇な白酒の香気がフワリと解き放たれた。果実の香りにも似た醸造香は酒好きならずとも陶然としてしまいそうだが、しかし呉用はニコリともしなかった。無表情のまま、座る長椅子の脇に置いた杯に、酒をそっと注ぐ。
甕を置き、杯を日差しの中に掲げて、
「晁蓋」
彼は親友の名を、恐ろしいほど真剣に囁く。
「誕生日、おめでとう」
そして、酒を一息にあおる。
カラッカラに渇いた喉を潤す飲み方だった。味わいも楽しみもしない、上等な酒を小馬鹿にするような一気飲み。呉用はあっという間に一杯目を飲みつくすと、花の香漂う空を睨んでこう言った。
「馬鹿野郎」
目つきが据わった。
「言ったじゃないか。嫌な予感がする、って。今回は出撃するな、って……」
囁く声は淡々としていながら微かな感情に揺れてさざめいている。
口惜しさ、後悔、無念、そして……――憤り。
「馬鹿野郎」
呉用は、酒をもう一杯注ぐ。
「晁蓋の、馬鹿野郎……――」
――二ヶ月前の事だ。
時遷が、梁山泊の北にある町で不穏な動きを察知した。
町の名は、曾頭市。
かつて戦った祝家荘と同じく、梁山泊を仮想敵にして武力強化を進めている町だ。
それを、朝廷が目をつけた。
具体的には――高俅が。
宿星軍から史文恭という名の男が送り込まれた直後から、曾頭市は一気に異様な雰囲気に包まれた。
それでも替天行道の方針としては、警戒と監視を続けるに留めていた。
義賊だ世直しだと謳っていても、客観的に見れば替天行道は賊である。賊の本拠がすぐ傍にあれば、どんな町でも略奪を警戒せざるを得ない。
こちらからは略奪しない、攻撃しない。それが民に対する替天行道の姿勢だった。
だが、曾頭市が官軍と呼応して梁山泊を攻撃する、という動きを見せるのであれば、話は別だった。
挟撃され、包囲され、梁山に封じ込められて、身動きが取れなくなっている間に糧道や資金源を潰されては、籠城もままならなくなる。そうなる前にこちらから打って出る事にした。
『ってわけだから、今回も俺が行くぜ、呉用』
『待った晁蓋! 君は梁山泊の頭領だろう、何かあったらどうするんだ!』
『何言ってんだ呉用。俺がいなくなったって何とでもなるだろ』
『ならない! 何を馬鹿な事を――』
『いいやなるぜ。俺はスペアなんだから』
『……晁蓋?』
『俺は宋江の代わりに表に立ってるだけだ。俺がいなくなっても梁山泊はビクともしねぇ。宋江がいる限り、梁山泊は、替天行道はなくならない』
『晁蓋、君は』
『だから俺が行くんだよ。――んな顔すんなって呉用、俺が行くのはいつもの事だろ?』
春まだ遠い一月の終わり、晁蓋はそう笑って出撃した。
呉用の制止を振り切って、行ってしまった。
「――嫌な予感は、してたんだ」
酒をあおる呉用。
「君の出撃の日、旗が折れた。カラスがやたらと飛んでいた。下駄の鼻緒が切れるは黒猫が集団で目の前を横切るは……さすがの僕も、嫌な予感を感じざるを得なかったよ」
ドボドボと酒を注いで、また一気飲み。
「止めたじゃ、ないか」
責める声。
――僅かに湿った声。
「あんなに、必死で、止めたじゃないか」
『晁蓋、頼む、一生のお願いだ。今回の出撃は見送ってくれ。晁蓋!』
『馬鹿言ってんじゃねぇ呉用。お前は、この俺を、仲間だけ死地に送り込んで聚義庁で一人優雅に酒を飲む頭領にしてぇのか?』
そう言って、晁蓋は、曾頭市に出撃した。
そして。
史文恭の毒矢に、斃れた。
「――馬鹿野郎」
絞り出すように、低く呻く呉用。
「晁蓋の、馬鹿野郎……!」
「――……おい、呉用」
さすがにいい加減黙って聞くのも限界だったので。
「俺が馬鹿なのは分かったから、人の酒で自棄酒はやめろ。な?」
「うるさい晁蓋!」
安道全の診療所、その病室の開け放たれた窓から苦情を申し立てた晁蓋は、窓の外の長椅子でガブガブ自棄酒を飲んでいた呉用の、予想外に大きい怒声に体を震わせた。
「全っ部君のせいじゃないか! 君が人の警告を聞かないから! 人の頼みを聞かないから! おかげで僕や宋江さんや林冲君たちがどれだけ迷惑したと思ってるんだ!」
椅子から立ち上がり、こちらを振り返ってまくし立てる呉用。その顔は赤く、目は完全に――酔っ払って――据わっている。
そういえばこの親友はそれほど酒に強くなかったと、晁蓋は今更のように思い出した。しかも確か、
「大体今回の作戦は、君は出撃するふりだけで良かったんだ! 北は林冲君たちに抑えてもらって、南から来る官軍を君に討ってもらいたかったのに!
それを、林冲君たちだけじゃ不安だから君も行く? 君は馬鹿か? 馬鹿だな? 馬鹿なんだろうこの馬鹿! 林冲君や劉唐君に行ってもらったんだから戦力的には十分だろう! それなのに何で君まで行くんだこの大馬鹿野郎!」
――……愚痴上戸。
しかし今回ばかりは悪いのは晁蓋である。耳を塞ぎたい衝動を、懸命にこらえた。
「君が行っちゃったおかげで南への備えは宋江さん自身にやってもらわなきゃいけなくなって! 総力戦になりかけて! 挙句君が毒矢で死んだって誤報がやけに早く伝わって敵の士気は倍増のこっちの士気はガタ落ちの! 君はそれでも頭領か! ちょっとは自覚を持って落ち着けこの馬鹿!」
盛大に怒鳴りながらドボドボ酒を注いで水のごとくガブガブ飲んで。ああちくしょう俺の取って置きが。未練がましく見つめる晁蓋の視線を、呉用は一顧だにしない。
「それに引き換え宋江さんと来たら……――ああまったく、僕は君の軍師じゃなくて彼の軍師になるべきだったかもね! 梁山泊が手薄になるのを覚悟ですぐに戴宗君を走らせてくれたんだ、もう感謝してもし足りないよ!
けどそのせいで戴宗君は星の力を使いすぎて倒れるし、林冲君たちも相当な苦戦を強いられるし、もう本当に君は頭領をやめた方がいいと思うよ晁蓋!」
これに対しても晁蓋は何の反論も出来ない。彼自身、意識が朦朧としていて記憶になどまるでないのだが、特に戴宗にはとんでもなく迷惑をかけてしまった……らしいから。
毒矢狙撃の顛末は、こうである。
呉用が余りにも心配するものだからと宋江によって派遣された戴宗が、狙撃の場に居合わせたのだ。
林冲らが曾頭市の軍勢を抑える中、戴宗は迷わず天速星の力をフル稼働、自分の体より一回りほど大きい晁蓋の体を背負って梁山泊まで――文字通り――飛んで戻ったのだ。
炎を操る事で空を飛べる戴宗だが、その飛行能力は大層デリケートな代物らしく。
気流、風の向きで急な方向転換や失速は当たり前。
自分自身だけでも飛行姿勢を維持するのが難しく、気を抜くと容易にバランスを崩して墜落しかける事も。
戴宗はよく翠蓮を連れて空を飛んでいる。傍からだと簡単に飛んでいるように見えるが、小五や燕青に言わせれば、戴宗よりもずっと軽くて小柄な翠蓮を同伴させるだけで戴宗は飛行に相当な神経を使うのだという。
翠蓮で、それなのだ。
意識のない晁蓋を背負って飛ぶのに、戴宗はどれだけ神経をすり減らした事か。
曾頭市から梁山泊まで。数百キロの距離を、それでも戴宗は飛行した。飛行しきった。晁蓋が毒矢を受けて僅か一時間弱でそれだけの距離を流星のごとく翔け、診療所の安道全と薛永に引き渡した。
致死毒でなかった事とすぐに適切な解毒処置を施された事が、晁蓋を死の淵から引き戻した。晁蓋が意識を取り戻したのは、狙撃から十日後の事だった。
――が。
晁蓋無事の報は、北の前線にも南の前線にももたらされなかった。
何故か?
もたらす人手がゼロだったからだ。
戴宗は星の力を限界を超えて使いすぎて昏睡状態になり。
時遷や他の間者たちは官軍の攪乱や情報操作や別方面の諜報で手一杯。
彼らとの連絡のために伝書鳩はフル稼働で、前線へ割り当てる事も出来ず。
晁蓋、死す。
駆け巡った誤報によって北と南は大混乱。それでも南は宋江によって何とか持ち直し、官軍を撃退できたけれど、曾頭市に当たっていた北の戦線はほぼ瓦解状態。聚義庁に残った呉用や朱武といった頭脳労働班はその後始末にてんやわんやで走り回って日々は過ぎ――
替天行道始まって以来の最大の危機が何とか収束を迎えたのは、何と、一昨日の事だった。
この二ヶ月を不眠不休で働き続けた呉用の目の下にはバッチリ濃い隈。頭がまだ興奮して眠れないんだ、とボヤいた彼に寝酒を勧め――
こうなったわけなのだった。
「――悪かった、呉用」
寝台の上で身を起こし、姿勢を正し、正座をして。
晁蓋は、土下座した。
戴宗や安道全らの尽力で晁蓋は事なきを得たが、彼の出撃によってどれだけ多くの者たちに迷惑をかけ、いらぬ危険にさらしたか、分からない晁蓋ではない。呉用の「頭領やめろ」発言に、返す言葉も見つからないのだ。
しかし、そんな晁蓋の下げた頭に、ふん、と悪態のような荒い息がかけられる。それに続く呉用の声は、苦々しく尖っていた。
「でもどうせ君の事だ。懲りないんだろ?」
顔を上げる晁蓋。呉用の据わった酔眼は、責めるような問うような眼差しを作っている。
少しの間を置いて、晁蓋は正直に答えた。
「ああ」
――あの時。
晁蓋は、史文恭の矢に気付いていた。
避けようと思えば、避けられた。
だが避けなかった。
後ろに同志がいたのだ。
この国を変える、一〇八の星を宿した仲間が。
――殺させはしない。
――敵の手に、星を一つたりとも渡しはしない。
星さえ暗く翳るほどの光輝を魂に宿す晁蓋は、それ故に決して星を受けつけない。
ならばこそ、彼らを守るのは自分の役目だ――と、
「――いいよそれなら」
呉用は不機嫌に吐き捨てた。
何だか拗ねているような声だった。
「君は君の好きにすればいい。僕は、そんな君も駒にするだけだから」
ふと、胸に痛みにも似た感傷がよぎる。
駒と、言わせてしまった。
策を練る時などは昔馴染みらでさえヒヤリとする冷酷さを見せる呉用。だから「実は腹黒で冷酷非道」とまことしやかに囁かれているが、その本質は何の事はない――皆がよく知る呉用、子供好きで学問好きの穏やかな男だ。
好き好んで冷酷になっているわけではないし、同志を「駒」呼ばわりしているわけではない。
「――おう」
だが晁蓋は笑った。ニヤリと、不敵に笑った。
「俺を上手く使ってみせろよ、呉用」
呉用の第一の友である晁蓋は、だからこそ、そう答えなければならない。
この親友が、自ら進んで冷酷な「軍師」の仮面をかぶるなら。
それに付き合い、共にその業を背負ってやる事こそが、頭領・晁蓋の役目だ。
「言われなくても」
そう酔った顔で似合わない不敵な笑みを作る呉用は、見た目よりずっとずっと無理している。秘蔵の酒や愚痴がそれを癒す一助になるなら、
(安いもんだ)
……とは、思うのだが。
「――なぁ呉用」
「何、晁蓋」
「一杯くらい、いいだろ?」
「駄目」
「いいじゃねぇか」
「安道全医師から禁酒令が出てるだろう?」
「そこを何とか」
「無理だな」
「頼むよ呉用君」
「絶対駄目」
呉用はとうとう甕に直接口をつけて飲み始める。
そんなに一気に飲んで、急性アルコール中毒とやらで倒れたりしないだろうか? さすがにそろそろヤバいだろと思って甕を取り上げようと手を伸ばすが、呉用はすばやく身を翻してゴクゴクガブガブ酒を飲む。ついに飲み干して空になった甕をその辺りにポイと捨て、千鳥足でどこかへ歩いていってしまった。
それを見送る晁蓋の耳に聞こえるのは、隣の病室に入院中の戴宗の暇を持て余した声と、宥める翠蓮の苦笑。元気づける小五の明るい笑いと燕青の皮肉げな揶揄。
逆隣の病室からは扈三娘が見舞いの品を全部平らげるのを阻止しようとする林冲の喚き声が聞こえ、それに対する劉唐の苦情やら王定六のあおりやらもやかましく届いてくる。
改めて窓の外に意識を向ければ、忙しく立ち働く寨の者たちがいる。薬草の調達に赴く薛永。食糧の備蓄のチェックに走る蔣敬。杜遷や宋万が手下たちをまとめて寨の防御を固め、そんな彼らに声をかけながら、宋江がどこかへ歩いていく。
彼はこちらに気付いた。
目が合った。
微笑む宋江。
早く退院してはどうですか、と言われたような気がした。
晁蓋は苦笑する。まったくもってその通りだ。寝台に再び寝転がり、間もなく回診にやってくるだろう安道全に退院の打診をしてみようと心に決める。
新たな戦いは、どうせすぐそこまで迫っている。
駒として呉用に使われてやるためにも。
宋江のスペアとして最前線に立つためにも。
星持たぬ身として宿星たちの盾になるためにも。
この身はきっと、そのためにあるのだ。
星持たざる背 |