そんな幸せな夢を見た。


 目覚めた呉用は束の間混乱した。暖かい春の日差しの中を千鳥足で歩いていたはずなのに、どうして自分は冷たい石の床で直に寝ているのだろう?
 手を突いてゆっくりと身を起こすと、頭に恐ろしいほどの痛みが走った。頭蓋骨に錐で穴を開け、そのまま鋭い先端で脳味噌をグチャグチャに掻き回すような酷い痛み。頭を押さえて痛みに顔をしかめる呉用は、狭まった視界の片隅に棺を見つけた。
 閉じられた木の棺。
 火の絶えた、紙銭を燃やす香炉。
 棺の上には、位牌。

 書かれた字は――

 呉用は目を逸らして部屋の中を見回した。
 もう春が来ているというのに、棺の安置室はひどく寒々しかった。それは何も、この部屋に暖となる一切の火の気がないからだけではない。もっと大事な何かがぽっかり失われてしまっている気がするのだ。
(違う)
 床に座り込んだまま、呉用はぼんやりと思う。


(大事なものを失ったのは、僕だ)


 ああ、何と幸せな夢だったのだろう。
 春の日差しの暖かさ。白酒の香気。親友に吐き出した悪態と愚痴。苛立たしさ。憤り。
 その全てが、叫びだしたいほどに愛おしい。


 今日は彼の誕生日だというのに。
 彼はもう、いないのだ。


 そう自覚した途端に胃の腑の底から何かがこみ上げてきた。それが何なのか、分析するより早く口から吐き出される。
 苦くて酸っぱい胃液は、呉用の袖や服を汚してビチャビチャと床にぶちまけられた。夜明けの薄明かりの中、黄色がかって微かな酒の臭いを漂わせる胃液には固形物も半固形物も混じっていない。そういえば、ここ数日ろくに食事を取っていなかったのだ。そして昨日は、この冷たい部屋で彼の棺を前に紙銭を焼きながら酒を飲んでいた。


『帰ってくる時はちょうど俺の誕生日だな。――呉用、あの酒、開けるぜ』


 四つん這いになって、呉用は背を丸める。内容物を全て出してしまおうと胃が痙攣し、腹がへこんで押し出して、何度も何度もえづいて唾液混じりの胃液を床に吐き出す。
 そんな中、呉用の耳に不意に彼の声が蘇る。悪戯を企む悪ガキのような声。争奪戦が起こりかけた上等な酒を頭領権限で独り占めした親友は、それを呉用と二人で開けるのを楽しみにしていた。
 昨日飲んだ酒は、それだ。
 吐き気はすっかり収まり、顔は涙と鼻水と唾液と胃液でグチャグチャで。それらを拭いもせず、呉用は四つん這いのままで虚ろな顔で自分の吐瀉物を見下ろしていた。

(……酷いな)

 口の中が酸っぱくて苦い。
 鼻の中ではアルコール臭と胃液の臭いが混じり合って充満している。
 床に吐いた胃液は特有の吐き気を催す臭気を漂わせる。

「――……は……」

 呉用は喉を震わせる。

「は……はは……」

 虚ろな顔がぎこちない笑みを形作る。
 割れた仮面のような壊れた笑顔。

「あはっ……はははっ……あはははははははははははっ……」

 呉用の口から乾いた哄笑がこぼれて落ちる。
 四つん這いのまま胃液を見つめ、顔中を涙と鼻水と唾液と反吐でグチャグチャにして、中華にその名を轟かす梁山泊の智多星は狂ったように笑う。

 おかしかった。
 どうしようもなく、おかしかった。


 だってそうだろ、晁蓋?

 

 君はもういないのに、僕はどうしようもないほどに生きている。

 

 

 そんな自分が、僕は、恥ずかしくて浅ましくて仕方ないんだ。

 

 

 

 ――そんなネタで終わるわけがないのが簾屋クオリティ。やっぱり書いちゃった、「救い? 何それ食えんの?」ネタ!

 晁蓋さんが死んだら、呉用先生はガチで情緒不安定とかになると思う。
 こんな感じで、傍から見ると狂気一歩手前の精神状態になってるんだと思う。
 そこから呉用先生はどうやって立ち直るのか。洋一はそれをどう描くつもりでいたのか。見たかったなぁ……。

 あ、ちなみに、『星持たざる背』はこの呉用先生が本当に見ている夢、というわけではありません。
 ちょっとややこしくなりますが、『星持たざる背』は『星持たざる背』で一つの確かな現実で、このおまけもこれはこれで一つの確かな現実。ある種のパラレルワールドといえば分かりやすいでしょうか? 晁蓋さんが生還した世界が『星持たざる背』で、亡くなられた世界がこのおまけ。まあそんな感じです。
 生きていても亡くなられても梁山泊に君臨しているのが托塔天王・晁蓋だけれど、それでもやっぱり生きていてほしい。一〇八星の上に君臨するのは、星さえかすむ魂であってほしいのですよ(それはもう自分の水滸でやれよ)(もうほとんどそういうコンセプトで設定していますが、何か)。

 

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