「――――!」
 母が自分たちを背にかばって背後に向き直り、身構える。小五は咄嗟にむずがる小七の口を押さえ、小二が弟たちを守るように前に出る。
 もがく小七の耳元で静かに、静かにと囁き続けながら――そうやって自分にも言い聞かせながら――、小五は黄昏の林に満ちた淡い闇に必死に目をこらした。
 異変を捉えたのは、視覚ではなく聴覚。
 ガサリッ、バキッ、と潅木を掻き分けを、顔にかかる位置にある枝を折り切る音。
「――……おい、こっちから……」
「見ろ……通った……」
「――いるぞ、この辺……――」
 三人の男の声。
 追っ手の声。
 父を、隣人を、友達を殺した、官兵の声。
 ひ、と小五は息を飲む。その拍子に喉が引きつった音を微かに鳴らす。怒りと恐怖がない交ぜになって体の中を駆け巡り、体に震えをもたらす。
 ガサリ、バキ、ペキ、と音はどんどん近付いてきて、胸の内で跳ね回る心臓の音が耳の奥でやたらとうるさくて、小七はいつの間にもがくのをやめて震えだして、母も小二も自分たちを背にかばいながらジリ、ジリと後退りしていて。
 そして。
 切り絵のように真っ黒な木々と。
 淡い紫色の空の間に。

 三人の、黒い、武器を持った人影が。

「あああああああああああああああああああああっ!」
 母が雄叫びを上げた。
 大きく体を震わせる小五たちと、驚いて足を止める三つの人影――追っ手の官兵。その先頭の男に向かって、母は全速力で突進する!
「うわっ!?」
「何だこの女!?」
「やっぱりあの村の生き残りか!」
 先頭の男を突き倒し、官兵たちと取っ組み合いを演じ、その最中に母はこちらに叫んだ。
「逃げなさい!」
 それは、立ち竦んでいる小五たちに向けて。
「逃げなさい! 北に、まっすぐ行きなさい! 早く――逃げろ!」
「こんの……クソアマがぁ!」
 ガンッ!
 戟の柄を振るって官兵の一人が母を殴りつけた。悲鳴を上げる母。官兵たちは更に二度、三度と地に倒れた母を殴る。
「よくもやってくれやがったな、この雌犬が!」
「俺たち官軍に逆らったらどうなるか教えてやろうか!」
「ちょうどいい、てめえで散々楽しませてもらう事にするか!」
 ぎゃっははははははは! けだもののような官兵の、下卑た笑い声。
 その内の一人が、固まる小五たち三人に気付いた。
「おい、あそこにいるのはお前のガキか?」
「はっ、三人も産んだ女なんかガバッガバで楽しめたモンじゃねぇな」
「しょうがねぇだろ、てめぇがこの間ドジったせいで村の略奪から外されたんだからよ。穴があるだけマシだと思いやがれ」
「おいクソアマ。お前のガキの前で盛りのついた雌犬みたいに散々腰振らせてやるよ。俺たち三人をせいぜい楽しませてくれよ? 命くらいは助けてやる気になるかもしれねぇしよ!」
「本気かよ。やるだけやったらこのアマもそっちのガキどもも殺しちまおうぜ。そういう命令だろうが」
「そいつを押さえつけとけ。お前は、そっちのガキどもを連れてこい!」
「おう」
 官兵の一人に押さえつけられた母が激しくもがいている。悲鳴とも獣の唸り声ともつかない声を上げている。そこにビリリと布を裂く音が混じる。母の咆哮が激しくなる。その中に逃げろ、という声が混じっているのを小五は聞く。
 しかし動けない。足が竦んでしまっているのだ。迫ってくる別の官兵の、その闇色に塗り潰された姿と、何故かそれだけははっきりと分かるニィヤリと凶暴な笑みの形に歪んだ口元が、ただただ恐ろしくて恐ろしくて恐ろしい。
 動けない。
 小二も、小五も、足が竦んで動けない。
 体はガタガタ震え、それなのに力は抜けて、その場にへたり込んでしまいそうになり、

 その時、

「――かあちゃん」

 小七が。
 力の抜けた小五の手から、小七が、
「かあちゃん、かあちゃん、かあちゃん」
 スルリと、抜け出して、
「かあちゃんかあちゃんかあちゃんかあちゃんかあちゃん」
 手を伸ばしながら、小二の体の陰から抜け出そうとし、
「うるっせぇ、このガキが!」
 バシン!
 こちらに迫ってきていた官兵が、小七を殴り飛ばす!
「そうかそうか、そんなに母ちゃんが恋しいかクソガキ! だったら今連れてってやるよ! お前の大好きな母ちゃんがボロ雑巾みたいになるのを傍で見てるんだな!」
「小七!」
 倒れた弟に駆け寄ろうとした小二と小五もその官兵に殴り倒され、
「やめて! 子供には手を出さないで!」
「黙ってろ!」
 叫んだ母もまた殴られ、悲鳴を上げる。


 ――その悲鳴が、契機だった。


「かあ、ちゃん」

 ユラリ、と。
 小七が、立ち上がる。
 起き上がろうとしていた小五は目を瞠る。小七がいつの間に立ち上がったのか、全然分からなかった。
「かあちゃん」
「……!? クソガキ、いつの間に――」
 自分たちを殴った一番傍にいる官兵もまた、小七の挙動を掴めていなかったようだった。いきなり起き上がった小七に目を向いて再び殴り倒そうと戟を振り上げ――

「かあちゃん」

 その戟の柄を。
 小七が、掴んだ。

 官兵は振りほどこうと戟を引く。だが、どうした事かビクともしない。目を剥き、顔色を変える官兵。声もなく何度も何度も戟から小七の手を振りほどこうとするが、まるでピタリと吸いついて一体化でもしたかのように小七と戟は離れなかった。
 片手である。
 子供である。
 対する官兵は大人で、両手だ。一瞬で振りほどけて当然のはずだ。なのにそれが出来ない。官兵の顔はあっという間に冷や汗まみれになり、表情は得体の知れない化け物を見るそれになっていく。
 小二と小五も、見た。
 小七の顔を。


 虚ろでありながら、その目だけは悪鬼羅刹のようにギラギラとした殺気に満ちていた。


「――うあ」
 よく分からない声と共に、小七がもう片方の手も戟に添える。
 官兵の顔色が更に真っ青になる。
 そして。


 小七が、吼えた。


 林全体がビリビリと震えるほどの咆哮だった。
 木々に停まって休んでいた鳥たちが、草むらのあちこちに潜んでいた獣たちが驚き、一斉に飛び立ち逃げるほどの咆哮だった。
 母にのしかかろうとしていた官兵二人がハッとこちらを振り返る中、小七は「う」とも「あ」とも「お」ともつかない声を上げながら両手で戟を振った。やはり両手でしっかりと戟を持っていたはずの官兵の体が宙に浮き、一振り、二振りされる内に手を離して吹っ飛ばされる。ドンッ! 少し離れた木に叩きつけられるその体。
 小七の咆哮は泊まらない。
 動きも止まらない。
 小七は戟を持ち替えた。自分の体に向けられていた刃を、相手の体へ。
 小五がまさかと思って声をかけるより早く、

「ああああああああああああああああああああああ!」

 小七が、木に叩きつけた官兵に突進して、
 ――戟を、突き立てた。

「ああああああ! ああああああああ! ああああああああああああ!」

 何度も、何度も、何度も。
 ザクッ、ザクッ! 戟の穂先を突き刺し、抜く度に、官兵の体が痙攣し、跳ねる。しかしその合間の体からは既に力が抜けていて、時折呻き声のようなものが聞こえるけれどそれもあやふやで、少し離れたこちらまで血の匂いが濃く漂ってくる。
 唖然と、愕然と弟の変貌を見つめていた小五の視界の端で何かが動く。
「この……クソガキがぁ!」
 母を襲おうとしていた二人の官兵。
 その二人が、今、戟を構えて小七の背に突進する!


 ――その時小五が考えたのは、実に単純な二つの事。
 一つは、兄として小七を守らなくては、という事。
 もう一つは……これは、その時そこまで意識していたかどうかは定かではないけれど。

 

 弟にだけ、手を汚させてはいけない。

 汚れるなら、兄弟三人、一緒だ。

 

 示し合わせたわけでもないのに、小二と小五は全く同時に動いた。
「うわあああああああああああああああああっ!」
 小二は官兵の腹に突進してそのまま地面に押し倒す。そして抵抗するそいつの手から戟をもぎ取ると、小七がそうしたように何度も何度も官兵の喉に胸に顔に穂先を突き立てた。
 小五は、最後の一人の足に絡みつくように押し倒した。
 しかしその官兵はその拍子に戟を手放してしまった。あらぬ方向に飛んでいく武器。取りに行くか。しかし今解放したらこいつはきっと母を殺す。小七を殺す。小二を殺す。
 抵抗する官兵に一つ、二つと殴られながら、小五はそいつの鼻先に目いっぱい蹴りを食らわして――

 偶然傍にあった、赤ん坊の頭ほどもある石を両手で持ち上げた。

 振り下ろした。

 殴打の感触。
 硬い物が砕ける手応え。
 ぎゃっ、という官兵の悲鳴。
 抵抗は一層激しくなる。手足をバタつかされる。顔や腹を殴られながら、背中を膝で蹴られながら、小五はもう一度そいつの顔に石を振り下ろす。血がネチャリと石に付着して粘る。もう一度振り下ろす。やめてくれ、という哀願の呻き声を聞いた気がした。気のせいだ。無我夢中で石を振り下ろす。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。


 ……気が、付けば。

 その官兵は、すっかり動かなくなっていて。
 石を何度も何度も振り下ろした頭は、肉餅のようになっていて。
 暗い地面にはそれと判る真っ黒なしみが広がっていて。
 むせ返るほどの血臭と、額を頬を顎を背中を伝う汗の奇妙なほどの冷たさと、返り血の気持ち悪い温かさ。
 ハアハアという、誰かの激しい呼吸の音。
 それが自分のものだと気付いたのは、手に持った石がボトリと地面に落ちた時だった。
 小五はそうして我に返る。ベットリと真っ黒く――きっと明るい日差しの下で見れば、真っ赤に――染まった己の掌を見下ろす。
 それからゆっくりと顔を上げる。小二と小七は、やはり同じように肩で荒く息しながらこちらを、見ていた。三人は顔を見合わせていた。
 二人とも、判で押したかのような同じ空虚の顔をしていた。
 それはまた自分の表情でもあるのだと、小五は気付く。
 気付いた瞬間、胸に何かがこみ上げてきた。自覚であり、感情である。その途端に小五の体がガタガタと震え始める。おれはなにしたんだ、という疑問が、決して抱いてはいけない疑問が浮かび上がってくる。
 唇が震える。歯の根が合わなくなる。鼻の奥がツンと痛くなる。その痛みを懸命にこらえる。こらえなければいけないのだ。そうしなければ、涙が、悲鳴が、衝動が、衝撃が、

「――小二、小五、小七」

 三人の体が全く同時に震えた。
 母の声。
 幼子たちの凶行を呆然と見守っていた母が、引き裂かれた上着の前を整えながら、起き上がった。
「かあちゃん」
 小七が、涙声で呼ぶ。
「……母ちゃん」
 小二が、叱責を覚悟した声で呼ぶ。
 そして小五は、
「母ちゃん……」
 途方に暮れた声音で、呼んだ。
 四人はそれぞれに歩み寄る。小二は、小五は、小七は、血にまみれた姿で母を見上げる。
 母は、三人の子を見下ろすと、
「お前たち」
 泣き出しそうに顔を歪めて、


「――ありがとう」


 そう言って、三人を抱き締めた。


「ありがとう、ありがとうお前たち……母ちゃんを、守ってくれたんだね」
「かあちゃん」
「母、ちゃん」
「母ちゃん、俺」
「いいよ、何も言わなくていいよ。お前たちは、父ちゃんに代わって母ちゃんを助けてくれたんだ。ありがとう……ありがとう、小二、小五、小七」
 母の温もりに包まれる内に、小五の震えが収まる。
 出そうになっていた涙が引っ込む。
 母の腕の中で、三人は何度も何度も深呼吸をする。嵐のように荒れ狂っていた心を落ち着かせる。
「……さあお前たち、荷物を母ちゃんにちょうだい。近くに沢があるから、そこで体を洗いに行こう」
「うん、母ちゃん」
「そうしたら、夜通し歩くよ。三人とも、頑張って歩けるね?」
「うん、母ちゃん」
「よし、じゃあ行こう」

 そして四人はその場を後にする。
 子供がやったとは決して誰も思わない、凄惨な殺戮の現場から。

 

§

 

 そんな夢、だったと言う。
 小五はそんな夢を見たのだと言う。
「あの時の夢……今でも、時々、見るんだ。あの時の……官兵を、殺す、夢」
 そう語る顔に浮かぶのは力のない笑みなのに、顔色はまるで死人にでも会ったかのように真っ青だ。
「感触を、思い出して」
 小五の手が再びカタカタと震えだす。
「肉とか、骨とか、潰す感触とか、血の臭いとか、あの官兵の声とか……そういうの、全部、夢に見て」
 手だけでなく、体全体が、震えている。
「キレた小七の顔とか、声とか、母ちゃんの悲鳴とか、そういうの、全部……」
 小五はそれきり言葉を失う。
 そしてただ震えている。
 それを見つめる戴宗は、

 ただ、ショックだった。

 思えば戴宗は、小五に対し暗い優越感を持っていた。
 それを、語弊を恐れずにあえて直裁に言葉にするなら、「おたくはこの村でのどかに平凡に暮らしてたんだろーけど、俺はもうこの歳で人を殺してんだぜ」というものだ。
 子供のくせして酒飲んでやったとか博打をやってやったとか、そういう自慢にもならない自慢と同じニュアンスのものだ。決して自慢できたり偉ぶれたりするものではないけれど、しかしそれをやったという事実が――良くも悪くも――一つのステータスになってしまう。
 戴宗は愚かしくも、そういう意味で小五より一歩先んじている事に浅はかな優越感を自分でも気付かぬ内に、微かに抱いていた。
 その優越感が覆された事に対する、子供じみた理不尽な憤り。
 自分がそんな優越感を持っていた事に対する、極めて自然な驚きと自己嫌悪。
 そして抱いたもう一つの感情がある。
 それは、喜び。
 戴宗はこの瞬間、僅かに、しかし紛れもなく、喜んだのだ。
 このただ一人の友が、例え経緯はどうであれ、そして殺した人間の数の差こそあれ、戴宗自身と同じ穴のムジナであった事に対する喜びと、安堵。
 それらの感情は戴宗の中で渦巻いて撹拌されてグチャグチャになって一緒くたになって、渾然一体となったそれらは一つの圧倒的な衝撃となって胸を衝く。
 しかし――
 そんな感情の嵐はすぐに過ぎ去った。
 あとに残されたのは、どうしようもないほどの寂寥感と憐憫と物悲しさだった。
 小五は、震えている。
 夢から覚めたと言うのに、その日から十年も経っていると言うのに、まるでたった今人を殺してきたかのように、震えている。
 戴宗には小五の気持ちが何となく解った。
 替天行道の流星として伏魔之剣を振るい、敵を、人を何人も殺してきた戴宗の心のそういった部分は既に凍りつき、誰かを新たに殺しても、それを夢に見ても、今更揺り動かされたりしないのだけれど、それでも、戴宗には何となく解る。

『ありがとう』

 人を初めて殺したその時にかけられた、母親の言葉。
 それはきっと、子供たちを罪の意識から救うための母の愛だったのだろう。そしてその言葉は小五を、阮三兄弟を確かに救い、これまで守ってきたのだろう。
 けれど。

 

 それはきっと、同時に、小五の心の「何か」を縛る枷でもあったのだ。

 

 自分にとっての、「笑ってくれ」というあの言葉のように。

 

 戴宗は、再び手を伸ばす。
 震える小五の手を、無言のまま掴む。握る。
「――戴宗……?」
 僅かに驚いた様子で小五がこちらを見る。戴宗もまた小五をまっすぐに見つめ返す。
 そして、握った手を見下ろす。日焼けして、節くれ立った、働き者で孝行息子の手だ。
 剣を握り慣れ、人を殺し慣れた戴宗の手とは、違うはずだった。
 白いと、思っていたのだ。
 しかし十年ぶりに再会した友の手は自分と同じようにもう血まみれだった。それが嬉しいのかも悲しいのかももうよく分からない。
 ただショックで。
 ただただショックで。
 言ってやれる言葉など、一つしかない。

「馬鹿野郎……」

 小五の目が、今度こそまん丸く見開かれた。

「小五の、馬鹿野郎……!」

 その顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
 いつもの能天気さなんて微塵も感じられない悲痛で悲壮な表情。それもまた、嬉しくて、悲しい。
 そうして小五は、今にも泣き出しそうな顔で無理に笑顔を作る。
「うん……そうだな」
 声はもうほとんど濡れていた。涙をこぼしていないのが不思議なほどだ。
「そうだよな、戴宗……」
 戴宗は小五の震える手をただ握る。握り潰さんばかりに。彼の震えが、少しでも止まるように。
 そうして血まみれの少年は二人、夜の底でただ寄り添う。
 痛ぇよ、戴宗。力なく呟いてうつむいた小五は、それでも、涙を一粒もこぼさなかった。

 

 

 

 こんな凄惨な過去があったら、小五はあんな風に笑えていないと思う。
 思いはするけれど、そこを克服するのが(簾屋の中での)小五クオリティ。お前強すぎだよメンタルが。鋼か? タングステンか?

 このSSは一応拙作『ファントムペイン』の番外編その二です。
『ファントム〜』を書き上げた段階での、十年前の事件直後の阮三兄弟について簾屋は詳細に設定していなかったのですが、そこを(確か)某ツイッター上で某C様が、「小七が初めてキレたのがこの時ではないかと妄想しました」 と簾屋の妄想脳を活性化させるお言葉をくださりまして。
 で、活性化の結果、書いたらこんなアレな話に。『ファントム〜』で小五に戴宗さんを救済させたと思ったら、今度は戴宗さんが小五救済に乗り出してしまいました。お前ら仲良いな!

 戴宗さんと小五の友情は腐ってるのか腐ってないのかあやふやなぐらいがちょうどいいとか思ってます。友情の極致は同性愛だとどこかで偉い人が言っていたような(それもあやふやかおい)。
 何はともあれ笑顔の裏で実はすごく傷ついている部分を持っている小五と、そんな小五に対し屈折して歪んだ感情を持っているのに同時にそんな自分を嫌悪する潔癖頑固な戴宗さんが書けて取っても楽しかったです。俺得万歳。

 

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