――その手は、白いと思っていたのだ。
闇と一口に言っても、その濃淡は様々だ。僅かな月明かりに透かした淡く蒼い闇から、光さえも飲み込み溶かしてしまう真っ黒な闇まで。
戴宗が寝転がる部屋には、その全てがあった。仰向けで見つめる天井は僅かに黒く、窓の辺りはやや蒼い。そして、傾いた月の光が届かない壁際は、一瞬ゾッとしてしまうほどにどこまでも暗く黒い。
その闇に溶けていく。そんな錯覚を戴宗は覚えていた。何となく眠れなくて、しかし星の力を使いすぎた反動で体は動かなくて、外で剣の技を磨いて体をクタクタにする事さえ出来ない。自分の体温で生温くなった布団が気持ち悪かった。
だから彼はただ天井を見つめていた。諦めにも似た境地だった。眠れないからと、体が動かないからとイライラしてもどうしようもない。
努めて無心になる。
心の水面を波立たせないようにする。
呼吸を深く、深く。天井を、闇を見つめ、しかし同時に視覚だけに神経を配らない。覚えた溶解の錯覚に身を委ねていく。
そうすると、様々なものが感じられる。
水の音。
水の匂い。
風の音。
木々のざわめき。
虫の鳴き声。
昼間の暑さが嘘のような夜気の涼しさ。
石碣村の夜は、ただ静かだった。
この村にも酒場はあるし、賭場はあるし、酔漢も博徒も当たり前にいるはずだ。けれど、酔っ払いの喚き声も博打の喧騒も聞こえてこない。
自分以外の人間という人間が死に絶えてしまったかのような、静謐。
――いや。
「――……う……ん……」
同じ狭い部屋の中、すぐ隣から聞こえてくる呻き声に、戴宗は溶けていた「自分」が再び形作られるのを感じた。
意識を夜の外から、狭苦しい阮家の一室へ。昨日の昼、十年来の仇敵と遭遇して狂わんばかりに気が昂っていたところに再会した幼馴染みの阮小五が、隣でモゾリと身じろぎした。
寝返りを打ったらしい。顔を動かしてそちらを見る。
小五の布団は戴宗が取ってしまった。だから彼は今、筵とつぎだらけの薄い上掛けで寝ている。
月の光が淡くする闇の中に、更に色濃い闇色の塊がある。眠る小五の影。それがモゾモゾとしきりに動いていた。
戴宗はどうしたのかと内心で首を傾げた。耳をすませなくても聞こえてくる呻き声が、何だかうなされているようで、
(うなされて……?)
小五という少年には余りにも不似合いな単語。一笑に付したくなった。
だが、小五の身じろぎが、呻き声が、どんどん激しくなっていき、
「う……あ……やめ、ろ……やめろ……」
徐々に、明瞭な言葉になっていき、
「おい――」
と、戴宗が軋む体を何とか持ち上げて起き上がり、小五に声をかけたところで、
「――――――――――――――――――っ!」
小五が跳ね起きた。
声にならない悲鳴と共に。
咄嗟に伸ばしかけた手を引っ込める戴宗と、肩を上下させて荒く呼吸する小五の影。闇に慣れた目が、淡い月の光が、その中に埋もれた小五の顔を、表情を戴宗に認識させる。
――真っ白な顔を、していた。
日焼けして戴宗より真っ黒な顔をしているのに、今この瞬間、小五の顔は戴宗よりもずっとずっと白かった。
青ざめて見えた。
人懐っこい目が限界までいっぱいに見開かれている。暑い時にかく汗とは全く異なる汗をかいている。口を開けて空気を喘ぐその様子には鬼気迫るものがあり、震える体がそれを助長する。
恐怖。
それは明らかに、分かりやすいほどの、恐怖の態だった。
隣で戴宗が起き上がり、愕然としているのにも気付かず、小五は己の両手をうつむかせた顔の前に持ってきた。
その両手もまた、激しく震えている。
呼吸も、激しくなる。
……誰だ、これは。
戴宗は引っ込めた手を、再び伸ばす。
……誰だ、これは。
小五なのか。
目の前にいる少年が、昨日の夕方に戴宗を泣きながらぶん殴り、友達だと言い、「嫌だって言ったって一緒にいる」と笑って宣言したあの小五なのか。
太陽のように、晴れの青空のように、能天気に快活に笑う、戴宗の、友達なのか。
分からない。
だから、その肩を掴んだ。
「――小五」
その名を呼んだ。
すると、
「――――っ」
小五の体が、ビクリと震えた。
肩が大仰に跳ね上がり、その拍子にバンダナで押さえていない髪もまた揺れる。手を見つめているようで何か別のものを見つめていた彼の虚ろな目に、不意に意志の光が宿る。
ゆっくりと、強張った無表情でこちらに顔を向ける小五。
瞳の中で不安定に揺れる光が、戴宗に向けられた途端、
「……戴、宗?」
スゥ、と穏やかに収まった。
と同時に止まる体の震えと荒い呼吸。我に返った小五は二、三度大きく深呼吸すると、
「……悪り、起こしちまった……?」
と、苦笑した。
まだ青ざめて、引きつって強張って、似合わない苦笑だった。
「……別に」
戴宗は、ぶっきらぼうに応じる。ふん、と鼻で荒く息を吐いて、掴んでいた肩を離した。
「元々起きてたから別にいいけど? でも、おたくのせいですっかり目が覚めちまったな」
「はは、悪ぃ、戴宗」
「で、どうしたわけ?」
――例えばこれが翠蓮や林冲辺りだったら、戴宗は適当な文句の一つも言ってさっさと寝た事だろう。
だが、小五だった。
悪夢にうなされ、飛び起きたのは、戴宗にとっておそらく人生最初の友達だった。
詮索の言葉は軽い気持ちで出たものだったけれど、その言葉を飛び出させたのは、やはり相手が友達ゆえの興味からだった。
果たして。
常からは想像もつかないほどに弱々しく笑っていた小五は、唇を、小さく動かす。
「……嫌な夢、見たんだ」
「嫌な夢?」
「十年前の」
――戴宗と小五の生まれた村が、官軍に踏み潰されたあの時の。
「小七が……初めて、キレた時の、夢」
夜の底
小五は、走っていた。
母に手を引かれ、走っていた。
母は右手に小二、左手に小五の手を握っていた。背中には小七、体の前にかけた包みには持ち出せた数少ない荷物。そういった物は小二も小五も持っていた。小五の持っていた物は、父が漁で使っていた針を収めた箱だった。
父。
林の中の獣道を走りながら、小五は後ろを振り返る。
「振り返っちゃ駄目、小五!」
母の叫びが聞こえる。走りなさい、とも。しかし小五は肩越しに見てしまっていた。
燃える故郷を。
炎の中で嬉々として略奪に走る官兵を。
村人たちのなけなしの蓄えを奪い、女たちを襲い、男たちを、年寄りを、子供を――小五の友達たちを――笑いながら殺していく官兵を。
腹の底から怒りがたぎった。
叫びだし、友達を殺す奴らを倒しに行きたかった。
しかし行けなかった。行けるわけがなかった。小五の右手は母に強く握られていて、そして小五の耳に脳裏にこだまする声がある。
『逃げろ、小二、小五、小七!』
父の、声。
家族で村の外へ逃げようとし、官軍の部隊と鉢合わせして、父は一人でそれに立ち向かっていった。その時の声が小五を縛る。母の手を離すなと命じる。
何で、こんな事に。
わけが分からなかった。今日はいつもと同じように始まったはずだ。友達の戴宗の父親が数日前から都に行っていて、戴宗の父と仲がいい小五の父は戴宗を気遣っていて、朝ご飯に持ってってやれと焼き魚を持たされて。
持っていったら「いるか」と投げつけられて、いつもの事だから特にショックでもなくて、とりあえず魚は戴宗の家に置いて帰って。
その帰る道すがらだ。
小五は、走って村に駆け込んできた戴宗の父を見たのだ。
鍛冶屋の洪信。
何か怪我をしているようだった。
それが心配で、不安になって、小五は様子を見に戻った。
すると、戴宗の家の前に誰かいた。見た事もない誰かだ。
見るだけでゾッとした。
人間である事が疑わしくなるほどの巨躯に、吐き気がするほどの無邪気な子供の声。
おかしかった。あり得なかった。コレデコノヨニヨルガクル――恐怖が小五の脳を凍りつかせる。
戴宗が、何かを叫ぶ。ここ最近ずっと洪信が打っていたあの剣で、そいつに斬りかかる。
それを止めたのは、洪信で。
その、洪信が、
そいつに、
そして、戴宗の慟哭が。
行ってやらなきゃ、と思ったけれど行ってどうすればいいのか分からなくて、一歩を踏み出す事が出来なかった。その内に巨躯の「誰か」は去り、村中が洪信の死に気付いて騒ぎ始める。悲鳴、困惑、詰問、そのどれを浴びせかけられても戴宗は泣く事をやめず、保正が騒ぎを収めようとしても混乱は続くばかりで――
気付けば、戴宗が消えていた。
噛み砕かれた伏魔之剣も消えていた。
小五は焦燥に駆られた。どこへ行ってしまったのか。村中を駆けずり回って探した。喉が嗄れるほどに名前を叫んだ。だがいなかった。どこにもいなかった。戴宗は、消えた。
どうしてしまったのだろう。
どこへ行ってしまったのだろう。
一人で、剣を持って、一体どこに。
途方に暮れて家を戻ったのが昼過ぎだった。母も兄も弟も落ち着かない様子だった。父はいなかった。保正の所に行っていると母が教えてくれた。
その父もすぐに帰ってきた。
息せき切って。
顔を真っ赤にして。
小五たちが初めて見るような、切羽詰まった顔で。
『石碣村まで、逃げるぞ!』
『そんな、あんた、どうして――』
『官軍がこの村を包囲してる! 出頭した包の旦那が殺された! 奴ら、すぐに来るぞ!』
『官軍が!? どうして!?』
『分かるかよ! でも多分、洪信の奴が利用されたんだ! あいつは叛徒にされた! この村も連座で消される!』
――ああ、そうだ。それで、村から逃げ出して。
『逃げろ、小二、小五、小七!』
(父ちゃん)
父がどうなったかなど、六歳の小五でも容易に想像がついた。
(戴宗)
消えた幼馴染みはどうなっただろうか。どこへ行ったのだろうか。自分たちのように命を拾う事が出来たのだろうか。それとも……――そこから先の想像を小五はやめた。
それと同時に、全ての思考を小五は一旦放棄した。母に手を引かれるまま、村の周辺に十重二十重に展開する官軍の目をかいくぐり、包囲網の綻びを突き、逃げる、逃げる、逃げる。
太陽はいつしか山の稜線の向こうに落ち、空を夜の帳が覆う。走っていたはずの足はいつの間にか歩くのもおぼつかないほどにフラフラとし、母子四人、林の中に崩れるように倒れ込んだ。
「かあちゃん」
母の背から降りた小七が、舌足らずに母を呼んでその体を揺さぶる。全身で空気を喘ぎ、時折咳き込んでいた母は、そんな小七にそれでも笑みを見せた。
「大丈夫、小七」
「かあちゃん」
「小二、小五、怪我は、ないかい?」
「……ない」
と小二が応じ、
「俺も」
と小五もまた答える。
小七以外、息も絶え絶えだった。もう一歩も歩けそうになかった。
それでも、まだ、生きている。
無事だ。
「良かった」
母は安堵したように笑う。それから不意に顔を歪め、かと思ったら――小五たち三人の体を、ギュッと抱き締めたのだ。
「良かった……!」
それはきっと、夫の犠牲で三人の子を無事に守りきれた安堵と、しかしそれと引き換えに夫を失ってしまった悲嘆とがない交ぜになった声であり、行為であったのだろう。
だが、その時の小二も小五も小七も幼すぎて、
「……母ちゃん、苦しい」
「痛いよ」
「かあちゃん?」
「――ああ、ごめんね、三人とも」
小五たちの体を離して、母は笑った。
顔に涙の跡があった。
「……少し、ここで休んでいこうか。もうヘトヘトで、母ちゃん歩けないわ」
「母ちゃん、大丈夫?」
小二は、多分ある程度事態を把握していたのだろう。自分もヘトヘトのはずなのに、母を気遣っていた。
「俺、もう疲れた」
「おなかすいたよかあちゃん」
対する小五と小七は、そんな気遣いが出来る余裕なんてなかった。六歳の身で相当な距離を走った小五は正真正銘疲労困憊していたし、小七は気遣い出来る歳でもない。
「ごめんね小七、今日はね、何もないんだよ」
母はそう弱々しく微笑むが、
「やだぁ、おなかすいた〜」
「小七、我慢しろ」
珍しくわがままを言う末弟へ、小二が言い聞かせる。しかし小七はぐずりだす。
「やだやだやだぁ、おなかすいたぁ。つかれたよぉ」
もうやだよ。
かえろうよ。
とうちゃんはどこ?
おうちにかえろうよ。
かえろうよ。
小七の駄々にはいつしか涙が混じり、それを聞いている内に小五もだんだんと泣きたくなってきた。小二もうつむいて唇を噛み、母は途方に暮れたようにジッと押し黙っている。
叱りつける気力さえなかった。
小五も、いっそ泣いてしまいたかった。
しかし小五は六歳で、次兄だった。弟と一緒になって泣くのはその矜持が許さなかった。だから歯を食い縛って必死に涙をこらえた。
ガサリッ、と来た道の方から音がしたのは、その時だった。
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