ここに至ってまで、隠す必要はないのう。
そう。男は宿星じゃった。一〇八魔星の一つ、地霊星。それが、あの日男に衝突し、宿った星の正体じゃ。
星の力は膨大な医療知識。宿す媒体は……己の体、といったところかのう。
その反動か、あるいは膨大すぎる知識の代償か。
男の体は、どんどんと若返っていった。
……む? それのどこが代償なのか、じゃと?
解らぬか……では、こう言い換えよう。
男の外見「だけ」が、若返っていった――と。
すなわち男の中身……内臓や筋肉は、歳相応に衰えていった。
言うまでもないが、外見というものは最も分かりやすい老化の目安じゃ。人間は外見から相手の大体の年齢を読み取るし、そこから寿命を推し測る事も出来る。
それが、出来なくなった。
男は鏡を見て自分の「残り時間」を測る事が、出来なくなってしまったのじゃ。
ちょうどそんな時じゃ。
男が、殺人祭鬼であると役所に訴えられたのは。
殺人祭鬼が何かくらい、当然知っておろう? ……そうじゃ、朝廷から禁教指定を受けておる、他人を魔神への生贄にして己の安寧を保障してもらう輩の事じゃ。
男の不自然な若々しさが、かねてからそやつを妬んでおった同業者たちに利用されたんじゃな。赤ん坊を殺して魔神に捧げ、若返らせてもらっている、とか何とか、な。本質的にはそう外れてもおらんところが、また何とも言えんのう。
その頃には、男はもう何もかもが嫌になっておった。
天医星と思っていた魔星の力も、それがもたらす膨大な知識と技術も、その副作用も、代償を払っても患者を救えない事実も。
それなのに高まっていく名声も、比例して募っていく嫉妬も。
頼りにしてくる助手たちも、すがってくる患者たちも。
己が医師であるという、その事自体が。
誣告は、男にとって一つの契機でしかなかった。
男は建康から姿を消した。
名を変え形(なり)を変え医師である事さえやめ、男は江湖をさすらった。
しかし、男は医師じゃった。
医師たる事をやめようとしても、男は医師じゃった。男は既に自分自身である前に医師だったのじゃ。髪の毛一本、爪の先、骨の髄に至るまでことごとく医師であったそやつが医師である事をやめようなど、滑稽にも程がある。
行く先々で病人を見る度、怪我人に出会う度。
男は治療していった。
医師たる事を捨てようとしたからろくな道具も薬もない。それでもそやつは医師たる事を捨てられず、あり合わせの道具や薬で治療を施していった。
最低でも建康にいた頃の道具や薬があれば、助けられる患者はたくさんいた。
助けられるはずの者を助けられなかった――建康を出る前よりも強い悔恨に襲われる事が増えた。
それでも、男は医師じゃった。
髪の毛一本、爪の先、骨の髄に至るまで、どこまでもどこまでも医師じゃった。
患者を見捨てられるはずが、なかったのじゃ。
男は、あれほどうんざりしていた魔星の力を、再び使い始めた。
男の姿はどんどん若返っていった。気が付けば青年を通り越して少年と言っていい姿に戻っておった。
だから男は一つ所に留まれなかった。常に放浪し、行った先の町で自分にしか助けられない患者を救うと、また旅立った。
そんな生活をどれくらい送った頃か――
男は、一人の女と出会った。
ボロ雑巾のような女だった。
若返る前の男よりずっと長身で、ガリガリに痩せこけ、一見すると女と分からない。それよりも明らかに病んで傷を負った様子が目につく。
皮膚病と、酷い暴行の跡。あちこちから膿を垂らす女からは腐臭さえ漂っていた。
『……アタシの事ナンカ、放っておいてクダサイ』
それほど大きくもない鎮の貧民窟の、死臭がやけに鼻をつく一角の片隅にある、陽の光も差し込まない路地裏じゃ。近寄った男に、女はそう消え入るような声で告げた。
消え入るような、しかし笑みを含んだ声。
暗がりの中で男が見下ろした女の顔には――
何もかも諦めた、それでいて優しげで、安らいだ笑顔があった。
潰れていない右の眼を、爛々と、狂気の光に輝かせて。
どうして見捨てられよう。男は女の治療を開始した。
――が、これがかなりの難題じゃった。
皮膚病によるほぼ全身の爛れと化膿、左眼損壊、打撲に骨折、歯は半分以上折れていて、しかも性病まで患っておった。
これに加え、重度の鬱病で不眠と自傷行為に苦しんでおると来た。
女は男に対し心を開かず、頑なに自分の素性を喋ろうとせんかった。男も素性は聞かなかった。そんなものを聞かずとも、体と心の状態を診るだけで女がどれほど凄惨な状況を生き抜いてきたか一目瞭然じゃったからじゃ。
体の治療で一番困難を極めたのは、言うまでもない、性病じゃな。
女というものは普通、夫以外に局所を見られる事を拒む。ましてその女には、わしら男にはおよそ想像も理解も及ばない悲劇が降りかかった。足を開かせ局所の状態を見ようとした時の女の嫌がりようはそれこそ半狂乱の態で、男は必死に宥め説き伏せ、塗り薬を渡すのが精一杯じゃった。
心の治療はもっと厄介じゃ。女は一月経っても二月経っても自分の素性を、己の身に何が起こったのかを語らん。当然と言えば当然じゃが、それではカウンセリングにならん。
だから男は、辛抱強く女と対話した。
その中で男は己の手の内を全て晒した。すなわち、自分の素性やこれまでの人生を、じゃ。
建康の医師じゃった事。
妻を病で亡くした事。
妻を助けられなかった事。
それを境に不思議な力に目覚め、それで患者を治療してきた事。
そしておそらくその代償として――外見だけ若造に逆戻りしてしまった事。
もちろん女は初めは信じなかった。しかし男が別の患者の手術で力を使ったあと、身長が僅かに縮んでいるのに気付いて、男の言葉が真実であると理解した。
女は少しずつ、本当に少しずつ、男を信用していった。
そうして女の心の治療が進んでいったが、これがまた酷かった。
女は常にトラウマのフラッシュバックに襲われた。夜寝ている時も、じゃ。寝入ったと思ったら過去の悲惨な体験を夢に見、人とは思えぬ絶叫を上げて飛び起きて暴れ回った。男は落ち着かせようとして、誇張表現ではなく何度も何度も死にそうになった。女はますます眠りを恐れ、己の体に何度も何度も刃を突き立てた。
ままならない己の体と心を、壊すかのように。
並みの医者ならとっくに匙を投げ出したところじゃろう。そして女を野垂れ死にさせるか、良心的なら看取った事じゃろう。
しかし、男は医師じゃった。
地霊星の呪詛と祝福を魂の一片に至るまで受けた医師じゃった。
『――……医師は、どうしてアタシを治そうとするんデス?』
いつものごとく暴れ回って、男を傷つけ、無理矢理飲まされた鎮静剤でようやく落ち着きを取り戻した女は、狂気と理性とが交錯する目で男を見てそう問うた。
女の怪我を手当てしながら、男は答えた。
『お主がわしの患者だからじゃ』
『でもアタシ、お金なんてアリマセン』
『他の者からぼったくるから良い』
『何も返せマセン』
『別に構わん』
『もしかして医師、アタシに惚れちゃってたりシマス? こんな、もう女とも言えないアタシに』
女のこれまでの人生で、無償の厚意というものは存在しなかった。
女の家は貧しかった。幼くして豪農の家に売られた。名目はその家の生まれたばかりの男児の嫁として。実際は態のいい奴隷として。
女は実の両親にも、名目上の婚家にも徹底的に利用され、しゃぶり尽くされた。その結果、「人生とはこんなものだ」と諦めるように悟った。
女にとって、この世は自分が損するように出来ている。一つ恩を受けたら百にも千にもして返さないといけない。その中には殴られる事も、犯される事も含まれておった。
だから女は、男が何の見返りも求めず自分を治療するその心理が理解できなかったのじゃ。
と言うより、恐れておったのじゃな。見返りを提示されない事を。提示されれば、それがどんな酷い仕打ちでも諦め、覚悟できる。提示されないまま「恩」が積み重なっていくのは、女にしてみればとても恐ろしい事じゃった。
果たして、男は――
『患者に惚れる医師なぞ下の下じゃ』
と、一蹴した。
女の恐怖が増した。積み重なっていく「恩」と、それがもたらす何百倍何千倍もの「返し」。無色透明の圧迫感が女を押し包む。
『……ジャア、アタシはどうすればいいんデス?』
『何?』
『医師は、何もイラナイとおっしゃる。でも、アタシは何か返さなキャ。何ヲ返せば? 医師、アタシは何ヲ返せば? 殴られマショウカ? 犯されマショウカ? 何ならイッソ絞め殺され――』
『それ以上言うな』
男はピシャリと遮った。
静かな、しかし有無を言わさぬ声じゃった。
『わしの前で、医師の前で、二度とそんな事を言うでない』
『……でも、医師、アタシは』
『わしは』
男の寄越す視線に、女はたじろいだ。
昏い目じゃった。
虚ろで圧倒的な絶望を知り、それでもそれに抗ってしまう無力な者の目じゃった。
『もう、うんざりなのじゃ』
『……?』
『救えるはずじゃったのに救えなかった者の死を見るのは、もう、うんざりなのじゃ』
『医師――』
『だから頼む、わしにお主を治させてくれ。お主の命を救わせてくれ』
……そう。
女が壊れかけていたように、男もまた壊れかけておったのじゃ。
男は人の死を見すぎ、受け止めすぎておった。患者の死は全て救えなかった己のせい、と、普通の医師ならば感じるはずもない責任感と罪悪感に苛まれておった。
女が、それをどこまで理解したかなど知らぬ。
しかし返せるものが見つかった女は、嬉しそうに微笑んだ。
『ハイ。アタシは、医師に救われマス』
女の心はこれを境に安定し始め、徐々に回復していった。その内に男に薬の知識を教えられ、いつの間にか助手兼薬師になっていた。
幼い子供の姿をした老医師と、包帯だらけで最早女らしさなど欠片もない薬師。
壊れかけた異形の二人は、その後も行動を共にし――――――――――――
「――……感動である……」
と。
安道全は処置の手と語る口とを止めて、隣で呻いた関勝を見やった。
対面にいたはずの関勝が何故隣にいるかと言えば、摘出手術などとっくに終えているからである。話の進行で言えば、「男」に天医星だか魔星だかが降ってきた辺りだったか。摘出、止血、縫合など、安道全にかかればものの三分で終了だ。
処置も話もそこで強制終了で関勝と副将二人を追い出そうとしたのだが、三人はまるで講談に聞き入る子供がごとく安道全にかじりつき、話の先をねだった。仕方ないので暴れる怪我人の押さえつけなどを手伝わせ、延々と語ってやった。
そうしたら。
関勝は、そんな言葉と共に滂沱と涙を流していた。
副将二人も、ボトボトボトボト泣いている。
いい大人が何を泣いているのか。安道全が半眼で呆れた眼差しを送る先、関勝が不意に大声を上げた。
「老医師の献身、女の心意気……某、大いに感動した! これぞまさに愛である!」
その大声に、安道全によって手当てされ終えた若い兵士の体がビクッと震えた。意識は朦朧としているのに大したものである。この兵士は生き延びられそうだ。あとの事を傍にいた教え子に引き継いで、彼は別の患者の処置をすべく立ち上がる。人の群れの隙間を縫って歩き始める。
その後ろを、泣く関勝がついてきた。
「そうであったか……安道全医師、汝にはそのような過去があったのであるか……――そして薛永、汝にもそのような悲惨な過去が……!」
と、言葉の後半はちょうど傍を通りがかった薛永に対してである。
安道全の話が始まる前に立ち去った薛永には、何の事だか分かるはずもない。薛永はギョロリとした丸い目に不思議そうな色を浮かべ、コトリと首を傾げると、
「あの、関勝殿――」
「いや、皆まで言わずとも良し! 例え落草しようとも某は堂々たる好男子! 汝ら二人の話は某らの胸にソッと秘めておくである!」
「はい関勝殿!」「その通りです関勝殿!」
安道全は視線を感じる。薛永だ。何事かと問いたげに見下ろしてきている。安道全は見上げ、見つめ返し、軽く肩を竦めて見せると、オイオイと泣いている関勝以下アホ三人に視線を戻し。
懐から一枚の紙片を取り出すと、そこに書かれている文句を淡々とした、と言うかつまらなさそうな口調で読み上げた。
「この物語は大体フィクションです。
実在の人物、団体などとは概ね関係ありません」
「…………何?」
感動の狂騒を一瞬で冷まして硬直し、ポカンとする三人。
「安道全医師、今、何と?」
「言った通りじゃ。聞き直すな。さて――」
紙片を懐にしまい、安道全は薛永の足をポンと叩く。その意を了解した薬師は「アイサッ」というかけ声で小さな主の体を方に担ぎ上げた。
「行くぞ薛永、次の重篤患者がわしを待っておる。――誰かこの三人を外に放り出しておけ。邪魔じゃ」
「アイサー!」
「――ま、待て安道全んんんんんんんんんんっ! 『大体』とは、『大体』とはどういう事だああああああああっ!?」
その濁声をいい加減鬱陶しく思っていた事務員たちによって押し出されながらの関勝の叫びは、
――当然の事だが、二人に届くわけがないのであった。
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