安道全医師は困っていた。
 梁山泊の外で大規模な野戦があり、ひっきりなしに運び込まれてくる負傷者で診療所は大混雑、安道全と薛永率いる医療チームはてんてこ舞いの過労死寸前である。
 いや、そこはまるで困った点ではない。むしろどんと来いキャッホウだ。安道全は病人・怪我人の前だと水を得た魚のように生き生きする。
 困ったのは――目の前の、患者だった。

「離せっ、離すである! この身に刃を受けるなど武人の恥、ならば潔く戦場での死を選ぼうぞ!」
「落ち着いて、落ち着いてくださいよ関勝殿! 腕に入り込んだ矢じりを摘出するだけです! だから落ち着いて、ねっ!?」

 腕を捕える二人の副将を振り回し、安道全の前でジタバタと大暴れしているのは、ちょうど半年前に色々あって何か仲間になっていた自称・関羽の嫡流の子孫、大刀の関勝氏である。その素性について、
『……あれ? 関羽の子供って全滅してなかったっけ?』
 と(多分触れてはいけない)疑問を投げかけたのは呉用だが、まあ、それはいい。
 その関勝は、三国時代の名将・関羽の子孫であるという誇りと気概をどこへやら、血をダラダラドクドク垂れ流す利き腕まで振り回して暴れているのだ。いい歳こいた図体デカい大の大人がまったくもってみっともない。
 さて何故こんな事になっているかと言えば、と安道全は関勝が運ばれてきた時の騒ぎを、呆れた気持ちで思い出す。

 関勝の部隊は最前線にいた。
 良く言えば勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進なところのある関勝だから、退く敵を深追いしたらしい。
 つまり、後方の味方と分断されて罠にかかった。
 幸い部隊全滅の大惨事には至らなかったが、関勝は敵の矢を体に多く受けた。
 大半は甲に阻まれ軽傷で済んだ。しかし利き腕の傷が深刻だった。流れ出ている血の量から判断するに、おそらく動脈が傷ついている。しかも副将どもによると、腕に刺さった矢を変な風に抜いた――いや折ったのか、矢じりが筋肉に埋もれ込んでしまっている。
 返す返す、

「……アホじゃのう、お主」
「何ぃっ!? おのれ小童、某を侮辱するかっ!」
「わしはもう成人じゃ。まあいいわ――ほれそこの二人、ボサッとしとらんでそやつをもっとしっかり押さえつけろ。このまま摘出手術と血管の縫合を行なう」
 メスとピンセット、針と糸とを準備し、安道全は怪我人でごった返す診療所の中を見回した。
 忙しく動き回る安道全の教え子たちや手伝いの者たち、処置の終わった兵士たちの群れに垣間見えるのは、トリッキーな動きで化膿止めや痛み止めを処方して回っている長身のミイラもどき。
「薛永!」
 するとミイラもどきこと薛永は、ピタリとその動きを止めてこちらを見た。
 大好きなご主人様に呼ばれて尻尾を千切らんばかりに振る犬のごとく、顔をキラキラと輝かせて、
「アイサッ!」
 そう一声高く返事をし、やはりトリッキーな動きで人ごみを掻き分け、潜り抜けて安道全の隣に至る。
「何デショ、医師(せんせい)?」
「麻酔はあとどれだけある?」
 薛永は視線をやや上向きにして束の間考え、答えた。
「……五十人分、ってトコデスね」
「そうか」
 安道全は診療所内をザッと見回した。
 呻き声。泣き声。弱音。
 汗の臭い。薬の臭い。血の臭い。
 休む間もなく働く教え子たち。途切れなく続く負傷者。泣き言もなく雑事に動き回る聚義庁の事務方や作事方の連中。
 それらの人の向こうにある開け放たれた診療所の出入り口の向こうから、重傷者・重体者がどんどんとやってくる。
 診療所の中の様子を一瞥し、判断するまで、およそ〇・〇一秒。安道全は淡々とした、冷ややかささえ混じった声で関勝に告げた。
「では無麻酔で行なう。痛くても叫ぶでないぞ、関勝」
「何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
 叫ぶなと言ったのに早速叫んだ。
 不興の半眼で睨みつけるこちらの様子などお構いなしに、関勝は怒りと狼狽の声を垂れ流した。
「うっ、汝、汝という小童は、某の体に刃を突き立てるばかりか……むっ、むっ、無麻酔、だと!? なっ、何を考えているかぁぁぁぁぁぁっ!」
「無麻酔ごときでいちいち騒ぐでない。少々切って取り出して縫うだけじゃ。戦場での斬りあいに比べたら可愛いものじゃろ」
「それとこれとは話が違うわ!」
「何じゃ、怖いのか」
 相手が怖がっていようが何しようが、さっさと治療してこの身を空けなければならない。安道全が処置しなければならない患者は増えている。やかましい上に席次も上位だからと教え子たちは処置に尻込みし、その結果こちらに回ってきたわけだが、まったく、この程度の輩に怯むとは修行が足りん。
 喚く関勝を無視してメスを取り上げる。窓から漏れさす光を照り返して、刀身はギラリと輝いた。副将二人に押さえつけられ、血まみれの利き腕を突き出させられた関勝は、その光に明らかに怯んだ。ハッと息を飲む音は大きく、対面に座る安道全の耳に飛び込む。
 思わず、溜め息が漏れた。
「お主、本当に関羽の子孫か? かの関羽は毒矢を腕に受けた時、碁を打ちながら華佗に切開させて骨を削らせたと言うぞ?」
「っ……某を愚弄するか!」
「されたくなければおとなしく切られよ。お主以上の重傷者は山ほど運ばれてきておるのじゃ。この程度の怪我に麻酔など使っておれぬし、いつまでもかかずらっているわけにはいかん」
「ぐ、ぐぐ……――」
「薛永、ここはもういいぞ。他に回れ」
「アイサッ!」
 薛永を下がらせ、代わりにちょうど通りがかった聚義庁の事務員に手巾のような適当な布を持ってこさせる。その時だった。
「――あの、安道全殿」
「何じゃ?」
 関勝を抑える副将の一人が、おずおずと提案を出してきた。
「あの、その……何か、関勝殿の気を紛らわせられるようなものはありませんか?」
「何?」
「何だっていいのです。人形でも、歌でも、話でも、とにかく関勝殿の注意を腕から逸らせられれば……」
 子供か。
 だが、と安道全は呆れた眼差しを件の大刀に向ける。
 メスを目の当たりにし、真っ青な顔でガクガクブルブル震えている自称・関(以下略)の様子からだと、確かに先祖の豪胆さなど期待しない方が良さそうだ。
 仕方ない。先程の事務員がどこからか手巾を調達してきた。安道全はそれを受け取り、問答無用に関勝の口に突っ込む。それからやはり問答無用にそっぽを向かせ、副将二人が苦労して突き出させている彼の利き腕にメスの刃を当てた。
「……では一つ、昔話でもしよう」
 いつもと変わらぬ淡々とした、感情のほとんど入り混じらない事務的な調子で始める。
「昔々の話じゃ」

 サクリ、と、関勝の腕にメスが入った。

 

 

アスクレピオスの苦悩

 

 


 昔々の話じゃ。
 江南は揚子江のほとり、建康という町に、ある男が住んでおった。
 男は医師じゃった。腕はまあ、それほど良くはなかったのう。見立ては間違える、処方は取り違える、薬の調合は失敗する、傷を縫うのも鍼を打つのも下手くそと来た。それでも一応医師じゃから、そこそこ繁盛はしておった。
 ところでこの男、いい歳になっても独り身じゃった。働いて稼いだ金を全て馴染みの芸妓に貢いでおって、結婚どころではなかったわけじゃな。
 さすがにこれは外聞が悪いと思った親戚の手配で、その男はようやく妻を迎えた。妻は、気立ての良い事だけが取り柄の女じゃった。
 結論から言えば、男はその妻が気に入らなかった。妻の何が悪かったわけではない。ただ、芸妓の華やかさに慣れてしまったその男にとって、妻は如何にも地味で野暮ったかったのじゃ。
 だから二人の間にはいつまで経っても子が出来なかった。
 さて、そんな生活が十年以上続いたある日。
 妻が、病に倒れた。
 愛していたわけではないが、十年以上も共に暮らしていれば家族の情も湧くし、何より男は一応医師じゃ。放っておくわけにもいくまい。妻の治療を始めた。
 が、どれだけ高価な薬を使っても妻の病状は良くなる事はなく、むしろ日に日に悪化していった。
 自分の腕が良くない事を自覚していた男は、知人の医師に妻を見せた。しかし彼らでも妻の病を治す事は出来なかった。
 尽くせる人事を尽くしたあとに出来る事は、祈る事だけじゃ。男は土地神の廟で神に祈った。華佗の再来を、天医星の降臨を祈った。
 天医星が何か、じゃと? 何じゃ知らぬのか、不勉強じゃのう。天医星というのは、有り体に言えば医術の守護神のようなもの。決して一〇八魔星の一つではないぞ?
 男は、それさえ降りてきてくれれば、と本気で願った。
 その時、夜空に大量の星が流れた。
 それに気付いた男は廟の本尊から夜空の星に祈りの捧げ先を変えた。あの中の一つに天医星があって、それが自分の元に降臨してくれる事を本気で願った。
 偶然か、必然か。

 星の一つが、男に向かって墜ちてきた。

 そして男に衝突した。

 衝撃で地面に転がり、束の間気絶した男は、意識を取り戻して起き上がった時、異変に気付いた。
 頭の中で、何かがざわめいておる。
 声が、文字が、映像が、瞬きちらついておる。
 その瞬きに導かれるように、男は妻の病について考えてみた。
 すると男の頭脳の深淵から、尽きる事を知らない泉の水のように滾々と湧き上がってくるものがあった。
 それは、知識じゃった。
 膨大な、医術の知識じゃった。
 妻の病に関するあらゆる知識じゃった。病の名前、原因、特徴的な病状、早期発見のための手がかり、そして治療法。
 男は狂喜した。当然じゃ。治療法が判ったんじゃからのう。
 しかも、末期の状態からでも投薬で回復する、とあったんじゃ。男が小躍りするのも無理はなかった。
 自宅に帰る道すがら、男は天に感謝した。天医星を遣わし、妻を助ける知識を授けてくれた天に、人生で初めて感謝した。


 ――じゃが、男はまだ気付いておらんかった。
 その身に宿ったもの。それは天医星などという優しく都合の良いものなどではないという事に。


 そして男はそれをすぐに思い知る事になった。
 きっかけは簡単かつ単純じゃ。
 薬が作れなかったんじゃ。
 作り方は知っておる。
 材料もある。
 ならば作れそうなものじゃろう? しかしどうやっても薬は完成しなかった。知識の中にあるそれとは程遠い、むしろ人体に有害な物ばかりが出来上がってしまった。
 何故そんな事になったか?

 簡単じゃ――今の技術では、どう足掻いてもその材料から病に効く成分を抽出し、精製するという芸当は不可能だからじゃ。

 男が試行錯誤している内に妻の病は重くなり、苦しみ抜いて死んでいった。
 男は泣いた。妻を失った夫と死ではなく、救えるはずだった患者を救えなかった医師として。
 皮肉な事にそれが男の、真の医師としての目覚めであり――


 悪夢の、始まりじゃった。

 

 この一件以来、男の医術の腕は劇的に上がった。
 それは知識だけではない。以前はあれほど苦手だった外科処置の技術も向上したんじゃ。傷は跡も残らないほど綺麗に縫えるようになっていたし、開腹して内臓に開いた穴を塞ぐ事も顔色一つ変えずに平気で出来るようになった。切開から縫合までの一切の処置が、以前の二十分の一の時間で出来るようになっておった。
 メスを握るとな、解るんじゃ。
 どこにどのように刃を当て、引いて、切り開き、どこにどのような病巣があって、それをどういう風に取り除き、どのように止血・縫合すれば患者に余分な痛みも負担も与えず生還率を上げられるか――患者を生かすための全ての手段が、解るのじゃ。
 それは最早、知識として頭の中にある、というレベルの話ではない。
 頭の中にあるだけだったはずの知識が血のごとく体の隅々にまで行き渡り、目の前の症例を、何千回何万回も処置してきてすっかり慣れきって馴染みきって何も考えずに処置できる「体験」にしてしまうのじゃ。
 全ての症例は何万回も治療してきた既知の病・怪我となり、だからこそ男はあらゆる患者に対し適切な処置を行う事が出来た。
 十年。
 妻を亡くしてから十年で、男は建康一の名医と呼ばれるようになっておった。どんな病の者でもその男に診てもらえさえすれば必ず治る、と評判が広がった。
 実際、男は信じられぬ数の患者を治療した。役所に働きかけて伝染病の防止にも努めた。流行り病が発生した時、どの医師よりも早く治療に乗り出し、多くの患者を救った。
 その一方で、男は財というものに対し驚くほど淡白になっておった。
 どんな貧乏人も治療したし、彼らからはろくに治療費も受け取らなかった。治療費は必要経費――薬代や道具代、助手たちの人件費の類――くらいで、価格も良心的じゃった。蓄財など一切しなかった。医師として目覚めた男にとって、かつてあれほどのめり込んだ妓楼や酒楼での遊興は、遠い世界の出来事でしかなかった。
 男の名声はますますうなぎ上りに高まっていった。
 じゃが――

 男にとっては、酷い悪夢じゃった。
 何故なら、救えたはずなのに救えなかった患者の数が、日に日に増えていくのじゃからな。

 ……そう、知識じゃ。
 男が得た医術に関するありとあらゆる知識――天医星が授けてくれたと思っておったこれらが、男を苦しめたんじゃ。
 男には、ありとあらゆる医術の知識がある。
 目にする症例は全て既知のもので、その原因が、特徴が、治療法が全て解ってしまう。
 その知識が体を駆け巡る。外科処置が必要なら、それがどれほど困難な手術であっても知識が、「馴染んだ体験」に変化した知識が全て可能にしてしまう。
 だからこそ、じゃ。
 だからこそ、男にとって「救えなかった患者」は増えていく。
 どんな病にも原因がある。
 どんな死にも原因がある。
 男にはそれが解ってしまう。対処法が、治療法が判ってしまう。宮中の典医でも病と思わない、それで死なれても「これがこやつの寿命だった」としか思わない、まだ名前もついていないような病が、男には治せてしまう。
 じゃが、それは土台不可能な話なのじゃ。
 男の妻の事を思い出せ。彼女もまた、男にとっては「簡単に治療できる」病じゃった。

 ――薬さえ、作れていれば。

 じゃが、何もなかった。
 病の原因となる細菌を殺す薬も。
 微小な病巣を取り除く手術に必要な、高性能な拡大鏡も。
 大量出血しないように患部を灼き切る事の出来るメスも。
 糸ほどにも細い血管を縫うために使う、爪の先よりもっと小さい針も。
 それに使う、髪の毛よりもっともっと細い糸も。

 知識はある。技術もある。
 それなのに道具がない。薬がない。
 そのせいで、助けられたはずの患者を死なせてしまう――――――

 

 解るか?

 これが、どれほどの悪夢か。

 

 男は悪夢に蝕まれ、疲弊し、それでも医師として患者を救い続けた。
 しかし男は既に身も心もボロボロじゃった。睡眠時間を削り、食事を削り、神経を削り、一時は随分と恰幅の良かった体は日増しに痩せ細っていった。
 そんなある日、男は久しぶりに旧友に会った。
 およそ三年ぶりに会う友は、男を見てこう言った。
『忙しく働いていると聞いていたからどうしたかと思っていたが――何だか前よりも随分若々しく見えるな』
 忙しいのが逆に張りになっているのか? 笑う友に気付かれないよう、男は戦慄していた。
 家に帰って鏡で確認し、愕然とした。
 痩せたのではなかった。昔の体格に戻っていたのじゃ。
 若々しい、という問題ではない。


 男は――若返っておった。

 

 

 

書架へ次頁へ