1.偉大なる恩寵


 ――その瞬間の感覚を、翠蓮は、どう表現していいか分からなかった。

 国が送り込んできた刺客の一人、寇烕から分離して浮かび上がった淡い光の玉。それはフワフワと漂っていたかと思ったら、
「――あわっ! わわわわっ!」
 翠蓮の胸に、吸い込まれていく。
 翠蓮ちゃん!? 異変に気付いた扈三娘の叫びもどこか遠い。敵から分離したものが己の中に入ってくる、その異常に彼女は混乱した。ゾッとした。総毛立った。恐ろしくて、気持ち悪くて、衝動的に手でババッと胸元を払った。光は払い落とされも出ていきもしなかった。
 胸の中に、消える。
 ――……余りにも呆気ない感覚だった。
 いや、「呆気ない感覚」すらなかった。
 何もなかった。おぞましいものが胸の中に無理矢理分け入ってくる感覚も、温かいものが優しくしみ込んでくる感覚も、何もなかった。光の玉は、ただスゥ……と、何事もないように、当たり前のように、何の痛みも違和感もなく翠蓮の胸に吸い込まれる。
 拍子抜けすればいいのか怖がればいいのか分からずに呆然として、丸く瞠った目で光の玉が入り込んでいった自分の胸元を見下ろした。

 そこに淡く灯る「獣」の文字。

「なな……」
 ボロリと、泣きたくもないのにこぼれ落ちる大粒の涙。
「何これぇ……」
 光の文字は、胸に吸い込まれていくかのようにスゥと消える。恐怖と混乱の涙をボロボロ流しながら、翠蓮は文字の消えた胸元を手で押さえた。

 何だろう、今のは。

 何だろう、これは。

 自分の中に、自分と違う「モノ」が無理矢理入り込んできたおぞましさと、痛みも気持ち悪さも何もない己の体の様子に、翠蓮はただただ混乱する。
「あの……わ……私、死んじゃうんでしょうか」
 途方に暮れる翠蓮の漏らした呟きに、
「「「「「さー」」」」」
 という林冲、扈三娘、朱貴、杜遷、宋万の、余りに無責任でどうでもいいと言わんばかりの声が返ってくる。うわぁ他人事だと思って! たまらず高く泣き声を上げ、

「心配ないよ、翠蓮殿!」

 快活な声が彼女の不安を吹き飛ばす。見れば、
「星が移ったのだ」
「――花和尚さん?」
 視線の先にいるのは花和尚や劉唐といった替天行道の同志(メンバー)。どうしてここに、と思ってふと脳裏をよぎるのは、公孫勝が王倫と戦っている最中に戴宗に告げた「さっき来る途中、知ってる顔を見かけた」という言葉。それはつまり彼らの事で、門の外の喧騒がいつの間にかやんでいるのは、花和尚らが迫りきていた官軍を退けた、という事に他ならない。
 梁山泊の危機は、去ったのだ。
 実感と安堵を得る翠蓮の視界の中、花和尚の向こうで、
「どうやら地獣星は、その子を次の宿主に選んだようだな」
 件の公孫勝が岩場の上から下りてきた。フワリとした動作も呑気で他人事の口調もどこか浮世離れしていて、成程道士なのだなと何故か納得してしまう。しかし、その言葉の中にサラリと出てきた星の名に、目をぱちくりとさせる翠蓮。

 地獣星。

 それが、今、己に宿った星の名。

 己の胸に手を当てた。ついさっきまで「獣」の文字が光っていたそこ。もう光は消え、字も読めないけれど、ここに、確かに、宿っているのだ。
 地獣星が。
 自分を選んでくれたものが。
 恐れとも畏れともつかない感情に襲われ、密かに、そして微かに打ち震える翠蓮。その一方、眼前では林冲が花和尚に宿星や星の力の事を真剣な表情で問いただしている。しかし花和尚はそれには応えない。いずれ宋江が語る――そう言って、林冲の面にサッとよぎった不満の色を見なかったふりをする。この話題を打ち切る。
 その姿は、何となれば、重大な責任から上手く言い逃れしたようにも見えた。この胸に宿った星とは何なのか、花和尚はそれを知っている様子なのに、この場にいない宋江に説明の役を丸投げして、何も語ろうとしない。何故、という疑問と、責任逃れしたような姿に、微かな疑念と苛立ちを覚えた。
 しかしそれは本当に微かだった。生来人の好い翠蓮は、「きっと何が理由があるんだ」とあっさり納得し、同時に、実は詳しい話に余り興味を抱いていない自分にも気付く。
「星の力とは何なのか」? 「宿星とは何なのか」? それは先程目の当たりにしたではないか。
 百人千人を一蹴し、平気で屠れる力。
 その力を操る者。
 それが星の力だ。宿星だ。翠蓮は、胸元をギュッと押さえ、震えを抑え込みながら実感する。
 国が送り込んできた四人の刺客。逃げていった天山勇は、宿星軍、と言っていただろうか? そこに属していただろう彼らが起こした惨劇を思い出す。梁山泊の山賊たちを、赤子の手を捻るように容易く蹴散らしていったあの恐ろしい力を思い出す。
(――……あれが、星の力)
 続けて翠蓮の心に蘇るのは、その彼らをたったの一撃で倒した戴宗の姿だった。天速星。星の力で形を変えた伏魔之剣。林冲や扈三娘、朱貴、杜遷や宋万をあれほど苦しめた四人を一瞬で斬り伏せた、あの鮮やかな赤い炎。
(あれが、星の力)

 何と、恐ろしい力なのだろう。

 何と、すごい力なのだろう。

 今、翠蓮に宿ったもの。翠蓮を選んでくれたもの。それは、あんな力を発揮するのだ。
 たくさんの人を一瞬で屠り、同時に、たくさんの人を守り、助けられる、強大な力。
(――ああ)
 その力の源が、今、翠蓮の掌中にある。
(ああ)
 その力の源が、今、翠蓮を選んだ。
(ああ!)

 この力があれば、私はもう、足手まといでなくなるのだ!

 この力があれば、皆の役に立てるのだ!

 ついさっきの戦闘でも守られるばかりで、ほとんど何の役にも立たなかった翠蓮。
 ついさっきだけではない。戴宗と出会ってからこれまで、翠蓮はずっと足手まといだった。宋江から見張り役に任命されたけれど、それが戦う力も持たない未熟な小娘を適当に納得させる方便である事くらい、とっくに気付いていた。
 だが、

 だが、この力があれば。

 この一〇八魔星さえあれば。

(もう、足手まといじゃない。皆の役に立てる)

 後ろにいて庇われるのではない。皆の隣に並ぶ事も、前に出て誰かを守る事さえ、きっと出来るのだ!

 強張っていたその表情に、微かだが、力強い笑みが浮かぶ。
 双眸は希望に輝き、意欲に燃え、昂揚していく。
 力の習熟を決意する翠蓮には、明るい、もっと言えば輝かしい未来しか見えていない。

 

 ――それがとんだ思い違いである事を、彼女はすぐに思い知る事となる。

 

 

アメイジング・グレイス

 

 

 

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