部屋は、暗かった。 十日ほど前に始められた攻撃は、ただでさえ有名無実と化しつつあった自軍をあっさりと劣勢に追い込み、現在、全滅の危機すら迫りつつある。 攻撃が始まってようやく防衛体制に入ったこの王城は、今ではちょっとした物音を立てる事すらはばかるほど、ピリピリとした緊張感に包まれていた。 緊張感の原因の一つは、戦時体制に慣れていないカーナ人の、やはり慣れていない節約から来るストレスだった。篭城(ろうじょう)戦に備えて食料や薪、油などの燃料が節約されている。 真夜中で、まだ起きているというのに部屋の灯りをテーブルに置かれた燭台の蝋燭一つでまかなっている、というのは、この部屋の主が自分なりに周囲に示しをつけている証拠だろう。 その主は、部屋の奥、テーブルの更に向こうにある、大きく取られた窓の前に立っていた。 「お召しにより、戦竜隊隊長ビュウ=アソル、ただいま参上いたしました」 その背中に、ビュウは言葉を投げ掛ける。声に、蝋燭の灯りにボンヤリと照らし出された背中が、微かに反応を見せた。 ビュウよりも頭一つ半ほど低い身長、細い肩、淡い緑のストールを巻きつけたなよやかな曲線を描く背中、それを半ばほどまで覆う、波打つ蜜色の髪。 後ろ姿だけでもそれと判る、少女。いや、娘か――彼女がこの部屋の主だった。 「待っていました、アソル佐長」 娘が返してきた。玲瓏なソプラノの声。けれど、凛とした声音の中に冷ややかな響きが多分に含まれている。 その声の余韻がまだ耳に残る中、娘は白い寝巻きの裾を翻して、こちらに振り返る。 「このような夜分に呼び出した事、すまなく思います」 娘の面差しは、――一言で言えば――美しかった。 少し小さめの白い顔だとか、顔を縁取る見事な金髪だとか、形の良い眉だとか、長い睫毛だとか、澄んだエメラルド色の双眸だとか、ほんのり色づいた頬だとか、桜色の唇だとか――そういう、造形の問題ではない。 例えて言うなら、その造作に浮かぶ色。 他を圧倒するような、幼さが残る中に威厳と気品が満ち溢れる、苛烈な表情。 普段の、何も知らない深窓の令嬢ぶっている彼女とは百八十度違うその表情は、ビュウと、ごく小数の者しか知らない彼女のもう一つの顔。 それこそが、ビュウが敬愛してやまない、彼女である。 だからこそ、ビュウは即座にこう返した。 「いえ、殿下」 否定である。 「敬愛する殿下の命ならば、このビュウ=アソル、どこにいようとも必ず駆けつけましょう」 娘は微かに笑んだ――ように見えた。しかしその表情の揺れはすぐに消え、彼女は大股でこちらに歩み寄ってくる。 正確には、彼女とビュウの中間にあるテーブルの、脇に置かれた豪奢(ごうしゃ)なソファーに。 「それでは、早速ですが聞きたい事がいくつかあります。こちらへ、佐長」 「は、失礼します」 と、一礼して、ビュウはテーブルに歩み寄った(先程から出ている「佐長」というのは、軍におけるビュウの階級である)。 娘が布張りのソファーに座り、ビュウが、テーブルを挟んで彼女と対峙する形を取る。踵を合わせ、背筋を伸ばし、直立不動の姿勢で彼女からの質問を待った。 対する彼女は、ソファーに静かに腰を下ろすと、顔をまっすぐに上げ、軽く胸を張り、両手を膝の上で重ねると、ビュウに幾分鋭い印象の眼差しを向けた。 そして、唇が動く。 「単刀直入に尋ねます。 第三防衛線が、突破されましたね?」 「はい」 と、即座に彼は首肯する。王太子に祖国の窮状を報告する、という己の役回りを密かに呪いながら。 まったく、何が哀しくて王国の騎士が王太子に、芳しいとは決して言えない、いや、むしろ悲劇的な状況にすらある戦況を報告せねばならないのだ? 「では、状況の報告を」 彼女はそんなこちらの葛藤など少しも意に介さない――当然の事だが。 そして、言いよどむ事は許されていないので、ビュウはここに来るまでの道で散々反復してきた現在の戦況を、今更のように話し出した。 「一昨日――五月十七日、一二〇〇時、第二防衛線を突破した帝国艦隊が第三防衛線と衝突。防空師団三〇一、三〇四大隊及び戦竜隊第六中隊がこれに対処するも、本日二一三〇時、同艦隊は第三防衛線を突破。 これにより、防空師団は一〇一、一〇四、二〇一、二〇三、二〇四、三〇一、三〇四各連隊が壊滅状態。戦竜隊は、第六、第八、第十一中隊が全滅。 帝国艦隊は、――明朝にも最終防衛線への攻撃を開始するでしょう」 滑らかに語るビュウ。その言葉の裏に、ある種の徒労感を込めて。 けれど彼女は質問を続けた。おそらく、こちらの様子になど気付いていないだろうし、よしんば気付いていたとしても、彼女の事だ、黙殺するに決まっている。 「彼我の戦力比は?」 「我が軍が一に対し、帝国軍は八。 ――これは単なる兵力差であり、実際の艦砲を初めとする火器や魔道士の能力も含めますと、戦力比は一対十ほどになるかと」 「それは、戦竜隊の戦力を考慮しても?」 「はい」 「では、アソル佐長」 改まったように、王太子は声を僅かに張った。 「貴方は、この戦いの行く末をどう見ていますか?」 ビュウは内心嘆息した。 これはまた、言いにくい事を聞いてくれる。 「……正直に、申し上げてもよろしいので?」 「もちろんです」 「外部には」 「貴方が漏らさなければ、漏れる心配はないでしょう」 「では、僭越(せんえつ)ながら」 ビュウは覚悟を決めた。 呼び出された時から、この話になる事は予想がついていたのだ。 「あと二日、持てば良い方です」 そもそもが、分の悪い戦争なのだ。 二千年も前から専守防衛に徹するようになった名ばかりの軍と、つい最近まで日常的に各地の紛争の主役を担ってきた軍。 どちらが勝つか、など、戦端が開かれずとも明らかだったのだ。 けれど戦端は開かれてしまった。 その国王の判断が、カーナ史上最大の愚行かどうかは、ビュウには判らない。が―― それが、カーナ王国滅亡の引き金を引いた事は、確信している。 「あと二日、か……」 膝に置いていた手を顎に持っていき、彼女はしばし考え込んだ。やや顔を伏せがちにする。 それから大して間を置かず、再び顔を上げると、 「分かりました。 それでは、あと二日で、このカーナを滅ぼしましょう」 そう言うと―― 第二三七代カーナ王の唯一の子にしてカーナ王国王太子ヨヨは、華やかに、そして嬉しそうに、ビュウに微笑んでみせた。 この情勢下にあってはとても相応しくない、それだけに凄絶な笑顔だった。 王太子の居室を辞し―― 庭園に面した渡り廊下を、戦竜隊の詰め所に向かって歩きながら、ビュウはヨヨの提示したタイムリミットを反芻した。 二日。 あと二日で、全てが終わる。 ……あと二日で、全てを終わらせる事が出来る。 ビュウは足を止めた。渡り廊下の片隅から、開かれた庭園へと視線を向け、それから、宵闇の空を見上げる。 深夜。もういい加減日も変わった時分だろう。 それでも、夜明けにはまだ程遠い。 ビュウは口の端を持ち上げ、どこか皮肉めいた笑みを浮かべた。 夜が明ければ、戦い。 懐かしい戦場が、呼んでいる。 そしてようやく全てを終わらせられる。 彼は再び歩き出した。 早く詰め所へ戻らなければならない。あと二時間もすれば、彼が率いる戦竜隊の主力も、最終防衛線に合流するために城を発つ。部隊編成や装備の最終確認、戦竜たちのコンディションの調整、命令系統の徹底……―― する事だけならたくさんある。 それに思い至ったその瞬間には、皮肉げな笑みは、すっかり鳴りを潜めていた。 |