青い空。
白い雲。
輝く太陽。
そして、きらめく青きマハールの湖……――
「では、これより」
その湖岸にて。
真夏の暑い日差しの中、パレスアーマーの金メッキ鎧をしっかりと着込んだマテライトが、その暑さもものともしていないらしい傲然とした声音で高らかに宣言した。
「反乱軍、夏の水泳演習を始める!」
ドキッ、鎧だらけの水泳大会!
マハール・ラグーンの中央にある湖は、その名をターズという。
レインボゥ・ブリッジの架かるそれは、オレルス世界最大の湖であり、その景観の美しさからマハール観光業の最大の収入源となっている。
――が、今から四年以上前のマハール戦役による国土の荒廃と、その後のグランベロスによる統治のせいで、観光業は衰退。先日、反乱軍の活躍によりマハール王国は解放されたものの、以前のようにこの湖が観光客で賑わうようになるのは、中々に難しい……――
(……だからって、何でこんなに簡単に要請が通るんだよ)
真夏の湖で、何故か完全武装。その異様な風体の一団を咎める者はいない。いや、そもそも人気が他にない。それが幸なのか不幸なのか、ビュウは本気で首を捻った。
グランベロスの総督府が置かれて以来、かつての行政機関はその機能をほとんど停止した。失われた機能は全て総督府が持っていき、特に租税院が行なっていた国税徴収なんかは、随分張り切ってやっていたようである。
しかし、総督府が持っていかなかった機能が二つある。
一つは法律。司法院に所属する法曹家たちは、その卓越した弁論の腕前を存分に披露し、財産権も土地所有権もろくに明文化すらされていないグランベロスの未熟な法体系が入ってくる事を阻止したのである。
もう一つが、国土関連。これについては特に重視されなかったのか、総督府は王立国土院の閉鎖を敢行しなかった。
そのおかげで、国土院の下部組織である観光局が生きており――
(「カーナ王女ヨヨ率いる反乱軍も演習を行なった湖」ってのを新しい観光材料にする、って……観光局の人間は何考えてんだ?)
ターズ湖で演習を執り行うに当たり、その根回しを一手に引き受けたのがビュウである。
ビュウ自身は、こんな後々のマハール水産業に打撃を与えかねない演習などそう簡単に認められまい、と思っていたのだが。
「さぁ、ヨヨ様」
「ありがとう、マテライト。
――それでは皆さん、早速ですが」
首を捻るビュウの傍で、ヨヨが、湖を背にした反乱軍の面々に向かって呼び掛ける。
「ワーロック隊、ウィザード隊以外は皆」
顔を外していたビュウはヨヨを見る。
(……マズいな、こりゃ)
内心で、あっさりと湖の使用許可を出した観光庁と国土院を恨む。
(死人が出るぞ)
ヨヨは笑っていた。
それは、とてもとても嬉しそうに、楽しそうに。
「溺れてください」
一瞬の静寂。
直後、どよめき。
そして声が上がる。
「ちょっと待ってくれよヨヨ様! 溺れろ、って、そりゃ一体どういう事だよ!」
やや怒り気味の声は、ラッシュのものだった。まぁ当然か、と思っていると、
「それはつまり……」
ヨヨは言葉を濁し、チラリとビュウを見やる。
あぁこの女、汚れ役は全部俺に回すつもりだよ。
ささくれた思いを胸中で呟きにすると、ビュウは意を決し、輪にした右手の親指と人差し指を口に持っていった。
そして、指笛を吹く。
少し離れた所で待機していたサンダーホークが、待ってましたと言わんばかりに舞い上がる。
「――って、おいっ!? こらっ、サンダーホーク! ちょっと待て! 何するんだああぁぁぁぁぁぁぁっ!」
サンダーホークは華麗にラッシュの肩を掴み上げ、湖上に進み。
ボチャンッ。
「――ラッシュぅっ!」
落とされたその飛沫に一瞬硬直したトゥルースが絶叫する。
……だが、本題はここからなのだ。
「――我が内の猛き魂。そは竜。水の王者」
凛然とした声。
ビュウの隣から発せられたよく通るソプラノボイスは、言うまでもなく、ヨヨのものだった。
「永の眠りより醒めしその荒ぶる心、咆哮となりて響き渡らん」
ざわめきが広がる。ヨヨが何をするつもりなのか、理解できていない者が大多数だ。
マテライトは神妙な顔で湖を見据え、センダックはハラハラと行ったり来たり。
そしてビュウは、
(間に合うか? ラッシュが溺れ死ぬまでに)
間に合いそうになければ、アイスドラゴンを派遣するだけなのだが。
「この血の盟約によりて、我は汝に怒りの場を与えん。さればこそ」
ヨヨは言葉を切り、息を大きく吸う。
詠唱の末尾に伴う魔力の放出が、その手の素養が一切ないビュウにも肌で感じられた。
「来たれリヴァイアサン! かしこにてその神威を示さん事を!」
ユラリッ、と空間に波紋が走る。
そしてそこから、長大な青の蛇が姿を表わす。
この湖の色より尚深い青の鱗を持つ、それが神竜リヴァイアサン。
向こうの景色が微かに見える透けた姿の神竜は、その顎を大きく開き、フゥ、と吐息を湖に吐きかける。
すると湖のある一点だけに霜が降り――
「――……失敗かしら」
「ウィザード、フレイムゲイズ用意! プリースト、ラッシュを回収、手当てに掛かれ!」
ヨヨがぼやき、ビュウが呆れて指示を飛ばす中。
ラッシュをその中に閉じ込めた巨大な氷塊が、まるで嘘のように水面から姿を現わしたのだった。
水泳演習。
正式名称、戦闘中の水難事故に対する救命演習。
そして真夏の湖は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
「嫌だぁぁぁぁぁっ! もうっ……もう、水は嫌ぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「えぇい、やかましいっ! とっとと溺れてこいっ!」
「来たれリヴァイアサンっ!」
「フレイムゲイズ!」
「おい、そこの! もう二回目行けるであろうな!?」
「え!? あの、ちょっと、要はアレアレアレ……この純情硬派なナイスガイドンファ〜ンは、一応マハール出身ではアリマスが泳ぎは何と言いますかその――」
「つべこべ言わんととっとと湖に入れぇっ!」
上がる水飛沫。
轟く悲鳴。
高らかに響き渡る詠唱。
現われては消える神竜。
天をも焦がさんとする火柱。
美しい湖にこだまする場違いなほどの絶叫と怨嗟に、ビュウはしみじみと痛感した。
予想はしていた。
確かに、氷は水に浮く。重装備で溺れたナイトやヘビーアーマーが中に入っていてもそれは変わらない。事実、眼前で散々実証されてきた。
が、浮いたところで事態はさして変わらない。いや、むしろ、積極的に悪化している向きもある。
氷塊に閉じ込められて浮いたところで、呼吸できないのには変わりないのだ。
そしてそうなると、今度は凍傷の危険性もある。
(ウィザード隊を常時待機させてないと駄目だな、この救命方法は)
これだったら、水に落ちた瞬間にアイスマジックなり何なりで水を凍らせ、それに掴まらせた方が早い。……沈むかもしれないが。
とにかく、それが分かったのならこの演習は早々に切り上げるべきだ。組織のナンバー2(ビュウ)が憎まれるのは良いとして、ナンバー1(ヨヨ)に皆の敵意が向くのは、反乱軍という組織の性質上、絶対に避けなければならない。何より、士気に関わる――
「……おい、ビュウ」
背後から暗い声が掛けられた。ビュウは振り返る。
「あんただけ、何で遠くから見てるだけなんだよ」
ラッシュだった。びしょ濡れの体を引きずって、いつの間にか背後に立っている。紫色に変わった唇から漏れる声は、まるで亡霊のように不気味に響き、
「俺は戦竜への指示役だから」
「そんなの、俺が代わってやるよ……」
ニィ、と。
その暗い笑みに、ようやくビュウは身構える。が、遅い――
「だからてめぇも一回溺れてきやがれフレイムパルスっ!」
ドンッ!
元々溺れかけて弱っている者のパルス。大した威力もないところで防御したから、こちらへのダメージなどないに等しいのだが――
(しまった――)
防御姿勢のままフレイムパルスの勢いに弾き飛ばされ、ビュウは背中から湖に墜落する。
落下。衝撃。水飛沫。体の周りにまとわりつく水泡。呼吸を止める。水を掻く。だが……浮き上がらない。浮き上がるはずがない。
(まぁ、そりゃそうだよな……)
完全武装は重い。水に入れば沈むは必定。
(それに俺、元々泳ぎは得意じゃねぇしなぁ……)
傭兵時代もそうだったが、カーナに戻ってからも、泳いだ記憶はほとんどない。「泳ぐ」という事は理論的に知っているが、体が知らなければ意味がない。
(……やっぱりこんな演習、やるんじゃなかったなぁ)
例えそれが、緊急時の水難救助に備えるためであっても。
ヨヨの心に新たに巣食った神竜に慣れるためであっても。
そして意識が途絶える。
目蓋をパチリと押し上げた瞬間、何か白っぽいものが、焦点が合わないほどに接近していた。
「……え?」
思わず漏らしたら。
その白っぽいものの接近が止まった。続けて、ヒッ、という息を飲む音。直後に白っぽいものはズザザザザッ、と急速に遠ざかる。
白っぽいもの――白い肌の、人の顔。
「……フレデリカ?」
仰向けになっていたところをムクリと起き上がって、ビュウは、よく働かない頭で何とか事態の把握に務める。
随分と離れた所まで下がってしまったフレデリカ。こちらから顔を背けて縮こまっている。髪の隙間から見える耳が真っ赤に染まっていた。
ビュウは木陰にいた。いつの間にこんな所に移動してきたのだろうか。鎧は外され、毛布に包まれ、何が何だか解らない。湖岸の方では演習が未だに続けられていて、センダックがオズオズとリヴァイアサンを召喚していた。
一方ビュウの周りには、フレデリカの他に、呆れ顔のディアナと唖然としたラッシュと――
「この――」
背後から響く、唸るようなソプラノボイス。
「何で貴方って人はそうタイミングが悪いのよぉっ!」
ゴキンッ!
脳天を襲った衝撃に、ビュウは一瞬ブラックアウトした視界に光がちらついたのを見た。
「どうして! どうしてもうちょっと長く気絶してなかったのよこの大馬鹿者! あとちょっとで、あとちょっとでいいもの見れたのにぃっ!」
「……ひ、姫様?」
「この間抜け! 朴念仁! 私の身を案じるんなら目の保養くらい普通にさせなさい!」
恐る恐る掛けられたラッシュの声にも応じず、耳元にキンキン声で喚く――ヨヨ。こちらの頭を杖で叩いたかと思ったら、いつの間にか横手に回ってきて、ビュウの胸倉を掴んで大きく振り始める。
「あああああああのののののちちちちょちょちょとととととと?」
あの、ちょっと? それだけの台詞が、首から上を目一杯揺さぶられているせいで無駄にブレている。
何が何だか。確か、ラッシュにフレイムパルスで溺れさせられて……――
引き上げられている。
それで一体何が起こった――?
「……えーっとさ、ビュウ」
オズオズと、タイミングを見計らってディアナが声を掛けてきた。
「何でヨヨ様がそこまでエキサイトしているのかは、まぁ置いとくとして……」
「置いとくのかよ」
ラッシュの突っ込みを無視し、ディアナは続ける。
「とりあえず、もうちょっと気絶しておこうよ。いくら落ちた衝撃でビックリして気絶した直後に凍らされたから水をろくに飲まずに済んだからってさぁ」
「…………?」
「せっかくあとちょっとでビュウとフレデリカのキスシ――じゃない、フレデリカに人工呼吸の実践をさせてあげられたのに」
人工呼吸?
フレデリカに?
間近に迫った白いもの。
あれはつまり……――――
思い出し、その瞬間真っ白になった頭の中を、ヨヨの罵声が通り過ぎていく。
「そうよこの馬鹿! 私がどれだけ貴方たちのキスシーンを見たかったか解る!? ここのところいい事がまるでないからそういう事で少しは気分を浮上させようと思ってたのに……――私の騎士として本当に忠誠を誓うなら、もう一回溺れてきなさい! そして今度こそフレデリカに人工呼吸という名目でキスしてもらいなさい! でないと貴方が立て替えてくれている反乱軍の諸経費、国債として認定してあげないんだからぁぁぁっ!」
ヨヨの無体な言葉は右耳から左耳へと抜けていき。
えぇっと。俺ってばすごく間の悪い男? 残念無念。ごめんなフレデリカ――とか何とか自分でもよく解らない事を、ビュウは散文的に考えていたのだった。
その後、反乱軍の金庫番たる戦竜隊隊長がもう一回溺れたかどうかについては、関係者は堅く口をつぐんでいる。
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