月にはね、竜が棲んでいるのよ。
私たちも、いつかは月に還っていくの。
そんな母の声が、脳裏に蘇った。
百年の満月
少年は、地に仰向けに倒れていた。
旅人であろうか。旅装とおぼしき身軽そうな服装と、防寒・雨避けのマント。
その二つの、右脇腹の辺りが黒ずんでいた。そして、そこを押さえる左手は――血まみれだった。
真夜中の冴え冴えとした空気を汚染する血臭。
荒涼としたこの大地に少年の他に倒れている、無数の男たち。
そのどれもが手に剣や槍を持ち、そしてピクリとも動かない。
男たちの血を吸った大地は、月明かりに照らされ、赤黒いしみを浮き上がらせる。
少年は、緩慢な動作で左手を脇腹からどかした。そのまま、自分の目の前へと持っていく。
(……死ぬな、これは)
そう結論する心は、ひどく冷静だった。この戦いに挑もうとした時よりも、尚。
何で、こんな事に――などとは、今更思わない。あの少女の護衛を引き受けた時から覚悟していた。そして、たまたま自分に死期が訪れた。
きっと、ただそれだけの事だ。
少年は、傭兵であった。
戦場を渡り歩き、あるいは個人に雇われ、剣を振るい戦う事で生活の糧を得ていた。
旅先で出会った少女に護衛を依頼された事自体、決して珍しい事ではない。
その少女が、王位継承権争いに巻き込まれて命を狙われた王宮から逃れた、この国の末姫だった、という事以外。
けれど、そんな事もどうでもいいのだ。
彼女が王女でも、依頼を受けた事で同じく刺客に狙われても、何もかもが関係ない。
彼女を守ると決めたのは、自分。
この命に代えても守り通すと決めたのは、他ならぬこの己。
だから後悔などしていない。例え、このまま死んでも。
(あぁ、でも――)
刺客が迫ってきた事を察し、自分が引き受けるから先に行け、と言った時の少女を思い出す。
必ず追いついてきてください、と言った少女の声を思い出す。
彼女は、泣くだろうか。
きっと泣くだろう。
(ごめん……――)
少年は、泣き伏す少女の面影に謝った。
彼女の涙が見たくないから守ってきたのに、結局はその自分が泣かせてしまう。
本末転倒もいいところだ。
(どうか、泣かないで)
手を宙に伸ばす。まっすぐに、中天の満月に向かって。そこに両手で顔を覆う少女がいる、とでも言うように。
もう間もなく、この生が終わる。
そして自分は月へと還る。この血に定められたそのままに。
それでも彼女を守り続ける。この想いのままに、幾歳月を経ようとも。
あの満月が、この空を翔る限り――――――
少女は、酸鼻極める戦いの跡に立ち尽くしていた。
自分が引き受けるから先に行け、と言ってこの場に残った少年。
彼女と大して年が違わないのに、彼女よりもずっと強い彼。
その少年の姿が、どこにもなかった。
(彼は――)
どこを見ても、倒れ伏すのは刺客たちばかり。
(彼は、どこ……?)
必ず追いついてきて、と言った。
彼はそれに頷いた。
なのに、彼だけがいない。
彼、だけが。
焦燥感に駆られて彼の名を叫びそうになったその時、少女は地面の上にそれを見つけた。
黒ずんだ血の跡に落ちている、キラリと光った何か。屈み込み、彼女はそれを手に取る。
半透明な乳白色のそれは、形から魚の鱗を思わせた。
けれど決定的に違うのはその大きさ。この掌に少し余るほどに大きく、その点で、それは決して魚の鱗ではない。
では、これは一体――
バサリ、という羽ばたきにも似た音が彼女の耳に飛び込んできた。
音の方向、ちょうど中天より少し傾きだした月へと目を転じる。
月へと向かって羽ばたく竜がいた。
けれど瞬きをしたら、もういない。
(あぁ、そうか――)
少女にはそれで分かった。
全て、解った。
彼は、月へと還ったのだ。
神代の時、人に焦がれて月より舞い降りた竜。
だからその血を引く末裔たちは、死して故郷たる月へと還る――
それがこの血に定められた使命だ、と少年は語った。
少女は、月の色を宿した鱗を胸に抱き締めた。
満月を見つめる目が潤み、一筋の涙が頬を伝う。
初めて恋した人を亡くしてしまったのだな、と。
そう思った途端、堰を切ったように彼女は嗚咽を漏らし始める。
満月は、そんな少女をただ優しく照らすだけだった。
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