こんな話がある。
――人生は、幸と不幸を交互に繰り返すもの。今は不幸に思えてもその後には必ず幸が待っていて、人生の総決算をした時、幸と不幸はプラスマイナスゼロになる。
だとすれば、今自分がいる位置は、間違いなく不幸のどん底だ。
「サラ、大丈夫か? どの辺りが痛む? ――そうか、この辺りか。腫れてるな……これじゃ、腫れが引くまで飛べそうにないな。自分で回復魔法は……使えない、か。考えてみれば、さっきまでの戦闘で俺たちの援護をずっとしててくれたんだもんな。サラ、ありがとう。しばらく休んでていいからな。後は俺に任せろ。お前がすぐに良くなるよう、何か薬草とか食べ物とかを探してくるから。まずは手っ取り早く――」
現在の不幸の元凶が、こちらに眼差しを寄越してくる。
その表情はあくまで心配そうで、その眼差しはあくまで穏やかで、しかしその奥に潜む光はギラギラと危険な色に輝いて――
そんな不穏な面差しで、ビュウは淡々と言った。
「あそこの足手まといから、喰うか?」
その言葉がどこまで本気か測りかねて、パルパレオスは無言のままダラダラと冷や汗を流した。
紅竜は再び羽ばたく
「――冗談だ。間に受けんな」
次の瞬間、その青の双眸からギラギラとした危険な輝きをフッと消して、ビュウはやる気のない表情を見せた。絶句していたパルパレオスは安堵の息を漏らし、
「あんたなんか喰わせたら、サラが食あたりを起こす」
「俺は痛んだ食べ物か!?」
間髪を入れずに突っ込むパルパレオス。
「いいや」
ビュウは気のない様子でかぶりを振る。
「むしろ腐った食べ物」
「俺を何だと思ってる!?」
「言葉の通り――あー、いちいち喚くな鬱陶しい。余りガタガタ言うなら、本当にサラに喰わせるぞ?」
ハエでも追い払うかのようにブンブンと手を振って、ビュウはすぐそこでうずくまっているサラマンダーに目をやる。
ビュウの青い瞳とサラマンダーの大きな眼が、一直線で結ばれる。
僅かな間。
「やっぱりサラ、お前なんか喰いたくもないって」
「ちょっと待て! 何でそこで意思疎通が完璧に取れている!?」
「あんたも大概騒がしいな。何だっていいだろそんな事。それよりもな」
パルパレオスは、うっ、と言葉を詰まらせる。
向けられる眼差しは、真冬の凍てついた湖面を思わせるほどに冷ややか。
「誰のせいでこんな事になったのか、グチャグチャ言う前にそっちの方を反省してもらいたいんだがな?」
そもそもの運の尽きは、偵察飛行の編成にあった。
グランベロスの先遣隊が本国からカーナ方面へと発った、という事前情報がビュウの元にもたらされたのが、ほんの昨日の事。情報が伝わるまでの誤差やグランベロス・カーナ間の所要飛行時間などを鑑みて、ビュウは先遣隊がカーナ領空の近くまでやってきている、と判断した。
ビュウは即座に偵察部隊を編成した。
――くじ引きで。
ビュウ曰く――「どっかの誰かさん(間違いなくグランベロス、ひいては現在否応なくそれを代表しているパルパレオス)のせいで慢性的な人材不足だからなー」。
二人一組(ツーマンセル)で、ビュウとパルパレオス、トゥルースとビッケバッケ、の二組。ラッシュは留守番。
偵察部隊がたった四人でどうにかなるのか。もっと人数を――
ビュウの答え――「どっかの誰かさんのせいで(以下略)」。
かくして、パルパレオスはビュウと共にサラマンダーの背に乗って飛び立った。これが今朝方の事。
そしてほんの数分ほど前。
「ビュウ、魔物だ!」
「っておい! いきなり抜剣するなバランスが――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
プラスアルファでサラマンダーの悲痛な鳴き声……。
「――まったく、魔物に遭遇したからってどうしていきなり剣抜くかね。偵察飛行中は戦竜も神経を尖らせているから、乗り手が動揺したりいきり立ったりしたら、驚いて乗り手を振り落としかねない、って見習いでも知ってるんだがなぁ」
半眼で駄目出しするビュウに、パルパレオスは反論できなかった。
確かに、言う事は解る。パルパレオスの不注意によってサラマンダーは動揺し、体勢を崩し、乗り手であった自分たちもろとも偶然真下にあった小ラグーンの木立に突っ込み、結果として翼を痛めた。それは解る。十二分に解る。解っているとも。ああそれはもう、嫌ってほどに。
だが――
「――……すまなかった」
けれど反論はせずに、パルパレオスは悄然と頭を下げた。言い訳は性に合わない。
ビュウは半眼でそんなパルパレオスを見ていたが、しばらくしてからボソリと一言、
「まあ、いいさ」
顔を上げるパルパレオス。
「あんたがこのままサラの滋養になってくれれば」
「またそれを蒸し返すか!?」
絶叫。木立に止まっていた鳥が、驚いてギャアギャア喚きながら飛び立っていく。ビュウはボンヤリとそれを見上げ、それから不意にその手を閃かせた。
バシンッ。
平手がパルパレオスの脳天を直撃。
結構痛い。
「って何をするいきなり!?」
「だからいちいち喚くな。叩かれたくらいでピーピー喚いてんじゃねぇぞ? 一体どこのガキだあんたは」
「お前な――」
「あんたが喚く、鳥が逃げる、異様にギャーギャー騒ぐ鳥にグランベロスの先遣隊が興味を持つ――帰結する結果がどうなるか、ここまで言わないと判らない馬鹿なら、俺はあんたを本気でサラの餌にするぞ」
吐き捨てられた言葉に、パルパレオスはグッと言葉を詰まらせた。
反論の言葉は、何も浮かばなかった。
それ以前に、ビュウの視線が、表情が、反論を封じていた。
押し黙るパルパレオスに、ビュウはようやく表情から剣呑さを消し、僅かに肩から力を抜いた。
「解ったか? なら、しばらくここに潜むぞ」
「……どれくらいだ?」
今度は落ち着いた声音で問う。ビュウは事もなげに答えた。
「サラが飛べるようになるまでか、俺たちが戻ってこないのを不審に思った誰かが迎えに来るまでか――それとも、グランベロスの先遣隊が俺たちを見つけるまでか、魔物に襲われるまでか……そのどれかだ」
つまり。
このギスギスした雰囲気が、時間無制限で続く、という事か。
パルパレオスは暗澹たる思いで吐息した。
しかし、彼が心配したほどにビュウは険悪な雰囲気を撒き散らすわけではなかった。
ビュウにとっては、パルパレオスなど本当にどうでも良いらしい。少ししてから、彼はサラマンダーに「少し待ってろよ」と声を掛け、その一方でパルパレオスには何も告げず、木立の奥へと分け入っていった。
それから更にしばらくしてから、手に何かの草を持って戻ってきた。無言のまま彼はサラマンダーの傍にしゃがみ込むと、その辺りに転がっていた適当な石を見繕って、その草をすり潰し始めた。パルパレオスはその姿を無言で眺めていた。何とも居心地の悪い沈黙。石と石とがぶつかり合うゴリゴリという音と潰された草の青臭さだけが、その場に満ちる。
パルパレオスは、我知らず、溜め息を吐いていた。
何でこんな事に。そんな思いが胸中を占めつつある。
現状に不満があるわけではない。
サウザーよりヨヨを選んだのも、地位も資産も同胞も信頼も、これまで獲得してきた全てを捨ててカーナに亡命したのも、針のむしろに座る覚悟でカーナ宮廷、反乱軍に身を置く事にしたのも、全てはパルパレオス自身が考えて決断した事だ。その全てにおいて、何か不満があるわけでも、もちろん後悔しているわけでもない。
居心地など悪くて当然。
軋轢などあって当然。
――の、はずなのだけれど。
ビュウに対してだけは、どうしても「どうしてこんな事に」という思いを抱いてしまう。
パルパレオスは、自分が何をしたのか理解している。自分たちが、自分が、カーナという国に、マテライトたちに、ビュウに、どんな事をしたのか。してしまったのか。
それを理解して、責められ、罵られる覚悟で、カーナに来た。
邪険に扱われて当然と思っている。仲良く出来るはずなどないと解っている。むしろ、その場で斬り捨てられなかっただけ幸運だった、とさえ考えている。
――それだというのに、どうしてビュウに邪険に扱われる度に、それを疑問に思ってしまうのだろう?
別にパルパレオス自身は、――対等に付き合う事が出来れば、それに越した事はない、という思いはあるにはあるが――彼と馴れ合いたいと思っているわけではないのに。
そんな思索が、唇を動かした。
「戦竜に対しては、随分と甲斐甲斐しいんだな」
「当然だろ」
返ってくるとは思っても見なかった応答に、パルパレオスは目を丸くした。
「戦竜隊隊長が戦竜の面倒を見る。当たり前だろう。何をそんな不思議に思う事がある?」
「いや……そうだな」
パルパレオスは頷いた。自分の手駒を手塩に掛けて育てる、その気持ちは、グランベロスの親衛隊を任されていたパルパレオスにはよく解る。
「でも……違うな」
しかし、ビュウ自身がそれを否定する。ゴリゴリと、石で草――薬草をすり潰しながら。
「それだけじゃない」
青臭さがだんだんと濃くなってくる。
「ドラゴンは、特別だ」
音が、不意に止まる。
「こいつらは、俺を空に連れてってくれる」
サラマンダーが、キュウ? と首を傾げる。
「こいつらは、俺を……俺みたいな奴を、信頼してくれる」
心配そうに寄せられたサラマンダーの顔に、ビュウはコツンと額を当てる。
「こいつらは、汚い俺を綺麗にしてくれる。錯覚かもしれないけど……こいつらと一緒にいる時だけは、俺は、自分の汚さを忘れられる」
その声に、剣呑さはなく、鋭さもなく、力強ささえなく。
弱々しい、二十歳を僅かに過ぎたばかりの青年の独白。
「だから……こいつらは、特別なんだ」
不意に疑問が胸をかすめた。
ビュウはその心に、どんな闇を抱えているのか。
己を「汚い」と卑下し、蔑む彼の闇は、どれほど深いのか。
そんな闇は、もちろんパルパレオスも持っている。だがビュウのそれは、もしかしたらパルパレオスのそれとは比較にならないほどに深く暗く底知れないものなのではないか。パルパレオスの方が、年長で、戦場に経った年数もずっと上だというのに。
重々しい独白に、パルパレオスは不意にそんな疑問を感じた。
戦慄と共に。
そんな風に愕然としていたパルパレオスを、不意にビュウは振り返って見つめてきた。
かち合う視線。我に返り、パルパレオスは身を竦ませる。
「な……何だ?」
「脱げ」
意識が一瞬遠退いた。
けれど気合いで意識を「こっち」に留める。「あっち」に行っては駄目だ。行ったら、その間にビュウに何をされるか判ったものではない。というか、「あっち」に行ったら何をされても無抵抗になってしまう。それはマズい。非常にマズい。
遠退いた意識を覚醒させようと、パルパレオスはブンブンと何度もかぶりを振った。振りすぎて少しクラクラするが、そんな事はどうでもいい。ビュウを睨み据える。
「お、おま、お前……お前、自分が何を言っているのか解っているのか!?」
「当然だ。じゃなきゃ、こんな事口に出来るか」
再び意識が遠退く。
(正気かー!?)
そんな自分の心の声さえ遠い。
そしてハッと我に返ってみれば、ビュウがすぐ傍にいた。
マントに手を掛けていた。
「って何をしている何を!?」
「いいからさっさと脱げ、マント」
「断る! そもそも脱がなければいけない意味が解らん! 何をさせるつもりだ!?」
するとビュウは、「そんな事も解らないのか」とでも言わんばかりの呆れた視線を向けてきた。
「そりゃもちろん」
パルパレオスが脱ぐ→マントでサラマンダーの傷の手当て(さっきの草は薬草で、即席の湿布を作りたいらしい)→ついでにパルパレオスの武具をサラマンダーの餌に→ついでにパルパレオスには全裸になってもらったり→ついでに奇声を発して木立中を駆け回ってもらったり→グランベロスの先遣隊がそれに気付いて驚いたりショックを受けたり追いかけたりしてくれたらありがたいなあ→その間に俺とサラは円満に脱出。めでたしめでたし→……パルパレオス? 知らねぇよ。
「お前は外道かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「だからいちいち喚くなよ。ってか胸倉掴むな苦しい」
「大体傷の手当てでマントを使うなら、まずは自分のマントを使えばいいだろう! 何故そこで俺のマントを使う!?」
「サラが怪我したのはあんたの責任だろ。だったら、あんたがマントを供出するのが筋ってもんだろう。大体、俺のマントがなくなって、そのまま空でも飛んでみろ。風邪引いてサラがそれを気に病むだろう」
「自分中心か! 俺はどうなる!?」
「さあ」
「さあ、じゃないだろう!」
「いや、まあ正直、あんたいなくても俺は大して困らないし」
「やっぱり自分中心か!」
「それは違うぞ、パルパレオス」
ひどく静かな声に。
パルパレオスは胸倉を掴んだまま、言葉をつぐんでビュウを見た。
そんなパルパレオスの手を胸倉から外し、ビュウは、ひどく冷静で、そのくせ真摯な眼差しを彼に向ける。
そして、その唇がゆっくりと動いた。
「世界はな、俺とサラとアイスとホークとモルテンとツインとムニムニとパピーと、その他全てのドラゴン(神竜は除く)を中心に回ってるんだ」
マジか。
「……他は?」
「要らん」
あっさりと。
本当に、あっさりと。
「あ、でも違うな。全部はな……――そうだな、せめて俺の家族と、ヨヨと……後は――ああ、いや、そこでどうして彼女の顔が出てくる俺? それはちょっと何かまずくないか? 何がまずいって、何ていうかこう、肖像権的に。肖像権侵害は怖いんだぞ。何せ賠償金を取られるからな。うん、それはマズい」
何を言ってるんだこいつは。
肖像権って何だ。賠償金って何だ。彼女って誰だ、彼女って。しかも何でそんな嬉しそうに照れ臭そうにペラペラ喋ってるんだ。
ああ、もう。何て理不尽な。
……何でこんな事に。
「ってわけだから、パルパレオス、とりあえず脱いで俺たちのために散れ。ヨヨには俺が上手く言っておくから」
「知るかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
木立に、パルパレオスの絶叫が響き渡り――
かくして、紅竜は再び羽ばたく。
そこには、様々な努力と犠牲があった。
けれどその時何があったのかは、当事者たちのみぞ知る。
|