神界は、今日も今日とて平和――
「ちょっとちょっと聞いてよ! ハニーってば酷いのよ! もう別居だわぁぁぁっ!」
――のはずだったのに、闖入者の絶叫で全てが台なしとなった。
これも幸せ
またか。
黄天化はうんざりとそう思った。昼寝しようと岩の上で寝転がっていたのを起き上がり、胡坐を掻いて、やってきた娘を出迎える。
「……一体今度は何さ、蝉玉?」
「聞いてよ聞いてよっ! もう酷いのよ! ハニーってば、ハニーってば……あたしという者がありながらぁっ!」
相当ご立腹の様子だ。青筋を立てて喚くケ蝉玉の怒り顔は、天化自身の顔よりも少し下にある。胡坐を掻いているとはいえ、こちらはそれなりに大きい岩の上にいる。立ったままの蝉玉との高低差はせいぜいそんなもの。
彼女の顔を見下ろし、あー、とか何とか呻きながら、天化は黒髪をガシガシと掻き毟った。
「……んで、モグラがどうしたさ?」
「モグラ、じゃないわ! ハニーよっ!」
「……ハニーが、どうしたさ?」
何が悲しくてあのモグラ――土行孫という本名で呼ぶつもりはないらしい――をハニー呼ばわりしなければいけないのか。しかも男の自分が。それはさておき。
「そうなのよっ! ハニーってば、ハニーってば……――」
そして蝉玉は。
高々と二つに編み上げた赤毛を危なっかしく揺らして――天化は思わず身を退かせた。顔に刺さるかと思った――、ワッと顔を覆う。
「また浮気したのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
またか。
天化は、しみじみとうんざりした。
ケ蝉玉、曰く――
張奎の妻、高蘭英。
またちょっかいを出した。
「ハニーってば酷いでしょっ!? 蘭英が綺麗なのは認めるけど、ピチピチ度ではあたしの方がずっと上よ!? だってあたしの方が若いもの!」
「……そんな事言ってると、蘭英さんに刺されるさ、蝉玉」
「何よ、事実じゃない! それなのに……それなのにハニーってば!」
蝉玉の声は甲高い。ただでさえ耳に来るそれでキャンキャン喚かれた日には、鼓膜が無駄に痛んでしまう(『神』となった身で鼓膜も何もないだろうが)。身をよじって彼女の声から逃れつつついでにコッソリ耳を塞ぎながら、天化はげんなりと思い出す。
この間は、竜吉公主の浄室に忍び込んだと言って喚いていた。
その前は、碧雲に色目を使ったと言って喚いていた。
更にその前は、ビーナスの生足に触ったとか言って喚いていた。
……思わず土行孫に同情したのは、さておき。
「大体蘭英だって張奎っていう旦那様がいるのに! ハニーってば不倫ね!? 不倫なのね!? じゃあもうハニーを殺してあたしも死ぬしか――」
「死んだところで神界(こっち)に来るだけで状況は大して変わりゃしないさ。だから少し落ち着くさ、蝉玉」
「うるさいわね! あんたに何が分かるってのよ!」
「だったら何で来るさ、あんたも!」
怒鳴って食って掛かる蝉玉に、こちらも負けじと怒鳴り返す。すると彼女は、天化を更に上回る声量で怒鳴り声を返した。
「こんな話できるの他にいないからじゃない!」
……嬉しいやら。
哀しいやら。
「――だったら」
天化は、不機嫌に言う。
「少しは俺っちの話を聞くさ」
「……何よ」
やはり不機嫌に、蝉玉。むくれた顔は幼いが、これで実は天化よりも歳上というのだから、仙道を見た目で判断してはいけない。
ともあれ、相手が少し落ち着いたところを畳み掛けなければ。天化は、まず最初に尋ねた。
「大体、蘭英さんはモグラの相手をしたさ?」
「……太陽針、刺されてたわ」
初めてあの夫婦と戦った時も、確か土行孫は蘭英の太陽針の餌食となっていた。懲りない奴め。
「なら、モグラが一方的にちょっかい出しただけさ。五光石でもぶつけてやりゃ、正気に戻るさ」
「それじゃハニーが濃ゆい顔になっちゃうじゃない! そうしたら、あたしの好きなあのラインが……あのラインがっ!」
「モグラの価値はそこだけさ?」
「違うわよ! あたしの事を身を呈して守ってくれたり、凄く優しいわ!」
それは女全般に言えるのでは――という喉元まで出かかった言葉は、飲み下して。
「なら、濃ゆい顔になっても平気さ。モグラはモグラさ、蝉玉」
「む……そう、だけど……」
「とにかく、言いたい事は俺っちじゃなくてモグラに言うさ。じゃないとモグラにゃ届かねぇさ」
「――……そうね! そうするわ!」
泣いたカラスが何とやら。感心するほどの身代わりの速さでパッと笑顔を見せると、蝉玉は踵を返した。
「そうと決まればグズグズしてられないわ! ハニーを見つけてお仕置きしないと!」
「あー、まぁ、せいぜい頑張るさ」
「ありがと、天化!」
と。
彼女は、肩越しに振り返って。
それはそれは、鮮やかな笑顔を見せたのだ。
まるで、蕾がたった今、目の前でパッと開き、その美しい花弁を惜しげもなく見せ付けるような。
「やっぱりこういう話は、あんたにするのが一番ね! 楊ゼンとか燃燈とかじゃこうは行かないもの!」
コツコツコツ、と蝉玉の足音は颯爽と遠ざかっていき――
それが完全に消えたのを見計らって、天化は、肩を落とした。
「何て女さ……」
とこぼした口調には、苦い笑いと――どうしようもないほどの絶望が混じっている。
彼女は一体、どこまで自覚しているのだろうか? ああいう態度が男にどういう気持ちを抱かせるのか、とか……天化自身が、どんな思いを抱いているのか、とか。
天化と蝉玉の関係というのは、別にそう大したものではない。明確な関わり合いというのは、せいぜいが趙公明との戦いに臨んだ時に太公望と三人で渭水に浮かぶクィーン・ジョーカーU世号に乗り込んだ、とそれくらいで、後は他の崑崙の道士たちと同様、適度な距離感を保った戦友、程度のものだった。
天化自身、いつから蝉玉にそういうほのかなものを感じ出したのか、覚えていない。気付けばそうなっていた。そして、何より皮肉なのが――
気付いたのは、封神されてからだった。
だからこんな時に、思い知らされる。
封神された事に、文句はない。一人で突っ走って太公望に散々迷惑を掛けた挙げ句、どこにでもいる一兵士の手に掛かってその命を終えた。遺してしまった弟にはすまなく思ったが、それでもこれは自業自得だ、とわきまえて、これといって未練を感じてはいなかった。
そのはずだった。
遠くで、蝉玉の赤い髪が揺れている。
そしてそれも溶けるように消えて、一瞬後にはもうどこにも見えない。
いつでも唐突にやってきて唐突に帰っていく彼女。次にいつ会えるか、なんて神界住まいの天化に判るはずもなく――
俺っち、何で封神されちまったさ。
師叔の言う事聞いて戦いに出ないでおとなしくしてりゃ、もしかしたら今もまで封神されないで……神界ではなく、蓬莱にいて。
土行孫と、蝉玉を張り合えたかもしれないのに。
「どうした、天化?」
気付けば伏せていた顔をパッと上げる。岩の側に、父である黄飛虎が立っていた。
いつの間に。と同時に、父の接近に気付かないほど鬱々と考え込んでいた自分に、思わず笑みが出る。
暗く考え込んだ顔から、薄い笑みへ。その表情の変化に、飛虎はん? と首を傾げる。その父に、天化は尋ねた。
「親父は……今、幸せさ?」
唐突な彼の問いに、
「はぁ? 何だ急に?」
「良いから答えるさ」
「それが父親に対する言葉か。――……まぁ、幸せかどうかぁ知らねぇが」
戸惑いながらも、飛虎は答える。
「こっちに来て、聞中や……――賈氏に、また会えたからなぁ。向こうに未練がないわけじゃあねぇが……」
父は、笑った。
「そうだな。まぁ、これはこれで幸せだな」
天化も、笑った。
自分は既に封神されていて。
最早普通に彼女の隣に立てるはずもなくて。
けれどそれでも、彼女は自分の事を忘れてくれなくて――
今日も、笑っている。
「お前はどうだ、天化?」
「そうさなぁ……」
くわえていた煙草を口から離し、煙を吐く。
「俺っちも、これはこれで幸せさ」
彼女が幸せなら。
多分自分も、幸せだ。
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