それは。
 焔の大佐とその五人の部下が、中央(セントラル)に異動する前の事。
 東方司令部は適度に静かで、適度に平和で、そして適度に忙しく適度に物騒だった、そんな、どうという事のないありふれた日常の一コマ。

 ――の、はずだった。

 その日。
 ジャン・ハボック少尉はあり得ないものを見た。

「中尉、『青の団』の関連資料を」
「はい。――こちらがメンバーリスト、こちらが『青の団』が関わったとされるテロ行為に関する調査資料です」
「では、報告書に添えて中央に送ってやれ。――次は」
「こちらの処理を」
「これは……ショウ・タッカー事件の報告書か。随分掛かったな」
「タッカー自身の死亡によって、捜査が滞った点もありましたので」
「そうだったな。――これは?」
「タッカー邸の捜査に当たった憲兵隊から上がってきた嘆願書です」
「ほぉ。――何? 肉が食えなくなったのを労災として認めろ? 憲兵隊に送り返してやれ」
「了解しました」

 それは。
 まだ午後の一時だというのにデスクワークに勤しむ彼の上司たる焔の無能大佐ロイ・マスタングの姿。

 驚愕の余りあんぐりと口を開けてしまったハボックは、火のついた煙草がポトリと落ちて執務室の絨毯を焦がした事に気付かなかった。









無能大佐の有能な午後











 何か、悪い夢を見ているのではないだろうか。
 ハボックは、頬をつねってみる。
 痛い。
 普通に痛い。
 誤魔化しようもなく痛い。
 どうしようもなく痛い。
 久しぶりに着いた自分のデスクで、ハボックはしみじみと頬をつねる。ただつねる。ひたすらつねる。とにかくつねる。
 そんな彼に、背後から声が掛かった。
「よぅ、ハボック。瓦礫との格闘はどうした――って、何やってんだ?」
 声の主は見なくても判った。振り返りもせずに、そして頬から指を離さないまま、ハボックは無感動にその名を呼んだ。
「ブレダさんよぉ……」
 同僚のハイマンス・ブレダ少尉のんん? という唸り声ともつかない先を促す声が、右耳から左耳に通り抜けていく。
「俺がいない間に、大佐、何か悪いモンでも食ったのか?」
「大佐の食生活まで俺が知るか」
「じゃあ、何かおかしな病気になったとか」
「大佐の健康状態まで俺が知るか」
「じゃあ」
 と。
 ハボックは、そこで初めて後ろに立つブレダに振り返った。
 丸い顔に埋もれた目。それをこちらから逸らしているブレダの表情は、途方に暮れたような脱力した無表情だった。
 きっとそれはこちらも同じ事だろう。ハボックはそう思いつつも、不毛な問いを投げ掛けずにはいられなかった。
「何であの人、こんな真っ昼間からまともにデスクワークなんぞやってられるんだ?」
「知るか」
「あり得ねぇだろ、いくら何でもあれは」
「だから、知るか」
「何かおかしなモン食ったに違いねぇ。さもなきゃ病気だ」
「だから、知るか、っつってるだろ」

 二人の、というか東方司令部の共通見解。
 ロイ・マスタング大佐は仕事嫌い。特にデスクワーク。
 そんな大佐がまだ日も高い内から真面目くさった顔で執務卓にジッとして様々な書類と格闘中、となれば……――

「ハボック少尉」
 大佐がおかしくなるような食べ物は何だろう――と頬をつねったまま頭を巡らせるハボックの耳に、凛とした声が届く。
 発生源はオフィスの入り口。そこにあるのはスラリとした立ち姿。普通の女性よりも長身の彼女は、きびきびとした動作でハボックの元へと歩み寄る。
 彼は、その名を呼んだ。
「ホークアイ中尉」
「下水道の崩落事故の調査報告書は?」
 彼女は単刀直入に問うてくる。リザ・ホークアイ中尉。東方司令部で一、二を争う狙撃手の狙いは正確だ。ハボックは言葉を失くす。
 書けているはずもない――瓦礫の撤去作業もろくに進んでいないのに調査なんて、というのもあるが、一番の原因は……言わぬが花。彼はえーと、と弁明の言葉を探し、リザの冷ややかさすら感じさせる視線に気付く。
 言い訳は、しない方が良い。ふとブレダと視線が合う。彼もそうだと頷いている。ハボックは諦めた。
「……今から、書きます」
「じゃあ、急いで。スカーの一件もあって、中央から催促が来ているから」
「了解」
 おざなりに敬礼すると、リザはそれに眉をしかめる事も、ましてやクスリと苦笑を見せる事もなく、表情を微動だにしないまま踵を返す。青い軍服の裾が翻り、
「――中尉!」
 思わず。
 ハボックは呼び止めていた。
 ピタリと足を止めるリザ。肩越しに振り向く。向けられた眼差しに込められた感情を読むのは、付き合いがそれなりに長くなった今でも難しい。
「どうしたの、少尉?」
「あ、えーと……」
 後頭部をガリガリと掻きながら、ハボックは言葉を濁す。そして、
「大佐……今日は、どうしたんです?」
「どうした、とは?」
 リザは表情を決して動かさずに問い返す。おかげで、こちらがうろたえる事となる。彼はブレダと顔を見合わせ、しかしそれで続く言葉が見つかるはずもなく、
「……いえ、やっぱり、何でも」
「そう。では、報告書をよろしく」
 あくまでも事務的な言葉を残して、彼女は颯爽と去っていく。
 その背中を見送るハボックの肩に、ポン、とブレダの手が乗せられた。彼は同僚を見る。
「頑張れよ、ハボ」
「……手伝ってくんねぇか?」
「俺も報告書を催促されてるんでな。てめぇのくらいてめぇでやれ」
 そうしてブレダも自分のデスクへと向かい、ハボックもまた、ガックリと肩を落として報告書の作成に乗り出したのだった。



 ロイの異常はその後も続いた。
 どうにかこうにかでっち上げた報告書を持っていけば、ロイの机にはとんでもない量の処理済み書類が山を――いや、山脈を形成していた。一体この東方司令部のどこにこんなに紙があったのか、と思うくらいのその山々の中で、彼は目に見えないほどの速度でペンを振るって書類に署名していた。
 その後始まった会議では、退屈極まりない報告から決して意識を逸らす事なく細大漏らさず文字通り一字一句聞き取り、報告者に適切な質問をいくつもバシバシと浴びせていた。加えていくつかの案件には適切な解決策さえ提示してみせた。暇な会議ではいつも話を適当に聞き流し、挙句の果てに資料に下手な落書きさえしていたあのロイが、である。
 その後、更にいくつかの案件を完全無欠に片付け続け――


「んで、ハボック?」
「ん?」
「お前、下水道の方に戻らなくて良いのか?」
 ハボックは書きかけの書類から顔を上げる。振り返る。書類らしいクリップ止めの紙の束を持ったブレダが、うんざりした顔の中に気遣わしげな色を潜ませ、こちらを見下ろしていた。彼は、顎をしゃくって壁の時計を示すと、
「もう定時だぞ」
「……マジで?」
 言われて見やる。時計の針は、確かに定時であるところの五時を差していた。半ば驚き、半ば呆れてハボックは呻く。
「っちゃぁ〜……もうこんな時間かよ。もっと早くに向こうに戻るつもりだったんだけどなぁ」
 ここのところ下水道の崩落事故現場に直行直帰しているハボックである。それだけ急ぐ任務だし、本音を言えば、中央に見栄を張るためだけの報告書のために時間を割きたくもなかったのだ。
 それが、いつの間にかこんな時間に。しまったなぁ、とガリガリと後ろ頭を掻く。その様子にブレダは、
「今日はどこの部署もこんな感じらしいぞ」
「そうなのか?」
「あぁ。さっきフュリーから聞いたんだが、経理でも大佐から中間決算の報告書を催促されたらしい」
「中間決算?」
 それはこの時期には聞かない単語である。眉根を寄せるハボック。
「まだ早いんじゃねぇの?」
「だよなぁ。けど、大佐が『早いに越した事はない』っつったらしくて」
「ほぉー」
 と、口では納得してみせたものの。
 もちろんハボックは、納得なんてしていない。

 そもそもがおかしな話である。
 ロイのデスクワーク嫌いは筋金入りである。あの中尉ですら、矯正できないほどに。
 その大佐が何故今日に限ってここまでデスクワークに勤しむか。

 あの大佐の身に、一体どんな変事が起こったのか。

「……何にせよ、迷惑な話だな」
「そうだな」
 すっかり事務仕事漬けになってしまって、肩と首がこりだしている。それをほぐそうとしてハボックは上体を軽く起こし、首をグルリと回転させて。
 その時、オフィスの入り口に佇む一つの人影を、視界の片隅に捉えた。
「あれ、中尉?」
「ハボック少尉、ブレダ少尉」
 こちらを振り向くリザの表情も声も、昼に報告書を催促した時とは打って変わって柔らかだった。薄く笑みさえ浮かべている。
 そしてその手にタイムカードがあるのに気付き、ハボックは尋ねた。
「もう退勤なんすか?」
「えぇ。今日は定時までだから。久しぶりに残業なしで帰れるわ」
 その言葉で、ハボックはリザの上機嫌の理由を悟る。
 ロイのデスクワーク嫌いのせいで、ほとんど彼の秘書と化しているリザの負担は計り知れない。彼女はいつも上官に付き合って残業漬けだった。それが今日は率先して溜まった仕事を片付けてくれたから、リザは久しぶりに定時に帰れ――それだけ早く、愛犬ブラックハヤテ(いつも思うのだが、彼女のネーミングセンスは如何なものなのだろう)の元に帰れる、というわけだ。
「お疲れ様です、中尉」
「二人もお疲れ様。特にハボック少尉」
「あー、いえ、別にいいっすよたまには」
 と笑って言うと、リザはそう、と頷いて、
「では、私はこれで」
 タイムカードを押し、オフィスを出ていく彼女。ハボックとブレダはそれを見送り、それから何となしに顔を見合わせた。
「……まぁ、たまにはいいか」
「だな」
 笑い合う。
 二人とも、リザとはそれなりに長い付き合いだ。常に冷静沈着で任務最優先の彼女は、勤務中には滅多に笑わない。それこそ、どこをほっつき歩いているのか分からない鋼の兄弟でもやってこない限り。その彼女が見せた希少価値の高い笑顔に、この報告書との格闘も報われる、というものだ。
「さて、とっとと片付けちまいますかね」
「じゃ、俺は大佐にこいつを――」
 机に向かおうとしたハボックの動きと、ロイの元に向かおうとしたブレダの動きは。

「リザぁっ!」

 つい先程出ていった彼女のファーストネームを絶叫するロイの登場によって、遮られた。

 ロイはオフィスの入り口に手を掛けたまま中をキョロキョロと何度も何度もしつこいくらいに見回すと、唖然として見つめるこちらの視線に気付いて、
「ハボック、ブレダ! リザ――じゃない、ホークアイ中尉は!?」
「……いや、もう帰ったっすよ」
 ハボックの答えを聞いた瞬間。
 ロイの表情が劇的に変わった。
 ただでさえ長時間のデスクワークで疲れを宿した彼の顔。それを押し隠さんばかりの興奮が、一気に消えた。代わりに顔に上るのは、虚脱感と茫然自失の態。
 そして彼はガクッ、と床にくずおれた。膝を突き手を突き、あああああ、という抑揚のない嘆きの声を上げて顔を伏せて床に額をつけていく。
 そんな姿を見せられては仕事なんて出来るはずもない。ハボックとブレダはロイのすぐ傍に歩み寄ると、しゃがみ込んで、
「大佐、大佐ー?」
「一体何があった、ってんです?」
 問い掛けに、グスッ、という音が返る。鼻をすすり上げる音。うわ、泣いてるよこの人、とげんなりする。どちらにせよ尋常ではない。
「実はな……」
 そしてロイは語る。
 東方司令部異例のデスクワーク・ラッシュの、そして無能大佐の有能な午後の真相を。


 本日、午前十時過ぎの事。
 ロイ・マスタングにはふと思い付いた事があった。それは、子供の悪戯みたいなものだった。
「リザ」
「…………」
「リザ」
「…………」
「リザ」
「……大佐」
「ロイ、だよ、リザ」
「勤務中の悪ふざけはやめてください、大佐」
「悪ふざけではない、リザ」
「…………」
「私の想いは知っているだろう。もういい加減、ロイ、と呼んでくれてもいいのではないかね?」
「――……分かりました」
「では――」

 そして。
 彼女は、こう言い放った。

「今日中に、現在貴方が溜めている仕事の全てを片付けてくだされば、その件について考慮させていただきます」


 語り終えたロイは、床に突っ伏したままシクシクメソメソと泣いている。
 聞き終えたハボックとブレダは、げんなりとした表情を隠せないでいる。
 二人にはもう、事の真相が解っていた。

 つまり、そういう事だったのだ。
 大佐の元に提出された、あの山のような報告書。
 この時期には不自然な中間決算報告。
 我らが大佐はデスクワークが大嫌いでしかもむらっけがある。その彼の口説き文句を、リザは逆手に取った。これを期に、溜まった仕事といずれ溜まる仕事の全てを片付けるために。
 そしてリザは帰宅した。定時を盾にして。それは彼女の勝ち逃げと言えた。まさしく勝ち逃げだった。リザの作戦勝ちである。
 ロイの、完膚なきまでの敗北――

「いや、まだだ!」
「「うぉっ!?」」
 かと思いきや、ロイは泣くのをやめてガバリッ、と起き上がった。驚愕の声と共に一歩退く二人を尻目に、彼はすっくと立ち上がる。
「彼女が退勤したのはつい先程だな!? では、まだそう遠くには行っていないはずだ! 今ならまだ追いつく!」
 以前スカーと相対した時以上の真剣さ。
 それだけの熱意と共に叫ぶと、ロイは唖然とするハボックとブレダ、そして他の連中の注視を振り切って、駆け出した。待っていろリザぁぁぁぁぁぁぁっ、とか何とか叫んでいるのが響いてくる。
 二人は声もなくそれを見守り、それからふとブレダは呟いた。
「……大佐、今日、夜勤だよな」
 ちょうどその直後だった。

 銃声が、二発。
 続くは情けない男の悲鳴と哀願。

「……なぁ、ブレダ」
「何だ、ハボック」
「俺ら、何であの人の部下やってるんだろうな」
「そこに疑問を持ったら、この仕事もうやってられねぇぞ」
 違いない、と頷いて、二人ははぁぁ、と盛大に溜め息を吐いた。


 かくして異例のデスクワーク・ラッシュに見舞われた東方司令部の一日は、こうして幕を下ろす。
 ――ちなみに無能大佐がその日結局副官とファーストネームで呼び合ったかどうか、など、誰の知るところでもなければ誰の興味が向けられるところでもない。

 

 


 以上、サヅキサカナ様からのリクエスト「ロイアイでラブコメ」でした。
 どの辺りがロイアイでどの辺りがラブコメだよ、とか。
 って言うかロイアイよりハボとブレの方が出張ってんじゃねぇかよ、とか。

 そ、そんな突っ込みはリクエスト権者様から意外は決して受け付けませんよ私は!(挙動不審)

 ロイアイよりもハボとブレの書き分けの方が苦労した、というのはここだけの話。


 サヅキサカナ様。
 リクエストをくださり、ありがとうございました!
 お気に召すような仕上がりになったかどうかは定かではない上に原作ベースの挙句ロイアイなんて微々たるものでしたが、どうぞお納めくださいませ!

 

 

 

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