その日、ビュウは妙に早く目覚めた。
「…………?」
 ベッドから起き上がり、まだ眠気の残る目頭に手を当て、揉みほぐす。しかし心は、目覚める直前から感じる違和感に向けられっぱなしだった。
(何だ……?)
 例えばそれは、戦闘が始まる前の空気によく似ていた。パッと見はどこもおかしくなく、むしろ平穏。しかしその平穏さは、俗に言うところの「嵐の前の静けさ」。チリチリとした緊張をはらんだ空気はそこにいる者の精神を知らず内に昂ぶらせ、それが最高潮に達した時、戦闘は始まる。
(――敵襲か?)
 だとすれば、まずは艦橋に行くべきだろう。そう決めた瞬間、彼ははっきりと覚醒した。ベッドから音もなく抜け出すと、寝巻き代わりのシャツの上に戦闘服の上着を羽織る。それからいつもの青のバンダナを額に巻き、軍靴の紐を引き絞って――

 ――ゴトッ。

 物音がした。
 ビュウは、目線だけを部屋の入り口に向ける。狭くて古びた士官室、その入り口の扉は黒ずんだ木のそれ。油を何度差してもちょうつがいがギシギシと軋むその扉の向こうで、物音は、した。
 無意識の内に息を殺す。靴底を床に滑らせるようにして足音を消し、扉へとサッと歩み寄る。ちょうつがいの側に立ち、手を伸ばしてノブを捻り、扉を手前に引く。身を乗り出して、開けた隙間から部屋の外を窺った。
 ファーレンハイトの、所々ひび割れたタイルの床。
 その上に、そして何より、ビュウの部屋の扉のすぐ前に。

 どぎついピンクのリボンを全身に巻かれ。
 何故か頭の上でそれをちょうちょ結びにされた。

 センダックが。

 こちらを、見た。

「あ、ビュウ……」

 彼は。
 頬を赤らめ。
 はにかんだように目を伏せ。
 軽く身をよじってから、オズオズと、口を開き。

「や……優しく、してね?」

 次の瞬間。
 ビュウは全身から冷や汗を噴出させると、ほとんど脊椎反射で部屋の扉を勢いよく閉めたのだった。










君に捧ぐ











 心当たりは、一人しかいなかった。
「お前の仕業かヨヨぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 ビュウは怒声と共に、ファーレンハイト二階の一番奥にあるヨヨの部屋へと踏み込んだ。
 バタンッ、と扉が部屋の内壁に当たる。その音に、ベッドの側にいたディアナがビクリと身を竦ませた。が、僅か一瞬後にはその目に好奇心の光が宿り、何かを期待するような眼差しへと変化してベッドの上に向けられた。
 そこには、泰然とした様子のヨヨ。クッションを背に当てて上体を楽に起こした彼女は、にこやかに、殊更にニッコリと笑って、
「喜んでくれたようで何よりだわ」
「誰がだ! って言うか朝っぱらから心臓に悪いもんを部屋の前に置くな! 新手のグランベロスの作戦かと思って正直命の危険を覚えたぞ!」
「まぁ、そうなの?」
 こちらの怒鳴り声もどこ吹く風。ヨヨは嬉しそうにパン、と手を合わせた。
「そんなに喜んでくれたなんて……私も贈った甲斐があったというものだわ」
「だから誰が喜んでる誰が!」
「あのー」
 と。
 恐る恐るといった態で、ディアナがヨヨに問い掛けた。
「贈った、って何の事なんです?」
「あら、知らないの?」
 上機嫌で応じるヨヨ。
「今日、ビュウの誕生日よ」
「そうなんですか!?」
 ディアナの驚愕の声。それに対しそうなの、と頷いたヨヨは、それからいつの間にか上気した両頬に手を当て、恥じらうように軽く顔を伏せ、
「だから私、ピンクのリボンをつけたセンダックをビュウの部屋の前に置いておいたの。きゃっ」
 わざとらしいぶりっ子ぶりのヨヨにげんなりと顔をしかめるビュウだが、その傍に立つディアナの表情の変化は、劇的だった。
 目を丸くし大きく口を開けた顔が、一瞬で凍りついた。かと思いきや、その硬直は徐々に解かれ、目蓋は半分閉じ、口は開いたままへの字に曲がる。眉毛はしばらくその位置に迷ったようだが、最終的に眉尻が下がって落ち着いた。
 喜ぶべきか悲しむべきか怒るべきか、どちらかと言えば怒り出してしまいたいけれどどう怒って良いものやらいまいち掴めない、そんなあらゆる判断に困った引きつり顔。ビュウはその表情を見た事があった。いや、より正確には、した事があった。
 あれは十一歳の誕生日だった。ヨヨから一つの箱が送られた。中は高級お菓子が入っている、という事実を告げる趣旨のメッセージカードに、ビュウは内心ウキウキしながら包装を解いて箱を開けた。へぇ、あいつ気が利くじゃん、とか何とか思いながら。

 そして入っていたのはうにうじだった。

 きっかり十秒硬直し、その後、嘘でも喜んでみせるべきか、それとも敢然と抗議するべきかを延々と悩んだのを覚えている。
 ちなみに。
 十二歳の時は、恐怖のクッキー(一個を除き、全てが悶絶するようなとんでもない味)だった。
 十三歳の時は、子供でも飲めるほどの甘いワイン(と見せ掛け、中身は恐怖のスーパーウォッカ)だった。
 十四歳の時は、……やめよう。これ以上思い出したくもない。
 まったく、年々手が込んでくる。カーナの敗戦以後、ビュウとヨヨはおよそ三年離れていた。その間に磨きが掛かったらしい。変なところばかり上達してくれる。
「それで、ビュウ?」
「何だ?」
 不機嫌のせいで、自然と返す声に棘が混じる。けれどヨヨは気にしない。そんな可愛らしい神経なんて、ビュウが知る限り、この姫は持った試しがない。それを持ったお姫様、はしょっちゅう演じているのだが。最近そのメッキもすっかり剥げているのだが。
「センダックはどうしたの?」
「さぁな。俺は知らない」
 素っ気なく返す。しかし心は、あの直後まで立ち返ってしまった。


 扉を固く閉じて。
「ビュウ? ねぇ、ビュウ〜? どうしたの? わし、何かした? 何かしたのなら、言ってほしい。わし、わし……嫌われジジイは、嫌……」
 いやいやいや、そんなしょんぼりした声で言われても困りますよセンダック老師。こっちは寝起きを強襲された気分でもうそれどころじゃないんですから。というか、嫌われジジイが嫌ならおとなしくそこをどいてくださいそこを。そうすれば俺も安心して出ていけますから!
 ――とか何とかパニックに陥った頭で思考しつつ、それでも冷静に状況を把握するのは、長年の戦場暮らしの賜物だった。自分の人生にちょっとだけ感謝。
 状況は至極厄介だった。後ろには閉ざした扉、その向こうには(色んな意味で)危険な敵。対してその反対、自分の眼前に広がるのは狭い部屋。敵に追われて袋小路に逃げ込んでしまったのと、同じ状況だ。
 優先すべきは、この部屋からの脱出。唯一の脱出路(入り口)は塞がれてしまっている。となれば、残るは……扉の反対側、部屋の一番奥にある、この部屋唯一の窓!
 ビュウは扉に鍵を掛けると、窓に駆け寄った。上下に開け閉めするその窓をいっぱいまで開いて、身を乗り出し――

 サラマンダーを呼ぶビュウの指笛が、早朝の空に響いた。


 かくして部屋からの脱出は成り、ビュウは、朝食も取らないままヨヨの元へと抗議にやってきたわけである。
 当然その辺りの細かな事情を知るはずのないヨヨだが、そこは長い付き合いの為せる業、彼女は、ビュウの微妙な表情の変化や口ぶりだけで何かを勘付いたようだった。表情が一変し、楽しそうな嬉しそうな明るい笑顔が不意に曇ったかと思えば、すぐに今でも不始末を咎めるような不興そうなしかめっ面になる。
「私からの心のこもったプレゼントを邪険に扱うなんて、いくら貴方でも許さなくてよ」
「あんなもんに心を込めるな」
 似たようなしかめっ面で応戦するビュウ。その途端だった。
「酷いっ……酷いわぁっ!」
 わぁっ、とヨヨが不意に顔を覆う。
「この私が、せっかく貴方のために腐心して、心を込めて、センダックにリボンをつけて贈ってあげたのに……それを、それを、そんな風に言うなんてぇっ!」
「そんな朝なんか願い下げだ! っつーかそんな事に腐心するなお前は! まともなところに労力使え!」
 大声で突っ込む。ヨヨはそれに過敏な反応を見せた。手を覆って伏せた顔を凄い勢いでバッと上げると、潤み、僅かに充血した眼を眉と同じ角度に吊り上げて、
「貴方、こんなに衰弱した私をこれ以上働かせるつもりなの!? 何て酷い……ディアナもそう思うでしょ!?」
「え? あ、いや、あたしはその、それはそれで面白いなぁ〜、って」
「こんなくだらない事のために夜更かしして目を充血させた挙げ句にそこまでベラベラ喋れる元気のある奴のどこが『衰弱した』だ! ついでに話をディアナに振るなややこしくなる!」
「まぁ酷い! ディアナは無視!?」
「当然だ! この話には関係ない!」
「最っ低! 貴方ってそんな人だったのね!」
「論点ズラすなぁっ!」

 ――こんな感じで怒鳴りあっていたから、ビュウは気付かなかった。
 この間、ディアナの目に徐々に徐々に楽しそうな光が宿りつつあった事に。



 とは言え。
 現在反乱軍は戦争の真っ最中。たかが一個人の誕生日に時間を割くわけには当然いかない。
 実際、仕事は色々とあった。昨日、とあるラグーンの街に寄港した時の補給。仕入れた品物をチェックし、領収書と付き合わせて品数と支払額が正しいかどうかを再計算するのは、他ならぬビュウの役目だった。帳簿と算盤片手に、クルーの一人を補佐にして倉庫に入り浸る事、優に五時間。
 もちろん、彼の仕事はそれだけではない。戦竜隊の長として、戦竜たちの世話もしなければいけない。最近やたらとラッシュが餌をやりたがるが、ラッシュはまだ戦竜になめられている節がある。戦竜に下に見られているようでは、まだまだ餌やりは任せられない。うるさい舎弟を適当にあしらいながら、戦竜の体調に合わせて餌をやるのは、さすがに少し骨が折れた。
 他にも、明日の幹部会議で出す案件の整理。例えば今後の進軍ルート。グランベロス側の警戒網に引っ掛からず、かつ、最短で次の目的地に着けるルートを、ホーネットに探してもらわなければいけない。例えばマテ印製品。最近売り上げが落ちているというから、不良在庫として一掃する事も提案しなければ。例えばヨヨの体調。世話に当たるプリーストたちからの報告では、気力も体力も中々回復しないという。次にもしグランベロスとの戦闘があるようなら、大事を取って休ませるべきだ。その時に開く穴を誰で埋めるか、マテライトと相談をしないと――


 そんな事柄についてあちこちから話を聞き、または相談などをしていたら、すっかり夜も遅くなっていた。
 ビュウは、帳簿やメモ帳を小脇に抱えて自室へと戻る。その足取りはどこか重い。原因は考えるまでもなかった。ヨヨが朝っぱらからあんな事さえしてくれなければ、今日という日も乗り越えられたのだ。まったくあのクソ娘、本当に気力体力が衰えているのか?
「…………?」
 と、足を止めるビュウ。その様子で、すぐそこの扉の脇で佇んでいた人物が、こちらに気付いた。
 ディアナだった。
「あ、ビュウ、お疲れ」
「お疲れ。で、何やってるんだ?」
「んー? べっつにぃ〜」
 わざとらしくとぼけるディアナを、軽く睨むビュウ。その視線を受け止め、しかし彼女はケラケラと笑った。そしてこちらに歩み寄ると、肩をポン、と叩き、
「誕生日、おめでと、ビュウ」
「……ありがとう」
「ってなわけで誕生日プレゼント、部屋に置いといたから」
「――って、人の部屋に勝手に入ったのか!?」
 既に脇を通って去っていくディアナの背に怒声を浴びせる。何も見てないわよ〜、と気楽に返すディアナ。そういう問題じゃねぇぞこの野郎、と口の中で呟くと、すぐに思い返して、ビュウは部屋のノブに手を掛けた。何かいじくられていないか、何か見られていないか、ちゃんと調べなければ――

 ガチャッ。

「……あ、ビ、ビュウ」

 見慣れた自分の部屋。
 そのベッドの上に。
 何故だか知らないが。
 どぎついピンクのリボンを巻かれ。
 しかも頭の上でちょうちょ結びされた。

 フレデリカが。

「あ、あの、えーと、その……優しく、して、ね?」

 ……………………………………………………

 え? えぇ〜? ちょっと待ってください、それどういう事デスカ? 何でフレデリカがここに? っていうか、「優しくして」って、何? え、優しく? 俺がフレデリカに何かするの? しかも優しく? え? え? そういう事ですか? そういう意味に取っちゃって良いんデスカ? 取っちゃいますよ、取っちゃいますヨ? あぁでも待って、心の準備と色んな下準備がまだ出来てないし。大体お風呂まだだし。あああどうする俺? 優しくって、優しく出来る自信がねぇぞ今気付いた!


 ビュウは十分以上も無言で、しかし確実に錯乱したまま立ち尽くし――

 結局どうしたかは、当人たちしか知らない。

 

 


 黒の吉様からのリクエストは、「ヨヨ、フレデリカ、ディアナたちがビュウにお祝いの物を贈る日の出来事」でした。
 だから安直に、ビュウさん誕生日ネタで行ってみました。
 そうしたらやっぱりヨヨ様は暴走した。
 ディアナはゴシップに走った。
 フレデリカは……まぁ、様々な意味でビュウを癒してやってください。


 考えたネタとしては、もう一つ、別のバージョンがありまして。
 そちらは、ギャグテイストが薄めのシリアスとほのぼのを足して二で割ったような雰囲気のSSだったわけですが。
 書き始めて思い付く。

 ピンクのおリボンつけたセンダックって、面白いね。

 そしてこんな話になりました。シリアスバージョンの方が読みたかった、と言われないような出来……になっていたら嬉しいです。


 黒の吉様。
 リクエストをくださり、ありがとうございました!
 カップリング指定は特になかったのにラストはビュウフレテイストになってしまった、という事に今更気付いたりしましたが、よろしければお納めくださいませ!

 

 

 

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