――お前は、剣に愛着を抱くか?
「……抱いてたら剣なんか振り回せるか」
「お前ならそう言うと思った」
「そりゃどうも」
ファーレンハイトのバーカウンターで、ビュウはホーネットと酒を酌み交わしていた。
酒は飲めるのか? 銀髪の航空士が発した問いが、そのままこの酒宴のきっかけとなった。
ビュウ自身、酒は飲めない方ではない。いや、むしろ積極的にいける口だ。が、反乱軍の幹部となって以来、極力避けてきた。
理由は一つ。――酒に金を費やすなら軍備に回してくれる。
そんな経理主任の、良く言えば合理的な、悪く言えば余りに「遊び」の少ない方針のせいで、このバーカウンターはいまいち流行っていない。隣り合う大部屋を陣取る女性陣が昼間には談話室に使っている程度。
だから、こんな夜更けに誰かが酒を飲んでいるのは中々珍しい事だし、そこにビュウがいるとなれば、その希少価値は最早とんでもないものだった。
琥珀色の酒が半ばまで満たされたグラスを傾けるホーネット。
その唇が動く。常とは違い饒舌なのは、酔っているせいか。
「確かに、愛着なんかない方が楽だな」
「おぉ」
こちらは無色透明の安い蒸留酒をチビリチビリと飲むビュウ。
「戦場で剣なんて、すぐに折れるし斬れなくなるし。いっぱしの剣士なら、そんなモンにいちいち愛着なんて持ってられないぞ?」
「そうだな……それが、普通だな」
カラリ、とホーネットのグラスの中の氷が鳴った。
「俺も、昔ならきっと愛着なんて持たなかったんだろうな……。あんな事がなければ、この剣もすぐに叩き折っていた」
そこでホーネットの手が動いた。ビュウはそちらを見て、軽く目を見開く。
何となく気付いてはいたが、ホーネットは左側に――ビュウとは反対側だ――、剣と立て掛けていた。彼はそれを無言で差し出してきたので、ビュウもやはり無言で受け取り、薄暗い灯りの下、鞘から抜かないままその表面を視線で撫でる。
古ぼけた、しかしそれほど使い込まれた感のない、一振りの剣。
鞘や柄に巻かれた滑り止めの布なんかは埃か何かでくすんでいるのに、鞘自体、あるいは柄自体にはまるで痛んだ様子がない。特に柄はすり減ってもいなかった。剣の柄は、上手に使い込んでいけば、自然と使い手の拳に合わせて変形していく。
新しく買ったまま、ろくに使う機会もなくしまい込んでいたような――見た限りでビュウが抱いた印象は、そんなものだった。
「……抜いてみろ」
言われるままに、無言で剣を鞘から抜き払う。
ランプの心許ない灯りに照らされて、曇り一つない刀身はキラリと輝いた。長剣サイズだというのに見た目に反して驚くほど軽い。刃は普通の剣よりも薄く、「突く」や「叩き斬る」よりも「斬り裂く」に適しているのは、一目瞭然だった。
そして刀身の鍔元に施された刻印に、ビュウは目を瞠る。
「……『シャルンホルスト』?」
「その剣の銘だ」
「有名な刀工の作品か? 俺、その辺り詳しくないから」
「……いや、どうだろうな。俺もよく知らん」
「…………?」
「この傷を見ろ」
そう言って、ホーネットは左腕の袖をまくった。剣を鞘に収めたビュウは、薄暗い中に見えたものに思わず絶句する。
初めて見る、ホーネットの剥き出しにされた左腕。
傷。
深く大きな傷が、肘から手首に掛けて、痛々しいほどに走っている。
「もう、十年近く昔の話だがな」
「……あぁ」
「俺はベロスの傭兵で……クロスナイトだった」
「それは知ってる」
「……何故だ?」
「あんたを航空士として雇うと決めた時に、身辺調査は徹底的にやらせてもらったからな。俺の情報網、甘く見るなよ」
「…………」
「安心しろよ。徹底的にやったから雇ったんだ。実はサウザーやパルパレオスと同門だとか、当時の派遣軍で結構高い位置にいたとか、そんなの気にしてねぇよ。大体俺は、ベロス傭兵――ツンフターは吐き気がするほど嫌いだけど、グランベロス人そのものは嫌いじゃねぇしな。
で、それから?」
「……その剣はな」
グラスを傾けるホーネット。琥珀色の酒精を喉に流し込んで、しかしその目はビュウの手元にある例の剣に向けられている。
「俺の左腕を使いものにならなくした――俺の、剣士としての生命を断った剣だ。そして……俺自身の命を、救った剣だ」
「…………」
「……古い話だ」
時には昔の話を
――大体、十年くらい前の話だ。
その頃の俺は、派遣軍の中隊長だった。仲間を引き連れて、他の国の戦争に駆り出されていた。
ある戦役で、俺が所属する大隊は大苦戦に遭った。単なる暴動の鎮圧戦だったのに、敵方が妙に粘りやがる。雇い主の命令で、俺たちは敵を追撃したんだ。……まぁ、当然だな。傭兵ってのは、結局のところ最終的には盾に使われる。自分たちの同胞よりも、俺たちみたいな他国の傭兵の方が、使い捨てるには心が痛まない、って事だ。
そう。俺たちは使い捨てられた。敵は予想以上に手強かった。そして俺たちは、歴戦のクロスナイト――そう、この俺だ――に率いられた部隊に負けなし、と高をくくっていた。慢心していた。敵を甘く見ていた。
……どこで失敗したのかは、もうよく覚えていない。向かってくる敵と、敵が仕掛けた罠を潜り抜けるので精一杯だったからな。気が付けば、仲間は誰一人として俺の傍にいなかった。多分、全滅だったんだろうな。
俺自身相当な傷を負いながらも、もう後退する事も出来なかった。ビュウ、お前なら解るだろう。撤退は、進撃よりも困難だ。たった一人で敵に背を向けて逃げ出すのは命取りだった。ならば、死中に活を見出そう。そう思って、俺はがむしゃらに走り続けた。自棄になっていたんだな、きっと。
そうして、どれくらい敵を斬り殺した頃だったか……。俺の目の前に、剣士が一人現われた。いや、剣士というのは見た目だけだ。もったいないほどの業物を隙だらけに構えていやがった。身なりだけは無駄に良くて、戦場に出てきてガタガタ震えている。何であんな奴があの場所にいたのか、俺は今になっても分からない。
ただ、そいつはもう限界だったらしい。急にパニックになってな、剣を滅茶苦茶に振り回してきやがった。あんまりにも滅茶苦茶でな……俺は、防ぎきれなかった。
その時に、左手をザックリとやられちまった。
手甲も何もかも全部斬り裂いて、その剣は俺の左腕を使い物にならなくしちまった。でも、今思えば……あんなド素人だったから、あの程度で済んだんだ。もしあれが、ちゃんと修練を積んだ剣士だったら……俺は今頃、右腕だけでこの艦を操舵していた事だろうよ。
とにかく俺は、左腕をやられちまった。もうクロスナイトとしては戦えない。けど、戦わないと殺される。俺は右手だけで剣を揮った。それで、そいつはどうにか殺す事は出来た。だがもう限界だった。左腕は使えないし血は止まらない。右腕は何とか動くが、自分の剣はもうろくに使い物にならなかった。
そんな時に限って、前方に敵の気配を感じたりするんだ。怪我は深いし武器はない、ってんで、俺は死を覚悟した。
……そうしたらな。
あの素人が使っていた剣が、俺の目に飛び込んできた。
俺の血を吸ったはずなのに刀身は妙に白くてな、それが何だか逆に腹立たしかった。新品の剣が、素人に使われた剣が、俺の左腕を奪いやがって――とな。完全な逆恨みだ。でもその時の俺は、その剣までが憎かった。
だが……右手はな、勝手に動くんだ。
勝手に動いて、その剣を握ったんだ。
無意識の内に、だ。俺は愕然とした。しかし俺を見つけた敵の声を聞いて、俺はもう何も考えなかった。片手でも扱えるその軽い剣を振り回して振り回して……。
本隊に合流できた時には、暴動はほとんど鎮圧できていた。何の事はない。あのまま深追いをせずに少し踏みとどまっていれば、無駄な犠牲を出さずに済んだ戦いだったんだ。そして……雇い主の国軍が早く動けば、もっと簡単に終わった戦いだったんだ。
そんな事で、俺の仲間は全員死に、俺は剣士生命を絶たれた。片手が動かないクロスナイトなんて、何の役にも立たない。そうだろう?
だが……どういうわけかな、俺は上官からそう宣告された時、妙に気が楽になったんだ。これでもう、よその国で無駄な戦いをしなくて済む、と。
本国に帰還する頃には、俺はもう派遣軍そのものに嫌気が差していた。上層部も片腕の使えないクロスナイトに何の価値も見出さなかったらしくてな、俺の退役届けは簡単に受理された。
俺は国を出た。国を出て、航空士になるのを目指した。空に出れば、もう何物にも縛られないで済む……そんな気がしたから。
でも何でだろうな。
その剣だけは、結局手放せなかった。
俺を殺して、救った剣だった。
俺の命も、人生も、何もかも、全部。
殺して、救った剣だった。
……だから、手放せなかった。
「……で、最近少し思うところがあってな」
「?」
「案外その剣は、使い手にまつわるしがらみも断ち切るんじゃないか……とな」
それを聞き、ビュウは一笑に付した。
「どういうこじつけだ、そりゃ」
「こじつけ、か。……確かに、そう聞こえるだろうな。
だが俺はそうだった」
「…………」
「俺にまとわりついていたしがらみは、全部そいつが断ち切ってくれた。クロスナイトとしての俺に向けられていた羨望だとか嫉妬だとか期待だとか、派遣軍の軍人としての責務だとか、そういうものを全部。だから俺は自由になれた」
ホーネットの言葉に、ビュウは一つ溜め息を吐いた。そして呆れた声音で、
「……あんたがそう信じたい、ってんなら、俺は何も言わないがな。そろそろ、本題に入ってもいいんじゃないか?」
「本題?」
「俺に昔話がしたいだけでこんな剣を持ち出してきたわけじゃないだろ?」
突っ込んでやると、あぁそうだった、と相手は笑う。思わず肩を落とすビュウ。
「つまり、俺が言いたいのはだ」
「あぁ」
「その剣は、お前にやる」
「……は?」
間の抜けた声で思わず聞き返すと、ホーネットはやはり微笑したまま、
「業物の剣は、相応しい者が持つべきだ。もう剣を握らない俺じゃなくて、今もまだ剣を必要としている、お前がな。
――それに」
と、最後に付け加えられる言葉。彼はビュウから視線を外した。
「案外その剣は、お前にまとわりついているしがらみも断ち切ってくれるかもしれないぞ?」
ビュウの表情が変わった。
タダで剣を寄越す、というホーネットに対するそこはかとない――タダより怖いものはない、という教訓から来る――不信から、一転して、何もかもを凍えさせるような、冷気すら感じさせる剣呑な警戒へ。
常は春の青空を想起させるその碧眼が、その瞬間に、真冬の湖水を思わせるほどの残酷なまでの冷たさと鋭さを帯びる。
「……何の事だ?」
紡がれる声は、しかし言葉とは裏腹に、最早単なる問いではあり得なかった。
まるで、捕虜に対する尋問のような。
淡々として抑揚に欠いた、事務的とすら言える、だがそれだけに冷たい手で心臓を鷲掴みにされるような、体の芯からゾクリと来るような。
そんな、普段のビュウしか知らない者にすれば思わず目を瞠る、余りにも劇的な変化。
「……いや、俺は何も知らないがな」
が、ホーネットはそれを微苦笑で受け流した。その途端、緊張感に張り詰めていたバーカウンターの空気が、一気に和やかになる。
「ただ、お前を見ているとな……厄介なものを色々と背負い込んでいるな、というのはすぐ分かる」
「…………」
「お前が何を抱えているのかは知らないし、知りたいとも思わない。
だが……『救い』みたいなものをどこかに持っていても、いいんじゃないか?」
ビュウの視線から険しさが僅かに削がれた。代わりに浮かぶのは訝しさ。
「『救い』?」
「いつか、何もかもから解放されて自由になる……――そういう、一種の希望だ」
希望。
その言葉に、ビュウの表情は再び変化する。
警戒心を露にした険しさはなりを潜め、何か痛みのようなものを堪えている顔をする。
それこそ、まるで。
救いを求めるような。
「つまりは単なる験(げん)担ぎだ。だからお前にやる」
「――そうか」
ビュウはようやく、それだけを口にした。動く唇は震えていた。
しばらく硬直していた彼は、不意に奪うような手つきでグラスを掴むと、残っていた蒸留酒を一息にあおった。そして、ダンッ、とカウンターに叩きつける。グラスを割るほどの勢いで。
驚いたホーネットが改めて彼を見るのと、彼が立ち上がってバーの出入り口へと足を向けたのは、ほぼ同時だった。
「ビュウ――」
「もう遅いから寝る」
端的な言葉だった。
荒々しい足取りで突き進んでいたビュウは、戸口でふと立ち止まり、肩越しにホーネットを見た。
「……俺は別に、『救い』が欲しいわけじゃない」
その顔に余裕はないが、しかし、痛ましさも険しさもない。
決然とした、悲壮感のようなものが漂っているだけ。
「俺は、ただ……――」
不意に言葉は尻すぼみになり、ビュウは顔を伏せる。そのまま動かない。
しかし沈黙は短かった。彼はパッと顔を上げ、いつもの人を食ったような、どことなくシニカルな微笑を見せる。
「まぁ、俺は昔話をするほど更けてるわけじゃないからな。俺の話はここまでだ」
「……それはつまり、俺が更けている、と言いたいのか?」
思わず問うと、ビュウはケケケ、と笑って、
「違うのか三十路?」
「黙れ小僧」
と言い返す。しかしビュウもホーネットも、互いの言葉のどうしようもなさに仕方なく笑っている。
「じゃあな、ホーネット。剣はありがたくいただいとくよ」
「ああ。好きに使って、いっそ盛大に叩き折れ」
と軽口を言い合って、ビュウは戸口から闇の中へと姿を消し、ホーネットは再びカウンターに向き直ってグラスを口に運ぶ。
そして、ふとポツリと、
「……らしくない事をした結果がこれとは……情けない限りだ」
苦笑を漏らして、彼はチビリチビリと酒を飲む。
自室へと戻る廊下の途中で、ビュウはフゥッ、と軽く息を吐いた。
険しさも痛ましさも悲壮感も老獪さも何もない、歳相応の青年らしい口調。暗闇の中に浮かぶ顔も、先程までとは打って変わって、どこにでもいるような、少し困った青年のそれに過ぎない。
左手で剣を持った彼は、空いている右手でガリガリと後ろ頭を掻き、
「……俺もまだ未熟だなぁ」
それだけを残念そうに呟くと、再び部屋へと向けて歩き出す。
ある夜の、どうという事のない物語。
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