ねぇ、ビュウ?
世界を思い通りに出来る力を手に入れたら、貴方、どうする?
雲一つなく真っ青に晴れ渡った空を背景に、ビュウが忠誠を誓う姫君はそう言って楽しそうにはしゃいだ笑顔を見せた。
ワールドイズマイン
「――俺が今まで立て替えた軍資金の返済の保証かな」
「やだもうビュウってば発想がみみっちいわね」
仮にも一国の姫君が「みみっちい」という言葉を笑顔で発するのは、果たして如何なものか。
しかしよくよく考えてみれば、そんなヨヨを醸成したのは他ならぬビュウ自身だった。だってお城はつまらないんだもの! 悪びれない言葉で城からの脱走を正当化した少女時代のヨヨを連れ、下町を遊び場にした少年時代のビュウ。今思うに阿呆な事をしたものである。おかげでヨヨは蓮っ葉――もとい庶民的な言葉遣いを覚え、不良たちの抗争に首を突っ込む楽しさを知り、それを問答無用に引っ掻き回して蹂躙する快さを堪能してしまった。その結果、「見た目は王女、頭脳はドS」というモンスターのようなプリンセスが誕生し――と、それはさておいて。
「世界を思い通りに出来るのよ? やりたい放題し放題なのよ? もっとこう、ドカーンとどデカい事を思いつかないの?」
と、「ドカーン」のところで両腕をバッと大きく広げるヨヨ。つまらなさそうに口を尖らせながらも、全体的に上機嫌でハイテンションだ。それこそ、そう、かつて下町の一角で激しい抗争を繰り広げていた二つの大きな不良グループをどうやって叩き潰そうか、と悪だくみをした時のように。
ビュウの口から年寄りめいた溜め息が漏れていった。
「……何よビュウってば、その溜め息。辛気臭いわ爺臭いわ」
「ゾラに頬張られて説教されて俺に弱音吐いて一晩落ち込みまくって、なのに寝て覚めたらそのテンションのお前に、俺の溜め息をどうこう言われたくないわ」
絞りだした応答は疲れた声音。さもあらん、それでなくてもビュウたち反乱軍は、ヨヨ奪還に至るまで激動の二、三日を繰り広げてきたのだから。
サウザーが、ヨヨを連れてキャンベルに来る。
手に入れた確かな情報がビュウたち反乱軍を蜂起に導き、ファーレンハイト奪還とキャンベル上陸を果たさせた。
サウザーたちの行方を追ってキャンベル大森林地帯へと足を踏み入れ、その奥で彼らに追いついて。ボロボロになって奪還したヨヨに神竜が取り憑いて、そのせいか昨日このファーレンハイトで目を覚ましたヨヨはパニック状態に陥って、人に当たるわ暴言を吐くわ泣き出すわ。
こちらの働きを全否定するような言葉まで叫んだのを見かねたゾラのビンタと説教で己のした事を省みたヨヨだが、それからの浮き沈みが激しく、一晩居室に閉じこもって、その間こちらは気を揉んで揉んで――現在。
テラスに呼び出されたと思ったら、このテンションである。
そりゃあ老け込んだ溜め息も出るってなもんだ。ビュウはもう一度溜め息を、しかし今度は幾分軽く吐いて、ヨヨをジロリと睨んだ。
「ってか、何だ『世界を思い通りに出来る力』って。アバウトすぎるわ。武力か権力か経済力か魅力か交渉力か魔力か何かもっとわけの分からん妙な力か、どんななのかまずはっきりしろ」
「んー……」
と、人差し指を顎に当てて少し首を傾げ、考え込むヨヨ。昨日の騒ぎっぷりが嘘のような平然とした顔には、泣き腫らしの痕跡さえない。
「武力って言うか」
その平然とした顔で、そして平然とした口調で、ヨヨは答えをビュウに告げる。
「暴力?」
刹那、ビュウは得体の知れない戦慄めいたものを覚えた。
暴力というどうという事のない単語が、今のやたらと上機嫌なヨヨの口から何のためらいもなく飛び出してきた事に、異様なまでの違和感を感じたせいもある。
だがそれ以上に――そこにひそむ不穏の気配に、気付いたからだった。
「……暴力?」
問い返す声が僅かに強張った。応じるヨヨの声にそれを気にした調子はなく、いっそ不自然なほどに機嫌が良かった。
「ええ、暴力。武力じゃないわね、やっぱり――こんな無茶苦茶なもの」
ビュウは僅かに瞠目した。
こんな、とヨヨは言った。
己の身近にあるものを指す言葉。己の手の内にあるものを指す言葉。
それが意味するものは何か。
直感が答えを導いた。
「――神竜、か?」
「ヴァリトラ、っていうんですって」
誰かに教えてもらった猫の名前を伝える、そんな世間話の気軽さでヨヨは神竜の名を口にした。
気軽、というか、ぞんざいだった。
そしてそのぞんざいさは、カーナという国に生まれた者からすると、不敬で不信心で不謹慎だ。
カーナは神竜バハムートを神として戴く国である。そしてカーナ王家はその祭司たるドラグナーの一族。カーナ王家の最後の姫たるヨヨは、すなわち、最後のドラグナーでもあった。
その祭司が、崇めるべき神――の一つ――の名を口にするには、余りにもぞんざいで、軽い。
その口調のままヨヨは続ける。
上機嫌に、明るく、はきはきと――淡々と。
「夢の中で、ヴァリトラが言ったの。その気になれば何でも出来る、って。世界を自分の物にする事も、誰かを従わせる事も」
ヴァリトラ。
思い起こされるのは、二日前のあの光景だった。
突然光をまとったヨヨ。彼女が手招くように中に手を差し伸べると、それに応じるように虚空に巨大な竜が滲むがごとく現われた。鮮やかな橙の皮膜を持つ翠緑の竜。クワッと開かれた口腔から放たれたのは炎や吹雪、雷ではなく青白い閃光。それはサウザーに降り注ぎ――
……ビュウやマテライトやラッシュたちを相手にしても息一つ乱していなかったあの豪傑が、血を吐いて倒れてしまっていた。
一瞬の事だった。
唖然とした。
斬られ、血を流し、歯を食い縛りながら、それでも立ち上がって立ち向かおうとした自分たちのその行為が、その瞬間に何もかも無為になった気がした。
お前たちなどちっぽけだと、嘲笑われた気がした。
その後パルパレオスに助け起こされて去っていったサウザーの姿に、ビュウは何とも言えない感情を覚えた。
いずれ倒すべき敵が、祖国を滅ぼした皇帝が、倒れて退いた。そしてカーナが陥落してからの悲願だったヨヨの奪還が成った。
喜ばしい瞬間だったのに、ビュウがその時胸に抱いた感情は、紛れもない敗北感だった。
自分たち反乱軍は、サウザーに勝ったのではない。
自分たち反乱軍の手で、その力で、ヨヨを取り戻したのではない。
暴力。
あれこそまさしく、ヨヨの言う暴力。
軍事力ではもちろんなく、武力ですらない。嵐のようなただの暴力。しかも圧倒的な、抗いようのない暴力。
ヨヨを取り戻せたのは、災厄のように吹き荒れたそれの、おまけ。
その敗北感、徒労感を、何と言い表わせばいいのか。
それらを感じずにヴァリトラの力を僥倖だの天祐だのと能天気に喜んでいるのは、生粋の王家信者であるマテライトくらいなものだった。
「ねぇビュウ、私、どうしようかしら」
戦慄するビュウをよそに、ヨヨの声はあくまで明朗快活で、うきうきと華やいですらいる。歳頃の娘が綺麗なドレスやアクセサリーを前にしてはしゃぐのと同じテンションだった。
そんな機嫌の良さで、彼女は青空を背景にその場でクルリとターンした。踊るように。
白いワンピースの裾がフワリと広がり、花さながらに円を描く。
「私、その気になれば何でも出来るんですって」
紡がれる言葉はまるで恋の喜びを語る歌のようだ。
「世界をこの手にする事も、世界中の人を私の足元に跪かせる事も、何だって出来るんですって」
クルリ、クルリ。両腕を広げ、ワンピースの裾をひらめかせ、ヨヨは回る。踊る。
「ねぇビュウ? 私、どうすればいいのかしら」
と、踊り始めた時と同じ唐突さで、彼女は踊るのをやめた。閃いていた裾がフワリと落ちる。少し乱れた金の巻き毛を手で直し、笑みを深めるヨヨ。
そうして、そのままの口調で――告げた。
「吐き気がするの」
ビュウは最早瞠目さえしなかった。
ヨヨの感情が、もう手に取るように解ったから。
「怖気がするの。髪を掻きむしって、叫びだしたい気分。誰かを無茶苦茶に罵ってしまいそう。でもお腹の底から笑いたくもあるの。おかしいでしょう」
ふふっと笑い声が転がり落ちた。その笑顔も声もとても楽しそうで、喜びに満ちていて、だからこそ――不穏で、剣呑だ。
「こんな暴力で世界が手に入るんですって。こんな暴力で誰かを従わせられるんですって。傑作と思わない、ビュウ? 私たちが崇めてきたものは、こんなにも私たちを、私たちが生きるこの世界を、小馬鹿にしてくれたのよ!」
声音こそ、テンションが上がった余りに大きくなったはしゃいだそれだった。
だがそれは、紛れもない怒号だった。
「暴力で世界を手にする? 暴力で世界中の人を額づかせる? 嫌だわ、一体何の冗談かしら! 出来が悪すぎて逆に笑えてくるわ! ちゃんちゃらおかしいってこの事よねビュウ!」
ヨヨは笑う。嬉しそうに楽しそうに哄笑する。かろうじて取り繕ったそれらの感情の下から、隠しきれない憤怒が滲んで燃え上がる。
「暴力で手に入れた世界に何の意味があるのかしら! 暴力で誰かを額づかせて何が面白いのかしら! そうしてこの世の頂点に立って喜ぶなんて子供以下だわ! この私がそんな安っぽい馬鹿な女に見えるなんて、人を馬鹿にするのも大概にして欲しいわ!」
快活な声はひび割れ聞き苦しい怒号となり、青空にこだまし吸い込まれていった。
空を仰いだままハァハァと荒い息を吐くヨヨの顔には、もう自棄クソのような笑顔はない。虚脱して呆けた無表情のその中で、目にだけは未だ冷めやらぬ怒りが爛々と輝いている。
肩をも上下させる荒い息を何度も何度も吐いて、ヨヨはようやく呼吸を整え終えた。そして、顔を空からビュウへと戻すと、蝶よ花よと育てられた姫君とはとても思えない苛烈な表情を覗かせた。
「ビュウ、私は決めたわ」
「……何を」
「この力は使わない」
それは、揺るがしようがないと悟らざるを得ないほどに確固たる宣言だった。
「これから先の戦いに、私はもちろん旗印として、指導者として参加する。王太子だもの当然だわ。
けれど私は絶対に神竜の力を使わない。頼らない。例え誰が傷ついて、戦死してしまっても、例えそれが貴方だったとしても、私は私の誇りのために神竜の力を人間の戦いには一切用いない」
……何を、甘っちょろい事を。
強大な力を持っていて、戦いに臨まなければいけなくて、力を用いるのに何の障害もないのに、誇りだとかいうワガママのために使わない、なんて。
――普段のビュウならば、そんな反感を抱いていた事だろう。反乱軍の会計兼戦略戦術担当として、低コストで恐るべきパフォーマンスを発揮する神竜の力はこれからの戦いになくてはならないものとした事だろう。そんなワガママを言う奴を宥めすかし叱り説得し、変心させようとした事だろう。
だが、そんな事はしなかった。
出来るはずもない。
ヨヨの誇り、その思いは痛いほどに伝わったから。
何よりヨヨの誇りは、人の矜持そのものだったから。
言葉を一度きり、ヨヨは一拍分の間を置いてから、そして、と続けた。
「もし私がこの力を乱用してこの世界と人を我が物にしようとした時には」
ヨヨの、翠緑の双眸が剣の切っ先に酷似した鋭さで持ってビュウを睨み据え、貫く。
「他の誰でもなく、貴方が私を斬ってちょうだい」
勅命だった。
抗いようのない、抗うという選択肢さえ思いつかせないほどに有無を言わせぬ力を持った勅命だった。
だからビュウは澱みない動作で左胸に軽く握った右拳を当てると、深く腰を折った。
「かしこまりました、殿下」
――遠く甲板で、艦橋で、階下で。
今のヨヨの笑い声が何なのか騒ぎ立てる声がし始める。
ビュウは腰を伸ばした。眼前のヨヨは居室へ下りる階段に視線をやり、しかしすぐに視線を外してこちらに背を向ける。吹きつける風を真っ向から浴びる主君の背を無言で見つめるビュウ。
これからまたヨヨは、ここで己の心の声と、あるいは宿った神竜ヴァリトラと、一人静かに戦うのだろう。この力を使えば何でも出来るという、人をなめるにもほどがある誘惑と。
その闘いに、ビュウは手出しできない。
(俺に出来るのは)
ヨヨ様どうなさいましたかー!? 下の部屋から聞こえてくるマテライトの濁声と、センダックやゾラ、ラッシュらのゴチャゴチャとした気遣いの声。
彼らに何と取り繕って言い訳して、何でもないと納得してもらうか。
そして、もう一つ。
「――安心しろ、ヨヨ」
ビュウはヨヨに背を向ける。
階段へと足を踏み出す。
「そんな人外に依存するほど、俺の戦術は温くねぇ」
漏れ出た呟きは、折りしも吹きつけてきた強風に掻き消されて流される。
だから「ええ、分かっているわ」という声がしたのはきっと気のせいで、ビュウはヨヨを振り返らず、部屋に殺到するマテライトたちの相手をするべく、階段を下りた。
|