それは、宰相以下重臣どもが寄越してきた軍縮計画案に目を通し終えた時の事。
(――あれ)
一応戦争は終わったけれど、オレルス世界の情勢はどこもかしこも不穏当。特にサウザー亡きあとのグランベロスの政情不安など最早目も当てられない。
原因は、サウザー時代の再来を望む懐古主義者、いや原理主義者たちにあった。彼らの勢いは凄まじく、また根強く、穏健な現政権を支えるパルパレオスを手こずらせる事久しい。二年くらい前に外交特使として(バハムートつきで)乗り込んだ時、再会したパルパレオスのやつれっぷりは中々愉快だった。笑い事ではないのだが。
原理主義者たちが政権を奪取しようものなら、最悪、グランベロスの外征が再開されるだろう。それはグランベロスの更なる混乱と荒廃を招くし、他国の軍事介入を招く恐れがある。だからパルパレオスは懸命に原理主義者たちを抑えている。
しかしもし抑え切れなかったら。
原理主義者たちが政権を奪い、サウザー時代の再来を望んだら。
その懸念があるからマハールなんかは軍縮には慎重だし、ダフィラは国境付近の警備を固めている。グランベロスと距離のあるキャンベルやゴドランドだって、決して監視の目を緩めていない。
かように緊張高まるオレルス世界。なのにカーナ一国だけが軍縮を進め、おいおい状況分かってんのか軍備減らして何かあった時どうするつもりだよもしかしていざって時はヨヨの神竜召喚に頼ろうとしてんのかそんな事この俺が許さないぞゴルァ、と思考が物騒になりかけて、それに気付いてああいけねぇ頭に血が上っちまったぜと軍縮案の書類をポイと放り、強張った背筋をほぐすべく伸びをして、ついでに執務室の窓の外に目をやって。
彼――ビュウは、目を瞬かせた。
空が、やたらと青い。
高く、青く、どこまでも抜けるような、混じり気のない澄んだ青をしている。
あの戦争の中、あるいは外交特使としてバハムートと飛び回っていた頃、折に触れてよく見た空の青。
無機質で、硬質で、ヒヤリと冷たくて、甘さも容赦もない、残酷なまでの青さ。
あれ、と気の抜けた思考がビュウの脳裏をよぎったのはこの時。
(――俺、何で)
まだ生きてるんだ?
綱渡りと命綱の話
己の人生を顧みて――
まだこうして生きているのは至極おかしいと、言わざるを得ない。
(とっくに死んでるはずだったんだよなぁ)
窓の外から視線を外し、決裁済みの書類やら未決裁の書類やら資料やらが山積みになった執務卓に向き直って、ビュウはガリガリと後ろ頭を掻く。
自分で言うのも変な話だが、ビュウには、死ぬ予定があった。
自殺したいと思っていたとか、誰かに復讐される気でいたとか、そういう話ではない。死ななければいけないと否応なく理解し、納得し、覚悟した事があったのだ。
十四歳の時である。
しかしそれから十年以上経ったというのに、まだ、生きている。
(……死ななきゃいけなかったんだけどなぁ)
ビュウはぼんやり思う。
十四という若さで決めた死の覚悟は、あれから十年以上経った今になって思い返しても気の迷いでも何でもない確かなもので、正しいものだった。その根本原因は解決されていないのだから、今でもビュウは死なないといけない。
なのに、何でか生きている。戦争も終わって、カーナも一応平穏で、宮廷の色んな奴らから反感を買っているけれど刺客を送り込まれるほどのものでもないから、おそらく当分死の危険はやってこない。
つまり、死ぬ事は今のところ出来なさそうだ。
「――参ったな」
そこまで考えて、ふと、ビュウはそうこぼした。
己以外に誰もいない将軍執務室。小さな小さな呟きは、書類と資料の山に吸い込まれて消える。
「いい精神状態じゃねぇなぁー……」
そうして、溜め息を一つ。
何で死んでいないのか、と思う一方で、この思考はいけないという極めて理性的な判断がきちんと働いている。
こういう時は閉じこもっているとろくな事がない。戦場で戦況を左右するほどの重大な決断を下す時にも等しい苛烈さで持って頭を無理矢理切り替えると、ビュウは気だるさに汚染された体をやはり無理矢理機敏に動かして起立、大股で執務室を出る。
「――閣下、どちらへ?」
扉を開けてズルリと身を引きずり出したビュウに、その横で直立不動で控えていた従卒が問うてきた。まだ若く、ビュウより十は歳下で、身長も低い。見下ろすと、威圧感でも感じたか、僅かに表情を強張らせて体を硬くする。
ああいけねぇと思いはするのだが、彼の緊張を解きほぐすのに最適な笑顔も言葉も出てこなかった。代わりに口からこぼれ落ちたのは、
「医務局」
回答を紡ぐ声音には自分でもどうかと思うほどに険があった。従卒は怯んだ表情を作るが、すぐにそれを取り繕って言葉を返してくる。
「では、私も――」
「お前は残って俺の代わりに書類の決裁しとけ」
「はっ――……って、ええええええええっ!?」
無茶振りを了承しかけて驚愕の悲鳴を上げる、その従卒の困惑の叫びを背に、ビュウは、目に眩しいほどに白い王宮の廊下を、医務室に向かって歩き始める。
晩秋だというのに、差し込む日の光はいっそ暴力的である。
何せただ今午前十時、程よい高さに昇ったお日様がギラギラと無遠慮に元気良く輝きを放つ頃合いだ。白い大理石や御影石をふんだんに使用した王宮の床や壁が光を反射しまくって、空間そのものが発光しているように思われる。
眩しい。
目が痛い。
だから無意識の内に両目をすがめてしまう。それでどんな表情になっているやら、行き交いすれ違う女官、侍官、文官、騎士見習いその他諸々が、ビュウの顔を見ては一様にギョッと目を見開いて一歩退く。余程凶悪で剣呑な顔をしてんだろうなー。そんなビュウの思考は他人事で呑気だ。
(――ああ、いけね)
思考が取り留めない。
それが危険な兆候であるのを、ビュウは経験から知っている。
頭の中が散らかり、思考が雑然としてくると、普段は巧妙に意識の奥底に隠していた衝動や願望がチラリと顔を覗かせる。それは散らかした部屋の中でうっかり出てきてしまったエロ本のようで、隠してしまわないといけないのだが、困った事に散らかしすぎているからどこにしまっていいのか分からない。
(――早く)
散漫かつ緩慢になった思考をなるたけ働かせないようにして――何も考えなければ、そもそも妙な事を考えずに済む――、ビュウはひたすらに歩を進める。速める。
(早く)
医務局は王宮の東南の一角にある。薬草園が併設されているため、日当たりの良い場所をあてがわれているのだ。一方ビュウの執務室は西側にあり、結構歩かないといけない。
(早く)
女官、侍官、文官、騎士見習い。王宮の中央に近付くにつれて増える人。女王の執務も始まっているから、この時間、王宮は活気づいている。練兵場では新兵の訓練も行なわれているはずだ。そういえば最近執務室にこもりっきりで練兵場に顔を出していない。これではクロスナイトの剣技が錆びてしまう。
(早く)
それは余りよろしくない。救国の英雄、戦竜隊を統べる大将軍、カーナ軍ただ一人のクロスナイト。それが今のビュウをビュウたらしめている箔だ。どれ一つとして剥がさせるわけにはいかないのだ。
(早く――)
廊下の角を、曲がる。
途端に目を射たのは、純白だった。
白い。
眩しいほどに白く、痛いほどに白い。
東に面した窓から差し込む日差しが容赦なく廊下を輝かせる。執務室を出た時以上にそれを強烈に感じるのは、ここが城の東端に近い廊下だからか。午前中の眩しさが半端ない。
白くて、眩しくて、目が痛くて、ビュウは強い日差しに対してするように、手を目の前にかざした。
――ああ、この眩しさを知っている。
空の上の眩しさだ。
遮るもののない蒼穹の、あの全てを暴露するような、容赦も優しさもない眩しさ。隠していた、奥底に沈めていたものまで明らかにしてしまう節操のない眩しさ。
これは、あの眩しさだ。
ビュウはかざしていた手を下ろした。そして曲がったところで止めてしまっていた足を、ひどくぎこちなく前に出す。
それはまるで、闇の中に灯されたろうそくの火に蛾が飛び込んでいく様のようで、
(……眩しいなぁ)
嫌がるでもうんざりするでもなく、ただ淡々と、事実だけを心の中で言葉にする。それは無感動のようで、その実、簡単に極めて近い情動だった。圧倒的なものの前にただただ呆然とするしかない、そんな心持ちにも似ている。
(……眩しい)
ビュウはフラフラと廊下を行く。その足取りは既に危うく、明確な目的があってどこかに向かう者のそれではない。
(――空を、思い出すなぁ……)
最近飛んでいない。
最後に飛んだのはいつだったか。
ずっと机にかじりついていた気がする。地面に縛りつけられていた気がする。体が重くて、だるくて、まるで鉄で出来た鎖と枷と重りを引きずっているかのようだ。ズルズルと、ズルズルと。
重い。
ああ、重い。
何という重さ。何というわずらわしさ。ああ、
(――――うんざりだ)
解き放たれたい。
己を地に縛りつける鎖。
がんじがらめの因果。
業。
その全てを棄てて、
空へ。
あの無窮の蒼青の中へ。
命の存在を許さない青と、暴虐の光の中に飛び込んでいけたら、
(俺も、楽になれるかな)
何でまだ生きているのだったか。
この、うんざりするような生を。
何で――――――――――――
思考が破滅に傾いたその時、ガチャリ、と前の方で音がした。
「……あら、あなた?」
純白の中に色彩が生まれた。
淡い金、青、薄水色、光のそれとはまるで違う、柔らかで暖かでほんのり薄紅色を宿した白。
「どうしたの、随分酷い顔をしてるけど?」
フラフラするビュウの姿にきょとんと目を瞬かせたフレデリカの、その姿はホッとするほどに優しかった。
そうして招き入れられた医務局の奥の一室――フレデリカの執務室で、ビュウはぼんやりとソファに座っている。
自分の執務室に比べ、妻の執務室は手狭である。本棚、書類棚、薬品棚などが並び、執務卓という仰々しい呼び方をするにはちょっと簡素すぎる仕事机がちょうどビュウの目の前にある。少し身を乗り出して手を伸ばせば机の端に余裕で触れられる、そんな距離感は、将軍クラスの執務室では考えられないものだ。
フレデリカはいない。少しここで待ってなさい、と席を外して、まだ戻ってこない。
一人待つ執務室は静かだ。
ふと思い返されるのは、医務局の構造だった。一番手前に診察室があり、そのすぐ隣に医務局員の事務室兼詰め所があり、薬品や包帯、ガーゼなどの備品の保管室があり、給湯室があり、そして一番奥が医務局長の執務室だ。
一番奥だから静か、でもあるし、診察室の方が閑散としていたから静か、でもあるだろう。訓練の時間だがまだこれといった怪我人が出ていないのか新兵は運ばれてきていないし、そのため詰めている医務局員たちも静かに診察当番を勤め、事務室での事務仕事をこなしている。
静かだ。
これほど静かだと色々考えてしまう――のが常のビュウ。なのに今は穏やかな心持ちでいた。もっと言えば何も考えずにボーっとしていた。
ボーっと、窓の外の木を見つめていた。
窓の外には常緑樹。その緑の葉が風に揺れてサワサワと葉擦れの音を鳴らしている。その微かな音が耳に心地良く、緑色が目に優しい。
静かで、穏やかだ。
「――お待たせ」
戸が開き、入ってきた声に、窓の外に向けていた視線を横移動。盆にカップを二つ乗せて、フレデリカが微苦笑と共に戻ってきた。
彼女は自分の仕事机に盆を置くと、カップ二つを手に、ビュウの隣にポスンと座る。差し出されるカップを受け取るビュウ。注がれている緑の液体はおそらくハーブティーの類だろう。一口飲んでみれば、やはりハーブティー、不思議な風味が口から鼻へと抜けていく。
「それで、どうしたの、あなた?」
問いかけてくる妻の声は世間話でも切り出すかのように何気なく、さり気ない。
何気なくて、さり気なくて、乾いた心にスゥッとしみ渡る。
そうして、ビュウの茫漠とした心から一つの感情がそっとすくい上げられた。
「――うん、何かさ」
すくい上げられたその感情。
真っ青な空と、真っ白な荒野。そんな風景のただ中で呆然と立ち尽くしているかのようなその感情は、
「ちょっと、疲れて」
「うん」
「フレデリカの顔が、見たくなった」
――ああそうだ、分かっている。
このやわな心はいつだって生と死の境をフラフラしていて、何かの拍子に死の方へと傾いてしまう。
物心のついた時から死が傍にあった。死という概念は、何となれば、ビュウにとっては幼馴染みとも兄弟とも、もっと言ってしまえば、半身と言っても過言ではないほどに親しく近しいものだった。
戦場暮らしとはそういうものである。だから、死ぬ覚悟も死に抗う覚悟も十の頃には出来ていた。
好んで死にたいわけではない。それは今も変わらないし、いずれ死ななければならないと思い定めた十四歳のあの時でさえ、本音を言えば生きたいと思っていた。
しかしそれはあくまで心の問題。状況は何も変わっていないから、だから今でも、まるで背後からやってきた知人に肩を叩かれるように、死の誘いを感じる事がある。
それに抗うには、もう、たくさんの命綱にすがるしかない。
例えばそれはヨヨ。
例えばそれは両親。
例えばそれは親友。
例えばそれは舎弟たち。
例えばそれはフレデリカ。
彼女の声と、
笑みと、
愛と。
そういうもので支えていかなければ、もう生きていけそうにないのだ。
フゥ、と溜め息が流れる。
どこか笑いのような軽いそれは、当然隣からのもの。見やればフレデリカは苦笑している。
「もう、あなたってば」
クスッと笑みを深め、
「だったらもう少し頻繁に私の顔を見に来てくれてもいいんじゃない?」
「あー……ごめん」
「何日ぶりか、覚えてる?」
「……三日ぶり?」
「外れ。五日ぶりよ」
「……ごめんなさい」
「五日もほったらかしにするなんて、浮気されても文句言えないわよ?」
「それは勘弁してください俺死にそう」
「なら、仕事ばっかりにかまけてないで、もう少し私を構ってください」
「……はい」
最早反論の余地もなく、ただうなだれるように頷くビュウ。だがしかし、やり込められる事さえ実は嬉しい。
それを素直に表わすのも何だか気恥ずかしいから、微笑むフレデリカから少し目を逸らしてハーブティーを一気に飲み干す。
その温かさが喉から胸、腹へと収まり、全身へと広がっていく。やけに心地が良くて充足の息を吐いて――ふと、目蓋が重くなっているのに気付いた。
これは、
「――……参ったな……」
「あなた?」
「眠くなってきた……」
あふ、と欠伸が漏れた。
だが、決裁しなければいけない書類が残っている。従卒に押しつけてきたりはしたが、適切に処理されている事なんかはなから期待していない(能力的な問題ではなく、立場的な問題で)。だから早く戻らなくては。早く戻って、仕事して。眠気に負けている場合では。
だというのに体は更に気だるくて重くて、立ち上がろうとしても足に力が入らなくて、動くのがだんだん億劫になっていって、
「少し、寝ていったら?」
ビュウの手から空になったカップを取り上げて、フレデリカが言う。
「あなたってばいっつも無理するけど、そんな状態で仕事したって効率が悪くなるだけよ。一時間だけでも仮眠していきなさい」
優しく、柔らかく、しかし有無を言わさない強い口調。ビュウは逆らう事を一瞬で放棄した。仕方ない。疲れているのだ。眠いのだ。少しくらい休んだっていいだろう。体も心も、もう眠りを求めているのだから。
だからビュウはあっさり睡魔に屈した。
「――フレデリカ」
「はい」
「ごめん、膝借りる」
「え」
妻の了承の声も聞かず。
ビュウはそのまま体を横倒しにし、フレデリカの膝に頭を乗せた。
ちょっと、ビュウ? 上ずる声で久しぶりに夫の名を呼ぶフレデリカのうろたえように少しだけニヤリと笑って、ビュウは目を閉じる。
そこに広がる闇は、ビュウを散々追い込んでくれたあの白い光と違って、どこまでもどこまでも包み込むように優しく、色んな事に目を瞑って覆い隠してくれるかのように大らかだった。
§
人の膝を枕にコロンと横になって、僅か三秒。
「――……やっと落ちた……」
規則正しい寝息を立て始めた夫の顔を見下ろしながら、フレデリカはホッと安堵の息を吐く。
手に持ったままだったカップ二つを、ビュウに膝枕した体勢を崩さないよう気をつけながらめいっぱい手を伸ばして仕事机に戻して。それから元の姿勢に戻ると、彼女はそぅっとビュウの顔にかかった前髪を払った。そうして露になる顔は――酷いの一言に尽きる。
目の下の濃い隈。
無精ひげ。
こけた頬。
眉間にくっきりと刻まれてしまったしわ。
閉じた目蓋の奥に隠れた、充血しまくった目。
嘆息しか出てこない。五日見ない内に一気に老け込んでしまったビュウ。フレデリカと同じ二十五歳だというのに、この、下手したら四十にも見えるやつれようはどうした事か。
いくらカーナ軍を支える大将軍だからといって、これはないだろう。
まったくもう、と今度は憤慨の溜め息を吐いた彼女の視界の片隅で、不意に、執務室の戸の隙間からこちらを窺う影がちらついた。
「……アソル将軍なら、今眠ったところですよ」
ビクッ。動揺して震える人影。まさか気付かれていないと思ったのか。見くびられたものだ――いくらプリーストとはいえ、フレデリカはこれでもビュウや仲間たちと共にたくさんの戦場を経験したのだ。若造の気配を察知する事くらい、戦場から離れた今でも出来る。
だから顔を僅かにそちらに向けて、
「隠れてないでお入りなさい」
「は、はいっ、失礼します!」
招けば、緊張に身を強張らせて入ってきたのはビュウの従卒だ。ビュウを追ってきて、ここに入るには入れなかったのだろう。だから扉の影に身を隠していた、というところか。
そして、気付かれると思っていなかったようである。顔に現われた「しまった!」「何で気付かれたんだ!?」という同様。その姿が初々しくて、フレデリカは思わずクスクスと笑う。大きな声を出した事はあえて注意しなかった。どうせビュウは当分起きはしまい。一服盛ったから。
「ご苦労様です」
「いえ、奥様――」
「ここではアソル医務局長と呼びなさい」
「しっ、失礼しました!」
夫に膝枕中だが、これでも一応勤務中である。ビュウが軍の要職にあるように、フレデリカもまた、宮廷魔道士団の要職にあるのだ。「奥様」という呼ばれ方は未だにくすぐったくて何だか幸せなのだけれど、勤務中にそんな風に浸るつもりはない。
「それで、一つ聞いてもいいかしら?」
「はっ!」
「この人、何徹したの?」
「はっ、五徹です!」
……そんなところだろうと思った。
ビュウもフレデリカも、五日前から家に帰っていない。
何せ復興途中のカーナ。戦争のせいで(特に事務処理に関して)人手不足が深刻と来れば、時折思い出したように書類仕事が雪崩のごとく襲いかかってくるのは必然と言える。
そのタイミングがよりにもよって戦竜隊と医務局で重なってしまい、仕方なく、城に泊り込んで事務仕事三昧と洒落込んだわけだった。
しかしフレデリカにとっての懸念は、自分の体調よりビュウの睡眠時間の方である。
ビュウは昔から、仕事が立て込むと睡眠を削って無茶をする癖がある。だからちゃんと寝ているかどうか気が気でなかった。
戦竜隊の方に様子を見に行きたかったのだけれど、フレデリカも目が回るほどに忙しかった。書類に目を通したり、決済したり、提出書類の作成をしたり……――そんな事に翻弄されて、中々その時間が作れなかった。
そして今日、ついさっき、やっとその時間を無理矢理ひねり出して医務局を出ようとしたら、何とビュウの方からやってきていたではないか。
しかもとんでもない顔で。
あ、こりゃヤバい。
有無を言わさず寝かしつけないと、軽くヤバいマジヤバい。
すぐにそう判断したフレデリカは、ビュウをさっさと奥の執務室に突っ込んで、茶に薬を盛ったわけである。
まったくもう、と深々と嘆息するフレデリカ。
無茶をする癖は、ここ一、二年で更に酷くなっている。
人手不足は深刻で、宮廷でも役所でも仕事に滞りが出ている。女王ヨヨの統治に支障が出る危険な事態だ。だからこそ、ビュウはそれこそ血反吐を吐く思いで仕事をする。
無茶をする。
そして嘆くべきは、ビュウという人物にその無茶を押し通させてしまうだけの能力がある事。かつて反乱軍の屋台骨を支えていた頭脳と手腕は、衰えるどころか進化の一途を辿って、今や大抵の無茶を可能にしてしまう。
そして、この有様なのだった。
どうしてこの人は自分で自分の首を絞めるかしら? 有能なはずなのに妙なところで要領の悪い夫が不思議で不可解である。
まあ、それはさておき、
「――アソル将軍の、今日の予定は?」
「はっ。十一時より統合参謀本部の幕僚会議、午後二時より御前会議に出席の予定です」
「その十一時からの会議、キャンセルで」
「……へ?」
「医務局長権限でドクターストップです。これ以上働かせたら今度こそ過労で倒れます」
「で、ですが、閣下に出席していただかないと――」
「参謀本部の方には私から話を通しておきます」
具体的にはマテライトである。古馴染みのパレスアーマーも今や実質的なカーナ軍のトップであり、今回の会議の議長も務めている。古馴染みのよしみで、今回だけは大目に見てもらおう。そもそもビュウがこんなにヘロヘロになった原因の三分の一は、十中八九、事務仕事を嫌うマテライトが書類仕事をビュウに丸投げした事にあるのだから。
「君は、戦竜隊の幕僚にアソル将軍の体調不良の件を説明してきてください。あとの事はそちらで対応してくれるはずですから」
「分かりました、失礼します!」
ビシッと胸のすくような敬礼を見せ、従卒は慌しく医務局を走り去っていく。何だか妙に微笑ましいその背中を見送って、フレデリカは、昏々と眠るビュウの髪を手で梳いた。
無茶ばかりして。
熱を出したり、倒れたり、奇行に走ったりして。
――フレデリカは、ビュウの精神が常に綱渡り状態であるのを知っている。彼の心が常に生と死の境をフラフラしている事、何かの折、例えばこういう過労の時なんかに精神の均衡が死に傾く事を知っている。
その綱渡り状態が、フレデリカではもうどうしようも出来ない事も。
自分に出来るのが、ビュウの「命綱」であり続ける事でしかない事も。
だからフレデリカはビュウの髪を手で梳く。
母親が我が子にそうするように、優しく優しく、夫の髪を撫で続ける。
ああまったく、何て手のかかる大きな子供かしら!
しかしその手のかかりようさえ愛おしくて、だから、眠れ眠れと髪を撫でる。
眠れ、愛し君よ。
生と死の境を鼻歌混じりに渡れるようになるまで、今はただ、眠れ、眠れ。
いっそ子守唄でも歌ってくれようかとも思ったのだが、事務室にいる部下たちに聞かれてあとで囃されるのも恥ずかしいので、それはさすがに我慢した。
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