――あえて言い訳をするなら……そう、テンションが上がっていたのだ。
かつてのカーナ軍の旗艦であり、敗戦後、グランベロスに接収されてしまった空の要塞。
そこへの潜入と、奪還のための戦闘、勝利、奪取。
共に潜入した仲間たちと協力して、内部を制圧して、
「――ビュウ! 待ってたんだよ!」
艦橋に現われた彼の姿を見た途端に駆け寄って口を突いて出た言葉に。
彼はきょとんと目を見開き、
その様子に彼女もきょとんと目を見開き、
一拍後、
(や……やっちゃったあああああああああっ!?)
彼女――フレデリカは、内心で盛大な悲鳴を上げた。
掟と習い性と臆病な彼女
「うわあうわあどうしようねぇディアナ私どうすればいいどんな顔してビュウさんに会えばいい?」
「普通の顔でいいんじゃない? って言うか、何でそんなに動揺してるのあんたは?」
「だってだってだって、わた、わた、私、私、ビュウさんの事、ビュウって、呼び捨て、呼び捨てに――」
「はいはい、少し落ち着きましょうね」
これが落ち着いていられるか。
カーナ軍の残党が中心となった反乱軍。その旗艦となった空の要塞ことファーレンハイトの二つの大部屋の内の一つ――ビュウやマテライトを初めとする幹部たちの話し合いで、今いるこちらは女性陣の部屋とあいなった――に、フレデリカの動揺しまくって上ずりまくりどもりまくった声と、ディアナの落ち着いて呆れすらしている声が響いた。
その声の合間に、床をデッキブラシで磨く音が淡々と響く。
掃除の最中だった。
グランベロスから取り戻したこのファーレンハイト、その状況は惨憺たるものだった。ぶっちゃけて言えば、とんでもなく汚れていた。溜まったゴミ、埃、部屋の隅に張ったクモの巣、異臭のするシーツなどの洗濯物類、カビのはびこる厨房や風呂場などの水回り。特にトイレの惨状は酷いものだった。酷すぎて直視できなかった。
というわけで、現在、反乱軍挙げての緊急大掃除である。あちこちから「グランベロスのバカヤロー!」という怨嗟の声が聞こえてくるのは、まあ仕方ないというもの。先行潜入でこの惨状をあらかじめ目の当たりにしていたフレデリカだって叫びたいのだ。掃除洗濯をして布団も干さなければ、戦闘で疲れたこの体をきちんと休める事さえ難しい。
閑話休題。
窓を開け放ち、空気を入れ換えながらの掃除。一体何をどうしたらこんなに出来るのか、と追い出したグランベロス兵を小一時間ほど問い詰めたくなるような床の汚れを落とすべく、ブラシ掛けの手を動かす。その一方で動く口が紡いだのは、先だってのフレデリカの「失言」の話だった。
ビュウを呼び捨てにした事である。
「でもさ、フレデリカ」
ディアナは床の汚れから視線を少しも逸らさないまま、少し離れた所を磨いているフレデリカに言葉を投げてくる。
「呼び捨てなんて、今更じゃない」
今更。
その単語が与えてくる突き放すような感じに、口を閉ざすフレデリカ。
「カーナが滅亡してもう三年。逃亡生活からの共同生活で上下関係とか規律とかとっくに取っ払われちゃって、もうほとんど皆ビュウの事呼び捨てにしてるじゃない。ビュウだって目くじら立ててないし――まあ彼は、カーナ軍がまだ健在だった頃からその辺あんまり気にしない人だったけど」
……そうなのである。
カーナという国は、由緒正しく歴史ある国だ。その長い歴史に見合うだけの宮廷における「掟」というものがある。
序列、上下関係、規律。それらもまた、その「掟」の内のもの。
その「掟」に照らし合わせれば、一介の宮廷魔道士であるフレデリカが、戦竜隊を束ねるビュウを呼び捨てに――なんて、畏れ多いにも程がある。戦竜隊隊長は本来なら将軍と呼ばれてもおかしくはなく、かつては王家に連なる者のみが昇る事の出来た地位なのだ。
だが、しかし。
ディアナの言う通り、カーナが滅亡してもう三年。フレデリカたち反乱軍はカーナ再興を目標とし、つまりいずれはあの「掟」を蘇らせようとしているのだが、しかし、カーナの宮廷がなくなってしまって、もう三年なのだ。
死に物狂いでグランベロス軍が蹂躙するカーナから脱出し、辺境の孤島テードに逃げ込んで。
そこにあった朽ちかけの大きな家――何となれば屋敷と言っても良かった、あの家を皆で直し、自分たちと同じくグランベロスに故郷を追われた人たちを迎え入れて、共に暮らして。
それはもう、一つの大きな家族のようなもので、
「だからフレデリカがさん付けしなくなったからって、別に怒らないと思うけど? ビュウは」
そう。
そうだろう。そうなのだろう。きっと、そうだ。呼び捨てにされてビュウが怒ったところを、フレデリカは見た事がない。
けれど、
「……でも」
と。
呻くように声を絞り出したフレデリカの、ブラシを動かす手が止まった。
「ビュウさん……変な顔、したわ」
「そりゃするでしょうよ。あんた、今までさん付けでしか呼んでなかったんだもの」
急に呼び捨てされればねぇ、と明るい口調で笑い飛ばすディアナのその言葉に、フレデリカは頭を抱えた。
そしてああんもう、と悲嘆の声を漏らし、
「何で呼び捨てにしちゃったのよ、私……!」
「だから、別にいいじゃない」
「良くないわよ。絶対変に思われたわ。『何だこの女、今まで敬称をつけてきたくせして、いきなり呼び捨てか?』って思われたに違いないわ。ファーレンハイトを取り戻した勢いに乗じたあざといやり口だ、って絶対にビュウさん思ったはずよ!」
「ちょっとフレデリカ、悪い方向に考えすぎよ?」
「ああんディアナどうしよう私どうしよう! きっと変に思われたわ嫌われたわ! ああ、考えれば考えるほど胸がドキドキするわ心臓に悪いわ……!」
いずれ蘇る宮廷の「掟」。しかし今はないのだから、と、テードで醸成されたあの家族的な雰囲気に乗じてしまえれば良かった。
だが、フレデリカはそれが出来なかった。
したくても、出来なかった。
こちらの理由は至極簡単。性格の問題だ。
引っ込み思案で消極的、おまけに自分に自信がない。子供の頃から病がちで家に閉じこもる事が多く、同年代の友達など中々出来なかったフレデリカは、それゆえ、そんな性格となった。
だから今は亡き宮廷の「掟」に引きずられて、同い年のビュウ相手でも、敬称、敬語。
それこそファーレンハイトを取り戻したテンションに乗じなければ、呼び捨てなどできはしない、という――
「――んもう、じれったいわねー」
悪い方向へと想像を膨らませておろおろするフレデリカの様子に、ディアナは手を休めて吐息する。
「別にいいじゃない、呼び捨てくらい」
「良くない良くない良くないわ!」
「したかったくせに」
ボソッとした呆れ声の呟きに、う、と口ごもるフレデリカ。
恐る恐るディアナへ視線をやれば、彼女は、声音と同じ呆れきった半眼をこちらに向けていて、
「ビュウの事、好きなんじゃなかったっけ?」
「え……え、と、ディアナ、それは――」
「この程度の事で躊躇ってたら、そこから先なんて夢のまた夢じゃない」
フレデリカはしゃっくりするように息を飲んだ。
そこから先。
そこから先、とはつまり――
「――何の話だ?」
突然割り込んだ声に。
フレデリカはハッと部屋の戸口を振り返り、
「っきゃあああああああああああああああっ!?」
「うおっ――って何で叫ぶ!?」
飲んだ息を丸ごと使ってあらん限りの声を振り絞ったフレデリカに、声の主――戸口の所から顔を出したビュウが、驚きと突っ込みの言葉を投げ寄越す。
だがしかしそんな突っ込みなどフレデリカには聞こえない。何で!? 何で!? 何で!? そんな疑問が飽和状態になって頭はオーバーヒート寸前だ。
そこに、傍観者的立場のためにいち早く立ち直ったディアナが問いを投げつけた。
「……って言うか、ビュウ、私たちの話、聞いてたの? ちょっと趣味悪くない?」
責める言葉。だが、茶化した口調のおかげでそこまで強いものではない。ビュウはバツ悪そうな渋い顔で、
「聞いてたって、『この程度の事で躊躇ってたら』辺りからしか聞いてないぞ」
「あら、そ」
にんまり。
そんな擬音が似合う笑みを、ディアナは浮かべた。楽しそうで、どこか意地悪そうな笑みだ。その笑みでフレデリカの方へと寄越される視線は、「良かったわね」と言っているのか、はたまた「残念だったわね」と言っているのか。どちらともつかずにフレデリカはこっそり頬を膨らませて睨む。しかしディアナはこたえない。まるで気にせず、ビュウに再び視線を向けて、
「まあいいわ。
で、ビュウ、どうかした?」
「レーヴェたちが、リネン室で使われてない綺麗なシーツとか見つけたんだ。女性陣(そっち)に優先的に使ってもらおうって決まったから、どっちか一人に来てもらいたいんだけど」
「じゃあフレデリカよろしく」
「ってディアナ!?」
間髪入れないディアナの応答に、フレデリカもまた間髪入れずに突っ込む。
ビュウがギョッと目を見開く中、ディアナはクルリとわざとらしく背を向けると、やはりわざとらしく懸命に床を磨き始めた。
「やー、今やってるとこの汚れしつこいのよー。ちょっと手が離せないわー。だからフレデリカ、悪いけどよろしくー」
その言葉遣いまでわざとらしい。ああもう、と恨めしい目で睨むがそっぽを向いた彼女には通じない。何なのわざとらしい気の回し方して! そういうのやめてよ! そう言ってやりたいが、ビュウの前でそんな事言えるはずもなく、
「えーと……話はまとまったか?」
「は、はいっ、すみません」
気まずそうな彼に向き直って軽く頭を下げて、ブラシを壁に立てかけて、
「じ、じゃあ、行きましょうか、ビュウさん」
彼と二人っきりになるなんて、ドキドキしすぎて死んでしまいそうだ。心臓に悪すぎる。ディアナは「願ってもないチャンスじゃない!」なんて発破をかけてきそうだが、とんでもない! そんな度胸があれば、とっくの昔に呼び捨てにしてるわ!
だから、早くリネン室に行って、シーツを引き取って。
さぁ行こうと戸口のビュウの元へと歩み寄れば、――彼は、何故かきょとんと目を瞬かせて、
「……呼び捨てじゃ、ないんだ」
「……え?」
「俺は、別にいいんだけど」
まあ、いいか。
そう苦笑して、ビュウは踵を返して歩き出す。しかしフレデリカはポカンとその背中を見つめるばかり。
俺は、別にいいんだけど。
どこか残念そうな口調で以って放たれた言葉が耳の中にいつまでもこだましていて――フレデリカの顔は、まるで高熱を出した時みたいに真っ赤になる。
その言葉をしっかりちゃっかり聞いていたディアナが部屋の奥でにんまり楽しそうに笑っていたが、恥ずかしさやら戸惑いやらちょっとの嬉しさやらでいっぱいになって立っているのもやっとなフレデリカは、この友人に聞かれたと言う可能性を思いつく余裕すらなく、その愉快犯的な笑顔に気付かないのだった。
|