冴え冴えと、月が輝く夜だった。
 一人外に出て、隠れ家のすぐ側の高台に上がる。ザクリ、と霜柱を踏み砕き、一歩ずつ前へと繰り出す足の動きに合わせて、白い息が口から漏れていく。
 ザクリ、ザクリ。義務のように、儀式のように、足を動かす。無感動だった心に、漣(さざなみ)のように波紋が走る。何かに急き立てられる。足を交互に出す速度が上がる。早足になり、小走りになり、いつの間にか斜面を走り始める。早く早くもっと早くもっと早くもっともっともっともっともっともっとさもないと追いつかれる追いつかれる追いつかれる追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて私も私もわたしもわたしもワタシモワタシモ――
 不意に視界が開ける。木立を抜け、高台の頂上に出た。空には皓々と輝く月。冴え渡る冬の夜気に、冷たい白光を隅々にまで注ぐ。
 はぁ、と息を吐く。視界を、白い呼気が満たして消えた。そしてただ、月を見上げる。首が痛くなるのも構わず。手の指がかじかむのも構わず。体が冷えていくのも構わず。
 いやいっそ、このままどんどん冷えていけばいい。それはきっと浄化だ。この寒さと、この月の光と。二つに晒され、わたしは身も心も浄化される。これは禊(みそぎ)なのだ――

「フレデリカ!」

 そして私の禊は、阻まれる。










月光浴











「何やってるんだ、こんな寒いのに」
 ザクザクと足音を遠慮なく立てて、彼はやってくる。私が上がってきたのと同じ所から。真っ白な月明かりに照らし出されたのは、私に向けられた心配と焦燥の顔。それを浮かべた青年の面立ち。余程急いでこの斜面を上がってきたのか、口から忙しく出ていく白いもやで呼吸の荒さが知れる。
 急いで。どうして?
 睨むように私を見据える彼の名を、私はポツリと呟いた。
「ビュウ」
 舌に乗せたその名は、まるで初めて見た食べ物の名前を反芻するようなぎこちなさと不確かさで。彼――ビュウは表情に痛ましげな色を上乗せする。顔を歪め、口を開きかけたけれど、すぐにその口を閉じた。それから目を伏せて溜め息を一つ。
「……戻ろう。ここにいたら風邪引く」
 言いながら、私に歩み寄って、手を取ろうとして――

 ゾワリ、と首筋を這い登ってくる怖気。
 無骨な手。私を掴む手。私を捕まえる手。
 逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれて追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた追いつかれた捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる捕まる――――

 ヒッ――
 パシンッ。

 気が付けば。
 私は小さく悲鳴を上げて、ビュウの手を払っていた。
 その時私が見たのは、傷付いたようなビュウの顔。


 この人は私の好きな人なのに。


「――あ……あ、あの、ビュウ――」
 自分が何をしてしまったのか、今更気付いて私は言葉を掛ける。でも取り繕うような言葉はすぐに詰まって、言い訳にもなりやしない。
 しかし、彼は。
 怒ったように表情を消すと。
 着ていたマントを脱いで、私の肩に掛けた。
 それに残っていた彼の温もりでようやく、私は自分が薄い寝巻き一枚だけだった事を知る。
「……なぁ、フレデリカ」
 肩に掛けられたマントを両手で握って前を合わせて、私はオズオズとビュウを見上げる。
「俺の事が怖いなら、それでも良い」
 ビュウは、まっすぐに私を見ていた。怖いくらいに真剣で真摯な、真っ青な瞳。
 そして彼の口から告げられる、それは、血を吐くように苦しげな懇願。

「それでも良いから……こんな事、もうやめてくれ」

 その言葉でようやく、私は、こうして真夜中に隠れ家を抜け出すのが今月に入って七回目である事を思い出したのだった。



 そうして私は、ビュウの後について丘を降りていく。
 ザクザク、ザクザクと、霜柱を踏みしだく音がする。その音に混じって聞こえるのは衣擦れと呼吸の音だけで、私たちの間に交わされる言葉はない。
 ビュウは、怒っている。
 彼は私が丈夫でない事を知っている。カーナが滅亡して、私たちカーナ軍の残党が敗走して、それから今まで、何度も何度も体調を崩してきた事を知っている。

 私の心が、まだ病んでいる事も。

 それでもきっと私は幸せな方なのだろう。グランベロスの追っ手から逃れて心身共に休める所に辿り着けたし、仲間に守られているし、私自身に賞金は掛かっていないし、何より――ビュウがいて、私の事を気に掛けてくれている。
 あの戦いで、何百人、何千人もの同胞が命を落とした。私の友達も同僚も顔見知りも何人も死んだ。生死が判っていない者もいる。同じプリーストで私たちと一緒に逃げ延びる事が出来たのは、ディアナだけだった。
 けれど……それを幸せとは、認めたくない。認めない。
 怖かった。
 怖かったのだ。
 私たちプリーストは後方で負傷者の手当てに走り回っていた。前線が瓦解し、主だった将兵が全滅したという報せは遅れた。戦竜隊の生き残りを中心とした一団が脱出を始めたという話も、また。
 その遅れは、致命的だった。
 ろくな戦術の指導も受けていない後方支援のプリーストが、的確な状況判断を下せるはずもない。私たちは取るべき行動の時機を逃した。そして――


 その後の、ビュウに助けられるまでの事は、思い出したくもない。


 体はともかく、心を病んでしまった経緯は、つまりそういう事だ。
 もっとも、そういう「心の病」は、今隠れ家の中で大いに流行中だ。皆、凄惨な戦いの衝撃から立ち直れないでいる。敗戦のショックから抜け出せないでいる。
 悪夢を見たり、幻覚を見たり、幻聴に苦しめられたり、我を失くしたり。
 時々思う。こうまで苦しんで、それでも生きていた方が良かったのか、と。
 だから私は、
「……ねぇ、ビュウ」
「……何だ?」
 問う。
「死にたいって思った事は、ある?」
「ない」
 ビュウの答えは簡潔で、素っ気なくて、淡々としていて、それだけに有無を言わせない凄みのようなものがあった。
 聞いて私はボンヤリ思う。ボンヤリしていて、思った事がそのまま口に出る。
「いいね、ビュウは……強くて」
「……」
「私は時々」

 死にたくなる。

 足を止め、頭上を見上げる。
 冬枯れの木立の向こう、眩しいほどに輝く真っ白な月。
 雨のように降り注ぐその光を受け、私は目を細める。
 禊。
 寒さと月の光に浄化される。身も心も。寒さに晒され、月の光を浴び、そして凍るような空気を吸って、吐いて、体の中の澱(おり)を吐き出す。
 それでも払拭されないあの瞬間の恐怖。死への希求。

「死んでどうする?」

 そうして私の禊はまた阻まれる。彼の言葉に、彼の眼差しに、彼という存在そのものに、何度も何度も。
 清める事を許さないとばかりに。
 死なせないとばかりに。

 彼は、怒りといたわりと悲しみをない混ぜにした視線を、私に向けて離さない。

「死んでも何もない。死んだら死ぬ、それだけだ。だから俺は死にたくないし、死なない。なぁ、フレデリカ」
 と、私に手を差し出すビュウ。
 少し迷うような間を置いてから、唇を再び開く。
 紡がれた言葉は、少し、優しかった。

「死んだら、立ち直る事も出来ないんだぞ?」


 気が付けば、私はビュウと手を繋いでいた。
 私がビュウの手を取ったのか、ビュウが私の手を取ったのか、よく思い出せない。それでもさっきみたいな嫌悪感はなかった。
 その事と、彼の手の温かさが、私を少しだけ安心させた。

 

 


 ……後味悪っ!
 久しぶりのビュウフレでこれですか自分!

 ……と思わず叫んでしまった、推敲中の午前零時。
 その後続く一言は、真夜中のハイテンションではいつもの事なのです。

「ま、いっか」

 敗戦直後の話なのでこういうのもありだよね、と思いつつ。
 でもこれが『心〜』に繋がるかというとそうでもないのでした。

 

 

 

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